ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

極限の地

 テレビの特別番組で震災特集をいくつか拝見しました。奇跡の生還を果たした人の物語など、感動的なものがいくつもありました。本当に良かったと思いますし、思わずもらい泣きもしました。
 すべてではないでしょうが、番組制作者のなかに、希望を見つけようという意思があったものと思います。それはとても大事なことだと、私も思います。
 ただひとつ感じたのは、そうした感動的な物語だけでなく、実際には2万もの哀しい物語があったことを忘れてはいけないということでした。何かの雑誌で最近読んだ記事のなかに、ある人が一組の母子の遺体を発見したエピソードがありました。その若い母親と幼い子供の遺体は固く結ばれていて、しかも子供の背中に空のペットボトルが押し込まれていたそうです。
 2万人もの人間が一瞬で命を落としたこと。私自身はこの年末、そのことをもっと噛みしめたいと思いました。

 私自身は、今はニュース報道の仕事をしていないので、現場を体験したわけではありません。阪神地震のときはテレビで仕事をしていたので、当日中に現場に入りました。人の理不尽な死は、いつだって心を激しく揺さぶるものだと思います。

 震災とは関係ありませんが、ちょうど人の生死について考えたこの機会に、私自身が見た地獄のような光景について、以下、過去に書いた文章をもとに再録してみます。戦場レポート第3弾ですが、今回はかなりブルーな話になります。長文ですが、悪しからず。

※以下「1992年 ソマリア取材記」

 当時、内戦で国家が破綻したソマリアに入るには、隣国ケニアの首都ナイロビから、国連児童基金(ユニセフ)のチャーター機に便乗するしか方法がなかった。ただし、部外者に融通される席はそれほどないから、僕はナイロビで1週間待つことになった。
 その1週間を利用して、僕はインド洋に面したモンバサのビーチ・リゾートを訪れた。その頃の僕は、戦場ばかりを旅していたというのに、カバンの奥に水中眼鏡とシュノーケルだけは忘れたことがない。世界中の戦場で悲惨な人々を写真に収めながら、僕は同時に世界中のリゾートも回っていた。
 快適なコテージで浴びるほどビールを飲む日々を送った後、僕はソマリアに向かった。最初は、僕にとって普段どおりの戦場への旅だった。

 しかし、ソマリアの首都モガディシオの空港に降り立ったとき、僕はなんともいやな気分になった。手ぐすね引いて待ち構えていた武装民兵たちの表情が、それほど人を不安にさせる“殺伐さ”に満ち満ちていたからだ。
 その頃、すでにソマリアには“政府”というものがなかった。全土が戦国時代のような状況で、首都空港は当時の最大派閥が押さえていた。
「わざわざ人質になりに来たようなものだね、これは」
“入国税”と称する上納金を盗賊民兵に支払いながら、同行していたヨーロッパ委員会の視察員がそう言って苦笑した。
 無秩序な場所ほど資本主義の原則が守られているのは、皮肉なことだ。すべてはカネ。現金オンリー。僕も小額ドル紙幣を数枚ポケットから取り出して、二コリともしない兵士に手渡した。
 空港には護衛兵士付きのユニセフの車両が待っており、それに乗り込んで市内に向かった。車窓から覗く沿道の風景は、ますます僕を不安にさせた。自動小銃を抱えて徒党を組んでいる十代の少年たち。荷台に機関銃を据えつけて走りまわるピックアップ・トラック。そして、絶え間なく鳴り響く銃声……。
 モガディシオを訪れるのは初めてだったが、僕は漠然としたデジャ・ヴを感じていた。これはどこかで見た光景だな。どこだったかな? しばらく考えて、はたと思いあたった。そうだ、『マッド・マックス/サンダードーム』の世界だ!
 ソマリアは戦場というより“無法地帯”という表現のほうが、まさにぴったりの土地だった。

 1992年8月、世界はようやくソマリアの内戦に目を向けつつあった。そこで空前絶後の飢餓地獄が発生していることが、徐々に判明してきたからである。
 ちょうどその頃、僕は『週刊現代』のグラビア・ぺージで、冷戦終結後に世界各地で発生していた民族紛争の現場を連続ルポするという企画の取材を行っていた。アパルトヘイト末期の南アフリカで激化していた黒人同士の部族抗争の取材をした後、僕はソマリア取材に入ったのだった。
 外電は国連情報として「ソマリアでは毎日2000人が餓死している」と伝えていた。だが、その数字の意味するところが、入国したばかりの僕にはまだよくわからなかった。

「おい、オマエ。誰に断って写真なんか撮ってるんだ!」
 訛りのきつい英語とともに、ふいに誰かに腕を強くつかまれた。振り返ると、サングラスをかけたガラの悪い男が立っている。手にはAK-47自動小銃が握られ、5人の手下を引き連れていた。
「ふざんけるんじゃねえ! 殺されたくなかったら、そのカメラをよこしな」
 典型的なチンピラ民兵による強盗行為だった。
 ユニセフ事務所の門の前で、付近の撮影を行っていた僕は、あっという間に囲まれると、民兵たちにもみくちゃにされた。ひとりがカメラ・バッグを引っ張ろうとしたが、僕はとっさにそれを抱え込む。大声で助けを求めたが、目の前にいるユニセフの警備兵も、怖がってただオロオロするばかりだった。
「オマエ、そんなに死にたいのか!」
 民兵たちの“興奮”が急速にたかまってきたことがわかった。このままでは危ない……。僕は意を決すると、彼らの手を振りほどき、いっきに敷地内に駆け込んだ。瞬間、彼らの何人かが銃を構えるのが視界に入ったが、発砲はされなかった。
 ユニセフ事務所の構内に逃げ込み、僕は大きく息を叶いた。危ないところだった。やはりちゃんとした護衛なしに行動するのは、この国ではムリだったのだ……。
 だが、騒ぎはそれで終わらなかった。
「待てよ、この野郎!」
 背中に冷たいものがはしった。武装民兵たちは、なんと僕を追ってユニセフ敷地内まで侵入してきたのである。
 僕はあわててカメラバッグを抱え直すと、急いで建物内に駆け込み、ドアを閉めてカギをかけた。はずみで、入口にいた太った白人の女性にぶつかり、彼女のバッグを弾き飛ばしてしまった。
 オバサン特有のヒステリックな声で叫びたてる彼女を、とにかくドア際から離して奥に引っ張っていく。どこかの国の視察員らしきこのオバサンは、数分前の僕と同じく“ソマリアにいる”ということの本当の意味をわかっていないのだ。
「出て来い、ぶっ殺すぞ!」
 激昂した民兵たちがどんどんとドアを叩く。非常にまずい状況だった。そこを破られたら僕に逃げ場はない。
 ユニセフの代表者に事情を説明し、仲裁に入ってもらった。結局、フィルムを引き渡すということで話がついた。しぶしぶ未使用のフィルムを差し出す僕に、ユニセフの代表がため息まじりに言った。
「気をつけてくれよ。ここは君がこれまで見てきたような“まともな戦場”じゃないんだからね」

 こうして早々と無法地帯の洗礼を受けてしまった僕は、それからは護衛のガンマン・チームを雇って取材するようにした。
 ソマリアでは当時、国際メディアの取材班も国連機関も、民間の援助団体もすべての外国人は、必ずプライベートのボディガードを雇っていた。戦闘車両に普通は4~5人のガンマンを連れて行動する。少人数の野盗ならこれで撃退できるが、武装集団の待ち伏せ攻撃に遭ったらひとたまりもなく、後は天に祈るしかない。
 また、護衛そのものも民兵たちのアルバイトだから、彼らがそのまま強盗に早変わりするケースもある。ドイツのTVチームなどがすでにその被害に遭っていた。被害に遭うか遭わないかは、最終的には“運”でしかなかった。
 僕がパートナーに選んだのは、ムハマドという男だった。地元民兵の小ボスだったが、それまで国連関係者や外国人記者の護衛を務めた実績があり、ガラは悪いが話してみるとなかなか面白い男だった。
 ムハマドは地元で「テクニカル」と呼ばれている武装ピックアップ・トラックを調達してきた。通訳を兼ねるムハマドとドライバー、それにガンマン3人という陣容で『マッド・マックス』の世界に繰り出すことになった。
「けど、彼らで本当に大丈夫なのかい?」
 僕はムハマドに念を押した。荷台の機関銃を担当する射手はどうみても15歳くらいだったし、おまけにガンマンのひとりは「チャット」という覚醒草の中毒でブッ飛んでおり、ときおり奇声を発しながら自動小銃を乱射するというクセがあったのだ。
「心配するなって。機関銃付きのテクニカルがあればまず大丈夫さ。それに、多少アブなそうなガンマンのほうが、襲撃者だってビビるってなもんだ」
 ムハマドはそう言って、片目をつぶってみせた。

「ボスに話を通しておけ」と彼が言うので、とりあえず最大派閥であるアイディード将軍派の本部を訪れ、報道官と自称する幹部に面会した。いちおう政治的なテーマでインタビューしたが、あまり意味のない内容だった。だが、とにかく顔役へ挨拶しておくことは、拉致されたときなどに少しは役立つかもしれないのだ。
 その後、市内の難民キャンプをまわった。さすがに首都だけあって飢餓地獄といった感じではなかったが、木切れの支柱にビニールを乗せただけの粗末な手製テントに身を寄せていた人々の様は、とても人間の暮らしと呼べるものではなかった。
 当初、難民たちは僕になかなか話をしようとはしなかった。それはそうだろう。僕はチャットを噛んだブッ飛びガンマンを引きつれていたのだ。時間をかけて接し、ゆっくりと聞き出していくしかなかった。
「食べ物はどうやっているんですか?」
 長老格と思われる男に尋ねた。
「ここには外国の援助があるから助かっています」
 男は緊張した声で答えた。僕よりも、通訳をしているムハマドのことを恐れているようだった。
「おい、もう少しやさしい顔しろよ」
 ムハマドに小声で言った。彼はちょっとムッとした顔をしたが、すぐにわざとらしく大げさな作り笑顔をしてみせた。
「でも、ここの問題は食べ物のことじゃないんです」
 長老格の男は、ポツリポツリと話しはじめた。
「若い民兵たちが頻繁に襲ってくるんです。彼らは、貧しい私らから略奪するわけではありません。女を強姦したり、面白半分に男を殺したりするんです。
 けれども、武器を持っていない私たちは、黙って連中の慰みものになるしかありません。あいつらは動物以下です」
 気が滅入る話だった。“無法地帯”の本当の意味が少しわかったような気がした。そこでは、武器を持つ者は万能の神で、持たない者は奴隷以下の存在なのだ。神の気晴らしとして行われる殺毅に、きっと意味などはないのだ。
「なんで民兵はそんなことするんだろう?」
 帰り道、ムハマドに訊いてみた。彼だって、そんな民兵のひとりなのだ。
「知らねえよ」
 ふいに顔をこちらに向ける。
「でもな、俺はそんなことはしねえよ。本当だとも」

 そんなムハマドも、さすがにウッと捻って顔をそむける場所があった。モガディシオ最大のディグファー病院。後に米軍とアイディード軍との蛾烈な戦闘の主舞台となる場所である。
 白い建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、なんともいえない嫌な臭気が鼻をついた。糞尿の臭いと血の臭いの入り混じったような、ぞっとする悪臭だった。
 廊下を歩いていくと、その臭いの正体がわかった。床に転がっている末期重傷者や、忘れられて放置された死者たちから漂っている“死臭”だ。
 病室をひとつひとつ覗くうち、いつもは軽口の絶えない僕たちも、次第に無口になっていった。戦争なのだから、病人や重傷者が出ることはわかる。だが、彼らの置かれた状況の、なんと凄まじいことだろう。
「結局ですね、彼らはほとんど助からないのですよ」
 案内をしてくれていた病院職員が、いかにも疲れきった表情でそう語った。
「ここに運ばれてきた人は、とりあえずは傷の手当てを受けます。けど、あまりにも多くの負傷者が運び込まれるので、我々もその後の世話まではできないのです。瀕死の重傷者が自分で食べ物を調達できると思いますか? 私らがやっていることは、単に死を先延ばしにしているだけに過ぎないのかも知れません」
 ここでは、家族が患者の世話をするなどということは、むしろ例外だった。たいていの人は、冷たいコンクリートの上で、水のような便を垂れ流しながら静かにそのときを待つ。息を引き取ると、薄い布切れが被せられる。
 死体となった人間は汚物としてしばらく放置され、まとめて捨てられる。死んだのは誰なのか? どのように生きたのか? そんなことを気にする人間は、そこにはひとりもいなかった。

 ある部屋から、苦しげなうめき声が聞こえてきた。なかを覗くと、手術の真っ最中だった。被弾した男の腹を開いて、白人のドクターが汗だくになって弾丸摘出を行っている。
 いかにも不潔そうな台の上に、男の臓器が無造作に置かれていた。血のりの臭いに吐きそうになりながら写真を撮ると、それに気づいたドクターが、ちらりをこちらを振り返って叫んだ。
「薬がないんだよ、薬が!」
 比較的軽傷の患者たちから話を聞いた。驚いたことに、戦闘に巻き込まれて負傷した人は、ごくわずかだった。ほとんどの犠牲者が、武装民兵の気まぐれによって一方的に撃たれた人たちだった。
 そんななかには、幼児も少なくなかった。僕は思わずつぶやいていた。
「子どもを撃って何が楽しいんだろう?」
 皮肉ではない。本当に僕にはそのことが不思議だったのだ。
 しかし、それはまぎれもなく、このアフリカの片隅で、人間が実際に行っていることだった。

 それにしても、これほど殺伐としたところが他にあるだろうか。それまで僕が歩いてきた“戦場”には、少なくとも人間社会の臭いがした。ここにはそれがない。
 夜になると、ジャーナリストたちはユニセフの宿舎に寝泊りする。夕食後のひとときは雑談の時間になるが、その少し前に訪れていたボスニアの首都サラエボなどに比べると、ずっと寂しい。30人ほどの記者がいたが、中東や南アフリカを拠点にしている記者が多かった。どんなに悲惨な現実を取材した後でも、宿舎に帰れば豪勢な食事があった。
 夜間もずっと、遠くで散発的な銃声が聞こえていた。だが、僕たちは取材に出ることもできない。施設の外は無法武装集団が支配する世界だった。安全地帯はどこにもない。何が起きても、自力での脱出が不可能だった。
 一般のソマリア人と話す機会はあまりなかったが、僕はユニセフ宿舎の警備兵たちとしばしば話し込んだ。
「俺たちはこうして職にありつけただけ幸運さ。だけど他の連中はどうしていると思う? みんな略奪で食ってるんだぜ」
 彼らの、自分以外の者への不信感は徹底している。
「あの銃声は戦闘じゃなくて、ケンカか略奪だよ。銃を持っている奴はみんな、ろくでなしだからな。まったくひどい連中なんだ」
 モガディシオの夜はどこまでも暗かった。遠くで、近くで、乾いた銃声が鳴り続いていた。難民キャンプや病院などで見た地獄のような光景が脳裏をちらついて、僕はなかなか寝つけなかった。

 ある日、ユニセフの職員が「グリーンライン」を越えるというので同行することにした。
 当時、モガディシオは武装勢力2派によって分断されており、境界線を越えるには国連か赤十字の関係者に同行するしか方法がなかった。中立的な国際組織だけが、軍事境界線に一力所だけ設置されたポイントを抜けることを両軍に了解されていたからだ。そして、モガディシオでもっとも危険な“最前線”である軍事境界線は、レバノン内戦時のべイルートにならって「グリーンライン」と呼ばれていたのである。
 ユニセフのランドクルーザーは早朝、事務所を出発した。外国人記者としては、僕のほかにも『ニューズウイーク』のカメラマンがいた。ピーターというそのカメラマンは、一見飄々とした雰囲気を漂わせていたが、当時から世界トップクラスの報道カメラマンとして業界では有名な人物だった。
 グリーンライン越えは、ちょっとした緊張の場面となった。幅300メートルほどの緩衝地帯の両側では、両軍のロケット砲が睨み合っており、いつ戦闘が始まってもおかしくない状況だったからだ。
 最前線に到着したところで、“向こう側”のユニセフ職員と無線で連絡をとる。両軍の指揮官に話を通したうえで、タイミングを合わせてダッシュ。兵士たちの銃口が見守るなか、グリーンラインの中心で、人間だけが“向こう側”から来た車両にすばやく乗り移る……まるで人質交換のようなやりとりだった。
 もうひとつのモガディシオも、状況は基本的には同じだった。やせこけた住民。チャットを噛んだ武装民兵。走りまわる武装ピックアップ・トラック……。
 ところが、ソマリアの取材が難しいのは、民兵たちが報道陣に写真を撮られることを絶対に許さないことだ。自分たちの無法ぶりを自覚しているのだ。
 結局、隠し撮りするしか方法はないので、僕はノーファインダーでシャッターを切った。
「キミね……」
 そんな僕の様子をピーターがからかった。
「写真というのは、ファインダーを見て撮るものなんだよ。知らないのかね」
 僕は撫然としてカメラを置いた。
「じゃあ、どうするんだよ」
 すると、彼はおもむろに『ニューズウイーク』を取り出し、民兵のところへつかつかと歩いていった。
「ねえ、君たち!」
 尊大な調子で声をかける。
「私は世界的に有名な雑誌のカメラマンなんだ。写真を撮らせてくれたら、きっとこの表紙に載せることができると思うよ。キミたち、有名になりたいだろ?」
 そう言ってピーターがカメラを構えた瞬間、十数もの銃口が一斉に彼に向けられた。ピーターは首をひねりながら、すごすごと引き返してきた。
「どうした? そっちもうまくいかないみたいだな」
 僕は少し意地悪く彼に言ってやった。
 その日の帰りは、ユニセフの手違いから、夕刻になってしまった。暗くなってからの移動が危険なことは戦場では常識であり、とくにグリーンライン越えは非常に緊迫した局面となった。
 時間がないので、充分な打ち合わせなしにグリーンラインに突入することとなった。ところが、ちょうど僕たちが動き出そうとしたとき、相手側から発砲があった。周囲の民兵たちが一斉に退却し、臨戦態勢に入る。僕らだけが、睨み合う両軍のあいだに孤立するかっこうとなった。
 これはとてつもなく危険な状況だった。もし戦闘が始まったら、僕らの車両は瞬時に蜂の巣になってしまうのは明らかだった。
「ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー!」
 ピーターが狂乱して叫んだ。戦場経験豊富な世界的カメラマンでも、これは平静ではいられなかった。
 だが、運転手だった少年民兵は、それでかえって焦ってしまったようで、固まってしまっている。僕自身も、心臓を鷲づかみにされたような焦りを感じていた。客観的にみて、ボスニアで砲弾の雨にさらされたときよりも、これははるかに危険な状況だった。
 瞬間、ドアを開けて飛び出そうかとも考えたが、それが良いのか悪いのかとっさに判断がつかなかった。じっと息を潜めて状況の推移を待つ。幸いなことに、危惧していた戦闘は起こらず、なんとか無事に帰還することができた。
 ユニセフに到着するまでの間、暗闇の無法地帯を疾走する車中で、ピーターはユニセフの職員にずっと文句をぶつけていた。

 人命が驚くほど軽いソマリアではあったが、武装兵士たちひとりひとりに話を聞くと「それでいい」と思っているわけでもない。
「アイディード将軍なんてただの殺人狂さ」と、アイディード派の民兵がこっそりと語る。
「前の大統領が国の予算をすべて個人的に着服したのは有名な話だが、後釜を狙う連中もカネの亡者に変わりはない。誰が権力を持ってもそれだけは同じだ。俺たちがアイディード派に入っているのは奴の力がここではもっとも強いからさ。他に生きる方法はないからな」
 己の身を守る唯一の手段が、ここでは殺人者集団に属することだった。さらに対立する別の殺人者集団を繊滅しなければ、やはり自分を守ることはできない。
 当時、もっとも激しい戦闘は、アイディード軍と元大統領派残党のあいだで行われていた。元大統領派はケニア・エチオピア両国との国境地帯を拠点としており、付近の集落は双方の部隊の奇襲合戦で取ったり取られたりしていた。
 したがって、戦闘の被害も、それに巻き込まれる避難民の発生も、内陸部ほどひどさを増す。ところが、内陸部には野盗が出没するため、陸路で訪れることは難しかった。
 だが、僕は運良く内陸の戦場まで行く機会を得た。国連の視察員が小型機でエチオピア国境に近いホドゥールという村まで飛ぶというので、それに同行することになったのだ。
 ホドゥールは砂漠のなかにポツンと浮きあがったような村だった。付近では、元大統領一派の残党が数多く潜んでおり、村を掌握するアイディード派民兵と果てしない戦闘を繰り返していた。
 ソマリアの内陸部では、戦争は単純な動機から行われていた。援助物資、つまり“食い物”の争奪戦である。
 現代の戦争では、国際社会からの援助があたりまえのように届くシステムがほぼ出来あがっている。ほとんどの場合、もしそれが人々に行き渡れば、危機的な状況には陥らないで済むはずなのだ。
 だが、空港に到着した援助物資は、やせ細った住民を奴隷のようにこき使う民兵によってどこかへ運ばれ、最終的には“正統政権”を自称する一部の人間たちのもとに集まるようになっている。こき使われた人問には、ほんのわずかがおこぼれとして残るだけだ。
「それでも他に方法がないんですよ」
 現地で援助物資の分配を采配する国連職員が、やりきれない表情でそうつぶやいた。
 いっぽう、生々しい弾痕や血痕が残る民兵の司令部で、“隊長”と称する男は口から泡を飛ばして力説した。
「国連は何をやってるんだ! 飢えで苦しむ我々を外国は児捨てようというのか!」
 飢えているというわりには、隊長はでっぷりと太っていた。しらじらしい台詞の間から、遠くの砲撃音が小さく聞こえていた。

 モガディシオを訪れる報道陣の数が日毎に増えてきた。国連か援助機関の飛行機に便乗するしかアクセスがないため、サラエボのように世界中からいっきに押しよせるということはなかったが、それでも、ここでもっとも多くの報道陣を受け入れているユニセフの宿舎はだんだんと賑やかになっていった。
 日本人記者も1人到着した。共同通信の沼沢均ナイロビ支局長だった。さすがはアフリカを熟知している特派員だけあって、準備よくイスラム国にウイスキーを持ち込んだ沼沢さんは、すぐにユニセフ宿舎の人気者となった。
 数日後、彼と合同で、内陸部の村に陸路で遠征取材に出かけることにした。首都市外の取材ではいっきに高騰する“護衛代”がバカにならなかったからだ。
 ムハマドは、いつものメンバーに新たなガンマンをひとり加え、普段は用意していない携帯用対戦車ロケット砲を持たせた。予備のタイヤや飲料水も積み、僕たちはいつもより少し窮屈になった武装ピックアップで出発した。
 快適な砂漠のドライブだった。これで戦争がなければ、ちょっとしたパリー=ダカール・ラリーの気分になれただろう。しかし、その道は、いつ強盗団に襲われるかわからない危険なルートだった。事実、欧米のテレビ・チームが多数、その被害に遭っていた。
 半日がかりで僕らが向かったのは、バイドアという村だった。荒涼とした小さな村だったが、そこが他の村と違っていたのは、驚くほど多くの人間がいたことだった。
 いくつか設置された援助機関の配給所の前には、それこそ見渡すかぎりの人の群れがあった。「バイドアに行けば援助物資がある」という噂が広く流布したため、戦闘を逃れて大量に発生した避難民が殺到したのだ。
 しかし、奇妙なことに、その世界には音がなかった。あれだけの大群衆が轟いていながら、人間の声がまったく聞こえないのだ。耳に入るのは、ただひゅうひゅうと鳴る風の音だけだった。
 人々は座り込み、あるいは横たわって、ただじっとそこにいた。骨と皮だけになった彼らの目には、喜怒哀楽の感情も、人間らしい生命感もまったく感じられなかった。すでに、すべてをあきらめてしまっているように見えた。
 初めて見る本当の飢餓の光景に、僕は声も出せなかった。
 確かに、ここにはまったく希望がない。援助の食糧が続々と届いているが、あまりにも多い避難民に対しては、焼け石に水の状態だった。とくに弱者である子どもや老人は、配給の列から弾き飛ばされ、恨めしそうな表情で死を待つしかなかった。それは極限の光景といってよかった。
「ひどいね、ここは……」
 アフリ力の飢餓を見慣れている沼沢さんも、ただひとことそう言って絶句した。
 僕は黙り込んだまま、死体となった人間や、死体一歩手前の人々を撮って歩いた。他にすることは何もなかった。
 そんな僕の様子を、いくつものとろんとした目が無表清に見ていた。彼らにもカメラを向けた。この世の地獄としかいいようのないこんな場面でも、僕の頭は考える。もっと悲惨な瞬間を、もっと衝撃的なショットを!
 僕はなにかものすごく非道なことをしているようで、胸が苦しくなった。死にゆく人間を撮影するという行為の、なんと不遜なことか!

 ハエの大群が音を立てて飛び交っていた。その中の1匹が、命の果てた子供の顔にとまった。見開かれたままの目にとまった。もちろん瞼は動かない。眼球の上にハエはとまった。
 背筋が冷たくなった。異物が動きまわっても動じない目を、僕は初めて見たからだ。死者の目は色が薄かった。黒い部分も白い部分もともに濁ってぼやけていた。抜け殻のような眼球をハエは一心に舐めていた。
 僕はゆっくりカメラを構えた。ファインダーを覗きがら涙が流れたのは、初めてのことだった。
 飢餓の光景など、前もって充分予想していたことなのだが、いざ目の前にしてみると、その衝撃は凄まじかった。こうした光景を冷静に表現する鋼鉄のハートがなければ、報道カメラマンの資格がないだとすれば、僕は明らかに失格者だった。
 この地獄絵図のなかで、さらに僕を慄然とさせたのは、極限状態の死線をさまよう人間たちの、あまりに厳しい生存の碇だった。
 自力で生き延びる。これが彼らのルールだった。
 どんなに弱った人が隣にいても、彼らは決して手を差しのべることはない。自力で水場や食糧配給所に行けなくなった者は必ず死ぬのである。だから、死者は基礎体力に劣る子供と老人が庄倒的に多い。孤児が真っ先に衰弱するが、ときに母親でさえわが子を見捨てるという。
 エゴとは悪なのか? そんなナイーブな問いは現世だけに通用する。ここではしょせん無意味なものだ。
こうした圧倒的な光景のなか、僕はこれまでのどの場所でも感じることのなかった違和感を覚えていた。そこにいる、という現実感が希薄なのだ。
 凄まじい飢餓を目の前にしても、ユニセフの宿舎に戻れば驚くほど立派なディナーが待っている。ご馳走を食い散らかしながら現状に涙する自分は何なのだ?
 戦場取材においては、危険の射程に己の身も投じることが、戦場取材者としての自分なりの免罪符のつもりだった。そしてさらに、そこにこそ“彼ら”を理解する足がかりもあったのだ。ならばこの地にいる僕は何者なのだろうか?
 ソマリアに入る前は、そんな特権をもちろん知らなかったから、非常食として高カロリーのチョコレートやキャンデーを僕は持ち込んでいた。自分のためには不要になったそれを、僕は思わず痩せた子供に与えてしまった。無残なその子の姿があまりにも痛ましく、見るに忍びなかったからだ。
 次の瞬間、何が起こったか? 子供たちばかりか大人たちまでもが殺到し、血相を変えてキャンデーの奪い合いを始めたのだ。
 僕は恐怖を感じた。餓鬼が襲ってくる、そんな錯覚が見えたからだ。
 収拾をつけるためには、ムハマドたちが銃で脅しつけなければならなかった。ムハマドに僕は激しく叱責された。
「これっぽっちのキャンデーが何になる! かえって殺し合いを始めかねないじゃないか。いいか! 今後は絶対にこんなバカな真似はするんじゃないぞ!」
 彼が正しい。現実はかくのごときだ。
 気が滅入る世界だった。取材という行為は、ある意味で相手との人間関係を構築する作業にほかならない。しかし、ここではとてもそれは不可能だ。取材するほうと取材されるほうがこれほど歴然と隔てられている場所もない。彼らの人格を感じろというほうが無理な話だ。そんな相手と、まともに対話することなどできるだろうか?
 ボスニアは僕は、自分がハイエナになつたような気分を味わった。ここでは、動物園の見物客にでもなったような気分だ。これならハイエナのほうが、よほどマシというものだ。
 取材は旅の延長でもあり、出会いと対話である。相手の本音に近づき、その人生に迫ることだ。良い人だろうが悪い奴だろうが、難民だろうが兵士だろうが、対話が興味深くなければやっていられない。ただうんざりさせられるだけだ。
 戦場取材は極限を探す旅でもあった。ところが、旅を重ねるにつれて見えてきたものは、人間の弱さと汚さばかりだったような気がする。戦場に渦巻くものは、たいていは恐怖や嫉妬や猜疑心などだ。
 ただ、それらは人間なら誰でも持つている感情に過ぎないだけ“わかりやすい”ものでもあった。そこに、周囲の雰囲気への盲従、あるいは群集心理というわかりやすい愚鈍さが加わっていくのだ。
 だが、ソマリアほどの極限になると、弱さとか汚さとかいう人間的な尺度があてはまらない。そこでは、闖入者の僕はただ戦懐に立ちつくち、ただ怯えるだけだった。
 もう、うんざりだ……。僕は戦場で初めて、心底そう思った。

 赤十字のピックアップ・トラックが、群衆のなかをゆっくりと走っていた。死体を集めているのだ。荷台に放り込まれた彼らは、赤十字の施設に運ばれ、布で縛られた後、まとめて埋葬される。赤十字がここで行っている、いちばん重要な仕事だった。
 それは異常な光景だったが、ここでは普段どおりの日常風景だった。

 バイドアの飢餓地獄は、その後、多くのメディアに紹介され、世界中の同情を呼ぶこととなった。国連は初の平和執行部隊を投入することを決定し、ソマリア国民の歓喜のなか、救世主として乗り込んでいった。
 しかし、それも間もなく失敗に終わり、世界はその後、この地を見捨てた。その過程は国際メディアによって華々しく報道されつづけたが、僕は二度とこの国を取材する気になれなかった。
 AP通信の記者がモガディシオで群衆に撲殺されたという二ュースを聞いたとき、なにかやりきれない気持ちになった。死んだ記者は僕自身だ。戦場や飢餓の土地ばかりを好んでうろついている僕など、いつ殺されても文句はいえない。撲殺されるのはどんな気分なのだろう?

 ソマリアからケニアに脱出した後、共同通信の沼沢さんとナイロビの酒場で何度も酒を呑んだ。日本の新聞記者にしては珍しく、どこか“旅人”の雰囲気を持つ沼沢さんとは妙にウマが合った。
ボブ・マーレーのラスタファリズムに憧れ、自ら志願してアフリカ特派員になったという彼は、日頃の職務をこなしながら、自分なりの旅を続けていたように見えた。
 ある夜、彼が酔っ払って、ふとこんな台詞を吐いたことがある。
「でもさ、違うんだよね。アフリカの現実はさ」
 そんな沼沢さんもその後、ルワシダ内戦の取材に向かう途上で飛行機事故に遭い、フジテレビのカイロ支局長らとともに還らぬ人となった。僕が嫌になって投げ出してしまった“アフリ力の現実”について、もっと話を聞いてみたかったと残念でならない。(了)
▽写真館⑯ソマリア避難民
▽写真館⑮ソマリア内戦
※今年、日本国際飢餓対策機構の広報ビデオに、私がソマリアで撮影した写真が使われました(当然、無料提供です)。少しでもお役に立てれば、これほど嬉しいことはありません。
スポンサーサイト
  1. 2011/12/26(月) 14:40:28|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<北朝鮮、リビア、ウィキリークス、シリア | ホーム | 金正日死去ニュース雑感>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://wldintel.blog60.fc2.com/tb.php/623-c3e3113b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




最近の記事

最近のコメント

カテゴリー

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。