数日前、PFLP-GCについて言及したので、パレスチナ・ゲリラについて個人的な見聞を補足します。
28年前のダマスカスでの初難民キャンプ訪問時、アル・ヤルムークで話を聞いたのは、「ファタハ」の反主流派の人々でした。パレスチナやレバノンでは、似たような紛らわしい組織名が林立していることもあり、しばしば正式な組織名がよりも「親分の名前」で呼ばれています。
それで、アル・ヤルムークを当時仕切っていたのが、アブ・ムーサ派。ファタハから主流派のアラファト派をシリア政府と一緒になって追い出したグループです。後に「ファタハ・インティファーダ(蜂起派)」と名乗りますが、あまりその呼称は浸透しませんでした。
アブ・ムーサ派の人々はそのとき、もっぱらアラファト批判をずっと話してくれました。当時、漠然と「アラファトはパレスチナ人の英雄なのだろう」と想像していたので、ちょっと新鮮な驚きでした。
もっとも、今考えれば、彼らはシリア工作機関の配下だったので、彼らはシリア工作機関の代弁しかできないポジションにいました。シリア工作機関は彼らにとっては何よりも恐ろしいものですから、それはしかたないのことです。ですが、当時の私はそんな事情はまったく理解できず、「そうかー、アラファトってそんな悪い奴なのかー」などと漠然と感じていた記憶があります。
その後、何度かパレスチナでガザや西岸地区を訪れましたが、90年代以降でいえば、やはりガザではハマス、西岸ではファタハに会うことが多かったですね。といいますか、私はその2大組織の取材ばかりしていたので、自然にそうなってしまったということですが。
他の諸派の存在は、それよりもレバノンでよく見聞しました。
たとえば、20年来の旧友が住んでいたシャティーラ難民キャンプを訪問した際、旧友の家族・ご近所さんや友人たちが大勢集まって、珍しい東洋人の珍客を歓待してくれたのですが、そこで会った男たちが普通にこんなことを言うのです。
「俺はファタハ」
「あ、俺はPFLP」
「えーと、俺は今、何だったかな? あ、たしかDFLPだ」
「俺は昔はアラファトのとこにいたんだけど、その後、アブ・ムーサ派に行って、今はハマス」
「そうなの? 俺はPFLPからアブ・ニダル派に行って、その後、ジブリル派(PFLP-GC)にいるよ」
彼らは普段は軍事訓練はおろか、組織活動はほとんどやっていないので、本人たちにもあまり自覚がないのですが、多くの男たちがどこかの組織に籍を置いていて、しかも結構気まぐれにあちこち転籍していました。
しかも、たまたま遊びに来た外国人に、世間話のようにあけすけに語ります。私は、こうした組織は鉄の掟があって、しかも互いに激しく対立しているものとの先入観があったのですが、末端はもっとずっといい加減なもの(悪い意味ではなくて)なのだと知りました。もちろんそれがすべてではないでしょうが、パレスチナ・ゲリラ組織の一断面には違いありません。
もっとも、中には何人か、「なんで外国人ジャーナリストがいるんだよ? スパイじゃねえのか?」といった猜疑心をあらわにしている人もいました。過去に何かやらかしたのかもしれませんが、もちろんそんなことは話してはくれませんでした。
その後の取材で、レバノンでも難民居住地によって各組織の勢力関係が違うことも知りましたが、シャティーラほど大きな難民キャンプになると、要するにほぼすべての組織が入り込んでいたということです。
余談ですが、シャティーラ難民キャンプでは、外国人の住人にも何人も会いました。ロシア人女性です。キャンプの若者たちがロシア留学した際に知りあって結婚した嫁さんたちです。
パレスチナ難民には、海外経験者が非常にたくさんいます。出稼ぎ経験者も多いですし、留学経験者もそこそこいます。親族の誰かが、湾岸産油国、ヨーロッパ、ロシア、アメリカに住んでいるという例はたくさんあります。べつに組織のルートで渡航するのではなく、基本的には親族・友人のコネです。
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- 2012/11/05(月) 10:42:41|
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