27日アップでユーチューブに、ホムスで取材中の日本人カメラマンの映像が出ました。
▽ホムスに日本人カメラマン デモ隊を取材中の恰幅のいい東洋人のスチール・カメラマンが映っています。これだけで日本人とは断定できませんが、投稿者のタイトルには「日本人ジャーナリスト」と書かれています。
見た感じ「あの人では?」というのはあるのですが、まだ国内にいらっしゃると思うので、念のためここではお名前は出さないでおきます。
いずれにせよ、これは日本人ジャーナリストとしては快挙といっていいと思います。欧米のジャーナリストはレバノンから越境潜入するルートがどうやら出来ていることは私も聞いていたのですが、一目で外国人だとバレバレの東洋人では、危険すぎて無理だろうと思っていました。シリア当局に露呈した場合、タダではすまないわけで、よほど周到に準備しての潜入と思われます。
スチール写真主体であれば『SAPIO』あたりでしょうか。この方のレポートが、日本のメディアでも大きく報じられることを願っています。
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2011/12/29(木) 19:47:23 |
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昨夜、TV各局で原発関連の特集をいろいろやっていました。それぞれ面白かったですが、中でもいちばん面白く、そして残念だったのが、ビートたけしさんの特番でした。危険派・安全派双方の医療・放射線災害の専門家が参加していて、大激論。なかなかそういう機会がないだけに、興味深く拝見していたのですが、ゲストが多く、他の内容も詰め込みすぎで、結果的に議論が深まらずに終わりました。
原発の是非とかもべつにいいのですが、いま国民がいちばん知るべきは、放射線リスク評価の問題ではないかと思っています。
なので、政治家とか評論家とか芸能人とか経営コンサルタントとか原子力工学の専門家とか要りません。せっかく危険派・安全派双方の医療・放射線災害の専門家がいるのですから、彼らだけの激論をぶっ通しで聞きたかったです。
(現状、なぜか原子力工学系の専門家に発言者が多いですが、医療・放射線対策は彼らは専門ではないですね。「専門家」という言葉だけ独り歩きして弊害を呼んでいるケースが多い気がします)
私自身もこの分野は専門外ですが、多少は情報分析をかじっているので、むしろ私の現時点の分析(安全派)と反する危険派の医療・放射線災害の専門家の主張の根拠をもっと知りたかったですね。医療・放射線専門家だけ10人くらいで4時間くらいやって欲しいものです。結構、国民はみな真剣に見るのではないでしょうか。
被曝問題で今後起きることを予想してみます。
まず、医学の発達によってさまざまな疾病での死去の確率が低下した現代では、多くの人がいずれは発ガンします。その要因は多種多様なものであり、子供の甲状腺ガンなどの典型例以外では、ほとんどケースで、被曝由来とは証明できないでしょう。
しかし、今後、危険派によって、自然発生のガンでも「被曝のせいだ!」と騒がれる例が、日本でも出てくることが予想されます。本当に被曝のせいだったらしかたありませんが、積算線量からそうでない可能性のほうがずっと高いのに、自説補強のためにガン患者を利用するようなことは謹んでいただきたいものです。
また、これに関しては補償問題でもモメそうです。
ただ、いずれにせよ被曝によるガンと証明されるケースはまず起きない可能性が高いと思います。ガン急増ということもおそらくないでしょう。
こう判断するのは、今の低線量被曝レベルが、ガン発生レベルになっていないからです。それでも心配なのは、極めて低い線量被曝の影響がまだよくわかっておらず、もしかしたらガン誘引するかもしれないという恐れが払拭できないからです。これは、確率的には「発ガンしない」がずっと高いことを意味します。
今後、2012年も2013年も2014年も2015年も被曝由来のガン患者がひとりも発生しないとなれば、それは本来、喜ばしいことで、あのBSE騒動のように「あれは何だったんだろね?」という雰囲気になっていくのではないかなと思います。
ですが、放射線騒動は、われわれ一般の国民の間にも広く深い傷を残していますから、単なる笑い話では済みませんね。今回の放射線騒動の特徴は、ベターな選択を探るための建設的な議論ではなく、互いに相手への誹謗中傷合戦になっていることです。テレビのコメンテーターの方々をみても、専門外の人ほどそういう傾向に見えます。何か糾弾するのが偉いみたいな感覚がメディア現場にはありますが、そういうことだけでもいけないのではないかなと思います。
2011/12/29(木) 15:31:42 |
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昨日、TBS「ひるおび」にVTRコメント出演させていただきました。金正恩の伝説づくりに関して解説しました。
金正恩については、2008年8月に脳卒中で倒れた金正日が、なんとか持ち直した直後の、おそらく同年10月頃に、張成沢(その間、実質的に権力代行していました)に正恩世襲の意思を伝えていたと思われます。張成沢はもともとは長男・正男の後見人的立場でしたが、金正日の命令は絶対ですから、正恩の後見人にスイッチしたようです。
軍のほうは、2009年2月に張成沢と近い李英鎬を総参謀長に抜擢。上層部の人事も、李英鎬を中心とした正恩シフトに変えていきます。
正恩のレジェンドですが、最初は荒唐無稽な話というよりは、軍を掌握するために「軍事の天才」ということが、非公式に軍・政権上層部に喧伝されました。
で、金正恩は2010年に初めて公式に登場し、党中央軍事委員会副委員長になるわけですが(前日に急に大将にもなってます))、金正日はこの委員会を正恩世襲シフトの中核とします。同委員会は全19人。委員長は金正日、副委員長に金正恩と李英鎬、以下16人の委員。李英鎬含めてこの17人こそ、いわば「チーム金正恩」として、父・正日によって任命された面々といえます。
彼らはとにかく金正恩「軍事の天才」レジェンドを作っていかなければならないわけですが、それにはとにかく実績が必要です。なんでもいいから実績を作り、将軍一同が「金正恩同志の卓越した指導力に感嘆」しなければなりません。
ところが、ちょうどその頃は、同年3月の韓国哨戒艦撃沈から始まった米韓軍の報復演習が続いていて、このまま放置すると、若き「軍事の天才」のメンツが立たない状況に追い込まれていました。そこで綿密な計画のもとに実行されたのが同年11月の延坪島砲撃でした。もともと金正恩は、軍事のなかでも「砲撃の天才」と喧伝していたことも背景にあります。
父・正日の作った正恩シフトのとおり、今後も党中央軍事委員会はチーム金正恩として、軍を取り仕切り、正恩を支え続けることになるかと思います。
他方、国内の一般国民に向けて、これから正恩個人の超人的なレジェンドを創作する役目を負うのは、党書記局の宣伝扇動部というセクションです。葬列の上位に参加していた金己男という古株の幹部が担当書記ですが、なにぶん80代の高齢であるうえ、党務はいまや張成沢がかなり実務面を取り仕切っているので、おそらく張成沢が実質的な各企画の最終決定権を持っているのではないかと私は推測しています。
ということで、今後は党宣伝扇動部が正恩レジェンドを創作していきます。これは彼らの職務であり、より大衆アピール度の高い創作をした幹部が出世しますから、これから部内では創作競争が始まるでしょう。
ただ、祖父や父親の時代は、抗日戦争や朝鮮戦争がありましたから、いくらでも戦歴を偽造することが可能でした。それに比べると、28歳の正恩では、世代的にそういった背景がありません。せいぜいテロとか拉致とかですが、それらを正恩の実績とはできません。
なので、おそらく「子供の頃から天才だった」「父・正日も舌を巻いた」というような話がメインになるでしょう。年齢からすれば、あとはおそらく「コンピューターの天才」ということも言い出しますね。すでに携帯電話普及などは金正恩の実績と喧伝されています。経済政策も、中国の援助あたりで行われたことも、すべて成果は金正恩の天才的指導とされます。汚職撲滅に関しても、すでに正恩が特命チーム「暴風軍団」を作って動いたことがありますが、とにかく少しでも成果あれば、正恩の「天才的な指導」によるものと喧伝されます。先人に比べると地味ですが、そうした実績アピール中心の伝説作りということになっていくでしょう。
(追記)
告別式で霊柩車に並んで歩いた8人が、現時点の権力中枢とみられています。朝鮮労働党機関紙「労働新聞」のサイトでも「金正恩時代を率いる党・軍主要人物」と説明されたということです。
この8人は、党幹部が序列順に金正恩、張成沢、金己男、それに崔泰福・最高人民会議議長(国際担当党書記)。軍人が李英鎬、金永春・人民武力部長、金正覚・軍総政治局第1副局長、禹東則・国家安全保衛部第1副部長です。
このうち、金己男と崔泰福はともに80代の党長老で、もうあまり政治の中枢でバリバリ働く年齢ではありません。いわば長老代表で、会社でいえば「最高顧問」みたいなものですね。張成沢はさしずめ3代目若社長に仕える創業家の入り婿の副社長といったところでしょう。
また、人民武力部長の金永春は軍部の名目トップではありますが、総参謀長の後ろを歩いていたことからもわかるように、こちらも実力トップではなく、名目上のトップにすぎません。会社でいえば名誉会長みたいなものでしょうか。軍部を仕切るのは李英鎬(会社でいえば専務取締役兼経営戦略本部長みたいな感じ)だということが、この並びではっきり示されています。
金正覚と禹東則はコワモテ代表ですね。金正覚は軍の思想統制部門のボス、禹東則は拙ブログ常連ですが、秘密警察のボスですね。会社でいえば取締役人事本部長、あるいは実力派の社長室長みたいなものでしょうか。
これでわかるのは、金正恩体制は大方の予想通りに、張成沢=李英鎬で仕切っていくということです。それで言うことを聞かんヤツは金正覚と禹東則が始末するぞ!ということですね。
2011/12/29(木) 11:46:21 |
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本日発売の『週刊朝日』に、「金正恩体制占う敵味方3人の重鎮」という記事を寄稿させていただきました。3人といっても、オモテ舞台の張成沢・金敬姫夫妻&李英鎬総参謀長はどのメディアも大々的に報じていて面白くないので、こちらでは「影の実力者」ということで、禹東測・国家安全保衛部第1副部長、呉克烈・国防委員会副委員長、金格植・前第4軍団長(元総参謀長)の3人を採り上げました。
立ち位置としては、禹東測は金正恩の後ろ盾のひとりで、張成沢系。呉克烈は反正恩ということではないですが、長男・正男に近く、軍部内の張成沢・李英鎬系とも距離を置いています。金格植はおそらく軍部内の李英鎬系とは確執があります。この先、権力闘争のような局面になってきた場合、この3人はその言動によっては、趨勢に影響力を持つ可能性があります。同記事ではその背景を少し掘り下げています。
『週刊朝日』ではその他にも、今年の人物ワイド特集中、「私生活まで丸裸 アサンジの不覚」と「カダフィの7人息子その後」の2本を担当させていただきました。
ウィキリークスのジュリアン・アサンジさん。その唯我独尊の性格が災いし、正義のヒーローからヒールに急速落下。アサンジ氏にも落ち度はありますが、あちらのリベラル系メディアも「持ち上げて、落とす」節操のなさはちょっと怖いくらいです。情報公開を掲げていたら、自身が丸裸にされるという皮肉な展開になっていますね。
ちなみに、紙数の関係で同記事では触れませんでしたが、スウェーデンで訴えられていたレイプ容疑のその後の展開はどうなっているか?というと、滞在中(逮捕・保釈中)の英司法当局は11月にスウェーデンへの移送を認める決定を下しましたが、アサンジ氏は英最高裁へ上告。12月5日、上告が認められて、首の皮一枚でなんとか踏みとどまっています。
ただし、年明けに再び審議が開始され、またまた移送が認められる公算も大。その場合、スウェーデンからさらにアメリカに移送されて重罪に問われる可能性が浮上します。
リビアのカダフィの7人の息子は、結局、4人が生き残りました。注目はカダフィの後継者だった次男セイフイスラム。11月にようやく捕まりましたが、いまだ地方司令官の手の内に。命乞いしつつ新年を迎えることになります。
他方、シリアでは、アラブ連盟の監視団が到着してなお、予想どおり虐殺進行中。早く国連安保理でやらないとダメですね。
ちなみに、昨日久々に拙ブログのアクセス解析をみてみたら、じつは今月8日まではシリア国内から連日複数件のユニーク・アクセスがあったのですが、それがプツリと途絶えていました。日本語ブログですから、おそらく大使館員の方か在住日本人の方が覗いてくださっていたものと思いますが、シリア当局のアクセス拒否措置がとられた可能性があります(地域によっては一時的にネット接続がしづらくなっているということもあるようですが、それにしてはちょっと期間が長いですね)。
東洋の端っこの、こんな木っ端ブログなんて、まったく気にする必要はないと思うのですが・・・。まあ、そうだとすればむしろ光栄なことです(皮肉)。
(追記)
シリア国内から拙ブログにアクセスできることが確認できました。とんだ自意識過剰で失礼しました。
ですが、なぜか接続地域のアクセス解析でシリアがヒットしません。理由はよくわかりません。
2011/12/27(火) 11:32:57 |
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テレビの特別番組で震災特集をいくつか拝見しました。奇跡の生還を果たした人の物語など、感動的なものがいくつもありました。本当に良かったと思いますし、思わずもらい泣きもしました。
すべてではないでしょうが、番組制作者のなかに、希望を見つけようという意思があったものと思います。それはとても大事なことだと、私も思います。
ただひとつ感じたのは、そうした感動的な物語だけでなく、実際には2万もの哀しい物語があったことを忘れてはいけないということでした。何かの雑誌で最近読んだ記事のなかに、ある人が一組の母子の遺体を発見したエピソードがありました。その若い母親と幼い子供の遺体は固く結ばれていて、しかも子供の背中に空のペットボトルが押し込まれていたそうです。
2万人もの人間が一瞬で命を落としたこと。私自身はこの年末、そのことをもっと噛みしめたいと思いました。
私自身は、今はニュース報道の仕事をしていないので、現場を体験したわけではありません。阪神地震のときはテレビで仕事をしていたので、当日中に現場に入りました。人の理不尽な死は、いつだって心を激しく揺さぶるものだと思います。
震災とは関係ありませんが、ちょうど人の生死について考えたこの機会に、私自身が見た地獄のような光景について、以下、過去に書いた文章をもとに再録してみます。戦場レポート第3弾ですが、今回はかなりブルーな話になります。長文ですが、悪しからず。
※以下「1992年 ソマリア取材記」
当時、内戦で国家が破綻したソマリアに入るには、隣国ケニアの首都ナイロビから、国連児童基金(ユニセフ)のチャーター機に便乗するしか方法がなかった。ただし、部外者に融通される席はそれほどないから、僕はナイロビで1週間待つことになった。
その1週間を利用して、僕はインド洋に面したモンバサのビーチ・リゾートを訪れた。その頃の僕は、戦場ばかりを旅していたというのに、カバンの奥に水中眼鏡とシュノーケルだけは忘れたことがない。世界中の戦場で悲惨な人々を写真に収めながら、僕は同時に世界中のリゾートも回っていた。
快適なコテージで浴びるほどビールを飲む日々を送った後、僕はソマリアに向かった。最初は、僕にとって普段どおりの戦場への旅だった。
しかし、ソマリアの首都モガディシオの空港に降り立ったとき、僕はなんともいやな気分になった。手ぐすね引いて待ち構えていた武装民兵たちの表情が、それほど人を不安にさせる“殺伐さ”に満ち満ちていたからだ。
その頃、すでにソマリアには“政府”というものがなかった。全土が戦国時代のような状況で、首都空港は当時の最大派閥が押さえていた。
「わざわざ人質になりに来たようなものだね、これは」
“入国税”と称する上納金を盗賊民兵に支払いながら、同行していたヨーロッパ委員会の視察員がそう言って苦笑した。
無秩序な場所ほど資本主義の原則が守られているのは、皮肉なことだ。すべてはカネ。現金オンリー。僕も小額ドル紙幣を数枚ポケットから取り出して、二コリともしない兵士に手渡した。
空港には護衛兵士付きのユニセフの車両が待っており、それに乗り込んで市内に向かった。車窓から覗く沿道の風景は、ますます僕を不安にさせた。自動小銃を抱えて徒党を組んでいる十代の少年たち。荷台に機関銃を据えつけて走りまわるピックアップ・トラック。そして、絶え間なく鳴り響く銃声……。
モガディシオを訪れるのは初めてだったが、僕は漠然としたデジャ・ヴを感じていた。これはどこかで見た光景だな。どこだったかな? しばらく考えて、はたと思いあたった。そうだ、『マッド・マックス/サンダードーム』の世界だ!
ソマリアは戦場というより“無法地帯”という表現のほうが、まさにぴったりの土地だった。
1992年8月、世界はようやくソマリアの内戦に目を向けつつあった。そこで空前絶後の飢餓地獄が発生していることが、徐々に判明してきたからである。
ちょうどその頃、僕は『週刊現代』のグラビア・ぺージで、冷戦終結後に世界各地で発生していた民族紛争の現場を連続ルポするという企画の取材を行っていた。アパルトヘイト末期の南アフリカで激化していた黒人同士の部族抗争の取材をした後、僕はソマリア取材に入ったのだった。
外電は国連情報として「ソマリアでは毎日2000人が餓死している」と伝えていた。だが、その数字の意味するところが、入国したばかりの僕にはまだよくわからなかった。
「おい、オマエ。誰に断って写真なんか撮ってるんだ!」
訛りのきつい英語とともに、ふいに誰かに腕を強くつかまれた。振り返ると、サングラスをかけたガラの悪い男が立っている。手にはAK-47自動小銃が握られ、5人の手下を引き連れていた。
「ふざんけるんじゃねえ! 殺されたくなかったら、そのカメラをよこしな」
典型的なチンピラ民兵による強盗行為だった。
ユニセフ事務所の門の前で、付近の撮影を行っていた僕は、あっという間に囲まれると、民兵たちにもみくちゃにされた。ひとりがカメラ・バッグを引っ張ろうとしたが、僕はとっさにそれを抱え込む。大声で助けを求めたが、目の前にいるユニセフの警備兵も、怖がってただオロオロするばかりだった。
「オマエ、そんなに死にたいのか!」
民兵たちの“興奮”が急速にたかまってきたことがわかった。このままでは危ない……。僕は意を決すると、彼らの手を振りほどき、いっきに敷地内に駆け込んだ。瞬間、彼らの何人かが銃を構えるのが視界に入ったが、発砲はされなかった。
ユニセフ事務所の構内に逃げ込み、僕は大きく息を叶いた。危ないところだった。やはりちゃんとした護衛なしに行動するのは、この国ではムリだったのだ……。
だが、騒ぎはそれで終わらなかった。
「待てよ、この野郎!」
背中に冷たいものがはしった。武装民兵たちは、なんと僕を追ってユニセフ敷地内まで侵入してきたのである。
僕はあわててカメラバッグを抱え直すと、急いで建物内に駆け込み、ドアを閉めてカギをかけた。はずみで、入口にいた太った白人の女性にぶつかり、彼女のバッグを弾き飛ばしてしまった。
オバサン特有のヒステリックな声で叫びたてる彼女を、とにかくドア際から離して奥に引っ張っていく。どこかの国の視察員らしきこのオバサンは、数分前の僕と同じく“ソマリアにいる”ということの本当の意味をわかっていないのだ。
「出て来い、ぶっ殺すぞ!」
激昂した民兵たちがどんどんとドアを叩く。非常にまずい状況だった。そこを破られたら僕に逃げ場はない。
ユニセフの代表者に事情を説明し、仲裁に入ってもらった。結局、フィルムを引き渡すということで話がついた。しぶしぶ未使用のフィルムを差し出す僕に、ユニセフの代表がため息まじりに言った。
「気をつけてくれよ。ここは君がこれまで見てきたような“まともな戦場”じゃないんだからね」
こうして早々と無法地帯の洗礼を受けてしまった僕は、それからは護衛のガンマン・チームを雇って取材するようにした。
ソマリアでは当時、国際メディアの取材班も国連機関も、民間の援助団体もすべての外国人は、必ずプライベートのボディガードを雇っていた。戦闘車両に普通は4~5人のガンマンを連れて行動する。少人数の野盗ならこれで撃退できるが、武装集団の待ち伏せ攻撃に遭ったらひとたまりもなく、後は天に祈るしかない。
また、護衛そのものも民兵たちのアルバイトだから、彼らがそのまま強盗に早変わりするケースもある。ドイツのTVチームなどがすでにその被害に遭っていた。被害に遭うか遭わないかは、最終的には“運”でしかなかった。
僕がパートナーに選んだのは、ムハマドという男だった。地元民兵の小ボスだったが、それまで国連関係者や外国人記者の護衛を務めた実績があり、ガラは悪いが話してみるとなかなか面白い男だった。
ムハマドは地元で「テクニカル」と呼ばれている武装ピックアップ・トラックを調達してきた。通訳を兼ねるムハマドとドライバー、それにガンマン3人という陣容で『マッド・マックス』の世界に繰り出すことになった。
「けど、彼らで本当に大丈夫なのかい?」
僕はムハマドに念を押した。荷台の機関銃を担当する射手はどうみても15歳くらいだったし、おまけにガンマンのひとりは「チャット」という覚醒草の中毒でブッ飛んでおり、ときおり奇声を発しながら自動小銃を乱射するというクセがあったのだ。
「心配するなって。機関銃付きのテクニカルがあればまず大丈夫さ。それに、多少アブなそうなガンマンのほうが、襲撃者だってビビるってなもんだ」
ムハマドはそう言って、片目をつぶってみせた。
「ボスに話を通しておけ」と彼が言うので、とりあえず最大派閥であるアイディード将軍派の本部を訪れ、報道官と自称する幹部に面会した。いちおう政治的なテーマでインタビューしたが、あまり意味のない内容だった。だが、とにかく顔役へ挨拶しておくことは、拉致されたときなどに少しは役立つかもしれないのだ。
その後、市内の難民キャンプをまわった。さすがに首都だけあって飢餓地獄といった感じではなかったが、木切れの支柱にビニールを乗せただけの粗末な手製テントに身を寄せていた人々の様は、とても人間の暮らしと呼べるものではなかった。
当初、難民たちは僕になかなか話をしようとはしなかった。それはそうだろう。僕はチャットを噛んだブッ飛びガンマンを引きつれていたのだ。時間をかけて接し、ゆっくりと聞き出していくしかなかった。
「食べ物はどうやっているんですか?」
長老格と思われる男に尋ねた。
「ここには外国の援助があるから助かっています」
男は緊張した声で答えた。僕よりも、通訳をしているムハマドのことを恐れているようだった。
「おい、もう少しやさしい顔しろよ」
ムハマドに小声で言った。彼はちょっとムッとした顔をしたが、すぐにわざとらしく大げさな作り笑顔をしてみせた。
「でも、ここの問題は食べ物のことじゃないんです」
長老格の男は、ポツリポツリと話しはじめた。
「若い民兵たちが頻繁に襲ってくるんです。彼らは、貧しい私らから略奪するわけではありません。女を強姦したり、面白半分に男を殺したりするんです。
けれども、武器を持っていない私たちは、黙って連中の慰みものになるしかありません。あいつらは動物以下です」
気が滅入る話だった。“無法地帯”の本当の意味が少しわかったような気がした。そこでは、武器を持つ者は万能の神で、持たない者は奴隷以下の存在なのだ。神の気晴らしとして行われる殺毅に、きっと意味などはないのだ。
「なんで民兵はそんなことするんだろう?」
帰り道、ムハマドに訊いてみた。彼だって、そんな民兵のひとりなのだ。
「知らねえよ」
ふいに顔をこちらに向ける。
「でもな、俺はそんなことはしねえよ。本当だとも」
そんなムハマドも、さすがにウッと捻って顔をそむける場所があった。モガディシオ最大のディグファー病院。後に米軍とアイディード軍との蛾烈な戦闘の主舞台となる場所である。
白い建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、なんともいえない嫌な臭気が鼻をついた。糞尿の臭いと血の臭いの入り混じったような、ぞっとする悪臭だった。
廊下を歩いていくと、その臭いの正体がわかった。床に転がっている末期重傷者や、忘れられて放置された死者たちから漂っている“死臭”だ。
病室をひとつひとつ覗くうち、いつもは軽口の絶えない僕たちも、次第に無口になっていった。戦争なのだから、病人や重傷者が出ることはわかる。だが、彼らの置かれた状況の、なんと凄まじいことだろう。
「結局ですね、彼らはほとんど助からないのですよ」
案内をしてくれていた病院職員が、いかにも疲れきった表情でそう語った。
「ここに運ばれてきた人は、とりあえずは傷の手当てを受けます。けど、あまりにも多くの負傷者が運び込まれるので、我々もその後の世話まではできないのです。瀕死の重傷者が自分で食べ物を調達できると思いますか? 私らがやっていることは、単に死を先延ばしにしているだけに過ぎないのかも知れません」
ここでは、家族が患者の世話をするなどということは、むしろ例外だった。たいていの人は、冷たいコンクリートの上で、水のような便を垂れ流しながら静かにそのときを待つ。息を引き取ると、薄い布切れが被せられる。
死体となった人間は汚物としてしばらく放置され、まとめて捨てられる。死んだのは誰なのか? どのように生きたのか? そんなことを気にする人間は、そこにはひとりもいなかった。
ある部屋から、苦しげなうめき声が聞こえてきた。なかを覗くと、手術の真っ最中だった。被弾した男の腹を開いて、白人のドクターが汗だくになって弾丸摘出を行っている。
いかにも不潔そうな台の上に、男の臓器が無造作に置かれていた。血のりの臭いに吐きそうになりながら写真を撮ると、それに気づいたドクターが、ちらりをこちらを振り返って叫んだ。
「薬がないんだよ、薬が!」
比較的軽傷の患者たちから話を聞いた。驚いたことに、戦闘に巻き込まれて負傷した人は、ごくわずかだった。ほとんどの犠牲者が、武装民兵の気まぐれによって一方的に撃たれた人たちだった。
そんななかには、幼児も少なくなかった。僕は思わずつぶやいていた。
「子どもを撃って何が楽しいんだろう?」
皮肉ではない。本当に僕にはそのことが不思議だったのだ。
しかし、それはまぎれもなく、このアフリカの片隅で、人間が実際に行っていることだった。
それにしても、これほど殺伐としたところが他にあるだろうか。それまで僕が歩いてきた“戦場”には、少なくとも人間社会の臭いがした。ここにはそれがない。
夜になると、ジャーナリストたちはユニセフの宿舎に寝泊りする。夕食後のひとときは雑談の時間になるが、その少し前に訪れていたボスニアの首都サラエボなどに比べると、ずっと寂しい。30人ほどの記者がいたが、中東や南アフリカを拠点にしている記者が多かった。どんなに悲惨な現実を取材した後でも、宿舎に帰れば豪勢な食事があった。
夜間もずっと、遠くで散発的な銃声が聞こえていた。だが、僕たちは取材に出ることもできない。施設の外は無法武装集団が支配する世界だった。安全地帯はどこにもない。何が起きても、自力での脱出が不可能だった。
一般のソマリア人と話す機会はあまりなかったが、僕はユニセフ宿舎の警備兵たちとしばしば話し込んだ。
「俺たちはこうして職にありつけただけ幸運さ。だけど他の連中はどうしていると思う? みんな略奪で食ってるんだぜ」
彼らの、自分以外の者への不信感は徹底している。
「あの銃声は戦闘じゃなくて、ケンカか略奪だよ。銃を持っている奴はみんな、ろくでなしだからな。まったくひどい連中なんだ」
モガディシオの夜はどこまでも暗かった。遠くで、近くで、乾いた銃声が鳴り続いていた。難民キャンプや病院などで見た地獄のような光景が脳裏をちらついて、僕はなかなか寝つけなかった。
ある日、ユニセフの職員が「グリーンライン」を越えるというので同行することにした。
当時、モガディシオは武装勢力2派によって分断されており、境界線を越えるには国連か赤十字の関係者に同行するしか方法がなかった。中立的な国際組織だけが、軍事境界線に一力所だけ設置されたポイントを抜けることを両軍に了解されていたからだ。そして、モガディシオでもっとも危険な“最前線”である軍事境界線は、レバノン内戦時のべイルートにならって「グリーンライン」と呼ばれていたのである。
ユニセフのランドクルーザーは早朝、事務所を出発した。外国人記者としては、僕のほかにも『ニューズウイーク』のカメラマンがいた。ピーターというそのカメラマンは、一見飄々とした雰囲気を漂わせていたが、当時から世界トップクラスの報道カメラマンとして業界では有名な人物だった。
グリーンライン越えは、ちょっとした緊張の場面となった。幅300メートルほどの緩衝地帯の両側では、両軍のロケット砲が睨み合っており、いつ戦闘が始まってもおかしくない状況だったからだ。
最前線に到着したところで、“向こう側”のユニセフ職員と無線で連絡をとる。両軍の指揮官に話を通したうえで、タイミングを合わせてダッシュ。兵士たちの銃口が見守るなか、グリーンラインの中心で、人間だけが“向こう側”から来た車両にすばやく乗り移る……まるで人質交換のようなやりとりだった。
もうひとつのモガディシオも、状況は基本的には同じだった。やせこけた住民。チャットを噛んだ武装民兵。走りまわる武装ピックアップ・トラック……。
ところが、ソマリアの取材が難しいのは、民兵たちが報道陣に写真を撮られることを絶対に許さないことだ。自分たちの無法ぶりを自覚しているのだ。
結局、隠し撮りするしか方法はないので、僕はノーファインダーでシャッターを切った。
「キミね……」
そんな僕の様子をピーターがからかった。
「写真というのは、ファインダーを見て撮るものなんだよ。知らないのかね」
僕は撫然としてカメラを置いた。
「じゃあ、どうするんだよ」
すると、彼はおもむろに『ニューズウイーク』を取り出し、民兵のところへつかつかと歩いていった。
「ねえ、君たち!」
尊大な調子で声をかける。
「私は世界的に有名な雑誌のカメラマンなんだ。写真を撮らせてくれたら、きっとこの表紙に載せることができると思うよ。キミたち、有名になりたいだろ?」
そう言ってピーターがカメラを構えた瞬間、十数もの銃口が一斉に彼に向けられた。ピーターは首をひねりながら、すごすごと引き返してきた。
「どうした? そっちもうまくいかないみたいだな」
僕は少し意地悪く彼に言ってやった。
その日の帰りは、ユニセフの手違いから、夕刻になってしまった。暗くなってからの移動が危険なことは戦場では常識であり、とくにグリーンライン越えは非常に緊迫した局面となった。
時間がないので、充分な打ち合わせなしにグリーンラインに突入することとなった。ところが、ちょうど僕たちが動き出そうとしたとき、相手側から発砲があった。周囲の民兵たちが一斉に退却し、臨戦態勢に入る。僕らだけが、睨み合う両軍のあいだに孤立するかっこうとなった。
これはとてつもなく危険な状況だった。もし戦闘が始まったら、僕らの車両は瞬時に蜂の巣になってしまうのは明らかだった。
「ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー!」
ピーターが狂乱して叫んだ。戦場経験豊富な世界的カメラマンでも、これは平静ではいられなかった。
だが、運転手だった少年民兵は、それでかえって焦ってしまったようで、固まってしまっている。僕自身も、心臓を鷲づかみにされたような焦りを感じていた。客観的にみて、ボスニアで砲弾の雨にさらされたときよりも、これははるかに危険な状況だった。
瞬間、ドアを開けて飛び出そうかとも考えたが、それが良いのか悪いのかとっさに判断がつかなかった。じっと息を潜めて状況の推移を待つ。幸いなことに、危惧していた戦闘は起こらず、なんとか無事に帰還することができた。
ユニセフに到着するまでの間、暗闇の無法地帯を疾走する車中で、ピーターはユニセフの職員にずっと文句をぶつけていた。
人命が驚くほど軽いソマリアではあったが、武装兵士たちひとりひとりに話を聞くと「それでいい」と思っているわけでもない。
「アイディード将軍なんてただの殺人狂さ」と、アイディード派の民兵がこっそりと語る。
「前の大統領が国の予算をすべて個人的に着服したのは有名な話だが、後釜を狙う連中もカネの亡者に変わりはない。誰が権力を持ってもそれだけは同じだ。俺たちがアイディード派に入っているのは奴の力がここではもっとも強いからさ。他に生きる方法はないからな」
己の身を守る唯一の手段が、ここでは殺人者集団に属することだった。さらに対立する別の殺人者集団を繊滅しなければ、やはり自分を守ることはできない。
当時、もっとも激しい戦闘は、アイディード軍と元大統領派残党のあいだで行われていた。元大統領派はケニア・エチオピア両国との国境地帯を拠点としており、付近の集落は双方の部隊の奇襲合戦で取ったり取られたりしていた。
したがって、戦闘の被害も、それに巻き込まれる避難民の発生も、内陸部ほどひどさを増す。ところが、内陸部には野盗が出没するため、陸路で訪れることは難しかった。
だが、僕は運良く内陸の戦場まで行く機会を得た。国連の視察員が小型機でエチオピア国境に近いホドゥールという村まで飛ぶというので、それに同行することになったのだ。
ホドゥールは砂漠のなかにポツンと浮きあがったような村だった。付近では、元大統領一派の残党が数多く潜んでおり、村を掌握するアイディード派民兵と果てしない戦闘を繰り返していた。
ソマリアの内陸部では、戦争は単純な動機から行われていた。援助物資、つまり“食い物”の争奪戦である。
現代の戦争では、国際社会からの援助があたりまえのように届くシステムがほぼ出来あがっている。ほとんどの場合、もしそれが人々に行き渡れば、危機的な状況には陥らないで済むはずなのだ。
だが、空港に到着した援助物資は、やせ細った住民を奴隷のようにこき使う民兵によってどこかへ運ばれ、最終的には“正統政権”を自称する一部の人間たちのもとに集まるようになっている。こき使われた人問には、ほんのわずかがおこぼれとして残るだけだ。
「それでも他に方法がないんですよ」
現地で援助物資の分配を采配する国連職員が、やりきれない表情でそうつぶやいた。
いっぽう、生々しい弾痕や血痕が残る民兵の司令部で、“隊長”と称する男は口から泡を飛ばして力説した。
「国連は何をやってるんだ! 飢えで苦しむ我々を外国は児捨てようというのか!」
飢えているというわりには、隊長はでっぷりと太っていた。しらじらしい台詞の間から、遠くの砲撃音が小さく聞こえていた。
モガディシオを訪れる報道陣の数が日毎に増えてきた。国連か援助機関の飛行機に便乗するしかアクセスがないため、サラエボのように世界中からいっきに押しよせるということはなかったが、それでも、ここでもっとも多くの報道陣を受け入れているユニセフの宿舎はだんだんと賑やかになっていった。
日本人記者も1人到着した。共同通信の沼沢均ナイロビ支局長だった。さすがはアフリカを熟知している特派員だけあって、準備よくイスラム国にウイスキーを持ち込んだ沼沢さんは、すぐにユニセフ宿舎の人気者となった。
数日後、彼と合同で、内陸部の村に陸路で遠征取材に出かけることにした。首都市外の取材ではいっきに高騰する“護衛代”がバカにならなかったからだ。
ムハマドは、いつものメンバーに新たなガンマンをひとり加え、普段は用意していない携帯用対戦車ロケット砲を持たせた。予備のタイヤや飲料水も積み、僕たちはいつもより少し窮屈になった武装ピックアップで出発した。
快適な砂漠のドライブだった。これで戦争がなければ、ちょっとしたパリー=ダカール・ラリーの気分になれただろう。しかし、その道は、いつ強盗団に襲われるかわからない危険なルートだった。事実、欧米のテレビ・チームが多数、その被害に遭っていた。
半日がかりで僕らが向かったのは、バイドアという村だった。荒涼とした小さな村だったが、そこが他の村と違っていたのは、驚くほど多くの人間がいたことだった。
いくつか設置された援助機関の配給所の前には、それこそ見渡すかぎりの人の群れがあった。「バイドアに行けば援助物資がある」という噂が広く流布したため、戦闘を逃れて大量に発生した避難民が殺到したのだ。
しかし、奇妙なことに、その世界には音がなかった。あれだけの大群衆が轟いていながら、人間の声がまったく聞こえないのだ。耳に入るのは、ただひゅうひゅうと鳴る風の音だけだった。
人々は座り込み、あるいは横たわって、ただじっとそこにいた。骨と皮だけになった彼らの目には、喜怒哀楽の感情も、人間らしい生命感もまったく感じられなかった。すでに、すべてをあきらめてしまっているように見えた。
初めて見る本当の飢餓の光景に、僕は声も出せなかった。
確かに、ここにはまったく希望がない。援助の食糧が続々と届いているが、あまりにも多い避難民に対しては、焼け石に水の状態だった。とくに弱者である子どもや老人は、配給の列から弾き飛ばされ、恨めしそうな表情で死を待つしかなかった。それは極限の光景といってよかった。
「ひどいね、ここは……」
アフリ力の飢餓を見慣れている沼沢さんも、ただひとことそう言って絶句した。
僕は黙り込んだまま、死体となった人間や、死体一歩手前の人々を撮って歩いた。他にすることは何もなかった。
そんな僕の様子を、いくつものとろんとした目が無表清に見ていた。彼らにもカメラを向けた。この世の地獄としかいいようのないこんな場面でも、僕の頭は考える。もっと悲惨な瞬間を、もっと衝撃的なショットを!
僕はなにかものすごく非道なことをしているようで、胸が苦しくなった。死にゆく人間を撮影するという行為の、なんと不遜なことか!
ハエの大群が音を立てて飛び交っていた。その中の1匹が、命の果てた子供の顔にとまった。見開かれたままの目にとまった。もちろん瞼は動かない。眼球の上にハエはとまった。
背筋が冷たくなった。異物が動きまわっても動じない目を、僕は初めて見たからだ。死者の目は色が薄かった。黒い部分も白い部分もともに濁ってぼやけていた。抜け殻のような眼球をハエは一心に舐めていた。
僕はゆっくりカメラを構えた。ファインダーを覗きがら涙が流れたのは、初めてのことだった。
飢餓の光景など、前もって充分予想していたことなのだが、いざ目の前にしてみると、その衝撃は凄まじかった。こうした光景を冷静に表現する鋼鉄のハートがなければ、報道カメラマンの資格がないだとすれば、僕は明らかに失格者だった。
この地獄絵図のなかで、さらに僕を慄然とさせたのは、極限状態の死線をさまよう人間たちの、あまりに厳しい生存の碇だった。
自力で生き延びる。これが彼らのルールだった。
どんなに弱った人が隣にいても、彼らは決して手を差しのべることはない。自力で水場や食糧配給所に行けなくなった者は必ず死ぬのである。だから、死者は基礎体力に劣る子供と老人が庄倒的に多い。孤児が真っ先に衰弱するが、ときに母親でさえわが子を見捨てるという。
エゴとは悪なのか? そんなナイーブな問いは現世だけに通用する。ここではしょせん無意味なものだ。
こうした圧倒的な光景のなか、僕はこれまでのどの場所でも感じることのなかった違和感を覚えていた。そこにいる、という現実感が希薄なのだ。
凄まじい飢餓を目の前にしても、ユニセフの宿舎に戻れば驚くほど立派なディナーが待っている。ご馳走を食い散らかしながら現状に涙する自分は何なのだ?
戦場取材においては、危険の射程に己の身も投じることが、戦場取材者としての自分なりの免罪符のつもりだった。そしてさらに、そこにこそ“彼ら”を理解する足がかりもあったのだ。ならばこの地にいる僕は何者なのだろうか?
ソマリアに入る前は、そんな特権をもちろん知らなかったから、非常食として高カロリーのチョコレートやキャンデーを僕は持ち込んでいた。自分のためには不要になったそれを、僕は思わず痩せた子供に与えてしまった。無残なその子の姿があまりにも痛ましく、見るに忍びなかったからだ。
次の瞬間、何が起こったか? 子供たちばかりか大人たちまでもが殺到し、血相を変えてキャンデーの奪い合いを始めたのだ。
僕は恐怖を感じた。餓鬼が襲ってくる、そんな錯覚が見えたからだ。
収拾をつけるためには、ムハマドたちが銃で脅しつけなければならなかった。ムハマドに僕は激しく叱責された。
「これっぽっちのキャンデーが何になる! かえって殺し合いを始めかねないじゃないか。いいか! 今後は絶対にこんなバカな真似はするんじゃないぞ!」
彼が正しい。現実はかくのごときだ。
気が滅入る世界だった。取材という行為は、ある意味で相手との人間関係を構築する作業にほかならない。しかし、ここではとてもそれは不可能だ。取材するほうと取材されるほうがこれほど歴然と隔てられている場所もない。彼らの人格を感じろというほうが無理な話だ。そんな相手と、まともに対話することなどできるだろうか?
ボスニアは僕は、自分がハイエナになつたような気分を味わった。ここでは、動物園の見物客にでもなったような気分だ。これならハイエナのほうが、よほどマシというものだ。
取材は旅の延長でもあり、出会いと対話である。相手の本音に近づき、その人生に迫ることだ。良い人だろうが悪い奴だろうが、難民だろうが兵士だろうが、対話が興味深くなければやっていられない。ただうんざりさせられるだけだ。
戦場取材は極限を探す旅でもあった。ところが、旅を重ねるにつれて見えてきたものは、人間の弱さと汚さばかりだったような気がする。戦場に渦巻くものは、たいていは恐怖や嫉妬や猜疑心などだ。
ただ、それらは人間なら誰でも持つている感情に過ぎないだけ“わかりやすい”ものでもあった。そこに、周囲の雰囲気への盲従、あるいは群集心理というわかりやすい愚鈍さが加わっていくのだ。
だが、ソマリアほどの極限になると、弱さとか汚さとかいう人間的な尺度があてはまらない。そこでは、闖入者の僕はただ戦懐に立ちつくち、ただ怯えるだけだった。
もう、うんざりだ……。僕は戦場で初めて、心底そう思った。
赤十字のピックアップ・トラックが、群衆のなかをゆっくりと走っていた。死体を集めているのだ。荷台に放り込まれた彼らは、赤十字の施設に運ばれ、布で縛られた後、まとめて埋葬される。赤十字がここで行っている、いちばん重要な仕事だった。
それは異常な光景だったが、ここでは普段どおりの日常風景だった。
バイドアの飢餓地獄は、その後、多くのメディアに紹介され、世界中の同情を呼ぶこととなった。国連は初の平和執行部隊を投入することを決定し、ソマリア国民の歓喜のなか、救世主として乗り込んでいった。
しかし、それも間もなく失敗に終わり、世界はその後、この地を見捨てた。その過程は国際メディアによって華々しく報道されつづけたが、僕は二度とこの国を取材する気になれなかった。
AP通信の記者がモガディシオで群衆に撲殺されたという二ュースを聞いたとき、なにかやりきれない気持ちになった。死んだ記者は僕自身だ。戦場や飢餓の土地ばかりを好んでうろついている僕など、いつ殺されても文句はいえない。撲殺されるのはどんな気分なのだろう?
ソマリアからケニアに脱出した後、共同通信の沼沢さんとナイロビの酒場で何度も酒を呑んだ。日本の新聞記者にしては珍しく、どこか“旅人”の雰囲気を持つ沼沢さんとは妙にウマが合った。
ボブ・マーレーのラスタファリズムに憧れ、自ら志願してアフリカ特派員になったという彼は、日頃の職務をこなしながら、自分なりの旅を続けていたように見えた。
ある夜、彼が酔っ払って、ふとこんな台詞を吐いたことがある。
「でもさ、違うんだよね。アフリカの現実はさ」
そんな沼沢さんもその後、ルワシダ内戦の取材に向かう途上で飛行機事故に遭い、フジテレビのカイロ支局長らとともに還らぬ人となった。僕が嫌になって投げ出してしまった“アフリ力の現実”について、もっと話を聞いてみたかったと残念でならない。(了)
▽写真館⑯ソマリア避難民 ▽写真館⑮ソマリア内戦 ※今年、日本国際飢餓対策機構の広報ビデオに、私がソマリアで撮影した写真が使われました(当然、無料提供です)。少しでもお役に立てれば、これほど嬉しいことはありません。
2011/12/26(月) 14:40:28 |
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JBPRESSに初めて寄稿させていただきました。
▽北朝鮮で権力闘争が幕開け これがキーパーソンの顔ぶれだ! また、本日発売の『週刊現代』の北朝鮮関連記事にもコメントを採用していただきました。
また、本日放送のフジテレビ「知りたがり」に、対北朝鮮インテリジェンスについて情報提供しました(出演ではありません)。
また、来週月曜26日発売の『正論』2月号に、こちらは「最新報告 中国が仕掛ける21世紀型戦争としてのサイバー戦」という記事を寄稿しました。
この3日間、いろいろ北朝鮮ネタがテレビから活字から出ていますね。北朝鮮はとにかく動向が予測できない国ですから、もっと注目してもいいくらいだと私自身は思っています。
専門家の大方の見方は「このまま正恩体制で、つつがなく統治されるだろう」というところで、それは過去の経緯からすると妥当な分析ではありますが、私は情勢の潮目次第で「どうなるかわからない」とみています。
かつて94年に金日成が死んだとき、世界中の専門家全員が「北朝鮮は数年内に崩壊する」と予測していましたが、見事に外れました。かく言う私も同じ見通しでした。とにかくあの国は合理的な分析ではわからないところがあります。
北朝鮮の人々はいわば「モノ言わぬ人々」ですが、その内面はわかりません。私は、潮目が変われば、中東の人々以上に、いっきに爆発するだけのパワーを秘めている可能性もあると思っています。そうなれば、ものすごいエネルギーで、振り子が反対側に振れるかもしれません。とくに根拠があるわけではないですが、あまりかの国の「庶民」を舐めてはいけない気がします。
それはともかく、この数日の報道をみていて感じた点を少し述べてみます。
まず、北朝鮮でなく日本のことなのですが、金正日死去を2日間察知できなかった件。
なにか日本政府の諜報力を過大に期待している方々が多いなと、少々驚きました。
日本政府の対外インテリジェンスの基本は「アメリカに教えてもらう」なので、最初から無理な注文です。民主党政権だからダメということでもありません。日本政府は昔からそんなものです(これは制度の問題なので、担当者の方々が無能だと言っているわけではありません)。
それともう1点。拙ブログで書いたことがありますし、拙著『北朝鮮に備える軍事学』でも、他の雑誌やムックの記事で何度も書いてきたことですが、どこでどうなると「日本に数万人の難民が押し寄せる!」になるのかさっぱり理解できません。
先日1隻来たこともありますから、まったくゼロということはないでしょうが、あの国で混乱状態になったときに、船と油をしっかり確保できて、冬の日本海の荒波を渡りきろうと、命からがら脱出する人々が考えるでしょうか? 皆さん韓国に行くと思いますね。すぐ近くですから。
仮に戦争になっても、韓国に北朝鮮が攻めこむなどということはあり得ませんから、韓国の沿岸部は安全です。北朝鮮軍は制海・制空権もとれませんから、船と少しの油があれば、韓国に逃げるのはそれほど難しいことではないと思われます。わざわざ日本に向かう意味がありません。
・・・というようなことを少し感じたこの数日でした。
最後に、全然関係のない、どうでもいい話をひとつ。
先日、拙ブログでイラクのサダム・フセインの長男ウダイの影武者(実在の人物)を主人公とした『デビルス・ダブル』という映画について書きました。この中で、独裁者の最悪のドラ息子の乱痴気騒ぎのシーンで、出演者たちが完全にすっぽんぽんになっているシーンがあるのですが、結局、配給側が映倫を説得できず、日本での上映ではボカシが入ることになったそうです。・・・どうでもいい情報でしたね。すみません。
(追記)
日本政府は北朝鮮の安定を計るそうです。ということは、金正恩独裁の維持を支持するということですね。それでいいのですかね・・・
2011/12/22(木) 19:19:42 |
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「もう殺さないと約束したのに、殺し続けている」シリアに対して、アラブ連盟が国連安保理に問題を付託する秒読み段階になって、シリアがアラブ連盟の監視団の受け入れを表明しました。どうせいつもの時間稼ぎで、「言うこととやることが違う」のは火を見るより明らかですから、監視団を受け入れた後、なんのかんのと難癖をつけて視察を妨害するのは確実。その間、国民の虐殺を継続することも間違いありません。これは断言できます。
毎日人々が殺害されつづけている状況ですから、そんな茶番を許してはいけないと思うのですが、アラブ連盟は毎度ながら腰が引けています。
シリア外相が記者会見で語っていましたが、ロシアとの意見交換がその背後にあったとのこと。要するに、ロシアの入れ知恵ですね。
一刻も早く国連安保理に付託し、非難決議を通し、決議違反で新たな安保理決議を通し、飛行禁止空域・安全地域を設置し、国民評議会を正統政権に認定し、自由ロシア軍を武装化し・・・というところまで持っていくことが肝要かと思います。
内戦化云々はそれから先の話で、まずはそこまでやらなければ、今の虐殺行為はこのまま継続されるのではないかと私は思っています。
2011/12/20(火) 09:17:31 |
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「共同通信」様にコメントを採用していただきました。
▽権力闘争?強硬路線?どうなる北朝鮮!? (日刊スポーツ/共同)
他にもいくつかのメディアの方から「クーデターの可能性は?」というようなご質問をいただきました。すぐにクーデターはちょっと考えられませんが、李英鎬・総参謀長は単に金正日の指示でトップに就任しただけなので、軍内の支持基盤はたいしてありません。食料危機などが深刻化し、軍内に不満が出てくれば、まずは金正恩の後見人筆頭である李英鎬批判が出てくる可能性はあると思います。
韓国の専門家などには、張成沢・金敬姫夫妻が当面、仕切るのではないかとの見方をする人も多いようですが、いずれにせよ国家運営はうまくいかないと思われるので、責任の押し付け合いのようなことはきっと起こるでしょう。これまでは金正日批判はアンタチャブルだったので、幹部の粛清で終わっていましたが、今後は一触即発な感じになると思います。
クーデターを想定すると、金正男を担ぐ改革派が中国と通じてクーデター・・・というようなイメージを抱く人が多いかもしれませんが、私は強硬派が暴発する可能性も高いと考えています。延坪島砲撃の実務指揮官だった元総参謀長の金格植とかですね。仮にそんな事態になれば、アメリカが核確保に動くかもしれません・・・と現時点では少々考えすぎではありますが。
逆に金正恩が若者世代らしくインターネット解禁などの改革路線に進めば、中東で起きたような民主化圧力が始まる可能性もあります。ただ、中東独裁者がああいった末路ですから、政権上層部に抵抗は大きいでしょう。
父・金正日は息子世襲の道はつけていたので、すぐに混乱ということにはならないと思いますが、いずれ経済破綻でアウトになるのではないかなと思います。
2011/12/20(火) 00:08:07 |
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金正恩を支える主要幹部をまとめてみました。
※軍部
▽李英浩(李英鎬)(リ・ヨンホ)(69歳)
軍の指揮系統のトップ。朝鮮人民軍総参謀長・党中央軍事副委員長・党政治局常務委員・人民軍次帥
▽金正覚(キム・ジョンガク)(70歳)
軍内監視部門の統括者。朝鮮人民軍総政治局第1副局長・党中央軍事委員・国防委員・党政治局員候補・朝鮮人民軍大将
▽金明国(キム・ミョングク)(70歳)
軍の作戦立案統括者。総参謀部作戦局長・党中央軍事委員・朝鮮人民軍大将
▽崔富日(チェ・ブイル)
軍指揮系統のナンバー2(実務担当)。朝鮮人民軍副総参謀長・党中央軍事委員・朝鮮人民軍大将
▽金元弘(キム・ウォンホン)(66歳)
(※一部訂正しました)朝鮮人民軍総政治局組織担当副局長。前保衛司令部司令官・党中央軍事委員・朝鮮人民軍大将
▽鄭明道(チョン・ミョンド)
海軍司令官・党中央軍事委員・朝鮮人民軍大将
▽李炳鉄(リ・ビョンチョル)
空軍司令官・党中央軍事委員・朝鮮人民軍大将
▽金英哲(キム・ヨンチョル)(65歳)
特殊工作部門のトップ。朝鮮人民軍偵察総局長・党中央軍事委員・国防委員会政策室長・朝鮮人民軍上将。韓国哨戒艦撃沈事件の実行者。
▽呉金哲(オ・グムチョル)
副総参謀長・元空軍司令官・朝鮮人民軍上将
▽金格植(キム・ギョクシク)(71歳)
(※一部訂正しました)前第4軍団長・元総参謀長・朝鮮人民軍大将。延坪島砲撃の実務指揮官。軍部の最強硬派とみられる。今年11月に第4軍団長を離れ、現在は消息不明。副総参謀長か人民武力部副部長に就任したとの情報もあるが未確認。金正日の葬儀委員会に名前がなかったことから、左遷された可能性もある。
下記の人物はかなり発言力を弱めていますが、いちおう名目上の軍のトップになります。
▽金永春(キム・ヨンチュン)
人民武力部長・国防委員会副委員長・党中央軍事員会委員・前朝鮮人民軍総参謀長・朝鮮人民軍次帥
下記の人物は半ば引退しているようなものですが、長老格の人物です。
▽呉克烈(オ・グクリョル)(80歳)
工作機関トップ出身の軍の重鎮。国防副委員長・前朝鮮労働党作戦部長・朝鮮人民軍大将
(以下2名追加)
▽チェ・ギョンソン
第11軍団(特殊部隊)軍団長・党中央軍事委員会委員・朝鮮人民軍上将
▽チェ・サンリョ
ミサイル指導局長・党中央軍事委員会委員・朝鮮人民軍上将
※秘密警察
▽禹東測(ウ・ドンチュク)(69歳)
秘密警察の事実上のトップ。国家安全保衛部第1副部長・党中央軍事委員・国防委員・党政治局員候補・朝鮮人民軍大将
※官僚系
▽崔永林(チェ・ヨンリム)(81歳)
経済政策の実務トップ。首相・党政治局常務委員
▽姜錫柱(カン・ソクジュ)(72歳)
外交政策の実務トップ。副首相・党政治局員
▽金己男(キム・ギナム)(82歳)
思想・宣伝部門の統括者。党書記(思想教育担当)・党政治局員
▽崔竜海(チェ・リョンヘ)(61歳)
若手の党官僚。党中央軍事委員・党書記・朝鮮人民軍大将
※ロイヤル・ファミリー
▽張成沢(チャン・ソンテク)(65歳)
金正日の妹婿。党行政部長・国防委員会副委員長・党政治局員候補・党中央軍事委員。金正日が脳卒中で倒れた際に権力を代行した。もともとは長男・正男の後見人だった。
▽金敬姫(キム・ギョンヒ)(65歳)
金正日の実妹。党政治局員・党軽工業部部長・朝鮮人民軍大将。もともとは長男・正男の後見人だった。
▽金玉(キム・オク)(47歳)
金正日の5番目の妻。国防委員会課長。「影の女帝」説もあった。
▽金正男(40歳)
金正日の長男。マカオ在住?(事実上の国外追放?)。中国との関係深し。政権の世襲に反対?
▽金正哲(キム・ジョンチョル)(30歳)
金正日の次男。近年の動向不明。病身説もある。一時は後継者候補として注目されていた。
当面、葬儀や党会合などで注目されるのは、上記の人々の「席順」などになります。
2011/12/19(月) 16:55:45 |
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速報です。北朝鮮メディアが金正日死去を発表しました! いよいよ来ましたね。
既定の方針どおり、金正恩体制が発足することになります。28歳の新指導者を支える後見人のナンバー1は、李英浩・総参謀長です。金正日はラストスパートで軍上層部の世代交代を強引に進めていたため、いちおう李体制は当面は機能するでしょう。後退していた張成沢らのファミリーがどこまで巻き返しを図れるかといったところが焦点になるかと思いますが。
とはいえ、いきなり軍が動く局面でもないので、まずは秘密警察である国家安全保衛部がきっちりと軍・党幹部および国民の監視を強めることになりそうです。故・金正日はすでに国家安全保衛部を正恩の指揮下に移しており、禹東則・第1副部長を中心に北朝鮮の新権力機構を取り仕切ることになるのだと思います。禹東則の発言力がかなり大きくなりそうですね。
いずれにせよ、当面は、李英浩、張成沢、禹東則の動向に注目です。
2011/12/19(月) 12:40:43 |
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ここ数日、テレビで中国漁船、中国軍、尖閣関連などの話をいくつかやっていました。
そのうち、某番組では南西諸島方面での日中の緊張ぶりを特集。陸自の西普連などを取材していました。西普連は私も取材したことがありますが、画的にはなんとか勝てたかな・・・
▽写真館その1(自衛隊演習) 同番組の〆は、緊張を和らげるために政治や外交が重要だという結論で、それはそのとおりと思うのですが、その前段で語られたキャスターの方のコメントに少々違和感が残りました。
「正直『怖い』と思いました。『敵』という言葉がごく自然に出てきていましたね。隊員たちは『命を懸ける覚悟がある』と言っていました。日本は戦後、平和憲法を維持して、戦争をしてはいけないという線だけは守ってきていますよね。ですが、これは戦いの準備をしているわけですね」(細かい言い回しは忘れましたが、ほぼこんな感じ)
ネット世論での標準とマスコミ現場の温度差のようなものをしばしば感じるのですが、マスコミ業界では、現場取材者はそうでもないのですが、上層部に今でもこういった感覚の方がたいへん多くいらっしゃいます。どなたがどのような意見を持っていても、私は構わないと思っていますが、私は違う感覚なのでいちおうツッコミしておきます。
「敵じゃん!」
ところで、先週、徹夜明けに『みのもんの朝ズバ』をみていたところ、F35選定のニュースに、みのさんが「そんなカネあるなら、震災の復興支援に使え!」と言い放った場面を偶然みました。
これに対し「平和ボケ!」「防衛に無知!」というような批判をする向きもあります。中国軍に「敵じゃん!」と口走ってしまったり、軍事を悪と言うような意見に「マジっすか?」と突っ込んでしまったりするような私ですが、じつはこれに関しては、みのさんの意見に賛成です。どなたがどのような意見を持っていても構わないと思いますが、私の考えでは、重要度の順位は以下になります。
①「震災対応(=現在発生中の大危機)」>②「社会保障・経済政策などの国民生活対応(=現在直面中の問題)>③喫緊の課題でない公共事業などで、停止すると生活手段が断たれる人がいるもの ④国防(=危機発生の可能性はきわめて低い。しかし、仮に発生した場合に、危機レベルの度合いが巨大の可能性もある)>⑤さらなる大災害への対策(=発生時の危機レベルは巨大。いつか必ず発生するが、発生の頻度は極端に少ない)>⑥喫緊の課題でない公共事業などで、停止しても生活手段が断たれる人がほとんどいないもの。
①が最優先事項です。②も欠かせません。③はケア次第で縮小もやむなし。④⑤の順位は別でもいいです。財政に余裕のあるときに、その範囲内でやればいいでしょう。⑥は内容の程度次第ですね。私自身は、今は全部停止して復興支援に全部まわすくらいでいいという考えです。
国防の問題に関して言えば、戦力増強の遅れは国防力を落とすでしょうが、戦国時代や列強帝国主義の時代ではないので、それですぐに侵略を受けたりはしません。防衛戦力というは、あくまで「万が一」への備えであって、現実に発生中の問題が優先されます。防衛戦力は国益追求の外交上の下支えにもなりますが、危機状況下の今の最大の国益は、言うまでもありません。
生命保険は重要ですが、保険料をかけすぎて今日の食費や家賃がなくなっては本末転倒ですね。安全保障の基本だと思います。
2011/12/19(月) 08:59:11 |
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AP通信が選んだ今年の10大ニュースは以下。
①ビンラディン殺害
②東日本大震災・原発被害
③アラブの春
④欧州経済危機
⑤アメリカ経済
⑥米大学フットボールのセクハラ・スキャンダル
⑦カダフィ打倒
⑧米議会財政論争
⑨ウォール街デモ
⑩アリゾナ女性下院議員銃撃
その他のトップ10圏外には、アップル創業者死去、ハリケーン「アイリーン」、アメリカの竜巻被害、米軍の同性愛者問題・・・だそうです。国際的なトップ企業ですが、あくまでアメリカの報道機関なので、こうした順位なのですね。⑥とか、私はほとんど知りませんでした。
アメリカ関連以外でいえば、東日本大震災、アラブの春、欧州経済危機ということでしょう。
2011/12/18(日) 10:31:34 |
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先週、米軍パナマ侵攻事件のときのレポートをアップしたところ、地元の友人から好評だったので、調子に乗ってもう1本。ボスニア内戦従軍記の原稿です。
血まみれの帰還
90年代はじめに東西冷戦が終結すると、世界各地で民族紛争の嵐が吹き荒れた。
ユーゴスラビア連邦のボスニア・ヘルツェゴビナでも、多数派のイスラム教徒が支配民族・セルビア人に挑戦して独立を目論んだことから、92年4月に内戦が勃発。もうひとつの少数派であるクロアチア人がイスラム教徒側について、激しい殺裁戦に突入した。
旧ユーゴスラビアの戦争の特徴は、大量の兵器が投入されて近代的総力戦となったことと、「民族浄化」と呼ばれる徹底した他民族排除の領土分捕り合戦となったこと。さらに、海外のマスコミを巻き込んだメディア宣伝戦争となったことだろう。
筆者がボスニアに入国したのは、内戦勃発2ヵ月後の同年6月。首都サラエボでセルビア人部隊およびイスラム教徒部隊の従軍取材を行った後、中部戦線に“転戦”してクロアチア人部隊の前線拠点を訪れた。
その時点ですでに30人を超える外国人記者が“殉職”していた内戦初期のボスニアで、筆者自身も迫撃砲弾の直撃を受け、死線をさまようこととなった――。
忍び寄る死
なんだか疲れたなあ……。
ぼんやりと考えていたのは、そんなことだった。
力が入らない身体はずっしりとシートに沈んでいるし、おまけに頭のなかではぐるぐると世界がまわっている。恐怖はもちろんあるのだが、だからといってどうすることができよう。最期の瞬間、たいていの人間はきっとこんなふうに“諦める”のかもしれないな、などとふと思った。
鼓膜を打ちつけるようなすさまじい轟音が、またとどろいた。近くに着弾したのは明らかだが、それがどのあたりかはわからない。
ぐっと押しつけられるような重力を感じ、上体が横に傾いた。猛スピードでカーブに突人した車が、後輪をすべらせながら、ぎりぎりで崖っぷちを切り抜けたのだ。白い岩肌の山岳道路は、ようやく2台がすれ違えるほどの幅しかないが、迫りくる“敵”の狙い撃ちに遭っている状況では、安全運転など賛沢すぎるというものだろう。
砲弾の直撃を食らって死ぬか、このまま崖から転落して死ぬか、あるいは……。いずれにせよもう後はただ運命に身を委ねるしかなかった。
鬼のような形相をした兵士が運転するオンボロ・ワゴンの内部は、生臭い血のにおいが充満していた。それはなにも、後部席に折り重なるように積まれた負傷兵たちのものばかりではない。助手席に座る僕の足元も、おびただしい量の血液でまさに血だまりとなっていた。
迫撃砲の破片で切り裂かれた僕の右腰からは、血がどくどくと流れつづけていた。痛みはもはや感じない。手足の感覚がまったく消え失せた身体には、ただ“重い”という感覚だけが残っていた。
死ぬかもしれないな……。僕は漠然とそう思った。傷は致命傷というわけではないだろう。だが、こんなにも多くの血が流れたのだ。心臓がショックに耐えられるかどうか、自分でも自信がなかった。
鼓動がやけに大きく感じられ、息が苦しくなってきた。意識もだんだんとかすんでくる。
「典型的な貧血の症状だな……」
他人事のように、そんなことを考えた。いつかテレビでみたクイズ形式の情報番組を思い出した。さて、人問はどのくらい出血すると死んじゃうのでしょう? 2リットル? 5リットル? あるいは、体重の10分の1だったかな……。
再び、どーんという爆発音が聞こえた。ドライバーの兵士がクロアチア語でなにかを叫んだ。窓の外に目をやると、なんだかやけに明るくて、僕は思わず目を閉じた。
ぐるぐる、ぐるぐると目が回る。“安全圏”まではまだまだ遠いよなあ。少し眠ってしまおうか。でも、なんだかそれも怖いよなあ……。
タイヤがまたずずっとすべり、エンジンの唸り声が一段と高くなった。僕は、深く暗いところへ落ちていく錯覚を覚えていた。自分のいる場所にも、置かれている状況にも、まったく現実感が感じられなかった。
僕は再び目を開けて、ふと自問した。
どうしておれは、こんなところにいるのだろう?
その日の朝のことだった――。
「×××××!!」
突然、誰かが大声で叫んだ。言葉はわからないが、緊迫した声の調子から「危ない!」というような意味だということはわかる。
同時に、大気を切り裂く不吉な音が空から迫ってくる。迫撃砲の砲弾の飛来音だ。
シューッ!
この音を文字で表すのは難しい。ヘミングウェイは「タイヤから空気が漏れるような音」と表現しているが、ほぼそんな感じだ。ふいに耳に入ったその不吉な音は、ほんの1秒ほどのうちに急速に膨張する。
これが聞こえたらもう逃れられない。近くのどこかに必ず着弾し、しばしば不運な誰かが死ぬ。それが自分なのか他人なのかは、偶然によって選別される。文字どおり運を天に任せたロシアン・ルーレットだ。
反射的に身を伏せると、シューッという飛来音がヒュンという捻りに変わった。砲弾が頭上を通過していったのだ。
少し遅れて、地響きのような轟音。300mほど離れたあたりに白煙が上がるのが見えた。
「ちっ、だんだん近くなって来やがったな」
通訳をしてくれていた兵士が、そう言って舌打ちした。
僕は身体を起こすと、再びカメラを構えて“最前線”の風景を撮影しはじめた。
ボスニア中部戦線の激戦地「ポドベレッジ」のクロアチア人部隊野戦司令部では、兵士たちの誰もが血走った目をして駆けまわっている。その日は早朝から、怒涛のようなセルビア人部隊の猛爆撃を受けていたのだ。
次々と絶え間なく負傷兵たちが運ばれこまれてきた。土挨が混じってドス黒くなった血に染まった彼らは、ある者は泣き叫び、ある者はうめき、ある者はぴくりとも動かなかった。
死者と負傷者――。戦場写真には欠かせないアイテムを撮影しようとした僕を、ひとりの兵士が乱暴に突き飛ばした。激昂して激しく怒鳴っている。
「彼はなんて言ってるんだい?」
僕は通訳の兵士に尋ねた。
「まあ、いいから気にするなよ」
彼は、僕の肩をぼんと叩くと「行こう」とアゴをしゃくった。僕は彼にうながされて、さらに“前方”に歩いていった。
死地に立つ兵士たちの多くは、死者や負傷者を探しまわっている僕を、あからさまな敵意のこもった目で睨みつける。当然なことだ。僕は屍肉をあさるハイエナなのである。戦場取材とはそういうものだ。
それでも、こんなところまでわざわざやって来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかない。僕は、目の前で繰りひろげられている現実の地獄図を、夢中になって撮りつづけた。
そんなときだ。またシューッという砲弾の飛来音が襲ってきたのだ。
「あ、これは近い!」
そう思った瞬間、すさまじい轟音とともに、腰をしたたか蹴飛ばされたように感じた。驚いて振り返った僕の目に、一斉に散開して岩かげに飛び込む兵士たちの姿がスローモーションのように映った。20m先で土煙がもくもくと大きくなっていった。
無意識のうちに腰に手を当てると、なにやら固い感触があった。手にぐっとカを入れて引き抜くと、それはにぶい鉛色の鉄片だった。迫撃砲弾の破片だ、と気づくまでに少しの間があった。
瞬間、目の前が真っ白になったが、そんな気の動転を、再び襲来した砲弾の飛来音が吹き飛ばした。“敵”は連続攻撃を加えてきたのだ。
「マズい! 逃げなければ!」
気持ちだけはそう思ったのだが、とっさにどこに隠れていいのかわからない。うろうろしている間に、続けて第3弾、第4弾が飛来した。これは危ない! 確かにそう感じたはずなのだが、僕は無意識のうちに5cmほどのその破片を投げ捨て、カメラを構えて兵士たちの一団に近づいていた。
シャッターを続けざまに切った。凄い瞬間だった。死を目の前にした人間たちが、岩かげにぴたりと身体を寄せ、運命に身を委ねている。どの表情も緊張に凍りつき、ただひたすら悪夢の時間が過ぎることだけを願っているようだった。まさに、極限状態の人間の姿そのものだ。
すっげえや、これは……。
僕はきっと興奮していたのだろう。無我夢中でファインダーだけに集中していた。
フィルム交換のとき、ふと兵士たちが驚いた顔で僕を見ていることに気づいた。それまで僕とひと言も口をきいてくれなかった兵士のひとりが、たどたどしい英語で言った。
「ユー、マスト、ゴー、ツゥー、ホスピタル!」
その視線の先を目で迫うと、自分のズボンが腰のところから真っ赤に染め上がっているのが見えた。先ほどの一撃で負傷していながら、動転してそれを忘れていたことに、僕はそのとき気づいた。
兵士がまた口を開いた。
「ユー、クレイジー?」
兵士たちに促され、前線司令部に併設されていた簡易野戦病院によたよたと歩いていった。つい30分ほど前まで、軍医に怒鳴られながらむりやり負傷者を撮影していた場所だ。
ふらつきながら入っていった僕は、衛生兵によってすばやく手術台に乗せられた。血まみれのズボンを下着ごと下ろされ、冷たい消毒液で血が流される。止血処置を受けながら、僕は「こんな大勢の人の前ですっぼんぽんで恥ずかしいな」などということを考えていた。
中年の軍医は、英語が堪能な人だった。手当てをしながら、いかに僕が無謀な愚か者であるかを説教しつづけた。
「こんなところまで来るなんて、お前は正気か? バカもほどほどにしろ。日本人がこんなところで死んで、いったいなんの意味がある。そんなこともわからんのか!?」
言われなくともわかっていた。どうせ僕はバカなのだ。
「傷を縫わなくちゃならんが、ここではできないから、戦闘が一段落したらすぐに脱出して街へ戻れ。このバカ者めが!」
野戦病院は半地下壕のような造りになっており、そこで僕は身を休めた。周囲には、半分死にかけたような血まみれの男たちが何人もうめいていた。
セルビア人部隊による砲撃が、いっそう激しさを増してきた。野戦病院の周囲にも、それこそ雨のように砲弾が着弾した。衝撃波が内部にまで飛び込み、薬品のビンを吹き飛ばした。軍医や衛生兵たちも、負傷者が転がっているいちばん奥の部分に避難し、身を伏せて時間が過ぎるのを待った。
轟音とともに建物が揺れる。バラバラと天井から粉塵が落ちる。いつしか話し声は消え、誰もがじっと伏せたまま、天井を眺めていた。直撃したらそれまでなのは、皆わかっていた。僕は思わず、傍らに転がっていた鉄カブトを被った。元々は誰かのものだったのだろうが、持ち主はおそらく不運な人生を送った男に違いなかった。
そうしている間にも、砲撃の合間をぬって、新たな負傷兵が続々と運びこまれてきた。もはや僕のことを気にかける人間は、その場に誰もいなかった。僕はなにか手持ちぶさたになり、再びカメラをつかんで立ちあがった。傷口が少し痛んだが、歩けないことはなかった。
「おい、どこへ行くつもりだ、バカめ!」
軍医の声を背中に聞いて、僕はゆっくり歩き出した。僕はとにかく無性に外の風景を見たかったのだ。
外はまぶしいほど明るかった。初夏の風はさわやかで、着弾の地響きさえなければ、口笛でも吹きたいような美しい高原の風景だった。
しかし、現実には、ここで多くの人間が自分の不運を呪っているはずだった。なぜか戦争が起こり、なぜか兵士になってしまい、なぜか死んでいかなきゃならない。
それは運命としかいいようがない不条理そのものであったろう。彼らは、心の奥底では誰もが叫んでいたはずだ。おれはどうしてこんなところにいるんだ?
ファインダーに映った兵士たちは、誰もが怒ったような表情をしていた。そうだ、彼らは怒っているのだ。だが、誰に対して、なにに対して怒っているのか、彼ら自身がきっとわかっていない。“敵”に対して? いや、違う。“運命”に対して? どうだろう。ビールでも呑みながら聞いてみたいが、もちろんそんな暇はなかった。
瀕死の負傷兵を担いできた兵士は、カメラを向ける僕に激昂して殴りかかろうとした。なにものかへの怒りが、瞬間的に僕に対して爆発したようだった。しかし、その男は、僕の血まみれのズボンを見ると、その手を静かに下ろした。
「×××××!!」
捨て台詞のように大声でなにかを叫んだが、その言葉の意味は僕にはわからなかった。
轟音と爆風が飛び交うなか、僕はなにかに吸い寄せられるように歩き出した。
前へ、もっと前へ!……そんな言葉だけが、脳裏にこだましていた。歩き回ったせいで再び傷口が開き、出血したが、まったく気にならなかった。僕は“戦場の空気”に呑まれていて、きっと狂っていたのだと思う。なんのために自分は前に行こうとしているのか、そんなことは一切考えなかった。
砲弾の着弾音に混じって、タンタンという乾いた昔が聞こえてきた。自動小銃の掃射音だ。いよいよ“敵”が目前に迫ってきた証拠だった。
それとともに、多くの兵士が最前線の塾壕から退却してきた。“味方”が総崩れ状態に陥ったのは明らかだった。退却してきた彼らはみな、泣きそうな表情を浮かべていた。戦う気力といったものがすでに消え失せているように見えた。
転がるように岩肌を這ってきた彼らを、凄まじい形相をした上官が懸命に前方に押し返していた。退却を哀願する少年兵を、上官は容赦なく蹴りつけた。泣きそうな表情のまま、再び前方に引き返す兵士たち。とどのつまり、戦場には恐怖しかない。上官への恐怖、敵への恐怖、死への恐怖、だ。
絶望の淵に引き返した兵士たちを、僕もよたよたと追いかけた。いつしかカメラを持つ手がしびれはじめている。足元も完全にふらついてきた。僕は何度も何度も転んだ。
砲弾の飛来音が頭から降ってきたのがわかった。前をゆく兵士の目前に着弾し、轟音とともに炸裂した。爆風を全身で受けたが、僕は身を伏せることも忘れ、震える指でシャッターを切った。バラバラと粉塵が身体に降ってきた。
あまりの恐怖に足ががくがくと震えたが、それよりも自分がフィルムに収めた確かな手応えに興奮した。今、まさに戦争の瞬間を捉えたのだ。火薬が炸裂する――無情な“破壊”こそが、戦争の本質だ。不条理への怒り、恐怖、流血、死、などは、きっと戦争の一副産物にすぎないのだ。
僕は、その場にへたへたとしゃがみこんだ。爆風が何度も頭上を飛び交ったが、ずっしりと重くしか感じられない身体はもう動かなかった。
遠くに誰かの声を聞いた気がした。ふいに両側から腕をつかまれ、僕は力を振り絞って立ち上がった。
ボスニア中部戦線で僕が迷い込んだポドベレッジの防衛線は、瞬く間に撃ち破られ、部隊は壊滅状態となって敗走した。負傷者を運ぶワゴン車に放り込まれた僕は、その日の午後、前線から離れたモスタルという街の病院に搬送されて、傷の処置を受けた。
結局、多くの兵士たちが還らなかった。通訳をしてくれた兵士も、口の悪い軍医も、僕を殴ろうとした兵士も、その後どうなったかは知らない。僕が知っているのは、僕がそのとき従軍していた部隊が「全滅した」という噂だけだった。
戦場を離れると、それまでの日々が夢のように感じられた。あれほど身近だった“死”が、いつの間にやら遠い世界のものとなっていた。しかし、“死”が遠いものだなどとどうして言えるのだ?
戦場では死はそこかしこに存在していた。誰にでもいつか訪れるものだ。生と死の境界などあやふやなものだ。生きることこそむしろ奇跡と言っていい。だが、戦場を離れた僕の目には、そんなあたりまえのことが、突然まったく見えなくなった。
ボスニアの内戦はその後も長く続き、95年末にようやく終結した。その間、市民も含め20万人を超える人々が犠牲となった。
僕にはただ、5cmほどの腰の傷跡と、鮮烈な光景の記憶が残っただけだ。
(了)
▽写真館⑥サラエボ攻防戦 ▽写真館⑦ボスニア戦線
2011/12/17(土) 13:44:43 |
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速報です。ロシアが国連安保理にシリア非難決議を提案しました。
▽Syria crisis: Russia circulates surprise UN resolution (BBC)
国際社会がアサド放逐に動き出し、自由シリア軍の活動も活発化するなかで、先手を打ったかたちです。
ロシア案は外国軍の介入禁止を打ち出しているほか、経済制裁や武器禁輸をスルーするなど、内容的には骨抜きの内容ですが、これで安保理決議を成立させれば、さらなるアサド政権の虐殺を受けて、安保理が強力な制裁に動き出す可能性が出てきました。
ともかく、ロシアはこれまで「反政府テロリストの暴力が問題」と言って反対の論拠としてきましたが、それではもうもたないことを悟ったことになります。今後、アサド政権が一時的に弾圧を緩める可能性もありますが、デモ隊はそれでいっきに攻勢に出ますから、いずれにせよようやく状況が大きく好転したことになります。
ところで、昨日のフジテレビのダマスカス報告では、ダマスカス市内をアサド軍が掌握している様を伝えていましたが、当局が見せない部分では、まあそうでもないという映像も出てきました。
▽ダマスカス中心部での反政府デモ 12月15日、ダマスカス中心部のアル・バラミカでの夜間デモです。治安部隊が駆けつける前にゲリラ的に行われたようですが、思ったより大掛かりなものです。これだけのデモはダマス中心部では珍しいですが、これから増えるかもしれません。
(追記)
反体制派の集計では、弾圧による死者は5000人超、政府側の死者も1000人超という数字が出ましたが、自由シリア軍の戦力はまだそれほどではないと私自身は推定していて、政府側死者カウントには「逃げようとして処刑された兵士」がある程度含まれている可能性があると思っています。
(追記その2/ 16日20:38)
時差を考えると、つい先ほどの映像です。ダマスカス中心地の官庁エリアに近いアル・マッゼで本日金曜の朝礼拝の後に反政府デモが組織されました。かなり危険行為のはずですが、人々の勇気には恐れ入ります。
▽ダマスカス中心部でのデモその2 (追記その3 /17日14:43)
さっそく16日には全土で大規模なデモが発生しました。それに対し、弾圧も相変わらず続けられていて、多くの犠牲者が出ています。
上記したように反政府デモは首都ダマスでもゲリラ的に発生していますし、ダラアやイドリブでは自由シリア軍による作戦も続けられています。アサド政権はいよいよ窮地に立たされてきましたが、追い詰められて万単位の大虐殺を引き起こさないうちに、国連安保理の対応が急がれます。
2011/12/16(金) 13:29:13 |
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久々のムックのプロデュースですが、19日(月)に『激変2012年 地図でわかる世界情勢』(洋泉社ムック)が発売になります。
(⇒アマゾン) 地図解説本は季節の定番商品のようなもので、この時期には類似本がいろいろ出るかもしれませんが、今回は「今」と「今後」に的を絞った非常にアップデイトな作りで統一しました。毎度お世話になっている洋泉社の敏腕編集者K藤クンの仕事はいつも丁寧で、なかなかいい具合に仕上がったと思います。
私は企画・構成・執筆(他の執筆者の方々の署名記事以外のところ。全体の3分の2弱くらいですね)・地図&図版原案(地図は1点除き全点)を担当しました。
他の執筆者は、佐藤優氏(作家)、三橋貴明氏(経済評論家)、中岡望氏(東洋英和女学院大学教授)、富坂聰氏(ジャーナリスト)、国末憲人氏(朝日新聞前パリ支局長)、副島英樹氏(朝日新聞モスクワ支局長)、桑瀬知欧氏(大手メディア・ソウル特派員)、須貝信一氏(ネクストマーケット・リサーチ代表取締役)、森辺一樹氏(ストラテジック・デシジョン・イニシアティブ代表取締役)と錚々たる顔ぶれです。
地図本は前にもやったことがあるのですが、何がたいへんかというと、最新情報のとりまとめですね。おかげで、現在進行形の世界情勢を全大陸にわたって集中勉強できたので、個人的には非常に有意義な仕事でした。 ただ、イエメンとかミャンマーとか、校正中にも情勢が変わったりして、その都度書き直しも。中国関連でも途中で新資料が発表されたりして、てんやわんや。今はまさに時代の転換期なのだなーと実感です。ムックというより、時事月刊誌の記事を執筆している感じでしたが、自分はそういうのが性に合ってる気がします。
今年はとにかく311震災がありましたから、昨年に当ブログでやったような「今年の10大ニュース」的なエントリーはちょっと書く気になれませんが、代わりに2012年の予測的なものを、近々書いてみようと思います。
2011/12/16(金) 11:51:17 |
著作・メディア活動など
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次期主力戦闘機に汎用機のF-35が選定されたことについては、いろいろな方がいろいろな意見をお書きになるでしょうから、私からは一点のみ。
3候補から詳細な項目で点数つけて選定したというタテマエですが、空自はおそらく最初からF-35命で、なんのかんのと理由を探して、それでもなかなか理屈が立たなかったところ、もう最後は無理やりな道理を通してしまったということなのでしょう。念頭にあるのはロシアと中国の第5世代機でしょうね。
今後の開発が「すべてうまくいく」のを前提としての選定ですが、当の空自でもそんなにうまくいくとは正直考えていないのではないかなと思います。納期が遅れる可能性が大ですが、世代遅れの戦闘機部隊を揃えるよりは、それもある程度はしかたないと考えているのではないでしょうか。もちろんそんなことは言えませんが。
米議会の海兵隊グァム移転予算凍結のニュースですが、これも一点のみ感想を書きます。
普天間移転プロセスの停滞がすべての要因という捉え方は甘いと思います。米議会の関心はなんといっても予算削減であって、「戦力をなるべく落とさずに、いかに国防費を減らせるか?」という点に尽きます。普天間問題自体はそれほど決定的な要素ではないと思います。口実にはちょうどいい感じですが。
2011/12/16(金) 08:35:58 |
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本日、フジテレビが日本のテレビ局としては初めて、ダマスカスからのレポートを報道していました。正規のルートによる取材で、VTRでもわざわざ「すべて当局の監視下の取材」だと言及していました。
自由な取材をしようと思えば、当局の目を盗んで潜入するというたいへんな危険を冒さなければならないことを考えると、これはこれでたいへん有意義な取材だと思います。とにかくシリアについて採り上げるだけでも価値のあることです。
タイミングから考えると、官製翼賛選挙に合わせての取材受け入れだったのかもしれませんが、選挙については、私の見た夕方ニュースでは触れていませんでしたね。ちょっとそのあたりの事情はわかりません。
ただ、BBCあたりはもうシリア情勢はほとんどトップに近い扱いになってきているので、もう少し他局でも採り上げていただけるとベターなのですが。ときおりシリア情勢についてマスメディアの人と話す機会もあるのですが、やはりリビア内戦の派手な印象が強く、シリアはなんとなく大きなニュースに扱われないでいるようです。
とくに残念なのは、あれだけ真実を伝える影像が、人々の血の滲むような努力によってネットに公開されているのに、それがほとんど生かされていないことです。独自取材も重要ですが、ネット影像で9ヶ月間、彼らの戦いをウォッチち続けてきたひとりとして、少々もどかしさを感じます(TBS様とフジテレビ様にはBSとCSで一度ずつ採用していただいたのですが、私の力不足もあって地上波では採り上げていただけませんでした)。
たとえば、反体制派を取材したうえで、彼らが提供する影像を使ってこの9ヶ月を検証すれば、凄まじく衝撃的なドキュメンタリーになると思います。どこかの局で希望があれば、いくらでも協力は惜しまないつもりなのですが・・・。
ストラトフォーも本日、シリア問題に関する一般公開レポートを配信しました。
▽The Syria Crisis: Assessing Foreign Intervention 外国による介入の方途について検討しています。なかなか難しい・・・というのが、最初からわかっている結論ではありますが。
2011/12/15(木) 22:25:58 |
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数日前の拙ブログで、太平洋戦争世代のことについて書きましたが、ここ数年、自衛隊OBの取材をしたり、昭和裏面史関連の取材をするなかで、「この人物について知りたい!」と強烈に思う昭和の先人が何人かいます。いずれも故人なので、直接話を伺うことは不可能ですが、現代史の裏面の主人公として、非常に強烈な人生を歩んでこられた方々です。
できれば評伝を書いてみたい希望はあるのですが、裏面史の人物だけに、いずれも既存の情報があまりありません。それなりの新規取材が必要になりますが、軍事誌をメインにしている私には、なにぶんコストパフォーマンスの面でハードルが高く、今のところ手も足も出ない状況です。
ともあれ、そんな興味深い人物を7人ほどリストアップしてみます。
①広瀬栄一
元北部方面総監で、退官後は日本郷友連盟会長なども務められた方です。旧軍で欧州駐在経験もある対ソ諜報のプロで、終戦時には陸軍次官秘書官、陸相秘書官を歴任していて、当時、陸軍中野学校グループのリーダー的存在でした。戦後は陸自で情報部門の拡充に奔走。自衛隊の情報部門でもっとも大きな足跡を残された方です。陸幕二部(調査部)の初代情報班長で、後に二部長となり、例の「陸幕調査部別班」を創設しています。三無事件や三島由紀夫事件でも名前が登場します。娘婿の方もたしか陸自のソ連情報の専門家で、北部方面総監になられていたと思います。
②小杉平一
旧内務官僚で、初代陸幕二部長。後藤田正晴氏とともに草創期の自衛隊の情報部門を牽引しました。その後、警察庁に戻られ、最後は関東管区警察局長で退官されています。2006年までご存命だったようで、ひと足遅かったと残念です。
③山崎重三郎
元参謀本部第2部支那課支那班長(中佐)を務められた旧軍の中国専門家で、戦後はキャンプ座間の米陸軍第500部隊(情報部隊)に参加し、日本人調査要員のリーダーとして長く務められました。かつて国会で共産党に「山崎機関」などと追及されたこともありましたが、いずれにせよ戦後の在日米軍の情報活動をもっともよく知っていたはずの人物です。
④岩畔豪雄
旧軍の情報部門を牽引した著名な将校です。登戸研究所、中野学校、昭和通商などの生みの親で、南方工作機関として知られる岩畔機関の指揮官でもあります。また、対米開戦を回避すべく、開戦直前のアメリカで奔走されたことも有名です。
縁者の方が評伝を出版されていますが、やはり秘密事項の多い謀略戦の部分は依然謎が多く残されています。また、この方は戦後、在野で右翼系の活動をされていた形跡もあるのですが、その部分はまったく謎です。1965年に京都産業大学の設立に奔走し、同大の初代世界問題研究所長を務められています。同大の直系には、日米秘密交渉で有名な若泉敬氏などもいます。
⑤村井順
旧内務官僚で初代内閣調査室長。退官後は綜合警備保障の創設者。有名な方で、かつては共産党系メディアなどにさんざん批判的に書かれてきましたが、その足跡が正しく伝えられていない気がします。
⑥三浦義一
昭和裏面史最大の大物。児玉誉士夫氏を超える戦後最大のフィクサーですが、ロッキード事件で有名になった児玉氏と違い、その人生の詳細はあまり明らかになっていません。私が知っている範囲では、猪野健治氏の『日本の右翼』に書かれた人物来歴がもっとも詳細と思いますが、それでも三浦氏の足跡のほんの一部といえます。あれほど重要な役割を果たした人物にしては、あまりに情報が少ない。黒幕の宿命なのでしょうが、戦後史を知るには欠かせない人物です。
⑦関山義人
三浦系の大物右翼ですが、戦中に香港で関山機関を運営したり、戦後にG2と密接に関わったり、大日本義人党などを指揮してコワモテ系として睨みを利かせるなど、なかなか興味深い役割を果たした人物です。昭和最後の黒幕として有名な西山広喜氏を育てた人物でもあります。三浦氏と関山氏を中心に、その周辺の右翼群像に迫れば、戦後史の空白のピースが埋められる気がします。
以上、いま脳裏に浮かんだ名前を書き連ねてみましたが、他にも興味深い人物はたくさんいます。
以前、『ワールド・インテリジェンス』で藤原岩市・元陸上自衛隊調査学校長や、天川勇・元海軍大学教授などの足跡について記事を書いたことがありますが、こうした作業は非常に興味深いものがあります。
近年は佐野眞一さんによる甘粕正彦氏の評伝『乱心の曠野』や、工藤美代子さんによる笹川良一氏の評伝『悪名の棺』などの傑作がいくつも世に出ています。笹川氏などはちょっと前まではアンタッチャブルな領域でしたが、ようやく昭和裏面史の人物に光をあてる時代になってきたのだと思います。
2011/12/13(火) 14:13:33 |
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まだ生きてたのですねえ。
▽ノリエガ元将軍、22年ぶり母国パナマへ ただちに刑務所収監 (CNN日本版 12月12日)
現在、77歳だそうです。22年も経ったのかと感慨深いものがあります。
▽写真館⑬米軍パナマ侵攻その1 ▽写真館⑭米軍パナマ侵攻その2 そういえば、米軍侵攻も12月で、暮れも押し詰まった頃でした。クリスマス・イブはひとりでドンパチの取材。その後、たしか陸路でコスタリカに抜けて、年越しはコスタリカでした。
古い話ですが、当時の取材について以前書いた長文記事を貼ってみます。なお、以下は編集部から「レポートというより、若い読者を想定した読み物ふうに」「現地取材より、現地に入るまでのエピソードを中心に」とオファーされたものなので、現地の当時の様子はほとんど書いてありません。悪しからず……。
<戦場行き特別便>
198O年代末、中米の小国・パナマの〝独裁者〝ノリエガ将軍とアメリカ政府の対立は次第に深まっていた。99年にアメリカからパナマに返還される予定のパナマ運河をめぐる綿引きがその背景にはあったが、大国意識丸出しで圧力を強めるアメリカに対し、ノリエガは〝反米〝の闘士となって対抗する。冷戦時代にはCIAの協力者であったノリエガだったが、89年、米ブッシュ政権はノリエガを麻薬取引き容疑で告発。ノリエガもアメリカに宣戦布吉する事態に至った。
そして、ついに同年12月2O日午前1時、およそ2万5000人の米軍がパナマを急襲、パナマ国防軍は敗走したのである。
当時、米国・ニューヨークを拠点としていた筆者は、空港が閉鎖されて「陸の孤島」となっていたパナマに、なんとか潜入をしようと試みたーー。
突然の侵攻
時代の転換期にはいろいろなことが起こる。そんなことを思ったのは、1989年12月20日の朝だった――。
「やっと起きてきたな。おい、世界はたいへんなことになってるぜ!」
二日酔いの頭を振りながらリビング・ルームヘ入っていった僕に、ランディがニタつきながら声をかけてきた。
彼はユダヤ系の売れないコメディアン。当時、ニューヨーク・ブルックリン地区の安アパートに暮らしていた僕のいわゆる〝ルームメイト〝というやつで、いつもポテトチップスを片手にテレビにかじりついているような冴えない3O 男だった。
「なんだよ、珍しくCNNなんか観てやがるのか?」
画面にはいつものソープオペラじゃなく、気取ったキャスターの顔が映っていた。ヤツが朝っぱらから二ュースをつけているなんてことは珍しいことだ。
「戦争だよ、戦争! オマエ、早く行かなくていいのか?」
東欧でまた政変か?と僕はとっさに思った。その頃、世界の目は、ひと月まえの「ベルリンの壁」崩壊からスタートした一連の東欧政変劇に集まっていたからだ。すでに、東ドイツやチェコの左翼政権が打倒されており、次はいよいよ〝最後の独裁国家〝であるルーマニアの番かとみられていた時期だ。
「へっ、そんなことだろうと思って、もう東欧諸国の人国ビザも明後日のべルリン行きのチケットも用意してあるさ」
ところが、そんな僕の言葉に、ランディはひひっと愉快そうに笑って画面を指差した。
なんだよ……と目を向けた瞬間、僕は思わずあっと声を上げてしまった。画面には、大きなロゴで「BREAKING NEWS(臨時二ュース)」――。そして、なんと「米軍、パナマを急襲」というテロップが……。
なんだって? パナマとはどういうことだ?
こうして僕は、思いもよらなかった戦場に向かうハメになったのだった。
それにしても、突然の米軍パナマ侵攻には、ちょっと意表を衝かれた思いだった。パナマの〝独裁者〝ノリエガ将軍とアメリカ政府の対立は確かに抜き差しならないところにきてはいたが、そうした緊張状態に陥ってから、すでにもうかなり月日が経っていたからだ。
僕もその年の3月にパナマを取材しており、ブッシュ大統領をコキ降ろすノリエガ将軍の演説を間近に目撃していた。あんなに威勢のいいことを叫んでいたら、いつかはアメリ力にやられるなとは思っていたが、だからといって奇襲的な軍事侵攻はいかにも唐突という感じがした。
そうか、世界が東欧に注目しているスキに、アメリ力はいっきに始末をつけようというわけだな……。CNNの画面を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
僕はさっそく取材の準備にとりかかった。ただ、状況が流動的だから、具体的にどう動けばいいのかその時点ではまだ判断がつかない。当初取材を予定していた東欧方面でも、やはりルーマニアの緊張が高まりつつあり、そちらの動きも忘れるわけにはいかなかった。
パナマはすでに戦場と化しており、通常のアクセスが閉鎖されたためにうまく〝潜入〝できるかどうかがわからない。ルーマニアなら陸路での突入が容易だが、その時点ではまだ沸点に達していない。どちらに向かうべきか。僕は迷っていた。
とりあえず、当時メインで仕事をしていた写真週刊誌「フライデー」の編集者の自宅に電話を入れた。日本はもう深夜だったが、この際、構ってはいられながった。どちらに向かうにせよ、取材費のいくばくかを編集部からせしめなければならない。フリーランサーの仕事は、いつだって〝営業〝から始まるのだ。
「わかった。編集長に談判するから、パナマとべルリンのどちらにも飛べるように準備しておけよ」
寝入りばなをタタキ起こされた彼だったが、状況の説明を聞くと、そう言って請け合ってくれた。これでよし。彼に任せておけば、まあなんとかしてくれるはずだ。
さて、こうして軍資金の手配を済ませたら、次は「いかに現場に潜入するか」であった。
戦場取材の第一歩は「戦場に到達する」ことから始まる。ところが、たいていの場合、その地は極度の混乱状態にあるから、観光客のように簡単に入国できるというわけにはいかない。だから、どうすればアクセスが可能かという情報の人手がまずは必要になる。というより、むしろアクセス・ルートの割り出しが戦場取材の仕事の半分以上といってもいいかもしれない。
MTVを観たがるランディをなだめすかして、まずはCNNをウォッチ。CNNが撮れている揚面というのは、少なくとも「彼らには取材ができたもの」であるわけだから、それらを注視していれば、実際に可能な取材ルートがある程度推測できる。
そのとき僕が注目していたのは、とくに米軍の映像だった。米軍が動いた事件の場合、米マスコミは彼らに従軍して取材するのが常だから、もしもその形跡があったときには、こちらも米軍に掛け合わなければならないということになるからである。
ところが、その日は午後になってもほとんど現地映像が流れなかった。米軍の映像は、パナマに向かって旅立つ増援部隊の〝米国内〝の映像ばかり。それはつまり、米軍が記者団を従軍させていないことを表している。ならば、こちらも自力で現地に入るしかない。
念のため航空会社に電話する。当然、向こうの空港が閉鎖されたため、パナマ便は欠航との答え。ならば、隣国コスタリカに飛んで陸路でパナマ入国を図るのが定石だ。ところが、航空会社に問い合わせたところ、こちらも殺到する予約申し込みで数週間は満席とのことだった。
しかし、諦めるのはまだ早い。米軍の軍事行動である以上、米マスコミが現地入りしないわけがない。なにがしかの入国ルートが、必ずアメリカ発であるはずだ。
片っ端から電話を入れてみる。国務省、ホワイトハウス、国防総省……。期待はしていなかったが、やはりめぼしい情報はない。マスコミ関係の知人にもあたったが、彼らも全員が「とりあえず中南米へのアメリ力の出入口であるマイアミで待機するしかないだろう」とのことだった。
結局、CNNもアメリカ3大ネットワークもロクな現地映像がないまま、特別番組で「米軍パナマ侵攻」のニュースを流しつづけ、その日は過ぎていった。
夜半、僕のファックスに、たったひと言のメッセージが入る。
「パナマに行かれたし!」
フライデー編集部からのゴーサインだった。
ジャーナリストたちの戦い
明朝、一番でマイアミに飛んだ。ところが、マイアミ空港はすでに前日から押しかけていた大量のジャーナリストたちでごった返し、大混乱に陥っていた。
「まるでサイゴン陥落時のアメリ力大使館だな、これは」
二ューヨークの事件取材現場でしばしば顔を合わせるロンというSABA通信社の若いカメラマンが呆れ顔で言った。
「どうする? こんなんじゃラチがあかないだろ」
「けど、ここで待つしかないだろうさ」
いちおうコスタリ力便の搭乗カウンターにも行ってみたが、キャンセル待ちのリストだけですでに数百人の名前が書かれていた。これも絶望的だ。
「うわっ、参ったね。これは」
聞き覚えのある声は、前年の中米取材で会ったことのある読売新聞のリオデジャネイロ支局長だった。中米にアクセスするには、南米からもいったんマイアミを経由するのがもっとも早いということで、わざわざブラジルから飛んできたのだ。読売新聞は他にも、ニューヨーク特派員とワシントン支局写真部員の合計3人体制で乗り込んでいた。
僕はこうした数百人のジャーナリスト集団に紛れ、しばらく空港の搭乗カウンター付近で待機していたが、動きがありそうな気配はまったくなく、時間だけが過ぎていった。
こんなとき、すぐにラクをしようとするのが僕の悪い癖だ。「これだけジャーナリストがウロウロしているのなら、何かあればすぐにわかるだろう」ということで、とりあえず空港内のホテルにチェックインし、こまめに報道陣の状況をチェックする作戦をとることにした。
こうなったら焦ってもしょうがない。おそらく最終的には米軍機が報道陣を乗せることになるだろうが、ここにいれば、なんとかそれに潜り込むことぐらいはできるだろう、という読みである。
とりあえず熱いシャワーを浴び、冷たいビールでひと休み。さて、ちょっと様子でも見てみるかとサンダルのまま出発ロビーに降りてみると、なんだか雰囲気がおかしい。カウンターに殺気だったジャーナリストたちが殺到しているのである。
聞いてみると、なんと3大ネットワークのひとつであるNBCテレビがチャーター機を出すという。しかも、ありがたいことに他社の記者もそれに乗せてくれるというではないか!
これはうかうかしていられない。すぐに部屋に戻り、急いでチェックアウトすると、僕もその力ウンターめがけて突進した。こうしたときのアメリ力人記者の押しの強さは「オマエは何様だ!」と突っ込みたくなるほど強引なものだが、このときばかりは僕も負けてはいられない。目の前の記者を2、3人投げ飛ばしてカウンター前にたどり着いた。
ところが、状況は非常に困ったことになっていた。NBCチチャーター機の搭乗者名簿はすでに埋まっていたのだ。つまり、有力マスコミ各社は本社レベルの交渉で席をとってしまい、その他の一般記者たちはあぶれてしまっていたのである。
日本の報道陣では、朝日新聞と、NBCと提携関係にある日本テレビの取材班が手堅くその席を確保していた。あぶれたのは、僕の他には読売新聞のチームとブロック紙代表の北海道新聞の特派員だった。
もっとも、出遅れたのは僕らだけではなかった。その場にいた欧米人の記者たちも、半数以上は〝お仲間〝だったらしく、誰もがカウンターに詰めかけ、記者証を振りかざしながら「自分こそが乗るにふさわしい!」と絶叫していた。こうなると、ジャーナリストなどといってもおぞましいものだ。
状況はほとんど絶望的だったが、僕としても、ここまでくればダメモトでもとことんやってみるしかない。空港の公衆電話に駆け込むと、日本にコレクトコールをかけ、編集部から直接、NBC本社に掛け合ってみてくれるように頼んだ。もちろんフライデーとしては前代未聞のことだ。こうしたときは、さすがに「外報部」という後方支援システムが完備している新聞社やテレビ局といった大組織がうらやましく思えてしまう。もっとも、当然ながら、極東の無名の週刊誌が電話したぐらいで、〝世界のNBC〝がとりあうはずはなかった。
後は、狂乱状態になっているアメリ力人厚顔記者連中のゴリ押しパワーに任せるしかない。ヤツらが騒いでくれれば、なんとかNBC側も〝折れて〝くれるかもしれない……と他力本願を決め込んでいたら、単に席が余ったからなのかどうかはわからないが、案の定、その場にいた〝あぶれ組〝にもオコボレが施されることになった。「フェア」という言葉を大切にするアメリカ社会の、そこは美点のひとつといえるだろう。
「それではちゃんと並んで、ひとりずつそれぞれのプレスカード(記者証)を提出してください!」
カウンターにいた目つきの悪い女係官がそう叫ぶと、その場にいたジャーナリストたちはわれ先にと争ってそこに殺到した。僕は、少し余裕を持ってその最後尾についた。なぜなら、僕は世界でもっともステータスの高いプレスカードを、たまたまそのとき持っていたからである。
アメリカ駐在の特派員でも担当者にしか発給されないという国連本部の記者証を僕が取得できたのは、偶然にも、その2週間前に中米二カラグアの反政府ゲリラ「コントラ」の総司令官による演説が国連本部内で行われ、その取材をしたからだった。
二カラグア内戦は、僕がフリーランスになって初めて選んだ取材テーマで、前年の秋からその年の始めにかけ、コントラの従軍取材をしたばかりだった。国連での取材はその延長だったが、そのために必要な記者証を、そのとき僕は国連報道部の担当者に掛け合って特例的に出してもらっていたのだ(ちなみに、こういうとき必ず「君の雑誌を見せてくれ」と言われるのだが、ハダカやエロ記事が満載の日本の週刊誌は困るである)。
いかにも怪しげな僕の風体に、女係官はじろりと懐疑の眼差しをくれたが、そこは国連本部の記者証がものを言ったのか、無事、席を確保することに成功した。
深夜、ジャーナリストを満載した特別便は、パナマのハワード米空軍基地へ向けて、マイアミ国際空港を離陸した。
米軍占領がもたらしたもの
米軍占領下のパナマでまず目に付いた光景は、徹底的に破壊された商店街や倉庫群だった。それらは、米軍により破壊されたのではなかった。すべて、〝火事場泥棒〝と化した一般市民の略奪によって引き起こされたものだった。米軍の侵攻が直接もたらしたものは、国家権力の消滅そのもの、つまりは完全なる〝無秩序〝だったのだ。
銃器が普通に出まわっているパナマでは、こうした即席略奪団と武装自警団との〝戦闘〝がそこかしこで多発しており、それが僕らにとってももっとも危険だった。日本人記者のなかにも、取材中に強盗に襲われた人がいた。
全土に米軍が展開したが、敗走したパナマ国防軍兵士による狙撃事件も頻発した。僕らが狙われるということはなかったが、逆に、不用意にカメラを向けると逆上した米軍兵士の銃口が向けられるなどということがたびたびあった。
主要な戦闘はすでに一段落していたが、僕は米軍の〝敗残兵狩り〝を追い、いくつかその場面を撮影することができた。敗残兵は、いずれも私服に着替えて潜伏していたが、米軍に見つかると諦め顔で〝お縄〝についた。勝者と敗者は歴然としており、それに意義を唱える者は誰もいなかった。
明らかな〝侵略行為〝だったが、パナマ国民は米軍を〝解放者〝として歓迎した。子どもたちは米軍兵士につきまとってチューイング・ガムやチョコレートをねだっていたが、焼跡のその風景は、僕が父母たちから聞いた〝戦後〝のイメージそのままといってよかった。
米軍の追跡を逃れたノリエガ将軍は、亡命を求めてバチカン大使館に逃げ込んだが、その周辺には米軍の装甲車が多数展開し、上空では米軍機やヘリが桐喝するように轟音を轟かせつづけた。
ひととおり取材を終えた僕は、陸路でコスタリカ国境を抜けた。ちょうどその日、ノリエガ将軍が米軍に投降したという二ュースを聞いた。もっとも、世界の注目はその頃、流血の惨事となったルーマニアにすでに移っていた。
8O年代最後の日を、僕はコスタリ力の首都サンホセの遊園地で迎えた。そこは、隣国で行われた戦争などにはまったく関心のないだろう着飾った娘たちで溢れていた。
「ちっくしょう、ルーマニア行きてえなー」
僕は、そう思いながらカウントダウンを聞いていた。
3、2、1……。ゼロの瞬間、打ち上げ花火がどんどんという音を立てて炸裂した。
「新年、おめでとう!」
そこかしこで矯声が上がった。
「おめでとう!」
僕も大声で叫んだ。陽気なラテン・アメリカンは、年越しの瞬間を無礼講で祝福する。僕も郷に入っては郷に従えと、ルーマニアのこともパナマのこともしばし忘れて、周囲のギャルたちに片っ端からキスをした。
「今年もよい年でありますように!」
イラク軍がクウェートに侵攻して〝湾岸危機〝が勃発し、僕が再び〝戦場〝に旅立つことになるのは、この8ヶ月後のことである。(了)
2011/12/12(月) 16:07:55 |
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CNNによると、シリア独裁政権がホムスで篭城中の民主活動家に対し、最後通牒を突きつけた模様。反政府活動を停止しなければ、空爆を含む徹底的な攻撃で鎮圧するとのこと。実行されれば、いっきに数千人規模の虐殺が行われる可能性すらあります。
シリア反体制派の動きも、自由シリア軍の存在感が強まっていて、事態は内戦化に流れてきている印象があります。反体制派もすっかり「外国の介入拒否」から「外国の介入を求め」る方向に変わってきました。当初は内戦化や外国の軍事介入を否定していた国民評議会は、今でもそう言ってはいますが、外国の助力をさらに要請するようになってきました。おそらく将来的には武装反乱と外国軍によるアサド軍攻撃も見据えていると思います。
2011/12/12(月) 03:23:34 |
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『軍事研究』今月号の巻頭言で、志方俊之・元北部方面総監(帝京大教授)が面白い論点を書いています。以下、意訳的に紹介します。
原発が安全だなどというのは、もともと「造られ」た神話であって、想定外などというのは端からウソだった・・・ここまでは、いま日本の主流になっている反原発派の意見と同じ。結果的に大筋で事実と合致しているといえます。
しかし、この反原発派言説の主役は、いわゆるリベラル系の政府(権力)批判論者が担っているのが現状です。ですが、志方先生はどうもそういう方面とは一線を画しているイメージがありますね。それで続けて読むと、出てきました。
「これと同じ安全神話立ち上げの思考過程は、わが国の安全保障や防衛についても同根の問題を持つ。わが国に対して、国民の生命を脅かし、国家の主権を脅かす脅威があっても、それを見ないようにし、専守防衛政策を貫けば、わが国は安全だとの安全神話を、造り、信じさせ、それが現実に潰え去っても、これまでの誤りを糊塗する。そんな政治やマスメディアがあることを、警戒し自戒しなければならない」
なるほど。安全などというのはマヤカシであり、常に脅威に備えよと。私自身は原発神話の作られ方に関しても、安全保障の脅威評価に関しても先生とはちょっと違う意見なのですが、志方先生の議論は非常に明快で筋が通っていますね。
そうなると、原発の普遍的危険性を重視し、対策(廃止など)を訴える人は、日本に対する軍事的脅威を重視し、専守防衛撤廃や自衛隊の戦力増強も訴えなければならないということになります。今の言論の風潮をみると、どちらかというと、日本の軍備に反対する人がだいたい原発にも反対していた印象なので、なかなか興味深い指摘と思いました。
毎度大胆な発言でお馴染みの北郷源太郎氏の「市ヶ谷レーダーサイト」にも、面白い指摘がありました。舌禍事件で更迭された沖縄防衛局長について、
「(過ちは)言った相手を間違ったことにある。沖縄メディアにオフレコが通用すると思っているとしたら、頭がおかしいと言えよう。その意味で沖縄局長としての資質に欠け、その意味でなら更迭されるべきである」
そういう見方もあるのですね・・・。
2011/12/11(日) 18:46:27 |
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ここ数年、自衛隊情報部隊OBを中心にオーラル・ヒストリーを行う機会がありましたが、とくに自衛隊の草創期に関わった人の中には、旧軍経験者が何人もいらっしゃいました。記事のテーマとは外れるので書いていませんが、それぞれの生い立ちから戦中にかけてのお話は、やはり非常に「壮絶」なものがあります。
太平洋戦争関連のオーラル・ヒストリーは皆様のご年齢を考えると、もう最後のチャンスといってよく、いくつかのメディアがそうした試みをされていますが、非常に重要なことだと思います。
本人へのオーラル・ヒストリーではないですが、昨夜のド深夜、NHKで「ファミリー・ヒストリー」という番組の再放送を視ました。芸能人の父母や祖父母の人生をたどる内容ですが、太平洋戦争世代は誰もが非常にドラマチックな人生を送っていますね。とくに俳優・浅野忠信さんと、その祖父母の物語(祖父が進駐軍の米兵)とのめぐり合いは、そのまま一編の映画のような感動モノでした。
振り返ると、戦中・戦前の父母や祖父母の人生など、自分はほとんど知りません。なんで今までまったく興味がなかったのかなあ・・・。皆様はいかがですか?
2011/12/11(日) 17:20:39 |
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フェースブックの呼びかけで「どれだけ人が集まるか?」が注目されていた10日のロシアのデモですが、モスクワだけでロイター通信では2万5000人、AFP通信では5万人と報じられています。私の経験則では、デモの人数は膨大な野次馬が合わせてカウントされることが多いので、おそらくロイター情報が事実に近いのではないかなという気はしますが、いずれにせよ「思ったより集まったなあ」という印象です。
(フェイスブックの賛同者がそのくらいの人数でしたから、ほぼ予想どおりとの見方もありますが、私は「ネットで支持しても行動が伴わない人が少なからず存在するだろう」と考えていました)。
おそらくデモ側がプーチン体制をひっくり返す事態にはならないと思いますが、街頭行動としてはそれなりに無視できない規模なので、今後の動向が要注意です。
いずれにせよ、以前にも書いたように、もはやネットとデモの合わせ技いよる「政権批判」は止められません。プーチン政権は、かつてのゴルバチョフ=エリツィン時代の長いマフィア支配にダメージを与え、石油収入をテコとした経済回復で国民の支持を得ましたが、そういう過渡期も落ち着いてくれば、人々はやはり強権に反発しますし、前よりマシとはいえ、いまだに払拭されない汚職構造にもムカつきます(これは私も現地で知っているわけですが、ゴルバチョフ=エリツィン時代のロシアは、ナイジェリア並みの腐敗国家でした。国民的習性になったそうした社会文化はそう簡単には払拭できません)。
プーチンの与党・統一ロシアは、かつての55年体制の自民党のような絶対安定権力で、今でもおそらく第一党は揺るがない支持率を持っていますが、政治社会構造的に、批判勢力の伸張は必至になります。こうした状況で、強権ぶりが国民の反発を買うと、今はどんな国でも支持率が短期間に急激に変動する可能性があります。
プーチン政権は「強権的」ではありますが、せいぜいマスコミ支配・世論操作や選挙違反、批判勢力に対する嫌がらせ程度のことであり、かつてのソ連や現在のアラブ独裁国家のような有無を言わさぬ暴力的措置は出来ません。
事ここに至れば、ロシア政局の流動化は不可避で、年末にかけての動向が注目されます。
2011/12/11(日) 14:27:55 |
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フェースブックでシェアさせていただいたサイトです。
▽The 45 Most Powerful Images Of 2011 写真の力というのは、やはり凄いです。
それにしても、こうして見るとやはり深い哀しみほど心を撃ちますね。ただし、これほどの写真というのは、単に偶然に撮れたわけではないでしょう。人間の哀しみを冷静に表現できる鉄のハートがカメラマンには必要なのだと思います。
他方、拙ブログですでに4月にリンクしたものですが、下は私が2011年にもっとも衝撃を受けた影像です。
4月22日、シリア南部のイズラアで撮影されたデモ弾圧場面。それまでいくつか出ていた弾圧場面影像には、出所不明のユーチューブ影像ということで、独裁政権サイドから「ヤラセ説」がずいぶん喧伝されていたのですが、この影像がそんなプロパガンダをいっきに吹き飛ばしました。
▽シリアのデモ弾圧場面 (※きわめて残虐なシーンがあります。全編7分30秒の長尺の影像ですが、とくに1分10秒目からはドーンと来ます。ハードなシーンが苦手な方は、冒頭1分09秒間のみ視聴されることをお薦めします)
これは当事者が携帯電話で撮影したもので、映像表現などはまったく考えてもいない素人影像ですが、本物のもの凄いパワーを持った影像で、私は大きな衝撃を受けました。戦慄の臨場感というか、心を抉られるという意味では、(こういう比較は不適当かもしれませんが)あの津波の影像を超えるものがあります。
こうした影像はこれだけではなく、いくつもあるわけですが、それこそ命がけで撮影され、国外に持ち出され、配信されたもので、他のどんなに評価されたジャーナリストの影像よりも価値があるものと、私自身は考えています。
武装した政府側民兵・治安部隊の「虐殺」に丸腰で立ち向かう彼らには、こうした影像しか武器がありません。彼らが身の危険を冒してまで、こうした影像を撮影・配信するのは、世界に現実を知らせ、助けて欲しいからです。
彼らは「ヤラセではない」(演技ではない)ことを証明するため、あえて死体や怪我人を撮影します。しかし、そうした影像は「残虐すぎる」との理由で、世界のテレビや新聞には載りません。新聞は「犠牲者は4000人」などとは書きますが、そんな文字列に世界の人は反応はしません。
この影像の撮影日から、もう8ヶ月も経つわけですが、殺され続けている彼らを、私たちはまだ救えずにいます。
ところで、そんなシリアですが、昨日、英「スカイ・ニュース」が、ホムス潜入ルポを報じました。
▽Inside Syria: Daily Life Amid The Gunfire (こちらは英テレビで放送されたもので、残虐影像はありません)
ホムスは独裁政府側の猛攻で毎日多くの犠牲者が出ている街で、当然ながら自由な取材は独裁政権によって許されていません。政府側に包囲されている状態で、どのようにしてそこに潜入できたのかはわかりませんが、イギリス人のジャーナリストたちの仕事ぶりは尊敬に値します。
(ただし、やはり流血シーンなしでは、リアリティがユーチューブにはるかに叶わないのは否めませんが)
2011/12/08(木) 21:30:30 |
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米インテリジェンス時事解説大手「ストラトフォー」の本日付の公開レポートです。
The Covert Intelligence War Against Iran イスラエルもいろいろやってますね。
2000年代の西側インテリジェンス機関の主敵はアルカイダでしたが、2010年代はイランということになりそうです。
2011/12/08(木) 20:48:49 |
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今月4日のロシア下院選での不正に抗議する数千人規模のデモがモスクワ(最大7000人との報道があります)とサンプトペテルブルクで5日・6日と連日行われていて、多くのデモ参加者が逮捕されています(5日には400人、6日にも500人拘束との報道があります)。
いまや街頭デモは世界的な流行になっていて、ロシアも例外ではありません。今後もことあるごとに行われていくことになるでしょう。
デモとセットで、インターネットが反体制派の武器になるというのも、今のトレンドです。ロシアでは、不正行為の現場を撮影した影像がユーチューブなどにいくつもアップされ、ブログやSNSで広く拡散されています。不正行為をネットで告発→抗議デモ→弾圧→抗議後押し・・・という流れが出来ているわけですね。
ネット告発&街頭デモのセット闘争は、今後はどの国でも起こります。もはやどの政権もそれを無視することはできません。新しい時代と言っていいかと思います。
(追記)
一方、プーチン首相の動きも早いですね。先ほどTV報道されていましたが、支持者たちとともにTV出演し、自ら支持率低下を認め、汚職撲滅を強く訴えるパフォーマンスを行っています。なるほどテレビの使い方は上手いですね。
さて、反政府デモVSプーチンの戦いはどうなるでしょうか?
2011/12/07(水) 12:07:44 |
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ちょっと前に「印象操作」に関して拙ブログで言及しました。今回、印象操作というほどの話ではないですが、ちょっとしたことでも印象が変わるという例を見てみたいと思います。
今日の主要紙の見出しです。以下はネット記事なので、本紙では表現が違っているかもしれませんが、少なくともネット記事上での報道姿勢ということで見てみます。
「粉ミルクにセシウム 明治40万缶交換」(東京)
「セシウム:明治の粉ミルクから検出 最大30ベクレル、埼玉で製造 40万缶交換」(毎日)
「明治の粉ミルクからセシウム 規制値は下回る 無償交換」(朝日)
「明治の粉ミルクからセシウム 規制値は下回る」(日経)
「明治の粉ミルクから微量セシウム…無償交換へ」(読売)
「粉ミルクからセシウム 専門家は『健康問題ない』『冷静な対応を』」(産経)
同じニュースなのですが、上から扇動指数の高い順です。
「微量」ときっちりと書いたのが読売。日経と朝日も「規制値は下回る」ときちんと見出しで表示しています。規制値を大幅に下回っていますから、本来なら「規制値を大幅に下回る」と書いてほしかったですが、見出しは字数制限もありますから、それはしかたないでしょう。
産経は、このニュースが扇動的に広まることを予想し、その予防線をきっちりと見出しに打ち出しています。このニュースは、消費者が過剰反応するのが誰にでもわかる事例ですから、報道姿勢としては、以上の4紙は合格としていいと思います。
それに比べると、東京と毎日は、もう少しそうした点の配慮が必要だったのではないかなと言わざるをえません。毎日は数字をきっちりと表記していて、そこは間違いではないのですが、「最大30ベクレル」という表記は、知識のない一般読者に「それは大変だ!」との印象を与えます。同じことを報じていても、見出しでの「最大30ベクレル」(毎日)と「微量」(読売)の印象は全然違うわけです。
東京新聞は今や反原発では『赤旗』に迫る勢いですが、今回の見出しが意図的なものかどうかはわかりません。ただ、原発関連ではおそらく「たいしたことはない」という方向では書かないのではないかなという印象はあります。
いずれにせよ、こういう場合は、たまたまどの新聞を購読するかで、ニュースの受け取り方に温度差が出ます。新聞はどこも左右の色がついていますから、そのあたりを勘案して読むのがベターです。今回の場合、前述したように私個人は4紙が合格と思いますが、読売、産経あたりが扇動派批判傾向なのはだいたい想像できるので、そうでない「朝日」がひとこと「規制値を下回る」と表記したのは評価すべきと考えます。それほど意図的なものでもなかったかもしれませんし、小さいことですが、重要なことだと思います。
(ところで、白血病患者急増ネタやら、東電福一所長の入院に関する陰謀論など、ネット上ではデマ情報があいかわらず凄まじいですね。SNSでまわってきたある情報では、被災地出身者が海外で講演し「プルトニウムが降った!」とか言っちゃってます。現場からの告発!とかで信憑性が増し、こうやってノイズ情報が拡散されていくのでしょうね)
ところで、この粉ミルクは全部廃棄してしまうのでしょうね。もったいない話ですが、消費者は別に他社のでも構わないわけですから、それはこのメーカーの該当品はわざわざ選ばないでしょう。明治としては、製品全体に影響が出ないように、他に選択肢はなかったということでしょう。
しかし、どんなに微量でも問題ということになると、他のメーカーも他人事ではないはずです。今後、こうした事例は続出することが予想されます。
明治の粉ミルクは、廃棄するぐらいならソマリアあたりの飢餓地帯に送ってあげたほうがずっと有益だと思うのですが、そうすると今度は「汚染品をなんてことに!」と海外の新聞あたりで叩かれるのでしょうね。なんとか援助団体側からの要請とかいうかたちででも出来ないものでしょうか。
(蛇足ですが、前エントリーでニカラグア・ゲリラ取材時の写真をアップしましたが、別の機会に今度は政府軍に従軍取材したことがあります。超貧乏な左翼政権だったのですが、部隊の携帯食にやたらブルガリア産の肉の缶詰が大量に配られていました。援助物資ということでしたが、兵隊の間では「チェルノブイリの影響で売れなくなったものらしい」と囁かれていました。普通の住民はめったに肉など食べられないので、みんな大喜びでしたが)
ところで、今日のニュースでは、福島県民への東電の賠償額が大きく報じられていました。賠償に関しては、やたら過大な期待を煽る報道が続いていましたから、今後、あらゆる方向からの不満続出と、さらにはそれらに起因するバッシングが予想されます。
(追記)
翌8日の朝刊で東京新聞が「粉ミルクのセシウム 被ばく線量ごくわずか」という記事を掲載しました。適切な措置だと思います。先入観から「原発関連ではおそらく『たいしたことはない』という方向では書かないのではないかなという印象はあります」と書いたことをお詫びします。
(追記2)
福一原発の吉田前所長が食道がんであることを公表しました。被曝の影響であることは考えられません。
そもそも所長が被曝起因の急性疾患に陥るような事態であれば、現場作業員は少なくとも数十人単位で重篤になっているはず。非公表というのであれば、それ以外の要因によるかなり深刻な疾患であることは明らかで、ご本人やご家族の気持ちを慮ってそっとしておくのが普通の神経だと思うのですが、この間の「病状」をめぐる部外者の騒ぎぶりは少し異常なのではないかと感じています。
一日も早いご回復をお祈りします。
2011/12/07(水) 08:20:58 |
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最近、拙ブログ「写真館」シリーズもかなり懐古趣味になってきていますが、こんな写真もあり。SNSにアップしてみたら知人関係にはちょっと好評だったので、調子に乗ってみます。
今からマイナス23歳、マイナス20kgの頃の私の、個人的な記念写真です。
中米ニカラグアの反政府ゲリラを従軍取材中、部隊の燃料補給待ちが何日も続いたときがあって、その間、軍事訓練を受けてみました。射撃の成績は、まあまあ悪くありませんでした。止まっている的を狙った範囲ですが。
SNSでも質問が出たのですが、使用している銃はAK47です。反共ゲリラなのですが、武器はCIA資金で、ダミー商社経由でブルガリアの武器商社「キンテックス」から購入したと聞いています。
キンテックスは当時はKGB配下だったブルガリア諜報機関のフロント企業なので、CIAの敵サイドになるのですが、どういうカラクリなのかはよくわかりません。武器ビジネスの世界はとにかく奇奇怪怪です。
ただ、世界のどこでも、左右どちらでも、ゲリラはどこも基本的にはAKシリーズです。非ソ連製コピーとかも大量に流れていますが、とにかく安くて強くてメンテも楽で、と大人気。質の良いものは、やはり現場ニーズがあるのですね。
ちなみに、数えたわけではありませんが、私の印象ではニカラグア反政府軍の95%くらいはAKだったと思います。残りはM16、G3、FN-FALとかでしたが、幹部クラスにはFALが人気ありました。どうせなら全部AKにしたほうがいいと思うのですが、FALを持っていると「クールだぜ」というような雰囲気がありましたね。
(追記)
私をドンパチ好きなガンマニアと思われた方もいたようなので、誤解なきよう追記します。
武器一般に興味はありますが、それだけです。私はへタレなので、鳥を撃つこともビビって出来ません。ゲリラが撃ち殺した鳥の肉は謹んで頂きましたが、自分で殺すのはダメですね。兵士はおろか、狩猟が必須科目の英国貴族にもなれそうにないです。
2011/12/07(水) 07:25:48 |
写真館
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ワイド内の短記事ですが、本日発売の『週刊朝日』に「米調査報告書で明かされた中国『対日サイバー攻撃」拠点」という記事を寄稿しました。11月11日に発表されたアメリカ国防総省の元中国部長と専門家2人の研究チームによる報告書は、人民解放軍総参謀部第3部に関しておそらくこれまででもっとも詳細なレポートで、同記事では紙数の関係でそのほんの一部を紹介しました(記事化が遅れたのは、読み込むのにしばらく時間がかかったため)。
中国軍のサイバー攻撃拠点は、要するに日本海~東シナ海に沿って点在しています。なぜかというと、そこはもともと第3部の日本・朝鮮半島・極東米軍を狙うシギント拠点で、ゆえに日本語翻訳要員ないし日本の事情に通じた要員が揃っているからです。シギントとサイバー攻撃(というよりはサイバー・スパイ)は技術的なものだけでなく、語学という点でも通じるものがあるわけですね。
ところで、サイバー攻撃はもう世界のあらゆるところで発生しています。
たとえば、一昨日はロシアで下院選挙があり、プーチン=メドベージェフ体制の与党・統一ロシアが大幅に議席を減らしましたが、その選挙の際、政権を批判する反与党系のメディアのサイトがDDoS攻撃を受け、クラッシュしました。攻撃を受けたのは、有力紙『コメンルサント』、ラジオ局『エコー・モスクワ』、それにいくつかの有力なネット・メディアです。
少し前の当ブログで紹介したノンフィクション『サイバー・クライム』に詳しいですが、ロシアは世界最大のハッカー大国で、しかもバックに闇組織が存在します。カネで動くハッカーはいくらでもいますし、そうした人脈が体制側の治安当局や軍部にも繋がっています。なので、こうしたサイバー攻撃は明らかに与党系の上のほうの勢力による犯行でしょう。ああいう国ですから、犯人が摘発されることはないと思いますが、こうしたことはおそらく他の国でも今後は普通に起こっていくのではないかなと思います。
話が変わりますが、12月4日、アフガニスタン国境に近いイラン領空で、米軍の無人機「RQ―170センチネル」が撃墜されました。これに対し、ISAF筋はロイター通信に対し、「制御不能となってた米軍の偵察機のようだ」とコメントしています。
「制御不能となった」という部分は、あり得ない話ではなですが、おそらくウソではないかなという気がします。 RQ―170センチネルは米空軍の最新鋭のステルス偵察機で、かのビンラディン襲撃の際にも投入されています。攻撃力はありませんが、隠密偵察任務では絶大な力を発揮します。アメリカはイラン上空での飛行を否定していますが、実際のところは、イラン偵察を行なっていた可能性が高いのではないなと思います。
無人機は高額なものですし、最高機密の技術情報の塊ですから、今回のように敵側に機体をとられるのはまずいわけですが、それでも人的被害が出ないことから、偵察任務でどんどんあちこちに投入されていくことは間違いないでしょう。見つかったら「制御不能になった」と言えばいいわけですし。
ところで、かのFOXテレビ『24』の最終話であるシーズン8では、テロ対策ユニット(CTU)が無人機による偵察を常套手段としていましたね。『24』のこれまでのシーズンでは、偵察衛星によって「いつでも、なんでも見えてしまう」という設定になっていましたが、私は無粋な重箱ツッコミで「衛星が撮影できるのは、アメリカといえど数時間おき」「それも1回につき1~2分くらい」と『ワールド・インテリジェンス』映画特集その他で書いてきました。おそらく同じようなツッコミをする人がアメリカにもいて、それで無人機の登場となったのかもしれません。
アメリカ政府の捜査機関が国内で無人機を使っているのかどうかはよく知りませんが、それは効果は絶大ですから、いずれは普通に使用されていくものと思います(ま、ヘリを出せば済むことが多いでしょうが、無人機も有効ではあるでしょう)。スパイ映画の世界でも現実の軍事作戦の世界でも、これまでは偵察衛星に対する期待が非常に高かったですが、実際は無人機がずっと使い勝手がいいのではないかと思います。
2011/12/06(火) 08:22:14 |
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スパイ&テロとはまったく関係ないものですが、カメラマン時代に発表した写真記事も何点か手元に残っていたので、ついでにアップしておきます。
スペインでテロ対策関連を取材中、たまたま左翼の反政府デモに遭遇。デモ参加者(中央)が私服の公安警察官たちに逮捕されました。スペインの警察はかなり過激で、催涙弾を撃ちまくり、デモ隊を平気でボコボコにします。撮影者もデモ隊側と見なされるので、ちょっと危険です。
こちらは一転してほのぼの系というか、いわゆる「街ネタ」あるい「暇ネタ」と呼ばれる記事。「アメリカでドライブスルーの裁判所がオープン!」という記事です。今はあまり見かけませんが、以前の週刊誌にはこのテの記事がよくありました。
スポーツ写真もときどき撮りました。これは全米大学アメフト選手権の記事です。
こちらはウインブルドンのプレ大会で決勝まで勝ちあがった全盛期の松岡選手です。たまたまイギリス滞在中に撮影オファーがありました(以上4点はいずれもフライデー)
(追加)
私は週刊誌出身なので、国内外ともにニュース取材が多かったのですが、たまにはドキュメント風のものもやらせていただいたことがあります。下は宝島で、当時は社会現象になっていた「コギャル」の聖地・渋谷センター街の風景です。
当時は偽造テレカを売るイラン人だらけでしたね(上写真の右上)
2011/12/04(日) 14:43:48 |
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