取材という大層なものではなかったけれど、筆者が初めて、いわゆる「ゲリラ」「民兵組織」というもののメンバーに会ったのは84年のこと。当時、大学生バックパッカーだった筆者は、シリアの首都ダマスカスに滞在中、現地の安宿で知り合った日本人大学生に連れられ、市内のパレスチナ難民キャンプを訪問した。その際、そこを拠点に活動していたゲリラ組織「ファタハ/アブ・ムーサ派」(後の「ファタハ・インティファーダ」)の事務所を訪れる機会があったのである。
このアブ・ムーサ派というのは、PLOの主流派ゲリラ組織「ファタハ」のなかから、シリア情報機関の息のかかった一派が分派したもので、当時、シリアの意向もあってファタハ主流派であるアラファトのグループと激しく対立していた。レバノン北部トリポリに籠城したアラファト派を83年に攻撃してレバノン国外に追い出したのも、シリアに強力に後押しされた彼らである。
ファタハ幹部だったアブ・ムーサ大佐が率いたから「ファタハ/アブ・ムーサ派」というわけだが、彼らは自分たちでは自らを「ファタハ」と呼び、地元アラブ人たちは「アブ・ムーサ」と呼んだ。「ファタハ/アブ・ムーサ派」というのは、アラファト派と区別するために外国プレスが名付けた名称だった。
その後、彼らは自身で「ファタハ・インティファーダ」という正式名称を採用したが、地元では誰もそんな名前では呼ばず、代々のボスの名前で呼ばれた。もっとも、ものすごく細分化されたパレスチナ民兵組織のほとんどは、それぞれもっともらしい正式名称を持ってはいるものの、面倒なのでボスの名前で呼ぶというのが現地では一般的である。ちょうど清和政策研究会とか平成研究会とかいうより、町村派とか津島派とか呼ぶほうが一般的なのと似ている。
ともあれファタハ・インティファーダなるシリア傀儡のパレスチナ民兵組織は、シリア軍が事実上支配していたレバノン北部トリポリ近郊のパレスチナ人居住地区(報道では「難民キャンプ」という表現が使われるが、テントやバラック暮らしをしているわけではないので、難民キャンプというイメージの場所ではない)=ナハル・アル・バレドを拠点とした。ここはレバノン国内の主要なパレスチナ人居住地区のひとつで、約4万人が住んでいる。最近になってシリア軍が撤退するまで、当然ながらシリア軍・情報機関のコントロール下にあった。
ところが、2つの新たな出来事が発生する。1つは、2005年4月のシリア軍のレバノン撤退。もう1つはアルカイダやハマス、イラクのザルカウィ派など、イスラム過激主義の大流行である。
そんななか、ファタハ・インティファーダのなかから、「ファタハ・アル・イスラム」と自称する組織が誕生する。結成は昨年11月と報じられているが、よくわからない。パレスチナ人はほとんどがスンニ派なので、スンニ派過激派という位置づけになるが、海外メディアの報道をみると、シリア情報機関のダミーとの見方もある。
ただ、ボスがシャキル・アバシ(通称アブ・ユセフ/55年エリコ生まれ)というパレスチナ系ヨルダン人ということなので、シリアのダミーというよりは、やはりイスラム過激派に近い性格である可能性が高い。アバシはもともとザルカウィの仲間で、ザルカウィが中心になって計画された2002年のアンマンでの米外交官殺害事件にも参加している。ザルカウィとアバシはヨルダンで欠席裁判で死刑の判決も下されている。
ところで、トリポリにはサイード・シャーバンが率いる「アル・タウヒード・アル・イスラミ」という地元のイスラム過激派組織がある。最大でも数百人程度の小規模組織で、スンニ派組織なのにイランから資金が出ているという珍しい組織(地元ではかなりコワモテなイメージがある)だが、このシャーバンがかねてザルカウィとコネがあった。ということでタウヒードとファタハ・イスラムの関係が気になるが、ちょっとまだよくわからない。
レバノン、シリア、ヨルダンには、ザルカウィやシャキルの仲間だったイスラム過激派人脈が広く浸透しているが、そのなかで現在のファタハ・イスラムがどのポジションになるのかもよくわからない。
一方、レバノン南部サイダ(シドン)近郊のパレスチナ難民居住区には近年、アルカイダ系のグループがかなり本格的に浸透しているのだが、彼らとファタハ・イスラムの関係もよくわからない。ファタハ・イスラム自体の力もそれほどではないと思うが、とにかくなんだかよくわらない組織なのである。
ファタハ・イスラムのテロとしては、いまだ容疑段階ではあるが、今年2月にベイルート北東部のキリスト教徒居住地区=アイン・アラックで発生した小型バス連続爆破テロ(3人死亡)がある。ドイツの列車爆破テロ未遂事件の容疑者だったサダム・ディーブもメンバーである。
レバノン政府はかねてこの過激派グループを追跡していた形跡があるが、今月20日、ついに両者はナハル・アル・バレドで交戦状態に入った。アル・ジャジーラなどの報道によると、ナハル・アル・バレドに入ろうとしたレバノン治安部隊をファタハ・イスラムが待ち伏せ攻撃したのが発端ということだが、その顛末の詳細は不明だ。
が、いずれにせよレバノン治安部隊は装甲車も繰り出してナハル・アル・バレドを包囲して砲撃。籠城するファタハ・イスラムと激しく交戦している。
21日現在、双方(もちろん一般住民も)合わせて70人以上が死亡している。無意味な流血である(前出したサダム・ディーブも戦死した模様)。
筆者はいつも思うのだが、ヒズボラとかハマスとかもそうだが、アラブ人の自称「抵抗者」(ムカウメという)は、一般の住民を危険に晒すことに何の抵抗もない。むしろ「人間の盾」に利用している。
アラブ社会をそれなりに知る者として強調したいのだが、あちらはとにかく物凄く「相互監視」がきつく、「群集心理」が作用している社会である。昔の社会は日本でも欧米でもそういうところがあったが、年月の流れとともにだんだん緩くなってきている。そういうところがアラブ社会は遅れている(レバノンはまだ進んでいるほうかもしれないが)。
レバノンではシリアやイスラエルの思惑、それにイスラム原理主義の台頭もあり、どうも今後、さらに本格的に内戦化する懸念がある。「それいけ、者ども!」と声の大きいボス格が叫んだとき、「ウルせー! やるなら他でやれ!」と言える勇気を持てる社会にアラブ社会を変えること・・・が必要だろうと思う。
最後に、まったく関係のない話で恐縮だが、ちょっと驚いたことがあったのでひとこと。
冒頭に「筆者は学生時代にファタハ/アブ・ムーサ派を訪ねた」「現地で知り合った日本人学生に連れていってもらった」と書いた。
この人は、向こうはもう筆者のことなど覚えていないだろうが、筆者にとっては〝この道〟に入るきっかけを与えてくれた大恩人である。日本帰国後に1度会ったきりだが、「どうしているのかなあ?」と思って実は先ほどグーグル検索してみた。当時から「将来は政治家になりたい」と熱く語っていた人なので、「もしかしたら・・・」と思ったのだ。
すると、なんと本当に首都圏某県の県議会議員になっているではないか。政治家2世でも官僚出身でもないのに、初志貫徹・有言実行である。
思えば、まだまだ円が安く、海外旅行にもそれなりの気合が必要だったバブル前に海外の僻地や紛争地帯で出会った日本人には、なかなか面白い人が多かったなあと思う。
スポンサーサイト
- 2007/05/22(火) 14:40:57|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0