じつはレフチェンコ・メモの中身について筆者が書いたのは、『ワールド・インテリジェンス』誌が初めてではない。2001年1月に筆者の企画・構成で出版した別冊宝島『未解決事件の謎を追う』所収の「中川一郎はソ連エージェントだったのか?」という記事中でその概要を紹介している。
(同ムックはその後、同社より『迷宮入り~昭和・平成 未解決事件のタブー』と改題されて文庫化され、現在も版を重ねています。黒井名で書いたのは同記事だけですが、複数の筆名あるいは編集部名で、本全体の半分以上は筆者が書いています)
ここでは、参考までに当該記事を転載します。
中川一郎怪死事件
中川一郎は「ソ連エージェント」だったのか?
自民党総裁候補「謎の怪死」の真相に迫る!
文・黒井文太郎
十七年前、自民党総裁候補にまでなった大物代議士・中川一郎が、札幌のホテルで縊死体で発見された。警察は自殺と断定したが、その異常な“死に様”に他殺説も根強くささやかれた。そして、注目される「KGB関与説」――。
そんななか、ソ連の対日工作責任者だった大物スパイが「中川を協力者に仕立てあげていた」と暴露し、疑惑の火に油を注いだ。果たして、「反共の闘士」の正体はソ連のエージェントだったのか? そのことが彼を直接、死に追いやったのか?
沈黙を破った「闇の司祭」
古びたテープをカセット・デッキにセットした。スイッチを入れると、落ち着いた、それでいて少し甲高いロシア語が流れ出した。ああ、こんな声だったんだな、と私はまるで初めて聞くような気持ちでしばしそれに聞き入った。
彼の声質など、すっかり忘れていた。それはそうだ。このインタビュー・テープを聞き直すのは実に九年ぶりなのである。あれはもうひと昔前といってよかった。年月の長さだけでなく、時代はすっかり様変わりしていた……。そんな年月の移ろいに思いを馳せながら、シューシューと微かな音を立てて回るテープを見詰め、私は少しずつ“そのとき”の光景を思い出していった。
――九一年十一月。晩秋のモスクワはすでに零下の寒さだったが、町にはようやく自由を手にした市民たちの静かな熱気がただよっていた。だが、なかにはそうした新時代の空気から明らかに取り残された人物もいた。共産党政権時代に“支配する側”に身を置き、国民を監視し、海外で謀略をめぐらせたような人々だ。
「赤の広場」の真正面にあるメトロポール・ホテルで、私はそんな老人のひとりと会った。
彼の名前はイワン・コワレンコ。
冷戦時代、ソ連共産党中央委員会国際部日本課長・同副部長として対日工作のすべてを仕切り、「闇の司祭」などとも呼ばれた大物コミュニストも、ペレストロイカでその地位を追われてからはすっかり覇気が抜けたのか、年老いたありきたりの老人に見えた。その風評から、やたら押しの強いタイプを予想していたのだが、心臓病を患う老人は、とてもそんなふうには思えなかった。
「こんにちは。私はもう日本語をあまり覚えてないので、ロシア語で話させてもらいますよ」
老人は実に愛想のいい笑顔を見せた。まてよ……と私は内心、気を引き締めた。これは心を隠す鋼鉄の仮面かもしれない。なにせ相手は百戦錬磨の「闇の司祭」なのだから……。
インタビューは、彼の七十ニ年間の経歴を聞くところから始まった。貧しかった少年時代、日本人少女との恋、日本語科の学生だった頃、大戦中の宣伝将校時代、対日参戦と関東軍の武装解除、シベリア抑留者の赤化洗脳工作、戦後日本での左翼支援……。およそ二時間が経過した頃、私は最も興味を持っていた質問をようやくぶつけることができた。
「日本人で親しかった人は誰ですか?」
コワレンコは、ゆっくり言葉を選びながら、何人かの日本人の名前を挙げ、彼らとどんなすばらしい人間関係で結ばれていたのかを語った。私としては、当然、そんな表面的な話ではなく、彼が篭絡した日本人エージェントの名前を知りたかったわけだが、あのコワレンコが簡単に口を割るわけがないことは分かっていた。
「自民党の政治家はどうですか? 個人的な付き合いがあった人物は?」
私はそう尋ねた。コワレンコはちょっと思案した後、かなり古い時代の派閥領袖たちの名前を挙げていった。
私は、インタビューがコワレンコの“欺瞞のペース”で続いていることに気がついていた。それまですでにこんな台詞が続いていたのだ――「関東軍の挑発でソ連は参戦を余儀なくされた」「シベリア抑留者の待遇は悪くなかった」「自分は諜報活動とは関係ない」――。
この老人は結局、欺瞞にまみれたソ連共産党の申し子なのだ。本当のことは死ぬまで言わないつもりなのだろう……私はそう思った。
「ああ、そうそう……」
そんな私の心を読み取ったわけではないだろうが、コワレンコはそのとき、気になる人物の名前を挙げた。
「ナカガワはいい男だった。彼は私の、じつにすばらしい友人だったのだよ」
中川一郎――の名前が唐突に元ソ連スパイ・マスターの口から出た。
戦後日本の政治家のなかで、中川一郎ほど生き急いだ人物はなかったろう。大野伴睦の秘書として政界入りし、石原慎太郎らとともにタカ派集団「青嵐会」を結成。農水族の実力者として自分の派閥を旗挙げするまでとなったが、八二年の自民党総裁選に出馬して落選し、その直後に壮絶な自殺を遂げた“悲運の政治家”だった。
だが、反共右派の牙城といわれた青嵐会の中川とソ連共産党の接点はどこにもないように思えた。どこまで本当のことを話しているのか……私はコワレンコの表情を探った。
老人は急に胸を張り、それまでにない強い口調でこう言った。
「惜しい男を亡くした。ナカガワが死ななければならなくなったのはじつに残念だった。よく覚えているよ、あの頃のことはね。私は彼にはたいへんな期待をしていたのだから」
やけに芝居がかっている……。コワレンコの様子に、私はそんなふうに感じていた。
疑惑だらけの「怪死」
八三年一月九日早朝、中川一郎は滞在先の札幌パークホテルで縊死体で発見された。現場の状況から“自殺”ということで片づけられたが、その奇妙な死には、その後もさまざまな疑惑がつきまとうこととなった。
まず、その自殺方法がなんとも不可解だった。彼はバスタブ内に座り、首とタオル台の留め金とを浴衣の紐で繋いだかたちで絶命していた。完全な首吊り状態ではなく、なぜか“座って首吊り”していたのだ。物理的には、確かにそれで死ねないわけではない。だが、それは最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かわなければ不可能なものだ。そんなことが生身の人間に可能なのか? そう疑問を持つことは、当然のことといえた。
なぜ自殺しなければならなかったのか、ということも関係者に大きな疑惑を呼んだ。
遺書らしきものはまったく発見されなかった。それに、何といっても彼は総裁選に出馬するほどの大物政治家なのだ。当時、まだ五十七歳。たとえそのときは落選でも、次の次、あるいはその次にでも総理・総裁になれる政界の王道にいることに変わりはない。しかも、とりたてて致命的なスキャンダルが表面化したわけでもなかったのだ。
謀殺説――がささやかれたのは、したがって、ある意味で当然だともいえた。
それなら犯人は誰なのか?
さまざまな憶測が活字に踊った。どれも決定力に欠けるものではあったが、中川の“謎の死”の真相を解明する試みは、あれから十七年が過ぎた現在に至るまで、しばしば繰り返し行われてきた。
自殺なのか、他殺なのか?
彼はなぜ死ななければならなかったのか?
それは、昭和史に残された大きな謎のひとつといってよかった。
確かに、中川が苦境に立たされていたことを証言する声は多い。実力派秘書・鈴木宗男(現・代議士)との確執という指摘もあった。貞子夫人から離婚を切り出されていたことも後に暴露された。
石原慎太郎や田村元(元衆院議長)は、中川が“総裁選で福田派に裏切られたと思い込んで悲嘆に暮れていた”と明かし、さらには彼が派閥維持と総裁選のために無理に借金を重ねていた内実も指摘した。
浜田幸一はもっと明快で、著書のなかで「三塚博が中川夫人からの離婚話まで持ち出して彼を追い詰めた」と書いた。そして、そんな誰もが“あまりに涙もろく、愚直なまでに純朴な男”が、そうした理由から発作的に自殺したのだろうと推測した。
だが、他殺を匂わせる証言もないわけではなかった。
「中川の死の間際、誰かが彼を訪ねたようだ」
中川の十三回忌を機に発表した手記『光と影』で初めてそう明らかにしたのは石原二三朗・元在札幌中川事務所長だった。同氏が手記出版に合わせて『文藝春秋』九五年一月号に語ったところによると、死亡推定時刻のわずか一時間前に中川は彼に電話をかけ、さまざまな悩みを相談していたのだが、その最中に突然、「やあ、やあ」と誰かに呼びかけた直後、あわてて電話を切ってしまったのだという。石原氏にはそれが明らかに、夫人ではない“誰か”が部屋に入ってきたと思われたとのことだった。
一方、死亡する前夜のパーティでの様子がおかしかった、と証言する人も少なくない。「スピーチもおとなしく、いつもの元気がなかった」「しきりに汗をぬぐっていた」といったことを指摘する声が多かったが、なかには「(会場には)もみ上げの長い怖い人たちがたくさんいた」(出席者だった宮松よし子氏:『週刊文春』二〇〇〇年一月六日号)という気になる証言もある。
「中川は無理して借金を重ねていた」という情報とつき合わせると、彼がいかがわしい資金に手を出し、総裁選の惨敗で熾烈な追い込みをかけられていたのでは、と推定することもできる。
だが、幾多の疑惑のなかで“きな臭さ”が最も際立っていたのが「KGB関与説」だった。
「中川はソ連のエージェントだった」
あるいは、
「ソ連エージェントだった中川は、それが暴露されることを恐れて自殺した」
果ては、
「ソ連エージェント・中川の台頭を恐れてCIAが暗殺した」
という説まで、数々の疑惑が書きたてられたのだ。
確かに、農水族として日ソ漁業交渉に辣腕をふるった中川と、駐日ソ連大使館の外交官たちとの交流は知られていて、その怪死以前から疑惑を指摘する声がなかったわけではない。
だが、中川怪死に際していちやくクローズアップされたのは、七九年一〇月にアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコ元駐日KGB少佐が、三年の沈黙を経て八二年七月に米下院情報特別委員会秘密聴聞会で暴露したと伝えられた日本人エージェントのリスト=いわゆるレフチェンコ・メモの存在だった。その中に中川の名前があったのではないか、というわけである。
もしそれが事実なら、少なくとも自殺の理由としては十分に説得力があった。しかも、レフチェンコが記者会見を開き、レフチェンコ・メモの存在が初めて世間に公表されたのは八二年十二月。中川怪死のちょうど一ヵ月前で、タイミング的にはつじつまが合う。
では、そのレフチェンコ・メモの中味とは、いかなるものだったのだろうか――。
亡命スパイの爆弾情報
今、私の手元に一枚のコピーがある。公安筋が作成したレフチェンコ・メモ公安版である。これまで断片的に伝えられてきた情報とほぼ一致しており(とくにレフチェンコを直接取材した『リーダーズ・ダイジェスト』八三年五月号が詳しい)、政界や一部マスコミに出まわったもののひとつと同一であるとみてまず間違いない。
レフチェンコは『リーダーズ・ダイジェスト』のインタビューに「日本人エージェントは二百人はいる」と語っているが、このレフチェンコ・メモ公安版には、そのなかでレフチェンコが知り得た人物として計三十一名のコードネームと内十一人の実名が記され、それぞれKGB側の担当将校の名前、彼らがエージェントだとレフチェンコが知った時期、エージェントとしてのランク、等が列記されている。三十一名の内訳については、自民党関係者二名、社会党関係者十一名、官僚四名、マスコミ関係者九名、学者三名、財界人二名である。
ここに実名が登場している人物を以下に挙げてみる。
石田博英・元労相、勝間田清一・元社会党委員長、伊藤茂・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、上田卓三・社会党議員、杉森康二・日本対外文化協会事務局長、山根卓二・サンケイ新聞編集局次長、T・読売新聞記者(※本記事では実名表記しましたが、ここでは匿名とします)、三浦甲子二・テレビ朝日専務、山川暁夫・インサイダー編集者、堤清二・西武百貨店会長(以上、肩書きは当時)――。(尚、このなかの上田、T、三浦、堤の各氏については「無意識の協力者」ないし「友好的人物」とあり、さらにこの内の上田、T、堤の各氏の名前は初期に出まわったリストにはなかったものである)
このレフチェンコ・メモについては、その真偽をめぐって、当時たいへんな騒動となった。名指しされた人物たちは当然否定しており、確かにこれで逮捕された人物はいない。したがって、内容の真偽は今もって不明である。
が、昭和五九年(八四年)版『警察白書』には以下のような記述もある。
「レフチェンコが直接運営していたのは十一人で、そのうち数人から事情聴取したところ、金銭でスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として喫茶店等のマッチの受け渡しによる方法が用いられたり、『フラッシュ・コンタクト』(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった」
右の“数人”がリストに実名が載った人物かどうかは、警察が公表していないので確認できない。レフチェンコが直接運営していた十一人についてはおそらく実名が判明しているとみられ、それはリストの実名記載人数と一致するが、だからといって、必ずしも人物名が一致するとはいえない。推測できるのは、おそらくこの“数人”が“犯罪として立件する”要件がより厳しい「非公務員」ではないかということだが、いずれにせよ真相は「藪の中」だ。
だが、仮にこれが事実だとすると、どこにも中川一郎の名前は見当たらない。正体不明の自民党員にコードネーム『フェン・フォーキング』なる人物がいるが、リストに付された情報をみると、どうも中川のことを指しているようには感じられない。すると、中川がレフチェンコ・メモを怖がる理由はまったくなかったわけだ。
しかし、それでもやはり、中川一郎がそれを恐れていた可能性は高い。なぜなら、彼にはある “心当たり”があったからである。
それが、冒頭に紹介したソ連共産党国際部副部長イワン・コワレンコとの関係だった。中川は、KGBもアゴで使ったという恐ろしい「闇の司祭」と、誰も知らない秘密のコネクションを持っていたのだ――。
「反共の闘士」はソ連に篭絡されていた!?
モスクワのホテルで録音した三時間分のコワレンコのインタビュー・テープは、実はその後、私のデスクの奥で長いことホコリをかぶっていた。なぜなら、私のしつこい質問の数々についに元「闇の司祭」が怒り出し、「このインタビューはなかったことにしろ」と言い出したからだ。取材としては最悪のパターンだったが、気難しいロシア人相手の取材ではときどきあることだった。彼らは“本当のこと”を聞かれることに慣れていないのだ(ちなみに、私は当時、モスクワに在住しており、毎日のようにそんなロシア人に会っていた)。
そんなわけで、「対日工作の黒幕が初めて過去を語る」というスクープはお蔵入りになってしまったのだが、それから五年後の九六年十ニ月、なんとコワレンコは日本で手記を出版したのである。
『対日工作の回想』と題するその自伝は、政界でも密かな注目を集めたという。とくに、うやむやに終わったレフチェンコ・メモの中味について、何か決定的な情報が暴露されなかったか、という点が注意を引いたのだ。
もちろん、“スパイ・マスター”コワレンコが、そんな隙を見せるはずはなかった。レフチェンコのことも、「プロの情報員ではなく、何も知らない」「麻薬中毒で、人間性も信用できない」と切り捨て、レフチェンコ・メモもすべてデタラメであると断言した。
だが、注目される新情報もいくつかあった。その筆頭が、中川一郎との“秘密のコネクション”だった。
コワレンコが自著の中で自慢気に語っているのは、明らかに中川篭絡の手口だった。コワレンコは、自主外交派の中川を支援することで日本を反米・反中路線に誘導することができると考え、中川の利権マタ―である日ソ漁業交渉で便宜を与えることで、彼を「親ソ派」に取り込もうとしたというのである。
接触は八二年九月、レフチェンコ・メモにも名前のあった三浦甲子二・テレビ朝日専務の仲介で極秘裏に行われたという。その席で中川は「在日米軍の撤廃」「ソ連との長期的善隣関係構築」などの持論をぶち、果ては「北方領土は原則的な問題ではない」「中国の脅威に対抗するため、日ソ軍事条約締結の考慮の可能性もある」などとも発言。さらには、中川のほうが日ソ漁業交渉の便宜供与の早期実現を要求し、秘密接触のためにその後は大使館などの公式ルートを使わずに三浦ルートなどを使うことにも合意したというのである。
驚くべき内容である。私とのインタビューでも語っていなかったことだ。これが事実なら、中川はまさに、コワレンコの術中にはまったといっていいだろう。それは、KGBより上位の共産党中央委員会国際部に直結する超A級の“協力者”に仕立てあげられたことを意味していた。
だが、前述したように、私はコワレンコの“物語”には常に欺瞞が含まれていると確信している。おそらく、コワレンコが中川を篭絡しようとして「中川=コワレンコ会談」がセットしたのは事実だろう。だが、いくらなんでも「日ソ軍事条約」などのアイデアは青嵐会の“反共の闘士”とは結び付きづらい。この記述はかなり“脚色”されている可能性が高いというのが私の率直な〝勘〟である。
しかし、それでももし本当に中川がコワレンコと極秘接触を続けていたとしたら、それだけでもレフチェンコ・メモの中味に「もしかしたら自分が?」と思い込んでも不思議ではないのかもしれない。日本の公安当局が最重要対象者としてマークしていたコワレンコの正体を、中川が知らなかったはずはないのだ。
だが、果たしてそんな“疑惑”だけで果たして人は死ぬだろうか?――というわけで登場したのが「CIA暗殺説」だった。
が、これもそのネタの出所は在日ソ連大使館筋=つまりコワレンコ周辺だった。コワレンコがやはり自著に書いているのだが、中川怪死に際し、在日ソ連大使館から本国へ「中川を日本の首相にさせたくなかったCIAが彼を暗殺した疑いがある」と報告していたというのである。おそらく、その話に尾ひれがついて流出したというのが真相だろう。
コワレンコ自身は「在日ソ連大使館の分析担当者が憶測で書いたもの」と逃げているのだが、私には、そうした情報が流された背景にはコワレンコ本人の意図もあったのではないかという気がしてならない。いかにも「闇の司祭」がやりそうなことだからだ。
“エージェント”と“無意識の協力者”
ところで、シベリア抑留者の洗脳工作を担当し、その帰還者を足掛かりに戦後日本へ浸透、対日工作の“黒幕”として君臨したイワン・コワレンコは、回想録の中で何人もの日本人の“友人”の実名を挙げている。そのほとんどは私とのインタビューでも語っていたが、それはつまり、逆にエージェントの可能性は低いということなのだろう。
参考までにそれらの人々を挙げておく。(一部にレフチェンコ・メモ公安版に登場する名前もある)。
政治家では、自民党が石田博英、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。社会党が成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。その他には、三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作(創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)――。
このメンバーをざっと見渡すと、ソ連通を公言していた人物も確かに少なくない。そうした人々は、ソ連共産党のシンパではあっても、エージェントと呼ぶような存在ではないだろう。
日ソ諜報戦に絡む資料を目にするたび、私はいつもひとつの違和感にとらわれていた。それは、「何をもって“エージェント”というのか」がいまひとつあいまいなことだった。
日本のような国では、おそらく「カネを受けとって正式な工作員となった人間」の他に、相当数の“無意識の協力者”がいる。そして、そんな大勢の名前がシャッフルされることで、本当の工作員が隠されているのではないか、という気がしてならない。
中川一郎は、この“広義のソ連コネクション”のどこかにいた。それは確かに、総裁の座を狙う保守派の派閥領袖としては“弱み”だったかもしれない。だが、それが彼の死に直接関係しているのかどうかは、結局のところ確認のしようがない。(了)
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- 2007/07/13(金) 09:36:06|
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