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ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

シリアで虐殺が始まりました

 本日、シリアのハマという町に独裁政権の戦車部隊が入り、無差別砲撃を始めました。国際報道ではすでに60人以上が殺害されたと報じられていますが、フェイスブックなどでは100人以上との数字も出ています。
 殺される側からのライブ映像が、早くもネット配信されています。
▽戦車の砲撃を受けるハマ
 上記の映像はとくに残虐シーンはありませんので、ぜひ見てください。
 他の映像では、頭部を完全に吹き飛ばされた死体なんかも出ています。大虐殺のナマ中継という酷いことになるかもしれません。
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  1. 2011/07/31(日) 18:53:48|
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またまた反原発について

 当然といえば当然ですが、3月以降の出版業界はことごとく原発ネタ一筋に集中しています。とくに反原発派の本が売れセンとして定着し、扇動的であればあるほど出せば当たる傾向になっているようです。
 ということで、原発ネタと無関係のライターには逆風が吹いている状況ですが、それはともかく、普通に仕事をするうえでも、私のような「『反原発』に懐疑的な立場」はなかなかやりづらくなっています。というのも(私の知る限りですが)、クライアント様である編集者の方々の圧倒的多数が反原発派で、しかも政府や東電に心底から敵意を抱いている人が多いのですが、それだけでなく「反原発でない人や、放射線の脅威を軽く見る人」に対しても、なにか「この人、敵なのね」というような雰囲気になったりするからです。
 夜の酒場でも似たようなもので、今はどこに行ってもすぐ原発の話題になるのですが、反原発の人は、私のような立場に対し、非常に攻撃的に責めてくることが多いです。で、私はたまたま出身地がいわき市なので、その話をすると許してもらえるという感じになっています(単に出身地というだけで、私自身は実害はまったく受けていないのですが)。スポーツ・チームをめぐって討論ふうになるのは楽しいですが、原発絡みはなぜかいつも殺伐とした雰囲気になりますね。
 つまり、それだけ今の日本人がマジになっているということですが、この「対立」の空気はなんとかならんものでしょうか。反原発も容認派も、べつに日本の将来をよくしたいということは同じなんでしょうが、互いを敵視し、とにかく敵の言動を封じることに血道をあげています。自分たちの意に沿わない専門家を訴えている狂気の人々すらいます。
 それで、あまりメディアは報じていませんが、私の周囲をみるかぎり、逆に「反原発派を敵視する空気」も確実に増えている気がします。クレイマーとかモンスターペアレントとかと同じカテゴリーに見られつつあるわけです。
 感情的に対立しても、あんまりいいことはないと思います。
 日本の将来のために、原発容認か反原発かはどんどん議論すべきでしょう。子供たちの将来のために、放射線の脅威の実態をどんどん調査・分析すべきでしょう。しかし、たとえば「原子力ムラ」だの「御用学者」だのといった侮蔑表現を使って感情的に取り組んでいると、まあ、だいたい情報分析は誤るのではないかなと思います。たしかに「やらせメール」みたいなつまらないことをする電力会社経営者も問題ですが、だからといって「なんでも電力会社陰謀論」というのも、だいたい情報分析を誤るもとになると思います。

 私は原子力や放射線医学の分野は素人ですが、素人なりの私見を再び書いておきます。
 素人が情報を判断する際のひとつの方法として、「信用度の高い専門家の言説を探す」という方法があります。これはある人物に100%の信頼を置いてはダメです。が、確率的には悪くない対処法です。
 では、どうやって信用度の高い専門家を見極めるか。「肩書き」「経歴」「他人の評価」も重要な判断材料になります。あるいは、その専門家の他の分野における言動なども参考になります。たとえば、私の比較的得意分野である国際関係の分野で、「ユダヤ系財閥が世界を牛耳っている」などというトンデモ論を書いていた人は「バイアスに弱い」傾向があるとわかります。
 ここで、気をつけなければならないのは、自分自身のこうした判断も、それ自体がバイアスがかかっていることを自覚することです。なので、そうした印象ですぐに結論を出すのは厳禁です。しかし、バイアスというのは、情報を見誤る最大の元凶でありながら、情報を絞り込むツールとしてはそれなりに有効であることも事実です。
 後は、これはもう正攻法ですが、言説の根拠を検証することです。難解な科学的分野を検証するのは至難のワザですので、こういうときは「消去法」が有効です。この部分の論拠は、じつは明確に示されていないなと思えば、それをどんどん消去していきます。
 ここで注意すべきは、根拠とされた情報の、そのまた根拠です。これを2つ3つ辿ると、じつは根拠はなかったということが、どんな分野でも実際にはものすごく多くあります。人間個人の能力には限界があるので、これはどんな人が書いたものにもあります。かく言う私だって、そうしたことはこれまで無数にあったはずです。
 それと、情報は無数にあるということも念頭に置く必要があります。実際、どんな分野でも、扇動的な言説には、都合の良いことだけを繋ぎ合せて極端な結論を導き出しているケースがかなりあります。陰謀論はたいていこれです。私見をいえば、現在、放射線の脅威を叫んでいる人の言説の多くに、このパターンが見られます。
(逆の立場でも、このパターンは見られます。たとえば、アンチ反原発派にときおり「放射線は身体に良い」ということを強調する人がいますが、これも典型的な例です)
 そうやって消去法でみていくと、つまらない感情論がまず排除しやすくなります。そうやって見ていくと、現在の論点は3つに大雑把にわけられることがわかります。
①政府・東電は国民を騙す悪か?
②原発容認か反原発か?
③放射線被曝は深刻か否か?

 この3点はいずれも別個の問題なのですが、一緒くたにされている現状があります。①は、②③に比べると瑣末な問題ですが、もうバイアス論調のオンパレードな感じです。情報として参考になるものは、実際あまりないです。
 ②は比較的、対立軸のはっきりした論点です。リスクの評価に若干バラつきがありますが、要はリスクをどこまで負うかという「考え方」の違いなので、議論の前提がそれほど乖離した話ではありません。実際には「原発は環境を破壊するのだから、悪いに決まっている」と最初から信じている人も多いですが、そのあたりは議論も可能かと思います。
 問題は③です。現在、日本国民が感情剥き出しで互いに「敵対」しているのは、③が主要因になっています。
 この問題は、国民の「食いつき」がいいので、報道現場でも非常に力を入れて行っています。ですが、私見では扇動情報がものすごく多いです。「危ない、逃げろ」「危ない、食うな」という話は、根拠を消去法で消していくと、ほとんどすべて消えると思います。
 もちろん「自分は危ないと思うので、逃げたほうがいい」「危ないと思うので、食べないほうがいい」と考え、「それが現在の自分の考えです」と世に公表することは構わないと思うのですが、「間違いない」と言うのは間違いです。
 私個人の考えを言うと、①はそんなに関心はありません。②は、当面は火力発電への段階的シフトがいいのではないかなと思いますが、原発を全廃するのは無理でないかなと思います。リスクとコストの問題です。
(私は情報分析の観点から、現在の感情的反原発論調に批判的ですが、原発にリスクがあるのは承知しているので、コスト容認の範囲内で脱原発の方向自体はいいのではないかと考えています。もちろん火力発電にも別個のリスクがありますが、最近の発電施設はコスト・パフォーマンスもかなり良いようです)
 ③は私は明確に「扇動派批判」です。福一の現場作業員の方、避難生活を送られている方、風評被害で苦しんでおられる方、のケアが急務ですが、県外の生活者が大騒ぎする必要はないとの考えです。放射線がまったく影響ないとは思っていませんが、現状のレベル程度であれば、大騒ぎする弊害のほうが大きいと思っています。よく「健康のためなら死んでもいい」と健康オタクを揶揄する表現がありますが、それを笑えない感じになってきている気がします。
  1. 2011/07/31(日) 13:13:44|
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自由シリア軍の声明

 シリアの民主化デモは、現在も「拡大」⇒「弾圧」⇒「拡大」⇒「弾圧」のループを繰り返しつつ、さらに規模が拡大の一途を辿っています。この頃の金曜日デモではもう毎回100万人を越えるデモ隊が出ています。総人口は約2200万人なので、デモ参加者のほとんどは10代~60代の男性であることを考えると、ものすごい動員人数といえます。正直、中東アラブの人たちが、ここまで勇気をもって頑張れるとは思っていませんでした。ちょっと凄いなと思います。
 ホムスやハマあたりはもう反政府派が主導権を握りつつありますが、やはり問題はアサド政権側が集中防衛しているダマスカスとアレッポですね。ダマスカスではデモがかなり出てきていますが、軍が大々的に投入されているので、デモ隊もセンターに大集結というふうにはなかなかできません。ここ数日、ダマスカスでは数千人規模で逮捕者が出ています。今後はダマスカスをめぐる攻防戦になりそうです。来週はじめからラマダンに入るので、今後はおそらく深夜デモが増えます。
 いずれにせよ、もうアサド体制の終焉は不可避になっていますが、問題はどのような政変の形態をとるかということです。今後も反政府デモは拡大しますが、彼らは非武装のデモ隊なので、軍や公安部隊により容易に鎮圧されます。外国軍が反政府派を支援ということも考えられません。
 なので、最終的には「軍が割れる」しか道はありません。ただ、マヘルの精鋭部隊が一般部隊に睨みを効かせていますから、軍の反乱も容易ではないわけです。
 昨日、逃亡将校らが「自由シリア軍」結成を発表するユーチューブ映像が流れました。軍服からすると、おそらく共和国防衛隊かいずれかの特殊部隊の将校ですね。とはいえ、そこに出ていたのは大佐2名、中佐1名、その他4名の計7名。重要な第一歩ではありますが、まだまだ道は遠い感じです。
▽「自由シリア軍」声明
  1. 2011/07/30(土) 18:41:58|
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CIAビンラディン追跡の内幕

 某誌でペンディングになっていた原稿が結局ボツってしまったのですが、せっかくなのでここに収録しておきます。もともとは拙著『ビンラディン抹殺指令』出版時に企画したもので、内容も同書のエッセンスがメインですが、それ以降明らかになってきた情報も取り入れ、とくにビンラディン襲撃作戦の経緯について情報を更新しました。
 まあ、こういう生もののネタは鮮度がもたないので、ペンディングになった時点で予想はしていました。長いですが、細かく投稿するのも面倒なのでいっきにいきます。

いま明かされるCIA秘密工作の全貌 ビンラディン追跡15年の全内幕

 ワシントンDC郊外のバージニア州ラングレー――。
 鬱蒼と茂る森の中に、広大な駐車場を持つ白亜の建物がある。アメリカ中央情報局(CIA)の本部である。映画や小説でもお馴染みの世界最強のスパイ組織だが、当然ながらその活動の実態は国家機密の厚いベールに覆われていて、その職員たちが実際にどんな活動をしているのかを外部の者が窺い知ることはできない。
 もっとも、どんなに隠そうとしても、情報の断片はふとしたはずみで流出することもある。こうした情報はいまやインターネットで、米議会報告書や民間インテリジェンス研究機関のレポート、あるいは欧米主要メディアの報道を丹念にフォローするとそれなりに入手することが可能で、筆者はもう15年近く、そうしたCIA情報を収集・分析して軍事情報誌を中心に発表してきた。
 そうして見えてきたCIAの近年の動向を簡単に述べると、次のようなものになる。
 冷戦時代、ソ連の強大な情報機関「KGB」(国家保安委員会)と壮絶なスパイ戦争をたたかってきたCIAは、90年代はじめの冷戦終結でその最大の〝敵〟を失い、迷走の時代に入った。とくに、クリントン政権時代には完全に干されてしまい、予算も要員数もおよそ3分の2程度にまで削減された。信じられないことに、CIA長官が大統領になかなか面会できないほど、政権内で軽んじられたのである。
 しかし、そんな逆境の時代にあっても、強化された部署があった。イスラム・テロ対策のセクションである。共産圏のスパイという敵を失ったCIAだったが、代わりにイスラム・テロリストという新たな敵な登場したのだ。
 CIAのイスラム・テロ対策セクションは、92年のニューヨーク貿易センタービル爆弾テロ事件で最初の強化が図られ、98年のケニア・タンザニア米国大使館爆破テロを機に大幅に拡充された。ちなみに、CIAが明確に国際テロ組織「アルカイダ」とその首領オサマ・ビンラディンを米国への脅威と位置づけたのは、その2年前の96年初めの頃である。
 いずれにせよ、その頃からCIAは本格的にビンラディン追跡工作を開始したが、そうしたなかで2001年1月にブッシュ新政権が発足し、同年9月にあの9・11テロに見舞われることになる。それから10年、CIAは総力を挙げてビンラディンとアルカイダ幹部を追跡したが、成果は出せなかった。対テロ戦争に邁進したこの10年間のアメリカ政府内で、CIAはそれなりに重要な役割を担ったが、やはりどうしてもその最大の標的を仕留められないということは、CIAにとっては大きな引け目になっていた。
 ビンラディンを見つけ出す――。これがこの10年のCIAにとって最大の課題だった。そのため、CIAでも選りすぐりの工作員や分析官が、ビンラディン追跡担当に配置された。
 したがって、今年5月1日のビンラディン殺害は、CIAにとってはその汚名を挽回する記念碑的な快挙だった。実行したのは米海軍の特殊部隊だったが、ビンラディンの居所を突き止め、急襲作戦の青写真を描いたのは、CIAのビンラディン追跡チームだった。
 世界中を驚かせたこの作戦に関しては、同日中にオバマ大統領自らがその大まかな経緯を公表したが、当然ながらその裏で動いたCIAの情報活動の詳細は秘匿された。
 しかし、アメリカ国民にとっても大きな関心事だったこの作戦については、アメリカの主要メディアが全力で追跡取材に動き、〝真の姿〟が徐々に明らかにされている。なかでも興味深いのが、7月5日にAP通信が配信した「ビンラディンを狩り出した男」という長文記事で、そこではビンラディン追跡で中心的な役割を果たしたCIA幹部分析官の詳細な経歴が紹介された。
 パキスタン紙なども含め、他にもさまざまなメディアが今もビンラディン急襲作戦の詳細に迫っている。そうした最新情報も参考にし、作戦から数ヶ月を経てようやく判明してきたCIAの秘密活動を振り返ってみたいと思う。

 5月1日午後1時22分(アメリカ東部時間)。CIA本部のカンファレンス・ルーム(会議室)――。
「これより海神の槍(ネプチューン・スピアー)作戦を発動する!」
 ビンラディン襲撃作戦をそう言って実際に命令したのは、レオン・パネッタCIA長官(当時)だった。その作戦 は、すでに4月29日朝にオバマ大統領のゴーサインが出ていたが、悪天候のために延期されていたのだ。
 もともと弁護士出身でクリントン政権の主席大統領補佐官でもあったパネッタは、民主党では予算編成や財政改革の専門家として知られていた人物で、オバマによって09年1月にCIA長官に任命されたものの、諜報活動や軍事作戦はほとんど素人だった。それでもこの作戦を彼が統括することになったのは、作戦場所が軍の活動域の外だったからだ。そのため、作戦に投入された軍の特殊部隊の隊員たちは、公式には一時的にCIA出向とされていた。
 パネッタの指令は、アフガニスタンのバグラム空軍基地で特殊部隊の指揮をとる統合特殊作戦コマンド司令官のウイリアム・マクレイブン海軍中将に伝えられ、待機していた79人の特殊部隊要員と1匹の軍用犬が直ちに出動準備に入った。同時にバックアップのために空軍の戦闘機や救難ヘリ、無人偵察機も動き出した。
 アフガニスタン時間の同日午後10時、CIAが軍の特殊部隊を統括する最重要オペレーションが、こうして始動した。標的は、パキスタンの首都イスラマバード郊外アボタバードの隠れ家に潜む国際テロ組織「アルカイダ」の首領オサマ・ビンラディンだった。
 2001年の9・11テロから10年、CIAが血眼で行方を追っていた〝お尋ね者〟の所在に繋がる情報の端緒が捕捉されたのは、昨年8月のことだ。それから8ヶ月以上もの極秘調査の末、ようやく襲撃作戦が実行に移されることになったのだ。
 その頃、オバマ大統領は何食わぬ顔でゴルフに興じていた。オバマがホワイトハウスに戻ったのは、米東部時間の午後3時過ぎ。シチュエーション・ルーム(作戦司令室)には、すでにゲーツ国防長官やクリントン国務長官ら主要閣僚と、国家安全保障問題担当の高官たちが集まっていた。CIAからは、ビンラディン追跡チームを率いた前出の分析官(当時の肩書きはアフガニスタン=パキスタン部副部長)が派遣されていた。
 オバマが到着した直後、アフガニスタン東部のジャララバード基地から、特殊部隊がヘリでパキスタンに侵入した。作戦の状況は、CIA本部のカンファレンス・ルームからの中継でパネッタ長官が説明した。
 同時に、シチュエーション・ルームのスクリーンには、アフガニスタンから越境出撃したRQ-170センチネル無人偵察機から衛星回線で送られてくる無音の空撮映像が映し出されていた。スクリーンの操作はホワイトハウスに派遣された統合特殊作戦コマンド司令官補佐官のマーシャル・ウェブ空軍准将が担当した。
 レーダーに映りづらい特殊作戦仕様の汎用ヘリ「ブラックホーク」2機に分乗した米海軍特殊部隊「シール・チーム6」のレッド・チーム隊員24名による急襲作戦が開始されたのは、それから約1時間後。パキスタン現地時間で午前1時過ぎのことだ。
 特殊部隊は12名ずつの2班に分かれてビンラディン邸に突入した。寝込みを襲われたビンラディン側の抵抗はわずかなもので、20分足らずのうちに邸内は制圧された。ビンラディン本人と彼の息子のひとりを含め、計5人が特殊部隊に射殺された。
 その後、米特殊部隊員はすばやく邸内を捜索し、パソコンのハードドライブやDVD、メモリースティック、文書類などを押収。ビンラディンの死体を回収して撤退した。突入から撤退まで、わずか38分間の鮮やかな電撃作戦だった。パネッタ長官からビンラディン殺害の報告を受けたオバマは、ようやくホッとした様子でこう漏らした。
「ウイ・ガット・ヒム!」(奴を仕留めたぞ)

 こうしてオサマ・ビンラディンは54年間の波乱の生涯を閉じたが、じつはCIAがビンラディン追跡に乗り出したのは、9・11テロより何年も前のことだ。CIAとビンラディンの水面下の攻防戦は15年間にも及ぶもので、9・11以前にも何度も襲撃作戦が試みられていたのである。
 そもそもCIAが反米活動家のひとりとしてビンラディンの存在を認識したのは、おそらく90年秋頃のことだ。その年8月にイラク軍がクウェートを占領して〝湾岸危機〟が勃発し、サウジアラビアが防衛のために米軍の駐留を認めたのだが、それにビンラディンは強く反発した。ビンラディンは80年代にアフガニスタンで反ソ闘争に参加したイスラム義勇兵のひとりだったが、このとき「米軍を撤退させ、代わりに元アフガン義勇兵同志軍を作って、王国を守るべき」との建白書を国王に提出している。
 これがサウジ政府に受け入れられなかったため、ビンラディンは91年にスーダンに移住して、そこで反米活動を開始する。とはいえ、当初はあまり目立つ存在ではなかったため、CIAもまださほど警戒はしていなかった。
 それよりも、90年代前半から半ばにかけて、アメリカは幾度も他のイスラム過激派によるテロの標的にされており、そちらの捜査に忙殺されていた。スーダンのビンラディンの活動が活発化し、CIAのテロ分析官の何人かが、ビンラディンとその国際テロ組織「アルカイダ」を危険視するようになるのは、94年から95年にかけての頃だ。
 CIAで秘密工作を担当する作戦本部(現・国家秘密工作本部)のテロ対策センターに、特命ユニット「ビンラディン追跡班」が発足したのは、96年1月である。といっても、当時のテロ対策センターはイスラエルのハマスやレバノンのヒズボラ、あるいは南米コロンビアの左翼ゲリラなどを主に追いかけていて、ビンラディン追跡班の要員もわずか十数名しか割り当てられなかった。
 しかも、ビンラディン追跡班には、自前で工作員をスーダンやアフガニスタンに派遣する権限は与えられなかった。ビンラディン追跡班はCIAのなかでも亜流とされ、もっぱら現地から送られてくる報告書と公刊資料をもとに、細々と情報分析するのが関の山だった。

 しかし、そんな間にもビンラディンのアルカイダは急速に成長をとげた。ビンラディンは96年5月にアフガニスタンにすると、その頃アフガン全土をほぼ手中に収めつつあったイスラム勢力「タリバン」の庇護を得て、国際的なイスラム・テロのネットワークの中心的存在となっていったのだ。
 ビンラディンは、イスラム世界を侵食している欧米キリスト教勢力、なかでもその盟主たるアメリカを最大の攻撃目標とした。もともとサウジアラビアの財閥の御曹子だったビンラディンには豊富な資金源があり、彼のもとには世界中のイスラム過激派が集まってきた。アルカイダは96年から97年にかけて、アメリカの最大の脅威に急浮上した。
 じつは、そんなビンラディンへの襲撃作戦を、CIAは早くも97年には計画していた。作戦本部が、アフガニタンの非タリバン系の軍閥を買収し、ビンラディンを拉致する作戦を立てたのだ。実際、その予行演習が米国内で2度にわたって実施されたのだが、肝心のビンラディンの所在がわからず、実行に移されなかった。
 拉致作戦が実現しなかった背景には、冒頭に書いたように、当時のCIAの海外作戦能力の著しい低下があった。しかし、そんなCIA側の都合には構わず、ビンラディンは対米闘争をさらに本格化させた。98年2月には、エジプトやパキスタンなどのイスラム過激派組織とともに、「ユダヤ・十字軍との聖戦のための世界イスラム戦線」なる名称の組織を旗揚げし、正式に対米ジハード(聖戦)を宣言した。
 これを受けて、アメリカ情報機関はビンラディンの動向把握に本格的に乗り出した。パキスタンやアフガニスタンに駐在するCIA工作員たちは、パキスタン軍の情報機関との連携を強化するとともに、地元のイスラム保守派や地元部族の買収を進めた。また、国防総省の通信傍受機関「国家安全保障局」(NSA)は、ビンラディンやアルカイダ幹部の衛星電話の盗聴を開始した。ビンラディンたちはまだ自分たちがアメリカ情報機関のターゲットになっていることに気づかず、一般のインマルサット電話を使用していたため、NSAはとくに現地に要員を派遣することもなく、衛星回線の傍受によってビンラディンの通話を難なく盗聴することができた。
 それでも、CIAはビンラディンの対米テロを事前に察知することができなかった。ビンラディンはすでに数年をかけて破壊工作員の海外潜伏を進めており、98年8月、本格的な対米ジハードの第1弾として、ケニアとタンザニアの米国大使館で爆弾テロを実行した。300人以上が殺害されるというきわめて大規模なテロだった。
 この連続テロが、アメリカとアルカイダの全面戦争の幕開けとなった。2週間後、アメリカはアラビア海に派遣した艦艇から、ビンラディン抹殺を狙ってアフガニスタンに計66発もの巡航ミサイルを発射したが、やはり正確な所在情報を掴んでいなかったために取り逃がした。この巡航ミサイル攻撃の3日前、米紙『ワシントンポスト』が、「米情報機関がビンラディンの衛星電話を傍受している」とのスクープ記事を掲載したため、ビンラディンが電話の使用を取りやめていたことが致命的だった。
 クリントン政権はビンラディンの捕捉もしくは抹殺を決意し、当時のジョージ・テネットCIA長官はアルカイダとの〝戦争〟を宣言した。アメリカの情報活動予算は減額傾向にあったが、CIAをはじめ各情報機関の対アルカイダ部門だけは強化された。
 CIAは98年以降も数度にわたってビンラディン襲撃作戦を計画したが、あるときは本人の所在情報がつかめず、またあるときは実行直前にパキスタンの軍事クーデターが起きて実行されなかった。クリントンは99~2001年、ビンラディン所在情報が入ったときに備え、密かに艦艇と特殊部隊をアラビア海に常駐させたが、やはり確証のある情報が入らなかった。
 2000年に、ホワイトハウスのテロ対策チームが中心になってビンラディン襲撃作戦が練られたが、アメリカの政権交代で一時凍結された。新大統領となったブッシュがそれを許可したのは、9・11直前の01年9月4日だった。
 こうしてアメリカ当局が手をこまねいているうちに、ビンラディンは9・11を実行した。

「あらゆる手段を講じても、ビンラディンを捕捉あるいは排除せよ!」
 ブッシュ大統領がCIAにそう命じたのは、9・11テロから6日後の01年9月17日のことだった。それまでアメリカ政府は軍事作戦以外の〝暗殺〟を公式に禁じてきたが、この大統領命令は事実上、それを解禁するものだった。
 CIAは組織を挙げてビンラディン追跡に乗り出したが、それを予想していたビンラデョンはすでに姿を消していた。9・11テロ直前まで、ビンラディンはアフガニスタンのカンダハル南部のタルナック農場と呼ばれる基地を本拠地としていたが、側近や護衛を引き連れて東部のパキスタン国境地帯に潜伏したのだ。
 CIAは特命チームをアフガンに送り、その行方を突き止めたが、米軍の猛烈な空爆に追い詰められたビンラディンは01年12月にパキスタンに逃走し、同国西部の部族地域に身を潜めた。
 CIAはアフガニスタンとパキスタンに外交官や軍人に偽装した200名以上の工作員を投入し、ビンラディンの行方を追ったが、以後、ビンラディンの消息はぷっつりと途絶えた。ビンラディン死亡説が何度も流れたが、本人はときおりビデオや音声による声明をインターネットで公表し、健在をアピールした。
 CIAはビンラディン追跡の態勢を大幅に強化した。テロ対策センターの陣容をそれまでの約400名からいっきに約1500名に増員。ビンラディン追跡班の他にも、アルカイダ幹部を専門に追跡する「重要標的班」を設置した。アフガン=パキスタン国境地帯でアルカイダ残党を捜索する無人機を運用するCIA準軍事部門も、約50名から約150名の3倍増となった。
 CIAの工作員たちは、地元のイスラム保守派人脈や部族有力者、パキスタン軍情報機関内部に協力者を獲得するなどの諜報活動を進めたが、断片的であやふやな情報しか集まらなかった。それよりも実際に有効だったのは、捕捉されたアルカイダ戦闘員への尋問や押収したパソコンのハードディスク解析、さらにNSAによる通信傍受活動だった。
 NSAははるか宇宙空間に配置された通信傍受衛星や、首都イスラマバードのアメリカ大使館、カラチやペシャワールの領事館の屋上に設置された電波傍受機器を使って、パキスタン国内の無線電話回線をモニタリングした。また、パキスタン軍情報機関に通信傍受機器を貸与し、アルカイダに近いと思われる監視対象の通信をピンポイントで傍受した。
 こうした諜報活動で浮上した怪しい監視対象は、CIA準軍事部門の要員が徹底的な背景調査を行い、ときにはパキスタン軍情報機関と協力して逮捕した。これらの活動により、04年頃までにCIAはアルカイダの全貌をほぼ解明した。
 どこかに雲隠れしていたビンラディンの所在については、電話やEメールをしないビンラディンが必ず使っているはずの連絡要員(レポ)を割り出すことに力点がおかれた。
 じつは、02年には早くもCIAは、ひとりの連絡要員の存在を掴んでいた。アブ・アフマド・アル・クウェイティというゲリラ名の男だったが、当時はCIAにも確証はなかった。しかし、複数の拘束者の尋問情報から、04年までにCIAはこの男こそがビンラディンの連絡要員であることを確信する。それ以降、CIAテロ対策センターのビンラディン追跡班は、この連絡要員の追跡に全力を挙げた。
 CIAは当初、クウェイティと仲間内で名乗っていたこの連絡要員の本名も知らなかったが、07年までには、パキスタンの部族地域出身のイビラヒム・サイード・アフマドという男であることを掴んだ。
 最初にアフマドを捕捉したのは、NSAだった。かねてアルカイダと関係が深いと思われていたパキスタン在住の人物の電話を盗聴していたなかで、その監視対象人物がアフマドと会話しているところを偶然捉えたのだ。昨年8月のことだった。
 その情報をもとにCIAの工作員が追跡調査を行い、同月、ついにアフマドの姿をペシャワールの街角で発見した。CIAの追跡チームは無人偵察機も投入してアフマドを徹底追尾し、彼が首都イスラマバードの北東約60キロにあるアバタバードの豪邸に入るところを確認した。
 その3階建ての豪邸は、見るからに怪しげな建物だった。周囲の家々の8倍以上はある敷地を4メートル以上の高い塀で囲み、入り口は2重ゲートになっていて、バルコニーすらも高さ2メートルの壁で外部から見えないように遮断されていた。どう見ても大金持ちの豪邸なのに、外部から電話線もインターネット回線も引かれていなかった。ゴミも周囲の家のように回収に出すことはなく、すべて敷地内で焼却していた。
 誰か重要人物が隠れ住んでいることは、まず間違いない……CIA工作員は本部のテロ対策センターにそう報告した。
 CIAは衛星写真の分析を担当する「国家地球空間情報局」(NGA)と、無人偵察機を運用するアフガニスタン駐留空軍に依頼し、当該の邸宅の偵察写真を集中的に撮影した。背の高い男性がときおり中庭に出てくることは確認できたが、それがビンラディンだとは確認できなかった。地元のエージェントを介して近所の家を借り上げ、常時監視態勢を敷いた。出入りする人間は徹底的に調査し、レーザーによる遠隔音声採録も試みた。
 子供と女性が多く住んでいることはわかったが、肝心のビンラディンの姿や声は確認できなかった。周囲の住民たちもこの家の人間とは一切交流がなく、主人の姿を見た者は皆無だった。CIAはパキスタン人医師を買収して偽のワクチン接種を偽装し、住人のDNAを採取しようとしたが、それも失敗に終わった。

 それでも数々の状況証拠から、そこがビンラディンの隠れ家である可能性は高いとCIAは判断し、オバマ大統領にも伝えられた。オバマはアフガニスタンからの米軍撤退やキューバのグアンタナモ収容所の閉鎖を公約したり、就任後に「核なき世界」宣言をしたりしていることから、世間では〝ハト派〟とも目されているが、実際には初めからアルカイダ殲滅を主張しており、CIAの活動もブッシュ前政権以上に鼓舞していた。そんなオバマの決断は、当然ながら「ビンラディンを必ず発見し、逮捕もしくは抹殺せよ」であった。
 今年1月、CIAから統合特殊作戦コマンドに共同の襲撃作戦参加が打診され、特殊部隊員が作戦立案のためにCIA本部に派遣された。オバマ政権がビンラディン襲撃作戦実行に向けて実際に動き出したのは、今年3月のことだ。CIAはそこにビンラディンがいる確率を、およそ60%と見積もっていた。
 微妙な数字だった。五分五分よりは高い可能性だが、かといって〝断定〟できる確率でもなかった。それでもオバマは3月14日に安全保障会議を召集し、襲撃作戦の検討を初めて公式に指示した。安保会議はその後、3月29日、4月12日、同19日にも召集された。3月29日の会議で、オバマは米特殊部隊単独の急襲作戦とすることを決めた。特殊部隊が、標的を知らされないままに訓練を開始した。
 作戦の準備は着々と進められたが、オバマは作戦発動命令のタイミングを計りかねていた。ビンラディンがそこにいるという確証がなかったことと、パキスタン軍の対応が心配だったのだ。
 そんなとき、ある事件が起きた。4月24日に内部告発サイト「ウィキリークス」がグアンタナモ収容所でのアルカイダ兵士たちに対する大量の尋問調書を公開したのだ。そこにはCIAがビンラディンの連絡要員について集中的に調査している様子が記されていた。CIAがすでに連絡要員を特定していることまでは言及されていなかったが、いずれにせよ、あまりぐずぐずしていると標的に逃げられる可能性もあった。
 4月28日、オバマは最後の安保会議を召集し、スタッフたちの最終的な意見を聞いた。翌29日午前8時20分、オバマはついに襲撃作戦決行をパネッタに命令した。

――特殊部隊が回収したビンラディンの死体は、そのままアフガニスタンのバグラム空軍基地に運び込まれ、詳しいDNA鑑定でビンラディン本人と確認された。ビンラディン殺害からおよそ7時間後のアメリカ東部時間午後11時35分、オバマは緊急のテレビ会見を開き、ビンラディンの死亡を全世界に発表した。
 ビンラディンの死体はすぐさまアラビア海の米空母「カールビンソン」に搬送され、そのまま水葬された。オバマ会見から2時間半後という早業だった。
 CIAはビンラディン邸から押収した資料を解析し、残されたアルカイダ幹部の追跡に取りかかった。6月3日には、部族地域に潜伏していた軍事部門のイリヤス・カシミリ司令官を無人機により爆殺した。
 他方、アルカイダ側は、6月16日にイスラム過激派系サイトに声明を発表し、新指導者にナンバー2だったアイマン・ザワヒリが就任したことを公表。今後も対米聖戦を続けることを宣言した。実際、パキスタンではビンラディン殺害への報復とするテロが頻発しており、アメリカ当局は警戒を強めている。ビンラディンが死んでも、CIAとアルカイダの戦いは今後も続くのだ。
 今年7月1日、ビンラディン急襲作戦を指揮したパネッタCIA長官は、格上の国防長官に〝栄転〟した。後任のCIA新長官には、今年9月にデービッド・ぺトレイアス前アフガニスタン駐留米軍司令官が就任することが内定している。CIAはますます米軍特殊部隊と一体化し、米軍撤退開始後のアフガニスタンやパキスタンで、対テロ戦争の一翼を担うことになる。
 CIAはもともと、第2次世界大戦時に米軍の秘密工作部門として設立されたOSS(戦略事務局)という情報機関を母体としている。冷戦時代の対KGB情報戦で、軍事とは一線を画したスパイ組織として発展したが、対テロ戦争のなかで〝先祖返り〟しつつあるということかもしれない。
(了)

※CIAの秘密活動をさらに詳細に知りたい方は、拙著『ビンラディン抹殺指令』を是非どうぞ!(⇒アマゾン)
  1. 2011/07/29(金) 08:56:05|
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狂信者(異常者)テロに対処法ナシ

 ノルウェーのテロの犯人は、やっぱり狂信者(異常者)の単独犯でした。
 テロ対策の観点からすると、組織活動を行わず、ネットだけで活動している単独犯(ないし数人の仲間グループ)は事実上、事前に摘発することは無理ではないかなと思います。
 今回の事件では、警察の出動の遅れは否めません。そういう点は至急改善すべきですが、ネットを監視して危うい言動をしている者を監視するなどということは、現実的に不可能でしょう。ネットで極右言動をする人間など、どこの国でも山ほどいます。
 性犯罪者と同様に、狂信者(異常者)がネット世界で妄想を膨らませるということは、あり得ます。なので、ネット自体をガチガチに縛って、そういう「場」を消滅させてしまうとか、ネット書き込みに厳罰を科すような極端な法律でも作れば、そうした妄想の拡大を多少は抑えられるかもしれません。が、それで社会が失う自由もたいへん大きくなります。
 銃砲や肥料や化学薬品の買い手を監視するというのも、限界があると思います。銃砲はともかく、肥料や化学薬品は善良な正当なる購入者がそれこそ山のようにいるわけで、全部を監視するなど不可能です。よほど見るからに怪しい買い手でなければ、犯罪者であることを事前にキャッチするなど至難のワザといっていいでしょう。
 日本でも、あの外事3課の流出資料によって、警察が薬品・肥料店情報を集めていることが明らかにされましたが、たぶんすぐに限界に行き当たるのではないかなと思います。
 テロ対策の基本は、組織活動の監視です。ですが、現実には組織外の狂信者(異常者)によるテロのほうが、少なくとも先進国においては事案自体はむしろ多いとさえいえます。狂信者(異常者)にできることは普通は個人活動の範囲なので、テロの規模としては泡沫レベルですが、今回の犯人のように、稀に用意周到な本格的なテロを起こそうとする人間もいます。その場合、テロを防止するのは、何かラッキーな端緒情報がなければ難しいでしょうね。

 他方、テロ発生時の対処については、今回のノルウェー警察の初動は、やはりお粗末なものでした。詳しい事情は知りませんが、あまりにも遅いといわざるをえません。めったにテロのない国なので、そこは油断があったということでしょう。至急改善すべきであることは、言うまでもないことと思います。
  1. 2011/07/25(月) 22:56:36|
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歩く人

 スパイ&テロの殺伐とした世界とは真逆な話ですが、私の大学時代のゼミの1年先輩で、かれこれ30年近くお世話になっているライターの平田裕先輩が、「まぐまぐ」のメルマガを始められたのでご紹介します。

あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~ 

 平田先輩は元商社マン(中国専門商社)にして元『週刊現代』敏腕政治記者ですが、現在は主に「旅人」をしています。表題にあるように、もう20年もしています。
 旅の出発地はユーラシア最西端のポルトガルのロカ岬。宮本輝の『ここに地終わり、海始まる』に出てくる場所ですね。そこから徒歩で韓国・釜山を目指してユーラシア大陸横断をしているのですが、伊能忠敬みたいに海岸沿いを歩くというコンセプトで、イタリアをぐるりと遠回りしたり、インドやマレー半島をぐるーっと南下したりで、じつにスローペースな旅をしています。
 しかも、しばしば旅先で「沈没」したりするので、まだゴールに到達していません。たしか現時点で上海あたりまで来ていて、今年中にゴールするとは仰っていますが・・・。

 若い頃は無軌道な冒険も何も考えずに楽しめるものですが、50歳近くなってくるとなかなか普通はそういうわけにはいきません。が、こういう人が身近にいるので、私もいろいろ刺激と勇気をいただいています。
 記者出身の人というのは、概して野心的な人が多いものですが、20年も終わらない旅をしている先輩は、真逆のマイペースな人なので、その点でも異色の旅行記になるのではないかと期待しています。

(追記)
 スパイ&テロの殺伐とした世界とは真逆の~~と冒頭に書きましたが、記念すべき第1回のネタは、内戦時のクロアチア&ボスニア旅行記(従軍記?)でした。いろいろやってますねえ、この方。
 そういえば、湾岸戦争開戦すぐに先輩とテルアビブに行ったことがあります。私は『フライデー』で、先輩は『週現』。かの故・江畑謙介氏がスターになり、スカッドだのパトリオットだのが流行語みたいになっていた頃の話です。
  1. 2011/07/24(日) 04:40:01|
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ノルウェー・テロ 犯人の正体は?

 ノルウェーのテロに関して、いくつかメディアの方から問い合わせをいただきましたが、現時点ではまだ犯人の背景などがよくわかりません。
 現地からの報道によると、この32歳の犯人は、ネットでキリスト教原理主義的な書き込みをしたことがあるらしく、04~06年に右翼政党「進歩党」の党員だったということです。欧州によくいるネオナチ系の印象がありますが、狙った標的が移民とかでないので、どちらかというと既成のネオナチ系グループというよりは、もっと直接的に「異常者」な感じがします。

 過去、今回の事件にもっとも似た印象があるのは、アメリカのオクラホマ連邦政府ビル爆破テロではないかと思います。
 オクラホマ事件は、95年4月19日、オクラホマシティ中心のムラー連邦政府ビル(9階建)前に停めたレンタル・トラックが爆発し、ビルの半分ほどを吹き飛ばして、168人が殺害されたとう壮絶な事件でした。
 事件後、現場で発見された金属片に刻まれていた車両認識番号から車両が特定され、その運転者が宿泊していたモーテルの記録から犯人が割り出されています。主犯ティモシー・マクベイは当時27歳。湾岸戦争に戦車兵として従軍した元陸軍兵士でした。共犯はマクベイの戦友だったテリー・ニコルズです。
 彼らはニコルズが所有するミシガン州デッカーの農場を本拠として爆弾製造を行っていました。極右組織「ミシガン・ミリシア」のメンバーだったこともあったと報じられていますが、本人たちおよびミシガン・ミリシアは関係を否定しており、少なくとも同事件にはこうした政治的な背景はありませんでした。マクベイ自身は裁判の過程で、動機なブランチ・ダビディアン事件だったとしています。
 彼らは、極右組織「アーリアン・ネーションズ」支持者でもありましたが、結局のところは、「妄想癖のある軍事マニア」でした。なお、この事件に関しては、2001年にマクベイの死刑執行が遺族にテレビ中継されたことでも話題を呼びました。共犯の二コルズは、仮釈放なしの終身刑となっています。

 今回のノルウェー・テロの犯人も、銃器マニアだったということで、そこもマクベイと共通しています。極右指向も共通していますが、おそらく今回の犯人も、マクベイのように既存の右翼組織の外で、常人には理解できない異常な思い込みをモチベーションにしていたのではないかと推測します。
 オバマ大統領が米大統領戦を戦っていた頃、アメリカの極右が黒人大統領誕生を阻止するためにテロをやるのではないかと盛んにメディアで採り上げられていましたが、その折に私は『軍事研究』誌で、過去の米大統領暗殺・暗殺未遂事案を調べたことがあります。
 それで改めてわかったのですが、それらの犯人にはいちおう極右的な言動の者が多いですが、既存右翼組織の正規活動家は非常に少なく、圧倒的多数が「異常者」でした。
 異常者に関しては、いろいろ微妙な問題があるのでアメリカのメディアでもなかなかホンネで語りづらいようですが、こういう人物は常にある割合で存在し、こうしたテロが一定の割合で発生することは避けられません。
 安全な成熟社会と思われているノルウェーですら起きました。日本でだって、いつでも起こり得ます。もっと多数の人間が加わってはいますが、あのオウム真理教などは、異常者テロの発展型といえます。秋葉原その他の数々の「通り魔」事件も、犯人がもしも爆弾マニアだったら、もっと大規模なテロになっていた可能性もあります。こういう危険は、これからもあります。

 ところで、極右というのも、常にある割合で存在します。日本にもいますし、欧米にもいます。古い情報ですが、拙著『世界のテロリスト』から、アメリカの例を以下に紹介します。


▽白人至上主義組織

◎ミリシア(民兵)
 全米で224団体。30州に存在。会員10万人。ハートランドと呼ばれる農村地帯に集中し、とくにミシガン、アイダホ、モンタナに多い。
 基本的には軍事マニア集団の性格が強いが、独自の軍事訓練を本格的に行っているところもある。思想的にはいわゆる極右であり、白人至上主義、反ユダヤ主義、妊娠中絶反対などを信条としている。
◎「ミシガン・ミリシア」
 94年結成。司令官は銃砲店主ノーマン・オルソン(元空軍兵士)。メンバーは1万2000人。
◎「モンタナ・ミリシア」
 司令官はジョン・トロックマン。白人至上主義者ランディ・ウィーバーがFBIに逮捕されたのに抗議して、92年結成された。やはり独自の軍事訓練を行う。
◎「アーリアン・ネーションズ」(アーリア人国家:ARYAN NATIONS)
 74年に結成。本部はアイダホ州ヘイデンレイクで、そこには20エーカーもの“拠点”がある。18州で活動し、極右組織としては最も過激な行動をとる地下組織として知られる。政府関係者襲撃、銀行強盗、殺人、リンチなどを常套手段とする。
 メンバーは数百人。創設者はリチャード・バトラー。「モンタナ・ミリシア」のトロッコマン司令官と連携している。
◎「オーダー」(秩序:THE ORDER)
「アーリア人国家」から83年に分派。西部一帯を本拠とする。創設者ジェイ・マシューズはFBIとの銃撃戦で戦死。84年にユダヤ人トークショーDJをデンバーで殺害したことで知られる。
◎「クリスチャン・アイデンティティー」
 白人至上主義・反ユダヤ主義組織。
◎「創造者教会」(CHURCH OF THE CREATOR)
 白人至上主義組織。本部はフロリダ州ナイスビル。
 73年、フロリダ州ライトハウスポイントで結成。別名「ホワイト・ベレー」「ホワイト・レンジャー」など。
 メンバーは数百人とみられ、独自の武装訓練を継続している。創設者はベン・クラッセン(93年8月自殺)。現指導者はチャールズ・アルトベーター。
 93年7月、LA警察がユダヤ人および黒人襲撃計画を摘発した。
◎「クー・クラックス・クラン」(KKK:KU KLUX KLAN)
 1864年、テネシー州で創設された白人至上主義組織の老舗。現在のメンバーは5000人前後とみられる。「白い騎士団」(WHITE KNIGHTS)など100前後の下部組織がある。支部長は「グランド・ドラゴン」と呼ばれる。
 ミリシアや他の極右組織と人脈的に多くが重なっている。

▽妊娠中絶反対テロ組織

 アメリカでは、妊娠中絶を認めないキリスト教保守派の過激派が、中絶を行っている病院を放火・爆破したり、中絶容認派を殺害したりというテロを繰り返している。
 82年以降、150件以上の放火・爆弾・銃撃で1300万ドル以上の物的被害が出たといわれる。96~97年には5人が射殺され、8人が銃撃で負傷したほか、数十件の爆弾テロで負傷者多数が出ている。主な活動は、中部・南部地方。これらの組織には、KKK、ミリシア、全米納税者党などが関与してるといわれる。

◎「オペレーション・レスキュー」(救命作戦:OPERATION RESCUE)
 90年、地下活動開始。本部ダラス。創設者はランドール・テリー(全米納税者党リーダー)で、現指導者はフリップ・ベーカー。放火・爆破も辞さない。
◎「ミッショナリーズ・オブ・プレボーン・ナショナル』(MISSONARIES OF THE PREBORN NATIONAL)
「オペレーション・レスキュー」の最過激派。独自の軍事訓練を行っている。カリフォルニア州で活動。指導者はジョセフ・フォアマンとマット・トレウェラ。
◎「アメリカ生命活動家連合」(AMERICAN COALITION OF LIFE ACTIVISTS)
「オペレーション・レスキュー」の最過激派。
◎「命の主唱者たち」(ADVOCATES FOR LIFE)
 本部オレゴン州。中絶者の殺害を主張。94年5月、侵入・業務妨害行為で病院に800万ドルの支払いを命じられる。指導者はアンドリュー・バーネット。
◎「防衛行動」(DEFENSIVE ACTION)
 指導者ポール・ジェニングス・ヒル(殺人罪で終身刑)。
◎ 「神の軍団」(ARMY OF GOD)
 90年代後半、病院襲撃など最も活動的にテロを行った組織。インターネットを駆使することでも知られる。

 ところで話は変わりますが、ノルウェーでは死刑はないですが、今回はもしかすると死刑復活論が出てくるかもしれませんね。日本なら、精神異常でなければこれは死刑でしょうね。
  1. 2011/07/24(日) 02:42:23|
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アブダビなう

といっても、空港で乗り換えだけですが。
待合室、とてつもなく寒い。こんなこともあろうかと、厚手の長袖綿シャツ準備していましたが、それでも寒いです。

今回のレバノンは約1週間の滞在でした。アバウトなアラブなので少し余裕を持ってスケジュールを組んだのですが、拍子抜けするほどスルスルと所用が片付き、後半3日間くらいは飛行機待ちでブラブラしていました。レバノンの人はなんだか生真面目な人々が多かったように思います。
 ロクな資源もなく、幾多の戦火に見舞われた小国なのに、あれだけの街並みを作ってしまうというのは、やっぱり国民に地力があるということなのかもしれません。

  1. 2011/07/14(木) 02:06:01|
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まだベイルートなう

 まだベイルートなう、です。
 ところで、そういえば、一昨日発売の『軍事研究』8月号に「中東政変!独裁と情報の相克 ~内戦のリビアと虐殺のシリア」という記事を寄稿しました。いやあ、ベイルートは平和ですが。
 まあ「アラブの春」の今後は私も大いに興味あるところ。チュニジアやエジプトの件では、別件の仕事にかかっていたため、まったくカバーできなかったのですが、騒乱はまだまだ始まったばかり。当面、リビア、シリア、イエメンあたりはこれからもフォローしていきたいと思っています。
 
 さて、今回、旅ブロふうに写真など。
画像 1502
 ハムラ通りのカリボーカフェなう。今風のカフェで、客の8割くらいはノートパソコンでカシャカシャやってます。アイスカフェラテが320円なり。これで2時間WIFI使用可。ベイルートにはこんな感じのカフェがいたるところにあります。店によって時間無制限のところとか、WIFI使用料別料金で5時間8ドルなんてところもあります。先日入ったダウンタウン(超高級エリア)のカフェなんか、WIFI使用30分制限だったので、あっという間に終了でした。
 反対に、ダウンタウンの外れで通りかかった庶民派ジュース屋(アラブ諸国はどこでもこういう店があります)では、軒先に「インターネット・カフェ」という張り紙があったので不思議に思って聞いてみたら、店の前の道路におかれたプラスチックテーブルで、WIFIフリーでした。ちょっと調べ物があったので、ニンジン・ジュース1杯で3時間くらい使いました。
 レストランでも、そこそこ新しいところは、だいたいWIFI時間無制限フリーのところが多いです。ただし、見るからに古めかしいところはWIFIないところも多し。たとえば昨日の拙ブログを書いたシティカフェにはWIFIがなかったので、ホテルに戻ってから送信しました。
 とにかくこのWIFIの普及によって、海外取材は飛躍的に便利になりましたね。いやあ、パソコン持ってきて良かったです。
 ホテルもWIFI対応のところだと、ネット繋ぎ放題なので、情報収集でもメールでもムチャ楽です。昔はホテルのCNNチャンネルか現地の英字紙くらいしか情報収集手段がなく、カイロの某ホテルのビジネスセンターに設置してあったAPのチッカー(ニュースがタイプ打ちで打ち出されてくるやつ)を見るためにわざわざアンマンからカイロに飛んだこともあったほどですが、技術の進歩はすばらしい!
 なお、私の携帯はいちおうGSM対応なのですが、ローミングがバカ高いので、レバノン国内連絡用にこっちで携帯を買いました。ダウンタウンの電話屋で「いちばん安いのくれ」と言ったところ、ノキアのおもちゃみたいな機種が2400円で、1ヶ月有効のSIMが1600円なり。チャージは3分80円くらいです。通話料は決して安くはないのですが、結構みなさん持っていて、平気で長電話してますね。

 ところで、今回は旅ブロなので、定番の料理写真も。
 画像 1462
 ハムラ通り×ジャンヌダルク通りから南(ベイルート・アメリカン大学の反対のほう)に1本入ったあたりにあるイスタンブールという中級店での、本日の昼食なり。写真手前は羊レバーの串焼き。飲み物はアイランで、ヘルシーセット。1500円くらいですね。これはメチャ旨でした。
 で、本日のお買い物はこれ。
画像 1472
 羊乳チーズとヒマワリの種。ヒマワリといっても、ハムスターの餌ではなく人間用のいわば「おつまみ」です。アラブ世界では定番なんですが、じつは西欧かぶれのハムラ界隈ではあまり売ってません。
 これでホテルの屋上でレバノンビールで一杯やって寝ます。レバノンビールはいくつか試しましたが、定番のアルマザがいちばん私は好みですね。他にアルコールの強いビールが何種類かあるのですが、ちょっと私の好みとは違いました。西欧モノでは、ハイネケンがメジャーです。

 とにかくベイルートは、お金があればものすごく居心地の良い町です。物価が高いので、バックパッカーの長期滞在にはちょっと向かないですが。
 外国人が多いので、東洋人でも比較的ほっといてくれます。たまに暇そうな親父に「ニーハオ」なんてからかわれますが。もっとも、聞いたところでは、最近は東洋人は韓国人ビジネスマンが多いらしいです。ただ、街を歩いたかぎりでは、ハムラ界隈では東洋人はフィリピン人女性の出稼ぎ者をよく見かけますが、男性は少ないですね。
 昨日も書いたように、いわゆるボッタクリもほとんどないし、スリ・泥棒の類も少なく、人々は親切です。今思えば、カイロはしんどかったなあ。ちょっとインド的で(アジアのバックパッカー経験者にはなんとなくニュアンスはわかっていただけると思いますが)。
  
 
  1. 2011/07/13(水) 03:33:46|
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ベイルートなう

 一度「××なう」というのをやってみたいと思っていました。
 で、ただいまベイルートにいます。15年前に一度来たことがあるのですが、そのときは戦争の最中だったので、ほとんど町を見る余裕はありませんでした。今回はスケジュールに若干余裕があるので、町をぶらついてみました。
 で、一度「旅ブロ」ふうにやってみたかったので、今回はそんな感じで書いてみます。

 今これを書いているのは、ベイルート屈指の繁華街ハムラ地区にある「シティカフェ」というレトロな西欧料理レストランです。昔からジャーナリストの溜まり場として有名な店ですが、周辺の小洒落た店に比べると、コストパフォーマンスも含めて少しディスアドバンテージな感じですね。客層は60代以上の地元の画家や作家さんが多いです。ちなみにハムラはキリスト教地区の西ベイルートにあるので、中東アラブとは思えないような派手派手なギャルがわんさかいます。
 ちなみに、このシティカフェのすぐ近傍にはハリリ前首相の家があって、その一角だけもの凄い警備体制です。一度、カメラを持ってウロウロしてたら、警察に呼び止められ、30分もかけて身元調べをみっちりとされました。まあ、西ベイルートで面倒くさいのはそこだけですが。
 私は若かりし頃にカイロには住んだことがあるのですが、カイロに比べると、ベイルートはとにかくいいです。よく「中東のパリ」とか言われますが、パリというよりニースとかの雰囲気です。ちょうど夏の観光シーズンで、実際に観光客だらけなこともあるのでしょうが。
 カイロの食事はイマイチだった記憶がありますが、レバノンの食事はメチャ旨です。アラブ料理といえばレバノンと言われていますが、まさにそうですね。さまざまなランクの店に行きましたが、今のところ「外し」はありません。とくに羊肉好きの私としては、まるで楽園です。
 さらに嬉しいことに、ちゃんとした食事の場合、こちらでは大量の「突き出し」がつきます。ピクルス、ナッツ、ハーブ、ラディッシュ、オリーブ、青唐辛子などが定番ですが、これがまた美味。その国が肌に合うかどうかは、半分くらいは食事で決まると私は思っているのですが、そういう意味では、私自身はレバノンがドンピシャな感じです。
 ただし、欠点はとにかく何でも「高い」こと。物価水準は、全体的にいえば日本の7~8割くらいでしょうか。20年くらい前に海外放浪をしていたので「途上国は激安!」という先入観があるのですが、現代のレバノンではもはや当てはまりません。食事も日本のファミレス程度のセットとなれば、ドリンク込みで1500円くらいは軽くいきます。ちなみに今いるシティカフェだと2500円はいきます。ちなみに、レストランやカフェでドリンク類が高くなるのは日本と同じ。1本150円くらいのビールの小瓶が、レストランだと500円くらいになります。
 宿泊費も高いです。私は今、かつて戦争特派員の定宿として有名だったハムラ地区の最高級ホテル「コモドール」にほど近い安ホテルに泊まっているのですが、1泊6000円くらいします。ハムラ地区でWI-FIフリーで最安値2番手のホテルだと思います。
 部屋は広いですが、設備や清潔度は日本の最安値のビジネスホテルと比しても10段階くらいは落ちます。私の過去の海外経験からすると、正直「これなら1500円でいいんじゃね?」という感じです。日本のビジネスホテル級なら、1万円くらいはします。「だったら日本と同じで普通じゃん」と思われるかもしれませんが、日本と同じというのは、途上国では破格の高さだと思います。
 ロンリープラネットに掲載されているダウンタウン外れにあるバックパッカー宿2軒も見に行ってみました。今はシリア国境が閉鎖されているので閑古鳥が鳴いていますが、個室3000円くらい。相部屋だと1500円くらい。1軒はエアコンなしで、旅行者というよりは地元の兄ちゃんたちの溜まり場状態。もう1軒は清潔でいい感じでしたが、残念なことにWI-FIが故障中でした。
 ちなみに、ベイルートはもともとハムラ地区が高級地区として有名でしたが、ダウンタウンが戦災で破壊された後、ハリリ一族が利権を独占して再開発を請け負い、いまやそこがパリやミラノの高級ブランドショップが軒を連ねる超近代的超高級エリアへと変身しています。西ベイルートは他にもいくつか繁華街があるのですが、とにかく全体的にカフェやナイトクラブが充実してます。たいして見るべき観光スポットもないのに観光で食っていけるのは、このアラブ世界屈指のナイトライフがあるからですね。
 経済のあり方としては、ラスベガスみたいなコンセプトなわけですが、実際、この季節にはアラブ各国から富裕層が単に遊ぶために集まります。かのオサマ・ビンラディンもイスラム原理主義に目覚める前の10代後半の頃には、他のサウジのドラ息子たちと同様に、ベイルートで遊びまくっていたとも言われています。
 ガソリンがリッター80円くらいするので、交通費も結構高いです。タクシーは山ほどいますが、15分くらいの距離でも800円くらいします。市内を走るバスは50円くらいですが、路線が少ないので、なんといっても、セルビスと呼ばれる乗り合いタクシーが便利です。近場であれば110円くらい。ただし、走っている車に瞬時に行き先を正確に告げなけばならないので、多少慣れが必要です。15~20年前のアラブ各国の取材経験では、セルビスなんてどこも30~50円くらいの感覚だったので、やはり高いといえば高いです。
 客がいない流しのタクシーの場合、乗るときに「タクシー? セルビス?」と聞いてきます。メーターなどはないので、タクシーの場合(つまり客1人専属)は乗る前に必ず要交渉。アラブ社会の私の経験では、常にボッタクリとの戦いの記憶しかありませんが、ベイルートはあまりそういうことはありません。ただし、ハムラのホテル街およびベイルート空港の客待ちタクシーだけは別で、相場の5割増くらいですが、それはそのための「待ち」も含めた彼らのビジネススタイルなので、一概にボッタクリということではありません。まあ、最初は相場の2倍くらいのことは言ってきますが。
 ちなみに、タクシー1日借りきりの場合、ベイルート近傍なら8000円前後。レバノンは狭い国で、どんな辺鄙な場所でも余裕でベイルート日帰り圏内ですが、南北の国境付近まで行く1日借りきりだと、だいたい1万2000円くらいになります。長距離はセルビスかバスが断然安いので、安く上げるなら、どこかの町までセルビスで行き、そこでタクシーをチャーターするというのが賢い方法になります。
 レンタカーは1日2500円くらいからあるので断然格安ですが、アラブ世界の常で交通ルールがまったく機能していないので、とくにカオス状態のベイルート市内を自分で運転するのは、ものすごいスリルを味わう覚悟が必要です。私はヨルダンやトルコではレンタカーを借りた経験がありますが、カイロ在住中は「ここではオレには無理だ」と諦めました。ベイルートはカイロほど酷くはないですが、かなり上級者向けです。
 ところで、レバノンでは地元の通貨レバノン・ポンド(レバノン・リラとも言う)だけでなく、米ドル紙幣もかなり普通に使えます。1ドル=1500リラに固定されています。地元の人は慣れているので、瞬時に為替計算を脳内でやってしまいますが、どうせなら簡単なように1ドル=1000リラにしてほしかったです。
 ついお金の話ばかりになってしまいましたが、旅ブロでいちばん有益なのがやはりカネの情報なので、少し詳しく書いてみました。それ以外の話は明日に続く、です。
  1. 2011/07/12(火) 06:23:42|
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「謀略の昭和裏面史」発売!

 前エントリーで紹介した『新装・改訂版 謀略の昭和裏面史』が宝島社より発売になりました。文庫版なので720円です。
 もともと別冊宝島で出したものなので、なるべく読みやすく工夫したつもりです。CIAだのアルカイダだのというと、普段の我々とはあまり関係のない特殊世界の話になりますが、昭和の裏面史は、現在の日本が今のようなかたちになったルーツのようなものであるので、より身近に感じていただけるのではないかなと思います。
 今ちょうど旅先にいて現物が手元にないので、アマゾンに出ていた「目次の一部」を以下に紹介します。

『新装・改訂版 謀略の昭和裏面史』
 
まえがき ニッポン現代史の地下人脈

昭和裏面史の見取図

序章 昭和裏面史の読み方
 昭和を知るキーワード

第1章 関東軍の大謀略
 謀略のルーツは「大陸浪人」と「帝国陸軍」
 「張作霖爆殺」の陰謀
 仕組まれた戦争「満州事変」
 …ほか

第2章 テロ&クーデター
 「桜会」クーデター未遂事件
 浜口首相狙撃事件と血盟団事件
 「5・15事件」と血盟団人脈
 …ほか

第3章 大陸の特務機関
 上海「松機関」の偽札作戦
 「梅機関」と南京傀儡政権樹立工作
 「里見機関」のアヘン工作
 …ほか

第4章 太平洋戦争「謀略」秘史
 特務機関のビルマ・インド独立派工作
 戦場に流れた「謀略ラジオ」
 世界に放たれた日本のスパイ
 …ほか

第5章 「焼け跡」の陰謀
 終戦クーデター計画
 毛沢東暗殺計画
 消えた日銀ダイヤとM資金
 …ほか

第6章 日本の黒い霧
 「キャノン機関」の地下人脈
 謀略の「昭電疑獄」
 謎の勢力「ジャパンロビー」
 …ほか

第7章 高度経済成長の舞台裏
 55年体制を作った「黒幕」の系譜
 「昭和の妖怪」岸信介を支えた反共/満州人脈
 賠償ビジネスに群がったフィクサー
 …ほか

第8章 冷戦下の謀略戦
 反共抜刀隊&関東会と児玉誉士夫
 右翼タブーの誕生
 三無事件は自衛隊クーデター未遂か!?
 …ほか

第9章 フィクサーの亡霊
 ロッキード事件ーー児玉ルートの謎
 「ニセ電話」鬼頭判事補の右翼人脈
 「笹川良一」と「統一教会」のタブー
 …ほか
(以上)

アマゾンに出ていた版元様の紹介文も記しておきます。ホメまくっていただいていますが、もちろんセールス文です。

商品の説明

内容紹介

昭和という時代には、表の現代史には出てこない裏の人脈が、連綿と続いてきた。右翼、戦前軍部(特務機関)、保守系政治家などの人脈だ。本書は、戦後の下山事件、帝銀事件、金大中拉致事件、ロッキード事件など、謀略の痕跡がささやかれてきた「未解決事件」を取り上げ、その背景で蠢いた「黒幕たち」の足跡を追うもの。笹川良一、児玉誉士夫、自衛隊撮影の部隊、中曽根人脈……2007年に刊行され、ロングセラーとなったウラ現代史の名著が、内容を改訂して新装版として登場!原発の父「正力松太郎」の暗躍などを新たに盛り込んだ力作!

著者について

黒井 文太郎 (くろい ぶんたろう) プロフィール
1963年、福島県生まれ。週刊誌編集者、月刊『軍事研究』解説記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経てジャーナリストに。軍事インテリジェンスの分野を専門とし、とくに旧日本軍の特務機関に詳しい。主に軍事専門誌や月刊誌・週刊誌で旧陸軍特務機関、CIAやKGBの機密資料分析、中国や北朝鮮の対日工作、自衛隊非公然部隊などに関する調査記事を発表している。著書に『日本の情報機関』(講談社)、編著書に『戦後秘史インテリジェンス』(大和書房)、プロデュース作品に『公安アンダーワールド』『迷宮入り!昭和・平成未解決事件のタブー』(ともに宝島社文庫)、コミック原作に『大日本帝国 満州特務機関』『大日本帝国 実録 陸軍中野学校』(ともに扶桑社)などがある。
  1. 2011/07/09(土) 15:13:00|
  2. 著作・メディア活動など
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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