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ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

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CIAビンラディン追跡の内幕

 某誌でペンディングになっていた原稿が結局ボツってしまったのですが、せっかくなのでここに収録しておきます。もともとは拙著『ビンラディン抹殺指令』出版時に企画したもので、内容も同書のエッセンスがメインですが、それ以降明らかになってきた情報も取り入れ、とくにビンラディン襲撃作戦の経緯について情報を更新しました。
 まあ、こういう生もののネタは鮮度がもたないので、ペンディングになった時点で予想はしていました。長いですが、細かく投稿するのも面倒なのでいっきにいきます。

いま明かされるCIA秘密工作の全貌 ビンラディン追跡15年の全内幕

 ワシントンDC郊外のバージニア州ラングレー――。
 鬱蒼と茂る森の中に、広大な駐車場を持つ白亜の建物がある。アメリカ中央情報局(CIA)の本部である。映画や小説でもお馴染みの世界最強のスパイ組織だが、当然ながらその活動の実態は国家機密の厚いベールに覆われていて、その職員たちが実際にどんな活動をしているのかを外部の者が窺い知ることはできない。
 もっとも、どんなに隠そうとしても、情報の断片はふとしたはずみで流出することもある。こうした情報はいまやインターネットで、米議会報告書や民間インテリジェンス研究機関のレポート、あるいは欧米主要メディアの報道を丹念にフォローするとそれなりに入手することが可能で、筆者はもう15年近く、そうしたCIA情報を収集・分析して軍事情報誌を中心に発表してきた。
 そうして見えてきたCIAの近年の動向を簡単に述べると、次のようなものになる。
 冷戦時代、ソ連の強大な情報機関「KGB」(国家保安委員会)と壮絶なスパイ戦争をたたかってきたCIAは、90年代はじめの冷戦終結でその最大の〝敵〟を失い、迷走の時代に入った。とくに、クリントン政権時代には完全に干されてしまい、予算も要員数もおよそ3分の2程度にまで削減された。信じられないことに、CIA長官が大統領になかなか面会できないほど、政権内で軽んじられたのである。
 しかし、そんな逆境の時代にあっても、強化された部署があった。イスラム・テロ対策のセクションである。共産圏のスパイという敵を失ったCIAだったが、代わりにイスラム・テロリストという新たな敵な登場したのだ。
 CIAのイスラム・テロ対策セクションは、92年のニューヨーク貿易センタービル爆弾テロ事件で最初の強化が図られ、98年のケニア・タンザニア米国大使館爆破テロを機に大幅に拡充された。ちなみに、CIAが明確に国際テロ組織「アルカイダ」とその首領オサマ・ビンラディンを米国への脅威と位置づけたのは、その2年前の96年初めの頃である。
 いずれにせよ、その頃からCIAは本格的にビンラディン追跡工作を開始したが、そうしたなかで2001年1月にブッシュ新政権が発足し、同年9月にあの9・11テロに見舞われることになる。それから10年、CIAは総力を挙げてビンラディンとアルカイダ幹部を追跡したが、成果は出せなかった。対テロ戦争に邁進したこの10年間のアメリカ政府内で、CIAはそれなりに重要な役割を担ったが、やはりどうしてもその最大の標的を仕留められないということは、CIAにとっては大きな引け目になっていた。
 ビンラディンを見つけ出す――。これがこの10年のCIAにとって最大の課題だった。そのため、CIAでも選りすぐりの工作員や分析官が、ビンラディン追跡担当に配置された。
 したがって、今年5月1日のビンラディン殺害は、CIAにとってはその汚名を挽回する記念碑的な快挙だった。実行したのは米海軍の特殊部隊だったが、ビンラディンの居所を突き止め、急襲作戦の青写真を描いたのは、CIAのビンラディン追跡チームだった。
 世界中を驚かせたこの作戦に関しては、同日中にオバマ大統領自らがその大まかな経緯を公表したが、当然ながらその裏で動いたCIAの情報活動の詳細は秘匿された。
 しかし、アメリカ国民にとっても大きな関心事だったこの作戦については、アメリカの主要メディアが全力で追跡取材に動き、〝真の姿〟が徐々に明らかにされている。なかでも興味深いのが、7月5日にAP通信が配信した「ビンラディンを狩り出した男」という長文記事で、そこではビンラディン追跡で中心的な役割を果たしたCIA幹部分析官の詳細な経歴が紹介された。
 パキスタン紙なども含め、他にもさまざまなメディアが今もビンラディン急襲作戦の詳細に迫っている。そうした最新情報も参考にし、作戦から数ヶ月を経てようやく判明してきたCIAの秘密活動を振り返ってみたいと思う。

 5月1日午後1時22分(アメリカ東部時間)。CIA本部のカンファレンス・ルーム(会議室)――。
「これより海神の槍(ネプチューン・スピアー)作戦を発動する!」
 ビンラディン襲撃作戦をそう言って実際に命令したのは、レオン・パネッタCIA長官(当時)だった。その作戦 は、すでに4月29日朝にオバマ大統領のゴーサインが出ていたが、悪天候のために延期されていたのだ。
 もともと弁護士出身でクリントン政権の主席大統領補佐官でもあったパネッタは、民主党では予算編成や財政改革の専門家として知られていた人物で、オバマによって09年1月にCIA長官に任命されたものの、諜報活動や軍事作戦はほとんど素人だった。それでもこの作戦を彼が統括することになったのは、作戦場所が軍の活動域の外だったからだ。そのため、作戦に投入された軍の特殊部隊の隊員たちは、公式には一時的にCIA出向とされていた。
 パネッタの指令は、アフガニスタンのバグラム空軍基地で特殊部隊の指揮をとる統合特殊作戦コマンド司令官のウイリアム・マクレイブン海軍中将に伝えられ、待機していた79人の特殊部隊要員と1匹の軍用犬が直ちに出動準備に入った。同時にバックアップのために空軍の戦闘機や救難ヘリ、無人偵察機も動き出した。
 アフガニスタン時間の同日午後10時、CIAが軍の特殊部隊を統括する最重要オペレーションが、こうして始動した。標的は、パキスタンの首都イスラマバード郊外アボタバードの隠れ家に潜む国際テロ組織「アルカイダ」の首領オサマ・ビンラディンだった。
 2001年の9・11テロから10年、CIAが血眼で行方を追っていた〝お尋ね者〟の所在に繋がる情報の端緒が捕捉されたのは、昨年8月のことだ。それから8ヶ月以上もの極秘調査の末、ようやく襲撃作戦が実行に移されることになったのだ。
 その頃、オバマ大統領は何食わぬ顔でゴルフに興じていた。オバマがホワイトハウスに戻ったのは、米東部時間の午後3時過ぎ。シチュエーション・ルーム(作戦司令室)には、すでにゲーツ国防長官やクリントン国務長官ら主要閣僚と、国家安全保障問題担当の高官たちが集まっていた。CIAからは、ビンラディン追跡チームを率いた前出の分析官(当時の肩書きはアフガニスタン=パキスタン部副部長)が派遣されていた。
 オバマが到着した直後、アフガニスタン東部のジャララバード基地から、特殊部隊がヘリでパキスタンに侵入した。作戦の状況は、CIA本部のカンファレンス・ルームからの中継でパネッタ長官が説明した。
 同時に、シチュエーション・ルームのスクリーンには、アフガニスタンから越境出撃したRQ-170センチネル無人偵察機から衛星回線で送られてくる無音の空撮映像が映し出されていた。スクリーンの操作はホワイトハウスに派遣された統合特殊作戦コマンド司令官補佐官のマーシャル・ウェブ空軍准将が担当した。
 レーダーに映りづらい特殊作戦仕様の汎用ヘリ「ブラックホーク」2機に分乗した米海軍特殊部隊「シール・チーム6」のレッド・チーム隊員24名による急襲作戦が開始されたのは、それから約1時間後。パキスタン現地時間で午前1時過ぎのことだ。
 特殊部隊は12名ずつの2班に分かれてビンラディン邸に突入した。寝込みを襲われたビンラディン側の抵抗はわずかなもので、20分足らずのうちに邸内は制圧された。ビンラディン本人と彼の息子のひとりを含め、計5人が特殊部隊に射殺された。
 その後、米特殊部隊員はすばやく邸内を捜索し、パソコンのハードドライブやDVD、メモリースティック、文書類などを押収。ビンラディンの死体を回収して撤退した。突入から撤退まで、わずか38分間の鮮やかな電撃作戦だった。パネッタ長官からビンラディン殺害の報告を受けたオバマは、ようやくホッとした様子でこう漏らした。
「ウイ・ガット・ヒム!」(奴を仕留めたぞ)

 こうしてオサマ・ビンラディンは54年間の波乱の生涯を閉じたが、じつはCIAがビンラディン追跡に乗り出したのは、9・11テロより何年も前のことだ。CIAとビンラディンの水面下の攻防戦は15年間にも及ぶもので、9・11以前にも何度も襲撃作戦が試みられていたのである。
 そもそもCIAが反米活動家のひとりとしてビンラディンの存在を認識したのは、おそらく90年秋頃のことだ。その年8月にイラク軍がクウェートを占領して〝湾岸危機〟が勃発し、サウジアラビアが防衛のために米軍の駐留を認めたのだが、それにビンラディンは強く反発した。ビンラディンは80年代にアフガニスタンで反ソ闘争に参加したイスラム義勇兵のひとりだったが、このとき「米軍を撤退させ、代わりに元アフガン義勇兵同志軍を作って、王国を守るべき」との建白書を国王に提出している。
 これがサウジ政府に受け入れられなかったため、ビンラディンは91年にスーダンに移住して、そこで反米活動を開始する。とはいえ、当初はあまり目立つ存在ではなかったため、CIAもまださほど警戒はしていなかった。
 それよりも、90年代前半から半ばにかけて、アメリカは幾度も他のイスラム過激派によるテロの標的にされており、そちらの捜査に忙殺されていた。スーダンのビンラディンの活動が活発化し、CIAのテロ分析官の何人かが、ビンラディンとその国際テロ組織「アルカイダ」を危険視するようになるのは、94年から95年にかけての頃だ。
 CIAで秘密工作を担当する作戦本部(現・国家秘密工作本部)のテロ対策センターに、特命ユニット「ビンラディン追跡班」が発足したのは、96年1月である。といっても、当時のテロ対策センターはイスラエルのハマスやレバノンのヒズボラ、あるいは南米コロンビアの左翼ゲリラなどを主に追いかけていて、ビンラディン追跡班の要員もわずか十数名しか割り当てられなかった。
 しかも、ビンラディン追跡班には、自前で工作員をスーダンやアフガニスタンに派遣する権限は与えられなかった。ビンラディン追跡班はCIAのなかでも亜流とされ、もっぱら現地から送られてくる報告書と公刊資料をもとに、細々と情報分析するのが関の山だった。

 しかし、そんな間にもビンラディンのアルカイダは急速に成長をとげた。ビンラディンは96年5月にアフガニスタンにすると、その頃アフガン全土をほぼ手中に収めつつあったイスラム勢力「タリバン」の庇護を得て、国際的なイスラム・テロのネットワークの中心的存在となっていったのだ。
 ビンラディンは、イスラム世界を侵食している欧米キリスト教勢力、なかでもその盟主たるアメリカを最大の攻撃目標とした。もともとサウジアラビアの財閥の御曹子だったビンラディンには豊富な資金源があり、彼のもとには世界中のイスラム過激派が集まってきた。アルカイダは96年から97年にかけて、アメリカの最大の脅威に急浮上した。
 じつは、そんなビンラディンへの襲撃作戦を、CIAは早くも97年には計画していた。作戦本部が、アフガニタンの非タリバン系の軍閥を買収し、ビンラディンを拉致する作戦を立てたのだ。実際、その予行演習が米国内で2度にわたって実施されたのだが、肝心のビンラディンの所在がわからず、実行に移されなかった。
 拉致作戦が実現しなかった背景には、冒頭に書いたように、当時のCIAの海外作戦能力の著しい低下があった。しかし、そんなCIA側の都合には構わず、ビンラディンは対米闘争をさらに本格化させた。98年2月には、エジプトやパキスタンなどのイスラム過激派組織とともに、「ユダヤ・十字軍との聖戦のための世界イスラム戦線」なる名称の組織を旗揚げし、正式に対米ジハード(聖戦)を宣言した。
 これを受けて、アメリカ情報機関はビンラディンの動向把握に本格的に乗り出した。パキスタンやアフガニスタンに駐在するCIA工作員たちは、パキスタン軍の情報機関との連携を強化するとともに、地元のイスラム保守派や地元部族の買収を進めた。また、国防総省の通信傍受機関「国家安全保障局」(NSA)は、ビンラディンやアルカイダ幹部の衛星電話の盗聴を開始した。ビンラディンたちはまだ自分たちがアメリカ情報機関のターゲットになっていることに気づかず、一般のインマルサット電話を使用していたため、NSAはとくに現地に要員を派遣することもなく、衛星回線の傍受によってビンラディンの通話を難なく盗聴することができた。
 それでも、CIAはビンラディンの対米テロを事前に察知することができなかった。ビンラディンはすでに数年をかけて破壊工作員の海外潜伏を進めており、98年8月、本格的な対米ジハードの第1弾として、ケニアとタンザニアの米国大使館で爆弾テロを実行した。300人以上が殺害されるというきわめて大規模なテロだった。
 この連続テロが、アメリカとアルカイダの全面戦争の幕開けとなった。2週間後、アメリカはアラビア海に派遣した艦艇から、ビンラディン抹殺を狙ってアフガニスタンに計66発もの巡航ミサイルを発射したが、やはり正確な所在情報を掴んでいなかったために取り逃がした。この巡航ミサイル攻撃の3日前、米紙『ワシントンポスト』が、「米情報機関がビンラディンの衛星電話を傍受している」とのスクープ記事を掲載したため、ビンラディンが電話の使用を取りやめていたことが致命的だった。
 クリントン政権はビンラディンの捕捉もしくは抹殺を決意し、当時のジョージ・テネットCIA長官はアルカイダとの〝戦争〟を宣言した。アメリカの情報活動予算は減額傾向にあったが、CIAをはじめ各情報機関の対アルカイダ部門だけは強化された。
 CIAは98年以降も数度にわたってビンラディン襲撃作戦を計画したが、あるときは本人の所在情報がつかめず、またあるときは実行直前にパキスタンの軍事クーデターが起きて実行されなかった。クリントンは99~2001年、ビンラディン所在情報が入ったときに備え、密かに艦艇と特殊部隊をアラビア海に常駐させたが、やはり確証のある情報が入らなかった。
 2000年に、ホワイトハウスのテロ対策チームが中心になってビンラディン襲撃作戦が練られたが、アメリカの政権交代で一時凍結された。新大統領となったブッシュがそれを許可したのは、9・11直前の01年9月4日だった。
 こうしてアメリカ当局が手をこまねいているうちに、ビンラディンは9・11を実行した。

「あらゆる手段を講じても、ビンラディンを捕捉あるいは排除せよ!」
 ブッシュ大統領がCIAにそう命じたのは、9・11テロから6日後の01年9月17日のことだった。それまでアメリカ政府は軍事作戦以外の〝暗殺〟を公式に禁じてきたが、この大統領命令は事実上、それを解禁するものだった。
 CIAは組織を挙げてビンラディン追跡に乗り出したが、それを予想していたビンラデョンはすでに姿を消していた。9・11テロ直前まで、ビンラディンはアフガニスタンのカンダハル南部のタルナック農場と呼ばれる基地を本拠地としていたが、側近や護衛を引き連れて東部のパキスタン国境地帯に潜伏したのだ。
 CIAは特命チームをアフガンに送り、その行方を突き止めたが、米軍の猛烈な空爆に追い詰められたビンラディンは01年12月にパキスタンに逃走し、同国西部の部族地域に身を潜めた。
 CIAはアフガニスタンとパキスタンに外交官や軍人に偽装した200名以上の工作員を投入し、ビンラディンの行方を追ったが、以後、ビンラディンの消息はぷっつりと途絶えた。ビンラディン死亡説が何度も流れたが、本人はときおりビデオや音声による声明をインターネットで公表し、健在をアピールした。
 CIAはビンラディン追跡の態勢を大幅に強化した。テロ対策センターの陣容をそれまでの約400名からいっきに約1500名に増員。ビンラディン追跡班の他にも、アルカイダ幹部を専門に追跡する「重要標的班」を設置した。アフガン=パキスタン国境地帯でアルカイダ残党を捜索する無人機を運用するCIA準軍事部門も、約50名から約150名の3倍増となった。
 CIAの工作員たちは、地元のイスラム保守派人脈や部族有力者、パキスタン軍情報機関内部に協力者を獲得するなどの諜報活動を進めたが、断片的であやふやな情報しか集まらなかった。それよりも実際に有効だったのは、捕捉されたアルカイダ戦闘員への尋問や押収したパソコンのハードディスク解析、さらにNSAによる通信傍受活動だった。
 NSAははるか宇宙空間に配置された通信傍受衛星や、首都イスラマバードのアメリカ大使館、カラチやペシャワールの領事館の屋上に設置された電波傍受機器を使って、パキスタン国内の無線電話回線をモニタリングした。また、パキスタン軍情報機関に通信傍受機器を貸与し、アルカイダに近いと思われる監視対象の通信をピンポイントで傍受した。
 こうした諜報活動で浮上した怪しい監視対象は、CIA準軍事部門の要員が徹底的な背景調査を行い、ときにはパキスタン軍情報機関と協力して逮捕した。これらの活動により、04年頃までにCIAはアルカイダの全貌をほぼ解明した。
 どこかに雲隠れしていたビンラディンの所在については、電話やEメールをしないビンラディンが必ず使っているはずの連絡要員(レポ)を割り出すことに力点がおかれた。
 じつは、02年には早くもCIAは、ひとりの連絡要員の存在を掴んでいた。アブ・アフマド・アル・クウェイティというゲリラ名の男だったが、当時はCIAにも確証はなかった。しかし、複数の拘束者の尋問情報から、04年までにCIAはこの男こそがビンラディンの連絡要員であることを確信する。それ以降、CIAテロ対策センターのビンラディン追跡班は、この連絡要員の追跡に全力を挙げた。
 CIAは当初、クウェイティと仲間内で名乗っていたこの連絡要員の本名も知らなかったが、07年までには、パキスタンの部族地域出身のイビラヒム・サイード・アフマドという男であることを掴んだ。
 最初にアフマドを捕捉したのは、NSAだった。かねてアルカイダと関係が深いと思われていたパキスタン在住の人物の電話を盗聴していたなかで、その監視対象人物がアフマドと会話しているところを偶然捉えたのだ。昨年8月のことだった。
 その情報をもとにCIAの工作員が追跡調査を行い、同月、ついにアフマドの姿をペシャワールの街角で発見した。CIAの追跡チームは無人偵察機も投入してアフマドを徹底追尾し、彼が首都イスラマバードの北東約60キロにあるアバタバードの豪邸に入るところを確認した。
 その3階建ての豪邸は、見るからに怪しげな建物だった。周囲の家々の8倍以上はある敷地を4メートル以上の高い塀で囲み、入り口は2重ゲートになっていて、バルコニーすらも高さ2メートルの壁で外部から見えないように遮断されていた。どう見ても大金持ちの豪邸なのに、外部から電話線もインターネット回線も引かれていなかった。ゴミも周囲の家のように回収に出すことはなく、すべて敷地内で焼却していた。
 誰か重要人物が隠れ住んでいることは、まず間違いない……CIA工作員は本部のテロ対策センターにそう報告した。
 CIAは衛星写真の分析を担当する「国家地球空間情報局」(NGA)と、無人偵察機を運用するアフガニスタン駐留空軍に依頼し、当該の邸宅の偵察写真を集中的に撮影した。背の高い男性がときおり中庭に出てくることは確認できたが、それがビンラディンだとは確認できなかった。地元のエージェントを介して近所の家を借り上げ、常時監視態勢を敷いた。出入りする人間は徹底的に調査し、レーザーによる遠隔音声採録も試みた。
 子供と女性が多く住んでいることはわかったが、肝心のビンラディンの姿や声は確認できなかった。周囲の住民たちもこの家の人間とは一切交流がなく、主人の姿を見た者は皆無だった。CIAはパキスタン人医師を買収して偽のワクチン接種を偽装し、住人のDNAを採取しようとしたが、それも失敗に終わった。

 それでも数々の状況証拠から、そこがビンラディンの隠れ家である可能性は高いとCIAは判断し、オバマ大統領にも伝えられた。オバマはアフガニスタンからの米軍撤退やキューバのグアンタナモ収容所の閉鎖を公約したり、就任後に「核なき世界」宣言をしたりしていることから、世間では〝ハト派〟とも目されているが、実際には初めからアルカイダ殲滅を主張しており、CIAの活動もブッシュ前政権以上に鼓舞していた。そんなオバマの決断は、当然ながら「ビンラディンを必ず発見し、逮捕もしくは抹殺せよ」であった。
 今年1月、CIAから統合特殊作戦コマンドに共同の襲撃作戦参加が打診され、特殊部隊員が作戦立案のためにCIA本部に派遣された。オバマ政権がビンラディン襲撃作戦実行に向けて実際に動き出したのは、今年3月のことだ。CIAはそこにビンラディンがいる確率を、およそ60%と見積もっていた。
 微妙な数字だった。五分五分よりは高い可能性だが、かといって〝断定〟できる確率でもなかった。それでもオバマは3月14日に安全保障会議を召集し、襲撃作戦の検討を初めて公式に指示した。安保会議はその後、3月29日、4月12日、同19日にも召集された。3月29日の会議で、オバマは米特殊部隊単独の急襲作戦とすることを決めた。特殊部隊が、標的を知らされないままに訓練を開始した。
 作戦の準備は着々と進められたが、オバマは作戦発動命令のタイミングを計りかねていた。ビンラディンがそこにいるという確証がなかったことと、パキスタン軍の対応が心配だったのだ。
 そんなとき、ある事件が起きた。4月24日に内部告発サイト「ウィキリークス」がグアンタナモ収容所でのアルカイダ兵士たちに対する大量の尋問調書を公開したのだ。そこにはCIAがビンラディンの連絡要員について集中的に調査している様子が記されていた。CIAがすでに連絡要員を特定していることまでは言及されていなかったが、いずれにせよ、あまりぐずぐずしていると標的に逃げられる可能性もあった。
 4月28日、オバマは最後の安保会議を召集し、スタッフたちの最終的な意見を聞いた。翌29日午前8時20分、オバマはついに襲撃作戦決行をパネッタに命令した。

――特殊部隊が回収したビンラディンの死体は、そのままアフガニスタンのバグラム空軍基地に運び込まれ、詳しいDNA鑑定でビンラディン本人と確認された。ビンラディン殺害からおよそ7時間後のアメリカ東部時間午後11時35分、オバマは緊急のテレビ会見を開き、ビンラディンの死亡を全世界に発表した。
 ビンラディンの死体はすぐさまアラビア海の米空母「カールビンソン」に搬送され、そのまま水葬された。オバマ会見から2時間半後という早業だった。
 CIAはビンラディン邸から押収した資料を解析し、残されたアルカイダ幹部の追跡に取りかかった。6月3日には、部族地域に潜伏していた軍事部門のイリヤス・カシミリ司令官を無人機により爆殺した。
 他方、アルカイダ側は、6月16日にイスラム過激派系サイトに声明を発表し、新指導者にナンバー2だったアイマン・ザワヒリが就任したことを公表。今後も対米聖戦を続けることを宣言した。実際、パキスタンではビンラディン殺害への報復とするテロが頻発しており、アメリカ当局は警戒を強めている。ビンラディンが死んでも、CIAとアルカイダの戦いは今後も続くのだ。
 今年7月1日、ビンラディン急襲作戦を指揮したパネッタCIA長官は、格上の国防長官に〝栄転〟した。後任のCIA新長官には、今年9月にデービッド・ぺトレイアス前アフガニスタン駐留米軍司令官が就任することが内定している。CIAはますます米軍特殊部隊と一体化し、米軍撤退開始後のアフガニスタンやパキスタンで、対テロ戦争の一翼を担うことになる。
 CIAはもともと、第2次世界大戦時に米軍の秘密工作部門として設立されたOSS(戦略事務局)という情報機関を母体としている。冷戦時代の対KGB情報戦で、軍事とは一線を画したスパイ組織として発展したが、対テロ戦争のなかで〝先祖返り〟しつつあるということかもしれない。
(了)

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  1. 2011/07/29(金) 08:56:05|
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黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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