レフチェンコ証言を採用した『ミトロヒン文書』執筆者
『ミトロヒン文書』は、いわゆるレフチェンコ情報と重ね合わせると興味深い。ミトロヒン氏は明らかに「影響力のエージェント」の実名として、自民党幹部だった石田博英元労働相(コードネーム「HOOVER」)について名指ししている。
サンケイ新聞の山根卓二・編集局次長については、ミトロヒン氏の資料に実名があったかどうかはこの記述だけからは確認できない。本書の著述は実際にはアンドリュー教授の手によるもので、必ずしもミトロヒン氏の資料だけからの記述ではないからだ。
ただし、専門家であるアンドリュー教授が他の情報源(彼はレフチェンコ氏も直接聴取している)が本文中に実名を出したということは、それなりの根拠となる情報があったということにほかならない。山根記者の場合、周恩来の偽遺書スクープ工作の話が出ているので、その筆者である山根氏が確認されたのかもしれない。
また、ミトロヒン氏が持ち出した機密資料写しには実名がなかったものの、レフチェンコ氏の証言を元に『ミトロヒン文書Ⅱ』では、3人の社会党議員の実名が断定されている。GAVR=勝間田清一氏、ATOS=佐藤保氏。GRACE=伊藤茂氏である。これは、KGBの内情に詳しいアンドリュー教授が、レフチェンコ証言の情報の信憑性をそれなりに評価したということを意味する。なお、『ミトロヒン文書Ⅱ』の巻末の脚注をみると、この点でアンドリュー教授は、『リーダーズ・ダイジェスト』誌ワシントン総局主任編集人のジョン・バロン氏がレフチェンコ氏に取材して執筆した『KGB Today』(83年5月刊)を参考にしていることがわかる。
仮にレフチェンコ証言の信憑性が評価できるということなら、いわゆるレフチェンコ・メモもそれなりに正確な情報だったのだろうと推定できる。レフチェンコ・メモとは、日本人エージェントの実名についてレフチェンコ証言をまとめたものだ。
なお、レフチェンコ証言の経緯は以下のようなものである。
レフチェンコKGB少佐が亡命したのは79年10月。当然ながらアメリカ情報当局の管理下に置かれたが、82年7月、米下院情報特別委員会秘密聴聞会で証言し、続いて同年12月にレフチェンコ氏自身も初めて記者会見を行なった。
レフチェンコ・メモの中身は非公開だったが、『毎日新聞』が82年12月に秘密聴聞会の内容の一部をスクープ。レフチェンコ氏は翌83年4月に初めて日本マスコミのインタビューを受けた。最初は毎日新聞で、続いて『読売新聞』『フジテレビ』『NHK』『週刊文春』などに次々と登場した。そこで何人かの日本人エージェントの実名を明らかにしたが、最終的には同5月に出版された前出『KGB Today』で、計26人のエージェントのコードネームと、うち9人の実名を明らかにした。実名を出されたのは、サンケイ新聞の山根記者、石田博英・元労働相、勝間田清一・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、伊藤茂・社会党議員(いずれも前出)、上田卓三・社会党議員(後述するリーダーズ・ダイジェンスト日本版には記載されず)に加え、杉森康二・日本対外文化協会会長、ニュースレター『インサイダー』の編集者である山川暁夫氏、三浦甲子二・テレビ朝日専務である(山川氏の場合は本名ではなくペンネーム)。
『KGB Today』の内容は、すかさず『リーダーズ・ダイジェスト日本版』同年5月号に、レフチェンコのロング・インタビューとともに掲載されたが、これを受けて日本の各メディアは大騒動となった。ここで名前を出された人は、いずれも疑惑を否定したが、周恩来偽遺書スクープ事件のサンケイ新聞・山根編集局長は、“エージェント疑惑”が曖昧なままに辞任を余儀なくされた。単にKGBに騙されただけの可能性もあったわけだが、誤報を出したこと自体は事実であり、その責任を問われたかっこうだった。
なお、日本リーダーズ・ダイジェスト社から84年10月に出版された『KGBの見た世界~レフチェンコ回想録』には、日本人エージェントについて以下のような内容の記述がある。
▽ソ連のために働く日本在住の優秀なジャーナリストがいる。有力通信社勤務で、若い頃、プロニコフというKGB東京支部員にリクルートされた。日本の公安関係機関の秘密情報をもう何年も提供してくれていた。
▽40代後半の読売新聞のベテラン記者の場合、レフチェンコは最初は友人として接し、やがて篭絡。ついには報酬とひきかえに情報を流すエージェントに仕立て上げた。
▽東京新聞外信部の記者に工作をかけたが、篭絡できなかった。
▽元ジャーナリストでフリーランサーの男は、レフチェンコがKGBと知って盛んにインチキ情報を持ち込んだ。
▽大手新聞管理職の男がインチキなネタでKGBにタカった。あまりにタカりぶりがひどいので、KGB側が切り捨てた。
▽79年にレフチェンコは、元共産党員のニューズレター発行者をリクルートした。この人物は自ら進んで情報を提供した。金銭も最初からためらいなく受け取った。
(※ちなみに『KGBの見た世界』には、以下のようにKGB東京支部の描写もある。
▽11階建てのソ連大使館で、KGB東京支部は10階と11階を占めていた。レフチェンコ着任時の支部長は42歳のイェローヒン。部長室は10階。他に翻訳室、X系統室、通信傍受室、積極工作の部室、工作員の部屋などがある。電子機器類が並んでいる……)
渡邊恒雄回想録と警察白書
レフチェンコの証言に出てくる読売新聞のベテラン記者に関して、『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社/2000年1月刊)に、以下のように興味深い記述がある。
▽
実は、当時我が社に当時いた記者が、レフチェンコ事件の協力者リストに挙げられたことがあったんだ。それで僕は本人を呼んで尋問したが、「スパイ協力行為はやってない」と言う。
ある日、官邸で後藤田さんと会ったとき、「きみの社のあの記者は、ソ連のスパイ協力者だから解雇しろ」と言うんだ。いきなり命令調でね。だから、僕はカーッとなって、「政府の人間が我が社の社員を解雇しろなんて、命令するのは無礼じゃないか」と怒鳴ったんだ。
後藤田さんはそうしたら、レフチェンコの自白を基にCIAや日本の公安当局がまとめた一覧表を僕に見せる。だけどコードネームだけで、実名は出ていない。それで、「おまえのとこの記者はこれに該当するんだ」とまた言う。僕は「内政干渉だ」と言い返したら、「お前は政府に喧嘩を売る気か」と怒鳴る。僕は頭にきて、総理大臣執務室に飛び込んだんだ。
たまたま中曽根さんが一人でいて、僕は彼に、「いま後藤田さんと喧嘩してきた。やつとは絶縁する」と言ったよ。僕があんまり激しい調子で言ったんで、中曽根さんも真剣な顔をして理由を聞く。(略)
中曽根さんは執務室の机の引き出しからガサゴソと大きな封筒に入った書類を持ってきて 「これは私と官房長官しか持っていないものです。どうぞご覧下さい」とだけ言うんだ。それを見ると、コードネームに全部実名が付いている。いまでは公然となったけれど、国会議員二、三人を含め新聞社もほとんど各社の人間が絡んでいるんだな。
▽
つまり、そこに、その読売新聞記者の名前も出ていて、渡邊氏も納得せざるを得なかったということだった。
また、レフチェンコが証言した日本人エージェントについて、『警察白書』昭和59年版にはこうある。
▽
警察庁は、証言に表れたソ連の情報機関KGB(国家保安委員会)の我が国における活動に伴って違法行為が存在するか否かについて調査するため、58年3月、係官をアメリカに派遣し、レフチェンコ氏より前記証言の更に具体的な内容について詳細に聴取した。
証言及び聴取結果によれば、レフチェンコ氏は、亡命当時KGB少佐の地位にあり、「新時代」誌支局長の肩書を利用しつつ日本の各界に対して、日・米・中の離間、親ソロビ-の扶植、日ソ善隣協力条約の締結、北方領土返還運動の鎮静化等をねらいとした政治工作を行なうことを任務としており、この任務に関して11人の日本人を直接運営していた。この種の工作においてKGBが成功した例としては、ねつ造した「周恩来の遺書」を某新聞に大きく掲載させたことがあった。
警察は、そのうち必要と判断した数人から事情を聴取するなど所要の調査を行なった。その結果、レフチェンコ氏やその前任者等から、金銭を使ってのスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として、喫茶店等のマッチの受渡しによる方法が用いられたり、「フラッシュ・コンタクト」(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった。
しかし、「レフチェンコ証言」については、同証言に述べられた政治工作活動の内容と、警察の裏付け調査の結果及び警察が過去に把握してきた各KGB機関員の政治工作活動の実態とが多くの点で一致するところから、その信憑性は全体として高いものと認められた。
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- 2007/07/13(金) 08:49:19|
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