ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

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ノリエガ将軍!

 まだ生きてたのですねえ。
▽ノリエガ元将軍、22年ぶり母国パナマへ ただちに刑務所収監(CNN日本版 12月12日)
 現在、77歳だそうです。22年も経ったのかと感慨深いものがあります。
▽写真館⑬米軍パナマ侵攻その1
▽写真館⑭米軍パナマ侵攻その2
 そういえば、米軍侵攻も12月で、暮れも押し詰まった頃でした。クリスマス・イブはひとりでドンパチの取材。その後、たしか陸路でコスタリカに抜けて、年越しはコスタリカでした。
 古い話ですが、当時の取材について以前書いた長文記事を貼ってみます。なお、以下は編集部から「レポートというより、若い読者を想定した読み物ふうに」「現地取材より、現地に入るまでのエピソードを中心に」とオファーされたものなので、現地の当時の様子はほとんど書いてありません。悪しからず……。

<戦場行き特別便>

 198O年代末、中米の小国・パナマの〝独裁者〝ノリエガ将軍とアメリカ政府の対立は次第に深まっていた。99年にアメリカからパナマに返還される予定のパナマ運河をめぐる綿引きがその背景にはあったが、大国意識丸出しで圧力を強めるアメリカに対し、ノリエガは〝反米〝の闘士となって対抗する。冷戦時代にはCIAの協力者であったノリエガだったが、89年、米ブッシュ政権はノリエガを麻薬取引き容疑で告発。ノリエガもアメリカに宣戦布吉する事態に至った。
 そして、ついに同年12月2O日午前1時、およそ2万5000人の米軍がパナマを急襲、パナマ国防軍は敗走したのである。
 当時、米国・ニューヨークを拠点としていた筆者は、空港が閉鎖されて「陸の孤島」となっていたパナマに、なんとか潜入をしようと試みたーー。

突然の侵攻

 時代の転換期にはいろいろなことが起こる。そんなことを思ったのは、1989年12月20日の朝だった――。
「やっと起きてきたな。おい、世界はたいへんなことになってるぜ!」
 二日酔いの頭を振りながらリビング・ルームヘ入っていった僕に、ランディがニタつきながら声をかけてきた。
彼はユダヤ系の売れないコメディアン。当時、ニューヨーク・ブルックリン地区の安アパートに暮らしていた僕のいわゆる〝ルームメイト〝というやつで、いつもポテトチップスを片手にテレビにかじりついているような冴えない3O 男だった。
「なんだよ、珍しくCNNなんか観てやがるのか?」
 画面にはいつものソープオペラじゃなく、気取ったキャスターの顔が映っていた。ヤツが朝っぱらから二ュースをつけているなんてことは珍しいことだ。
「戦争だよ、戦争! オマエ、早く行かなくていいのか?」
 東欧でまた政変か?と僕はとっさに思った。その頃、世界の目は、ひと月まえの「ベルリンの壁」崩壊からスタートした一連の東欧政変劇に集まっていたからだ。すでに、東ドイツやチェコの左翼政権が打倒されており、次はいよいよ〝最後の独裁国家〝であるルーマニアの番かとみられていた時期だ。
「へっ、そんなことだろうと思って、もう東欧諸国の人国ビザも明後日のべルリン行きのチケットも用意してあるさ」
 ところが、そんな僕の言葉に、ランディはひひっと愉快そうに笑って画面を指差した。
 なんだよ……と目を向けた瞬間、僕は思わずあっと声を上げてしまった。画面には、大きなロゴで「BREAKING NEWS(臨時二ュース)」――。そして、なんと「米軍、パナマを急襲」というテロップが……。
 なんだって? パナマとはどういうことだ?
 こうして僕は、思いもよらなかった戦場に向かうハメになったのだった。

 それにしても、突然の米軍パナマ侵攻には、ちょっと意表を衝かれた思いだった。パナマの〝独裁者〝ノリエガ将軍とアメリカ政府の対立は確かに抜き差しならないところにきてはいたが、そうした緊張状態に陥ってから、すでにもうかなり月日が経っていたからだ。
 僕もその年の3月にパナマを取材しており、ブッシュ大統領をコキ降ろすノリエガ将軍の演説を間近に目撃していた。あんなに威勢のいいことを叫んでいたら、いつかはアメリ力にやられるなとは思っていたが、だからといって奇襲的な軍事侵攻はいかにも唐突という感じがした。
 そうか、世界が東欧に注目しているスキに、アメリ力はいっきに始末をつけようというわけだな……。CNNの画面を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
 僕はさっそく取材の準備にとりかかった。ただ、状況が流動的だから、具体的にどう動けばいいのかその時点ではまだ判断がつかない。当初取材を予定していた東欧方面でも、やはりルーマニアの緊張が高まりつつあり、そちらの動きも忘れるわけにはいかなかった。
 パナマはすでに戦場と化しており、通常のアクセスが閉鎖されたためにうまく〝潜入〝できるかどうかがわからない。ルーマニアなら陸路での突入が容易だが、その時点ではまだ沸点に達していない。どちらに向かうべきか。僕は迷っていた。
 とりあえず、当時メインで仕事をしていた写真週刊誌「フライデー」の編集者の自宅に電話を入れた。日本はもう深夜だったが、この際、構ってはいられながった。どちらに向かうにせよ、取材費のいくばくかを編集部からせしめなければならない。フリーランサーの仕事は、いつだって〝営業〝から始まるのだ。
「わかった。編集長に談判するから、パナマとべルリンのどちらにも飛べるように準備しておけよ」
 寝入りばなをタタキ起こされた彼だったが、状況の説明を聞くと、そう言って請け合ってくれた。これでよし。彼に任せておけば、まあなんとかしてくれるはずだ。
 さて、こうして軍資金の手配を済ませたら、次は「いかに現場に潜入するか」であった。
 戦場取材の第一歩は「戦場に到達する」ことから始まる。ところが、たいていの場合、その地は極度の混乱状態にあるから、観光客のように簡単に入国できるというわけにはいかない。だから、どうすればアクセスが可能かという情報の人手がまずは必要になる。というより、むしろアクセス・ルートの割り出しが戦場取材の仕事の半分以上といってもいいかもしれない。
 MTVを観たがるランディをなだめすかして、まずはCNNをウォッチ。CNNが撮れている揚面というのは、少なくとも「彼らには取材ができたもの」であるわけだから、それらを注視していれば、実際に可能な取材ルートがある程度推測できる。
 そのとき僕が注目していたのは、とくに米軍の映像だった。米軍が動いた事件の場合、米マスコミは彼らに従軍して取材するのが常だから、もしもその形跡があったときには、こちらも米軍に掛け合わなければならないということになるからである。
 ところが、その日は午後になってもほとんど現地映像が流れなかった。米軍の映像は、パナマに向かって旅立つ増援部隊の〝米国内〝の映像ばかり。それはつまり、米軍が記者団を従軍させていないことを表している。ならば、こちらも自力で現地に入るしかない。
 念のため航空会社に電話する。当然、向こうの空港が閉鎖されたため、パナマ便は欠航との答え。ならば、隣国コスタリカに飛んで陸路でパナマ入国を図るのが定石だ。ところが、航空会社に問い合わせたところ、こちらも殺到する予約申し込みで数週間は満席とのことだった。
 しかし、諦めるのはまだ早い。米軍の軍事行動である以上、米マスコミが現地入りしないわけがない。なにがしかの入国ルートが、必ずアメリカ発であるはずだ。
 片っ端から電話を入れてみる。国務省、ホワイトハウス、国防総省……。期待はしていなかったが、やはりめぼしい情報はない。マスコミ関係の知人にもあたったが、彼らも全員が「とりあえず中南米へのアメリ力の出入口であるマイアミで待機するしかないだろう」とのことだった。
 結局、CNNもアメリカ3大ネットワークもロクな現地映像がないまま、特別番組で「米軍パナマ侵攻」のニュースを流しつづけ、その日は過ぎていった。
 夜半、僕のファックスに、たったひと言のメッセージが入る。
「パナマに行かれたし!」
 フライデー編集部からのゴーサインだった。

ジャーナリストたちの戦い

 明朝、一番でマイアミに飛んだ。ところが、マイアミ空港はすでに前日から押しかけていた大量のジャーナリストたちでごった返し、大混乱に陥っていた。
「まるでサイゴン陥落時のアメリ力大使館だな、これは」
 二ューヨークの事件取材現場でしばしば顔を合わせるロンというSABA通信社の若いカメラマンが呆れ顔で言った。
「どうする? こんなんじゃラチがあかないだろ」
「けど、ここで待つしかないだろうさ」
 いちおうコスタリ力便の搭乗カウンターにも行ってみたが、キャンセル待ちのリストだけですでに数百人の名前が書かれていた。これも絶望的だ。
「うわっ、参ったね。これは」
 聞き覚えのある声は、前年の中米取材で会ったことのある読売新聞のリオデジャネイロ支局長だった。中米にアクセスするには、南米からもいったんマイアミを経由するのがもっとも早いということで、わざわざブラジルから飛んできたのだ。読売新聞は他にも、ニューヨーク特派員とワシントン支局写真部員の合計3人体制で乗り込んでいた。
 僕はこうした数百人のジャーナリスト集団に紛れ、しばらく空港の搭乗カウンター付近で待機していたが、動きがありそうな気配はまったくなく、時間だけが過ぎていった。
 こんなとき、すぐにラクをしようとするのが僕の悪い癖だ。「これだけジャーナリストがウロウロしているのなら、何かあればすぐにわかるだろう」ということで、とりあえず空港内のホテルにチェックインし、こまめに報道陣の状況をチェックする作戦をとることにした。
 こうなったら焦ってもしょうがない。おそらく最終的には米軍機が報道陣を乗せることになるだろうが、ここにいれば、なんとかそれに潜り込むことぐらいはできるだろう、という読みである。
 とりあえず熱いシャワーを浴び、冷たいビールでひと休み。さて、ちょっと様子でも見てみるかとサンダルのまま出発ロビーに降りてみると、なんだか雰囲気がおかしい。カウンターに殺気だったジャーナリストたちが殺到しているのである。
 聞いてみると、なんと3大ネットワークのひとつであるNBCテレビがチャーター機を出すという。しかも、ありがたいことに他社の記者もそれに乗せてくれるというではないか!
 これはうかうかしていられない。すぐに部屋に戻り、急いでチェックアウトすると、僕もその力ウンターめがけて突進した。こうしたときのアメリ力人記者の押しの強さは「オマエは何様だ!」と突っ込みたくなるほど強引なものだが、このときばかりは僕も負けてはいられない。目の前の記者を2、3人投げ飛ばしてカウンター前にたどり着いた。
 ところが、状況は非常に困ったことになっていた。NBCチチャーター機の搭乗者名簿はすでに埋まっていたのだ。つまり、有力マスコミ各社は本社レベルの交渉で席をとってしまい、その他の一般記者たちはあぶれてしまっていたのである。
 日本の報道陣では、朝日新聞と、NBCと提携関係にある日本テレビの取材班が手堅くその席を確保していた。あぶれたのは、僕の他には読売新聞のチームとブロック紙代表の北海道新聞の特派員だった。
 もっとも、出遅れたのは僕らだけではなかった。その場にいた欧米人の記者たちも、半数以上は〝お仲間〝だったらしく、誰もがカウンターに詰めかけ、記者証を振りかざしながら「自分こそが乗るにふさわしい!」と絶叫していた。こうなると、ジャーナリストなどといってもおぞましいものだ。
 状況はほとんど絶望的だったが、僕としても、ここまでくればダメモトでもとことんやってみるしかない。空港の公衆電話に駆け込むと、日本にコレクトコールをかけ、編集部から直接、NBC本社に掛け合ってみてくれるように頼んだ。もちろんフライデーとしては前代未聞のことだ。こうしたときは、さすがに「外報部」という後方支援システムが完備している新聞社やテレビ局といった大組織がうらやましく思えてしまう。もっとも、当然ながら、極東の無名の週刊誌が電話したぐらいで、〝世界のNBC〝がとりあうはずはなかった。
 後は、狂乱状態になっているアメリ力人厚顔記者連中のゴリ押しパワーに任せるしかない。ヤツらが騒いでくれれば、なんとかNBC側も〝折れて〝くれるかもしれない……と他力本願を決め込んでいたら、単に席が余ったからなのかどうかはわからないが、案の定、その場にいた〝あぶれ組〝にもオコボレが施されることになった。「フェア」という言葉を大切にするアメリカ社会の、そこは美点のひとつといえるだろう。
「それではちゃんと並んで、ひとりずつそれぞれのプレスカード(記者証)を提出してください!」
カウンターにいた目つきの悪い女係官がそう叫ぶと、その場にいたジャーナリストたちはわれ先にと争ってそこに殺到した。僕は、少し余裕を持ってその最後尾についた。なぜなら、僕は世界でもっともステータスの高いプレスカードを、たまたまそのとき持っていたからである。
 アメリカ駐在の特派員でも担当者にしか発給されないという国連本部の記者証を僕が取得できたのは、偶然にも、その2週間前に中米二カラグアの反政府ゲリラ「コントラ」の総司令官による演説が国連本部内で行われ、その取材をしたからだった。
 二カラグア内戦は、僕がフリーランスになって初めて選んだ取材テーマで、前年の秋からその年の始めにかけ、コントラの従軍取材をしたばかりだった。国連での取材はその延長だったが、そのために必要な記者証を、そのとき僕は国連報道部の担当者に掛け合って特例的に出してもらっていたのだ(ちなみに、こういうとき必ず「君の雑誌を見せてくれ」と言われるのだが、ハダカやエロ記事が満載の日本の週刊誌は困るである)。
 いかにも怪しげな僕の風体に、女係官はじろりと懐疑の眼差しをくれたが、そこは国連本部の記者証がものを言ったのか、無事、席を確保することに成功した。
 深夜、ジャーナリストを満載した特別便は、パナマのハワード米空軍基地へ向けて、マイアミ国際空港を離陸した。

米軍占領がもたらしたもの

 米軍占領下のパナマでまず目に付いた光景は、徹底的に破壊された商店街や倉庫群だった。それらは、米軍により破壊されたのではなかった。すべて、〝火事場泥棒〝と化した一般市民の略奪によって引き起こされたものだった。米軍の侵攻が直接もたらしたものは、国家権力の消滅そのもの、つまりは完全なる〝無秩序〝だったのだ。
 銃器が普通に出まわっているパナマでは、こうした即席略奪団と武装自警団との〝戦闘〝がそこかしこで多発しており、それが僕らにとってももっとも危険だった。日本人記者のなかにも、取材中に強盗に襲われた人がいた。
 全土に米軍が展開したが、敗走したパナマ国防軍兵士による狙撃事件も頻発した。僕らが狙われるということはなかったが、逆に、不用意にカメラを向けると逆上した米軍兵士の銃口が向けられるなどということがたびたびあった。
 主要な戦闘はすでに一段落していたが、僕は米軍の〝敗残兵狩り〝を追い、いくつかその場面を撮影することができた。敗残兵は、いずれも私服に着替えて潜伏していたが、米軍に見つかると諦め顔で〝お縄〝についた。勝者と敗者は歴然としており、それに意義を唱える者は誰もいなかった。
 明らかな〝侵略行為〝だったが、パナマ国民は米軍を〝解放者〝として歓迎した。子どもたちは米軍兵士につきまとってチューイング・ガムやチョコレートをねだっていたが、焼跡のその風景は、僕が父母たちから聞いた〝戦後〝のイメージそのままといってよかった。
 米軍の追跡を逃れたノリエガ将軍は、亡命を求めてバチカン大使館に逃げ込んだが、その周辺には米軍の装甲車が多数展開し、上空では米軍機やヘリが桐喝するように轟音を轟かせつづけた。
 ひととおり取材を終えた僕は、陸路でコスタリカ国境を抜けた。ちょうどその日、ノリエガ将軍が米軍に投降したという二ュースを聞いた。もっとも、世界の注目はその頃、流血の惨事となったルーマニアにすでに移っていた。

 8O年代最後の日を、僕はコスタリ力の首都サンホセの遊園地で迎えた。そこは、隣国で行われた戦争などにはまったく関心のないだろう着飾った娘たちで溢れていた。
「ちっくしょう、ルーマニア行きてえなー」
 僕は、そう思いながらカウントダウンを聞いていた。
 3、2、1……。ゼロの瞬間、打ち上げ花火がどんどんという音を立てて炸裂した。
「新年、おめでとう!」
 そこかしこで矯声が上がった。
「おめでとう!」
 僕も大声で叫んだ。陽気なラテン・アメリカンは、年越しの瞬間を無礼講で祝福する。僕も郷に入っては郷に従えと、ルーマニアのこともパナマのこともしばし忘れて、周囲のギャルたちに片っ端からキスをした。
「今年もよい年でありますように!」
 イラク軍がクウェートに侵攻して〝湾岸危機〝が勃発し、僕が再び〝戦場〝に旅立つことになるのは、この8ヶ月後のことである。(了)
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  1. 2011/12/12(月) 16:07:55|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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