『週刊朝日』今週号に、ノンフィクション作家・吉岡忍さんの、「あそこは本当に死の町だった」と題する興味深いコメントが掲載されています。鉢呂前経産相の舌禍辞任に関する記事中ですが、被災現場の取材経験のある吉岡氏は、鉢呂氏の「死の町」発言を問題化したメディアのほうこそ問題だと指摘しています。
被災者の心情を踏みにじる発言だとメディアは言いますが、それは的外れなのではないかというのがコメントの主旨ですが、そこなかで「被災者を弱者と差別して、腫れ物に触るように扱うメディア」を批判しています。後半部分のみ一部抜粋引用してみます。
「そうなった理由には、遺体を報じられなかったメディアの形式主義があると思う。この震災では多くの被災者が瓦礫の下などに無残に横たわる遺体を見ている。だから悲しみも大きいんです。しかし、その厳しい現実から目をそむけたメディアは、被災の残酷さを浅くしか理解できなかった。だからこそ今回のような見当外れの報道に陥ったのではないでしょうか」
鉢呂氏の件では、とにかく現職大臣の舌禍はニュースだということで飛びついた部分が大きかったのではないかなと、個人的には感じています。
しかし、吉岡氏の指摘は、べつの核心をついているのではないかと思います。これを私なりに言い換えると、遺体を報じなかったメディアは、震災のリアリティを本当に伝えてはいないのではないか?ということだと思います。で、その延長には「メディアで震災を見る国民(もちろん私もそのひとり)は、じつは震災のリアリティを本当にはわかっていないのではないか?」という問いが隠されていると思うわけです。
私は過去、さまざまな紛争地の取材現場で死体を多く見てきました。生きている人間が死体になる場面も何度か見ました。それは「情報」としてはなんの特殊な価値もないものですが、自分にとって、「理解」のためには決定的に意味のあることだったように思います。
死体だけではありません。自動小銃の射撃音、砲弾の飛来音、硝煙の臭い、血の臭いなど、報道されている写真や映像では伝わらないものが、状況を理解する材料となります。後方であっても、たとえば兵士たちが持っている自動小銃の銃弾を手にとって、その鋭い先端部に触れれば、これが高速で人間の肉体に突き刺さる場面を想像し、その恐怖に戦慄します。自分が被弾したときには、自分の腰に突き刺さった迫撃砲弾の小さなフラグメントを手にとり、その重量と、断面の鋭利さに衝撃を受けました。こうした感覚は、現場体験ならではのものになります。
インテリジェンス分析に関して、個々の取材体験とか現地経験というのは、原則的にはあまり意味がない・・・というようなことを過去に書いたことがあります。
個々の取材や経験というのは、無数にある「情報」のワン・オブ・ゼムにしかすぎないわけで、自分の取材・経験が他の人のものより優れているとか、自分の目で見たことだけが間違いないなどということはありえません。必ずそうだとはいえませんが、「他のやつらは間違っている」などという主張は、確率的には「自分のほうこそ間違っている」ケースが多くなります。「オレ以外はみんな馬鹿」などと言う「主観だけで他人を見下す人」ほど馬鹿が多いのと同じですね。
(多数派が必ず正しいとはかぎりません。が、かつての人気番組「クイズ・ミリオネア」でも、ライフラインと称する3つのヒントのうち、スタジオ観覧者の意見を募る「オーディエンス」が圧倒的に正解率が高かったと思います。あくまで確率的には、という話ですが)
インテリジェンス分析においては、自分の経験はむしろ、強い先入観=「アンカリング」として認識バイアスをもたらす傾向があるので、要警戒といえます。
ただ、自分の経験は当然ながら認識におけるリアリティのレベルが高いわけで、現場の状況を理解するという点では、非常に有益なものです。いくら科学的なインテリジェンスに依拠しようとしても、人間の理解は最終的には勘に頼る部分がどうしても残ります。矛盾する話ですが、先入観に注意しつつも、リアリティも重要なのです。
たとえば、私は紛争地レポートを執筆する際、自分の見てきた範囲だけ、あるいは自分が直接聞いた話だけで解説記事を執筆したことは、たぶんありません。「情報」に関して、自分の取材などたかが知れていると思うからです。なので、現地のメディア情報、あるいは主に英米を中心とする海外メディア情報などを必ず参考にしています。
ただ、実際に行って現場を体験することで理解が深まることも往々にしてあります。ものすごく想像力の豊かな人であれば、情報だけで理解できるかもしれませんが、私のような鈍感な人間の場合、リアル体験が理解への圧倒的なショートカットになることが多いと思います。
少し話がそれましたが、冒頭のような「遺体を報じないメディア」→つまりは無菌化された情報だけでは不充分ではないかなということは、私がこの半年、このブログを通じてご紹介しているシリア情勢に関して常々感じていたことでした。
シリアで「虐殺される側」の人々が撮影し、ネット配信している映像は、視聴者に現場そのものを提示します。見る者には、まるで現場の追体験をするような強烈なインプットになります。それこそネットの凄まじい威力であって、まさに「新時代だなあ」と、私自身は衝撃を受けてきました。
それで私は当ブログでも、かなり衝撃的な現地映像の紹介をしてきました。『フライデー』や『軍事研究』などの紙メディアでも、そうした画像を掲載しました。それはなにもグロテスク趣味ということではなくて、シリアの現状そのものであるからです。
しかし、テレビ媒体の場合、そうした素材はほとんど使用されません。チャンネルをあわせるだけの受動的メディアであるテレビの場合、広い視聴者層がありますから、ある程度のそうした配慮は必要だと思いますが、死体そのものでなくとも、撃たれる人々などの緊迫感のあるシーンはほとんどカットされます。
それはなにも一般の人々が衝撃的な現場の追体験をする必要はないと思いますが、私自身はこれらの映像によって、シリアで現在起きていることに関して、部分的ではあるでしょうが「理解」を深めることができたような気がしています。
かつて90年代半ばのルワンダ虐殺では、膨れ上がった死体の映像が、ときにはモザイクをかけながらでしたが、世界中で放送されたように記憶しています。ルワンダは本当に酷いな・・・ということが、それで世界の人々に伝わったのではなかったかなと思います。
同国内での放送に際しては遺族の心情に配慮するのは当然ですが、そこに理不尽な死があるなら、その場面をまったく報じないというのもおかしなことではないかなと感じます。
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- 2011/09/22(木) 10:44:35|
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