ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

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戦場NAVI・ボスニア編②

 一昨日だったか、テレビで『エネミーライン』というCGバリバリの戦争アクション映画をやっていました。米軍の偵察機がボスニアで撃墜され、脱出した米兵がセルビア人勢力の追っ手から逃げ回るというストーリーです。
 映画では米空母のホンモノが撮影に協力しているのですが、私はそれだけでも「おおおおっ!」という感じでした。戦争の現場をいくつも取材し、戦争を見て喜んでいてはいけないとは思うのですが、ハードウエアを目にするとつい興奮してしまいます。
 白状しますが、ニカラグアの密林をコントラのヘリで移動したときには、私の頭の中ではワーグナーの『ワルキューレの騎行』が鳴り響いていましたし、フランス軍輸送機のコックピットに陣取って砲撃下のサラエボを脱出したときにはストーンズの『サティスファクション』が鳴っていました。南オセチアでソ連軍の装輪装甲車に同乗して疾走しているときや、レバノン南部でイスラエル空軍のF-16が急接近して「ソニック・ブーム」をかましてきたときも、恐怖感よりむしろ「スゲエなあ」なんて興奮してました。
 我ながら馬鹿だなあとは思いますが、自分のことを棚に上げて言えば、戦争の悲惨さを訴える人道派のジャーナリストの方々でも、戦場で戦車や戦闘機を間近にして妙にハイになっている人はたくさんいます。
(もっとも、現地に生きる人々はまず第一に恐怖感を抱くようで、そのあたりの感覚の断絶が、しょせん野次馬である取材者との違いということなのだとは思いますが…)
 と、いきなり話が脱線しましたが、今回は、だいぶ前に当ブログでボスニア取材体験記を書きはじめていたことを、映画を観ていて思い出しましたので、その第2弾を書きます(もろもろの仕事に追われてすっかり忘れていました)。弊誌読者の皆様はあまり関心ないかもしれませんが、映画で興奮した余勢を駆ってやってみます。

 さて、前回は、ユーゴスラビアの首都ベオグラードからボスニア行きの乗合バスに乗ったところまでだったかと思います。
 ボスニアというところは、丘陵もしくは山岳が多い土地です。『エネミーライン』では雪景色でいかにも寒そうでしたが、私が取材したのは6月の初夏の季節であり、たいそう美しい高原の風景でした。山間に村々が点在しているのですが、報道の印象と違って、なんというか「経済的に豊かな人たちだなあ」というイメージです。戦争で破壊された家を除けば、住環境は日本人の数倍恵まれています。もっとも、戦場になった町はメチャクチャで、『エネミーライン』でもボスニア南部の町中での戦闘シーンがありますが、廃墟ぶりはまさに映画の通りでした。
 ところで、以前にも書いたと思いますが、当ブログでは戦場ルポそのものというより、戦場取材における情報収集の実例を書いていこうと思います。
 乗合バスの終点は、パレという町でした。ここはサラエボからは山ひとつを隔てた隣町で、完全に観光地(軽井沢のような避暑地)です。当時の状況は、サラエボ中心部にはイスラム教徒軍が篭城し、周囲をセルビア人勢力が包囲して猛烈な無差別砲撃を連日、市内に加えているという状況でした。パレは、サラエボ中心部から脱出したセルビア人たちが集まり、セルビア人側の暫定的な首都のようなポジションになっていました。
 当日はもう夕刻になっていたので、パレで唯一営業しているというホテルに投宿しました。その日は私の他に10人の欧米人記者が宿泊していて、いろいろ話を聞きました。全員が翌日、サラエボ市内に入る予定とのこと。サラエボ取材が初めての人もいれば、ベオグラードとの間を行ったり来たりしているベテランもいました。
 私は同地の取材に必要な情報を何も持っていなかったので、彼らの話はたいへん参考になりました。なかでも重要だった情報は2点。「サラエボは市外と市内が敵対する陣営に完全に断絶しているので、交通の便がない。したがって、市内に入るには自前の車両が必要」ということと、「サラエボ市内ではガソリンが枯渇しているので、ガソリンをたっぷり積んだ自前の車両がなければまったく動けない」ということでした。サラエボ経験者からは、サラエボ市内取材のコツなどもいくつか聞きましたが、ちょっと気になったのは、そこにいた誰もが、せっかくパレにいるのに、セルビア人勢力側の取材を考えていないことでした。
 このときサラエボ入りの同乗を誘ってくれた人もいたのですが、私はサラエボ潜入の前に、とりあえずセルビア人勢力の取材をしたかったので、断わりました。このホテルで網を張っていれば、サラエボ入りでヒッチハイクをする相手が後でもどうせすぐ見つかるだろうと思ったからです。他人まかせでなんだかなあという気もしますが、他にいい方法がないのでしかたがありません。
 翌朝、セルビア人側の取材をスタートしました。こういう場合、定石としては、いきなり部隊を訪ねるのではなく、まずはパレのセルビア人側代表事務所に顔を出すところから始めます。また、現地プレスの支局を訪ねるということも有効です。こういったところからいろいろコネを増やすとともに、現地の政治状況を徐々に理解していくわけです。
 ところが、このときはそういった手順を踏む前に、取材ルートが出来てしまいました。その日の朝、最初に訪問した事務所で、外国人記者狙いのガイド(要するに運転手。英語はあまり上手くなかったので、カタコトのやりとり)が売り込んできたのです。聞くとそんなに高いギャラでもなかったので、多少ディスカウント交渉した後、雇うことにしました。
 まあ、こういう場合、本当に使えるガイドかどうかは試しに使ってみないとわからないのですが、そのときのガイドは本当にセルビア人武装勢力の仲間で、検問を顔パスで通過し、セルビア人勢力の最前線にあっと言う間にたどり着くことができました。
 取材効率としては申し分ないのですが、問題は、あまりに展開が速すぎて、私は状況をまったく理解しないうちに前線取材に臨むことになってしまったということです。
 だいいち、その最前線はサラエボ市南部のグロバビツァ地区というところで、市街地で唯一セルビア人側が押さえている場所だったのですが、そんな場所があることすら私はそのとき初めて知りました。それまで、市街地はイスラム教徒が押さえ、周囲の山をセルビア人側が押さえるという構図しか知らなかったのです。ですから、サラエボという町の地理的情報も含め、私は最前線に身を置きながら、自分がどういう状況で取材しているのかよくわかっていないというマヌケな状況になっていました。
 これは取材者としてはまるでダメです。なぜなら、おそらくこのときの取材で、見落としたことがたくさんあるはずだからです。
 もっとも、戦闘の従軍取材ということに限れば、この日は大当たりでした。運転手は慣れた様子で同地区の部隊司令部に直行しましたが(もっとも、狙撃ゾーンを走るので、ほとんど無人の市街地をモナコGPみたいに疾走するわけです)、司令官は取材者の私を快く迎えてくれました。この部隊はサラエボ中心部を追い出されたセルビア人住民(非軍人)が結成した住民部隊で、ユーゴ連邦軍側から武器を支給されていました。司令官自身も高校の教師だったということで、いわば被害者の有志部隊でもあるので、外国人記者の取材もウエルカムだったわけです。
(その点、周囲の山腹に陣取って榴弾砲を市内にドカドカ撃ち込んでいるユーゴ連邦軍系セルビア人部隊は一切取材拒否です)
 しかも、私が到着して1時間もしないうちに戦闘が始まり、市内を二分する川を挟んで双方の撃ち合いが始まりました。私は司令官にくっついて前線を駆け回り、その様子を撮影しました。司令官の話だと、戦闘はそういつもあるわけではないとのことなので、不謹慎な言い方ですが、戦闘場面の写真を狙う取材者としては幸運でした(こうした態度を不快に思う方も多いと思います。その感覚のほうが正しいことは私もアタマでは承知しています)。
 戦争取材を重ねてわかってきたことは、実際に戦闘場面を撮影するということはかなり難しいことです。当時の私はすでに4年以上も紛争地取材をほとんど専門に続けていたのですが、こうした市街戦の瞬間を体験するの初めてのことでした。これは私にとっても人生上の大きな体験でした。なにせ目の前をホンモノの銃弾が飛び交っていて、周辺の道路だとか壁だとかでバシバシ弾けるわけです。映画などとまるで違うのは、「音」と「臭い」でしょう。
 さて、そんなことで図らずもいきなり戦闘の取材ということができたわけですが、それでも戦闘が1日中続くということはありません。興奮していたので正確なところは確認していませんが、おそらくその日の戦闘も1時間くらいだったのではないかと思います。此方側の人的被害はゼロ。かつてガソリンスタンドだったところが迫撃砲かロケット弾で大炎上したのが唯一の大きな被害でした。装備に勝る此方側からは携帯ロケット砲や装軌車の主砲をバカスカ発射していましたが、彼方側の被害はまったくわかりませんでした。
 その後、いちおうグロバビツァ地区を取材してその日は昼頃にパレのホテルに戻りました。ところが、興奮をビールで鎮めていたところに、BBCの若い記者がやって来ました。サラエボ常駐の記者でしたが、ベオグラードに買い出しに入った帰りというので、頼んで同乗させてもらうことにしました。結局、セルビア人側の取材はグロバビツァの市民兵士部隊しかしていなかったので、戦争取材としては明らかに取材不足でしたが、私は興奮状態にあったためか、そこまで考えが回らなかったように思います。
 パレからサラエボ市内へのアクセス・ルートは、そのBBC記者が熟知しているので、もう「お任せ」となります。ただ、欧米プレスはセルビア人側に評判が悪いので、途中、セルビア人部隊の検問でかなり時間をロスしました。
 BBC記者はさすがに世界のBBCだけあって、現地の国連軍司令部に話をつけ、最後の軍事境界線を突破する際、国連部隊装甲車にエスコートしてもらう手はずを整えていました。
 けれども、約束の時間に約束の場所に行っても、国連の装甲車が来ていません。日本以外の場所では、約束事など結構いい加減なものです。
 で、見晴らしのいい被弾ゾーンを2キロくらい突っ切らなければならないのですが、BBC記者はもう夕刻だったこともあり、そのまま突っ切る選択をしました。こちらはヒッチハイクの身なので、決定権はありません。側面からの狙撃に備え、窓は全開にし、予備の防弾ベストを左右のドアに立てかけたうえ、突入しました。遠くで銃声も聞こえましたが、なんとか危険ゾーンを突っ切ることができました。
 後から考えると、このときの私の選択は完全に間違いで、不要な危険を冒したことになります。
 まず、当時の私はまだボスニア(パレ)に到着して約24時間しか経っておらず、危険情報をまったく把握していませんでした。われわれが通ったルートは、パレからサラエボ南西部に回り、そこから国連軍が守るサラエボ空港に至る道でしたが、最後の空港手前の道が、狙撃頻発ゾーンでした。そこに無防備に突入すれば、問答無用で狙撃される危険性が多分にありました。
 紛争地帯で動く場合、そこを生き抜いてきた地元住民や先輩記者に覚悟を決めてお任せしてしまうという選択肢もあります。けれども、当時はボスニア紛争勃発3ヵ月で、すでに30人以上の外国人記者が〝戦死〟していました。いくらBBCの記者だからといって、その判断が絶対だとは言えないことは数字が示しています。しかもその記者は、すでにユーゴ取材歴が長いとはいえ、先輩に買い出しに行かされるような、まだ20代の若者でした。日を改めればまだ方法があるところを、一か八かで突入するのは、蛮勇というものです。
 でも、なんとかサラエボ空港に到着。外国人記者などめったに来ないセルビア人側のグロバビツァ地区と違い、空港には各国のプレスがたくさん集結していました。こういうとき、いちばんの情報源はまず同業者となります。国連軍の指揮官にも接触しましたが、「報道部へ行け」と一蹴されました。被弾ゾーンを突っ切ってきたところを目撃されていたので、「お前等、死ぬ気か? 馬鹿者め!」と怒られてしまいました。
 問題は、空港から市内にどう行くかですが(当時、もっとも危険な被弾ゾーンだったのが空港から市内に向かう一本道だった)、別のBBCの記者がちょうど市内に戻るところだったので、頼み込んでヒッチハイクしました。猛爆撃で瓦礫の廃墟となったサラエボ市内を例によって猛スピードで疾走。市内で唯一、外国プレスが宿泊してるホリデイ・インに送ってくれました。
「車は一瞬しか停めないから、いっきにホテル内に走りこめ! ホテルの出入口は常に狙われているからな」と言われ、その指示に従いました。
 ホテルは南側が砲撃でかなり破壊されていましたが、内部は小奇麗な感じで、ビシッとしたホテルマンたちによって普通に営業されていました。1Fホールにはバーもあって、各種洋酒が揃っていました。まさに『アンダー・ファイアー』や『サルバドル』に出てきそうな雰囲気の場所でした。
 うろ覚えですが、1泊70~80ドルくらいで、当時の私にしては贅沢ですが、他に行くところはありません。ベオグラードからの長距離バスでパレに降り立ってから丸1日。なんだか目まぐるしい1日でした。
 疲れていたので、「ま、明日考えよう」と、夕食もとらずにそのままベッドに倒れこみました。何があっても自力での脱出は不可能という完全に包囲された街に自分の身を置いたわけですが、この時点で、なんと私は自分が街のどのあたりにいるのか、政治状況や軍事状況はどうなっているのか、そうした「情報」を一切を知らないという恐ろしい状況にありました。(続く)
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  1. 2007/03/13(火) 17:04:30|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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