そんなに書くネタもないので、本日も古い写真で失礼します。私が戦場写真を撮り歩いていたのは主に88年から97年までなのですが、その中でももっとも個人的に思い入れの強い写真をアップしてみます。
▽ボスニア戦線

92年7月、ボスニア中部の街モスタル東方の高原地帯の前線(ポドベレッジという村の付近)です。この年は3月からボスニアは激しい内戦に突入していたのですが、私は同年6月から現地を取材しました。
ボスニア内戦は「セルビア人」「イスラム教徒」「クロアチア人」という3つの勢力が戦ったのですが、私はまずサラエボ南部のセルビア人支配地区でセルビア人部隊に、次いでサラエボ市内で篭城中のイスラム教徒部隊に従軍取材し、最後にモスタル近傍のクロアチア人部隊に従軍しました。で、この最後の従軍取材のときに、敵方のセルビア人部隊からものすごい大攻勢を受けました。私が従軍していた部隊は壊滅し、この写真の場所もこのすぐ後に敵に突破されました。
従軍取材というのは、攻めているほうにくっついているうちはいいのですが、負けているほうにいると悲惨なことになります。この写真も、たまたま撮れたわけではなく、もうどっちを向いても砲撃の雨状態になってました。戦場取材をしていればもちろん何度かは危険な目にも遭いましたが、マジで「こりゃ死ぬなー」と思ったのはこのときくらいです。
実際、このとき至近距離で着弾した迫撃砲の破片を腰(というかお尻)に喰らい、ケツから血がダダ漏れ状態になりました。この写真を撮ったときは、すでに被弾した後で、出血のせいか精神的ショックのせいかわかりませんが、手足がしびれてロクに歩けない状態になってました。そんな状態でフラフラ前進して写真を撮影するなんて、まともではないですね。
この後、私は他の負傷兵とともに車両に積まれ、ものすごい砲撃下をなんとか脱出することができましたが、ここで別れた多くの兵士がそのまま戦死しました。
戦死者だらけの修羅場のインサイドに入る経験でしたが、まあこういうとき、あまり人はいろんなことは考えないらしいということが少しわかりました。戦争の最中というのは、兵隊は最期の瞬間まで戦争のひとつの駒としてあたふた機械的に動くだけです。恐怖はありますが、敵が憎いとかそんな感覚はないです。言ってみれば大災害に遭ったときに似ているかもしれません。「ひえー、こりゃかなわんなあ」というようなちょっと引いた感覚ですね。もちろん人によってそれぞれではあるのでしょうが。
ああいう場所で負傷し、やがて身体の感覚がなくなってくると、ぼんやりとした頭で「こりゃダメかもなあ」なんて、なんとなくあきらめの心境になります。このあたりは、たとえば交通事故の被害者とかでも同じかもしれませんが、よくわかりません。
モスタルはその後、某テレビ局の取材で95年にも行きました。まだ戦争中でしたが、だいぶ静かになってました。その取材では本当はサラエボに入る予定だったのですが、局の上層部が「サラエボは危険なようなので、他の街にすべし」と判断しました。モスタルがサラエボと同等の危険度だと知らなかったようです。
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- 2009/05/24(日) 21:34:49|
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