リビア:首都で衝突、多数の死者 カダフィ氏「徹底抗戦」毎日2011年2月26日
カダフィは人間としても最低ですね。本人はキャラから言っても、最後まで留まるのではないかなと思います。最期はチャウシェスクのように銃殺されるかナジブラのように吊るされるかと思いますが、同情すべき余地なしです。
バカ息子たちは最後は逃亡を図るのではないでしょうか。こんな奴らです。
▽長男 ムハマド(40歳)
「長男なのに世襲レースから脱落」
母親が前妻であるため、長男なのに後継者レースから脱落しました。北朝鮮の金正男のような立場。リビア五輪協会会長を務めるほか、総合郵便通信社会長として同国の通信事業を統括していました。
▽次男 セイフ=イスラム(38歳)
「父にポストをもらった後継者」
もともとは慈善財団の理事長。09年、父に「人民社会指導部総合調整官」という国家指導ポストを新設してもらって就任しました。イギリス暮らしが長い親欧米派・改革派で、後継者候補として急浮上中しました。現在、カダフィ政権のナンバー2としてふるまっています。10年の大晦日にカリブ海のセントバート島で年越しパーティーを開き、そこに100万ドルのギャラでマライア・キャリーを呼んだそうです。
▽3男 サアディ(37歳)
「カネでつかんだプロサッカー選手」
元サッカー選手。イタリアのペルージャなど数チームと契約したことがありますが、1軍公式戦の出場機会はほとんどありません。後にドーピングに引っかかって引退しました。麻薬中毒の噂もあります。現在はリビア・サッカー協会会長です。今回の騒動でも何度か発言しています。
▽4男 ムタシム(35歳)
「治安部隊を握るロン毛の後継候補」
元陸軍中佐で、一度父親に対する反乱に加担したことがありますが、後に許されています。現在は「国家安全保障顧問」として治安部隊を統括しているはずですが、今回の騒動ではほとんどオモテに出てきていません。後継者の有力候補で、09年にはクリントン米国務長官とも会談していたほどですが、現在の動静がよくわかりません。前年の次兄の続き、10年の大晦日のセントバート島パーティーで、ビヨンセとアッシャーを呼んだそうです。次兄より少し音楽の趣味がナウいっすね。
▽5男 ハンニバル(33歳)
「婦女暴行容疑で逮捕されたダメ息子」
いちおう原油輸出会社の経営者ということになっていますが、実家の財力でヨーロッパで豪遊してばかりいる典型的なダメ息子。パリではスピード違反、スイスでは婦女暴行で一時拘束されたこともあります。ヨメが国外脱出を図って失敗したとの未確認情報もあるようです。
※他に6男と7男がいます。
リビアはもう勝負はついた感じです。後は事態が収まるまでにどれだけ流血があるかということと、カダフィ後の部族群雄割拠のなかで、親アルカイダ系組織やイスラム主義者の立場がどのように強化されるかということになってきます。
独裁の終焉は、ちょっと予想を超える広がりを見せつつあります。イランやサウジもちょっとどうなるかわかりません。リビアだけでも原油価格が高騰していますが、サウジやイランの動向次第ではさらに高騰する可能性があります。
中東情勢の今後ということでは、シリアも注目です。今のところ反政府デモは起きていませんが、民主化圧力への警戒はあるようで、市内のいくつかのネットカフェの接続が切られたようです。また、詳細はよくわかりませんが、クルド人のリーダーを軒並み逮捕しはじめているという情報もあります。国内懐柔策として、一定のカネを支払えば兵役を免除することも通達したようです。独裁体制はどこも安泰ではないということですね。
中国では明日の日曜日に再びデモ呼びかけがあります。
北朝鮮でも政府批判のデモがあったとの報道(未確認情報ですが)があります。韓国側が宣伝ビラを飛ばしたりしていますが、そういうのもジワジワと効いてくる可能性はありますね。
そもそも北朝鮮は情報閉鎖社会といわれていますが、中国との出入りがかなり増えていますから、意外に外の情報が伝わっている可能性もあります。
(追記/カダフィの7男ハミスは警察幹部だったと思うのですが、現在は第32部隊という親衛隊のような部隊の指揮官だそうです。外国人の傭兵を雇ってデモ隊を殺戮している張本人との未確認情報もあります)
(追記その2⇒6男セイフ・アル・アラブ・カダフィについては情報が極端に少ないのですが、ドイツで留学していたとの情報もあります。7男ハミスは現在30歳。いったんリビア警察に在籍したという未確認情報がありますが、いずれにせよその後、ロシアで軍事教育を受けていて、軍人の道を進んでいました。昨年からスペインのビジネス・スクールに留学していたとのよくわからない未確認情報もあります。この7男ハミスおよびもともと軍・治安部隊を統率していた4男ムタシムの他に、ダメ息子ナンバー1の5男ハンニバル、ダメ息子ナンバー2のサアディも現在、カダフィ派の保安部隊を指揮しているとの情報もあります。カダフィ派は結局、息子頼みになっているようです)
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- 2011/02/26(土) 15:37:52|
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前エントリーで紹介した『戦場カメラマンという仕事』をほぼ読了しました。さまざまな方がそれぞれの思いを語ったり書いたりしているのですが、みんなバラバラなところが逆に興味深かったです。誰が正しくて誰が間違っているということではないと思うのですが、考え方は人それぞれ、事情も人それぞれ、人生いろいろ・・・といったところでしょうか。
私の場合も、おそらく私だけの考えだったのだろうと思うのですが、その点を少し書いてみます。
まず、ある方が書いておられたのですが、「死にゆく人々をわざわざ撮影するのは、人間の死に対する冒涜であり、踏み込んではいけない領域であり、おぞましい行為だ」というのは、まったくもってそのとおりだと思います。このような感覚は、戦場カメラマンの多くの方が共有しているようで、他の方々にも「人の不幸をメシの種にする」とか「自分はハイエナだ」などと表現している方がいました。こういう感覚は私の見聞では、どちらかというと日本人に多い感覚で、「自分は正義だ」という自己主張でガンガン押してくる欧米人の記者やカメラマンには比較的少ないように思います。
以前、ソマリアを紹介したエントリーに書きましたが、私はソマリアで餓死する子供たちを撮影しているときに、本当に嫌な気分になり、その後、海外取材をしばらくやめたことがあります。ただ、こうした後ろめたさというのは、最初の戦場取材のときから感じていました。
というか、私の場合はそれ以前に、他人のことを勝手に撮影したり、取材して書いたりするという行為そのものが、そもそも何かを冒涜するような行為に感じていました。戦場取材でなくとも、たとえば「事件」取材などで、他人の人生の複雑な事情を、よく知らない他人が簡単に記事にしたりすることに違和感があったわけです。
これはおそらく、私が記者としての最初の第一歩を、『FRIDAY』という写真週刊誌の編集者としてスタートしたことが関係しているのではないかと思います。私が配属された当時の同誌は、いわゆる「たけし事件」の直後で、同誌は日本中からバッシングされていました。なので、おそらくNHKや朝日新聞に就職した人とはまったく違う記者体験だったと思いますし、それゆえに取材・報道という行為に自問することが多かったように思います。
(もっとも、こうした自問をする機会を早くに得たことは、自分にとって良かったと考えています。また、そういった状況のなかで、いわゆる「プロ意識」のようなものを鍛えられたことにも、私は感謝しています。そのあたりのことは、簡単にひとことで書ききれないので、また機会があれば稿を改めたいと思います)
いずれにせよ、それでも戦場カメラマンを目指したのは、現代史の現場を体験したいという、単純な好奇心でした。世界では今どんなことが起きているのか、どのような力がどのように働いて世界は動いているのか、そういうことに夢中になったということだったのだろうと思います。
それは20歳から始めたバックパッカー旅行の延長でした。そして、私が世界を旅した80年代半ばというのは、アメリカのレーガン政権と、ソ連のアンドロポフ/チェルネンコ政権による冷戦の真っ只中で、世界はアメリカとソ連の角逐で動いていました。私が実際に戦場カメラマンを始めた頃はすでにゴルバチョフのペレストロイカが始まっていたのですが、とりあえず私は東西代理戦争である辺境の内戦を取材してまわり、同時にまずはアメリカ、次いでソ連に居住してみました。冷戦構造が急速に緩みつつある時代に、これからの世界はどう動くかといったことを同時代人として皮膚感覚で体感したいと考えていたのだと思います。
人の不幸を探して歩く戦場カメラマンは精神的にもハードな行為でしたが、前述したような後ろめたさは感じていながら、戦争の最前線を知りたいという気持ちは常に持っていて、それに従って行動していました。実際には最前線に到達するのは技術的にかなり難しいことで、なんとか到達しても都合よくその時点で戦闘が行われていることはめったにないので、なかなか戦闘場面に出くわすことはありません。思い返すと、行きたくてもアクセス・ルートを突破できずに最後の前線まで到達できなかったことはありましたが、危険だとの理由で途中で前進を躊躇したことは一度もありませんでした。戦争の最前線は、最後の100メートルが生死の分かれ目のようなところがあるのですが、最終ラインまで前進することで運悪く死ぬことになっても、それはしかたのないことだと考えていました。
29歳でボスニアでその最前線を体験し、自身が負傷して死の恐怖をリアルに感じたことと、それから3ヶ月後に再開した戦場取材において、ソマリアで圧倒的な飢餓地獄を目の前にしたことで、私は急速に戦場取材への意欲を失いました。それはおそらく戦場の最前線という「ずっと見たかった世界」に到達してしまった喪失感と、飢餓地獄という「自分の理解を超える圧倒的な現実」に遭遇した敗北感だったのだろうと、今になって考えるとそう思えます。その後、34才まで何度か紛争地取材は続けたのですが、その間の取材はなんとなく仕事として惰性でやっていたようなところがあります。
私にとって戦場取材はやはりバックパッカーの延長のようなもので、それはいつかは引退すべきものでした。辺境の一人旅は若者を魅了してやまないですが、それをいつまでも続けるわけにはいかないものです。私にとっての戦場取材はそういうわけで、最初から最後まで個人的な「旅」であったのだと思います。
ちょうど90年代半ばのその頃は、前にも書いたことがありますが、アフガン帰還兵を中核とするイスラム・テロが世界的な展開を見せ始めた時期でした。私はウサマ・ビンラディンという個人の名前はまだ知りませんでしたが、「冷戦終結で東西対立の構図が崩れた後の世界で、これからの対立軸の中心になるのはイスラムだ」との確信から、カイロに居住するなどしてイスラム・テロの取材・調査に没頭し、その流れでインテリジェンス研究の世界に足を踏み入れていきました。
9・11テロやその後のアフガン戦争、その2年後のイラク戦争でも、現場を取材したいという気持ちはまったくありませんでした。現場でのそれらの「戦争」の勝敗はもはや明らかだったからです。それよりも、この1月からの中東の民主化の嵐のほうが、歴史的な大転換点として非常に興味があります。
私はとくに政治的な主張などありませんが、教条的な押し付けとか、全体主義的な抑圧社会にはどうも馴染めない性分です。最初のバックパッカーの頃から、共産圏の人々が共産主義体制に抑圧されて生きている様を見聞してたので、ソ連崩壊の過程をモスクワに住んで目の当たりにした日々には、ちょっと興奮しました。
次は中東の独裁体制崩壊の番だとずっと期待してきたので、今ちょっと興奮しています。
(言うまでもありませんが、これはあくまで私個人の事情・考えを述べたものです。冒頭に書いたように、人それぞれですので、他の方のスタンスを批判するものではありません)
(追記/私は旅の延長で戦場取材をしていた感じなので、戦場取材中も単に被写体として相手の写真を撮るのではなく、なるべく私的な会話を通じて、その時間のその場所を共有する者同士として、互いの人生にほんの少しでも関わりを刻みこみ合いたいという意識が常にありました。年齢が近かったということもあり、コントラの兵士たちともボスニアの兵士たちとも、夜通しよく語り合いました。
ソマリアが憂鬱だったのは、餓死していく目の前の子供たちと、そうした人間同士としての交わりがまったく不可能だったからだったように思います。そんなことをちょっと思い出したので付記しました)
(もうひとつ追記/この本全体を読んで、解説の方の記事も含めて、「戦闘を撮る」より「人間を撮る」ほうが上というようなニュアンスの記述が目に付きましたが、そういうことではないと私自身は思いました。「戦闘場面」から「人間」を撮る方向にシフトしてきた著名カメラマンが多いのは事実ですが、そういうテーマ性は各カメラマンさん個人の問題です。それぞれ各人が自分の人生観や職業観から選択することであって、どちらが「下」とか「上」とか「悪」とか「善」ということではないと思いました)
- 2011/02/25(金) 21:03:41|
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本日発売になった洋泉社ムック『戦場カメラマンという仕事』
(⇒アマゾン)に写真を5点(巻頭グラビア×2点、本文口絵×3点)採用していただきました。私が紛争地取材を最後にやったのは97年なので、もう14年も前に現役を引退したわけですが、ちょっと前に軽い気持ちで当ブログに過去写真をアップしてみたのがきっかけで、ロフトのイベント、写真誌『FLASH』、今回の洋泉社ムックと立て続けに過去写真を採り上げていただくことができました。どういうかたちであれ、自分の撮影した写真が少しでも世に出ることは嬉しいことです。なんでもやってみるものですね。
今回の本では、それは錚々たる方々の写真が載っていますから、私なんぞの出る幕はたいしてなかったわけですが、それでも少しでも多く採用していただこうと思って、じつはそれなりに時間・労力をかけてかなり大量のポジやネガ(現地から即日電送するためにカラーネガで撮影した素材も結構あります)の素材を再度チェックし直し、データ化作業やトリミング作業などを行いました。巻頭4Cで採用していただいたのはわずか2点だけでしたが、せっかくそうしてデータ化したので、過去エントリーと重複しますが、今回は私の自選の10点を並べてアップしてみたいと思います(過去エントリーの写真はほとんど、ポジかベタをコンパクトカメラでテキトーに接写しただけだったので、画質が劣悪なうえに、歪み・ピンボケがかなりありました)。自己満足ですが、お許しください。
撮影年の順でアップします。
①ニカラグア内戦(88年10月)
中米ニカラグアでは、80年代に左翼政権と右派ゲリラ「コントラ」による激しい内戦が続いていました。私は約3カ月間、密林の戦場でコントラの従軍取材をしました。写真は政府軍前線基地への攻撃に向かう突撃隊。私は当時25歳で、週刊誌編集者を辞めたばかり。初めての本格的な戦場取材でした。

(発表メディア・以下同)
「朝日ジャーナル」
「週刊プレイボーイ」
「WEEKS」(NHK関連ニュース誌)
②米軍パナマ侵攻(89年12月)
89年12月、反米政策をとるパナマの独裁者・ノリエガ将軍を排除するため、米軍が電撃的な侵攻作戦を開始、わずか数日でパナマ市を制圧しました。写真はパナマ国防軍の狙撃手と交戦中の米陸軍第82空挺師団第1旅団の兵士。

「フライデー」(特派)
「週刊宝石」
「週刊プレイボーイ」
「週刊文春」(写真1点のみ)
「朝日ジャーナル」(写真1点のみ)
③ペルーの対テロ戦(90年5月)
80年代から90年代にかけ、南米ペルーではアンデス山中を中心に、極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ」(輝く道)のテロが頻発し、それに対する政府軍の鎮圧作戦が続けられていました。写真は、センデロの本拠地だったアヤクチョ県ワンタ地区で活動する陸軍対テロ特殊部隊。1週間の山地潜入偵察作戦に従軍して撮影しました。

「フライデー」(特派)
「週刊現代」
「週刊プレイボーイ」
④フィリピン南部の分離独立闘争(90年10月)
フィリピン南部に居住するイスラム教徒の反政府ゲリラ「モロ民族解放戦線」(MNLF)が、70年から96年まで分離独立を目指して激しい武装闘争を繰りひろげていました。MNLFが86年に本拠地・ホロ島で日本人カメラマンを長期監禁して以来、外国人記者の取材は危険だといわれていましたが、90年に同島に潜入し、MNLFの取材に成功しました。

「週刊宝石」
「週刊プレイボーイ」
⑤湾岸戦争(91年1月)
91年1月、米軍を中心とする多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争が勃発しました。サウジとイラクのビザが下りなかったので、周辺国のイスラエル、トルコ(イラク逃亡兵収容所&多国籍軍基地)、ヨルダン(避難民等)、イラン(イラク国境エリア)の取材をしました。
イスラエルでは、開戦当初からイラク軍が弾道ミサイル「スカッド」で攻撃。イスラエル側は迎撃ミサイル「パトリオット」で対抗しましたが、実際にはほとんど撃ち漏らしていました。写真はテルアビブ市郊外のスカッド被弾地での救助活動。

「フライデー」(特派)
「週刊プレイボーイ」
⑥ボスニア内戦(92年6月)
旧ユーゴスラビアのボスニアで92年3月から内戦が勃発。セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒がそれぞれ戦いました。写真は首都サラエボ市南部の最前線で、イスラム教徒軍と交戦中のセルビア人部隊。

「週刊現代」(特派)
⑦ボスニア内戦その2(92年6月)
ジャーナリストの殉職者が続出し、ベトナム戦争以来もっとも危険な戦場といわれたボスニアでは、私もそれまででいちばん激しい戦闘を経験しました。写真はボスニア南部のポドベレッジ戦線で、セルビア側の砲撃を受けるクロアチア人兵士。この日は敵方の総攻撃で、従軍していた部隊が壊滅。迫撃砲弾で私自身も負傷して動けなくなったのですが、かろうじて救助されました。

「週刊現代」(特派)
⑧ソマリア内戦(92年9月)
ソマリアでは92年、部族民兵同士の内戦が激化し、完全な無政府状態に陥りました。写真は当時、私が護衛に雇っていた最大派閥「アイディード将軍派」に所属する民兵。なお、この内戦では大量の飢餓難民が発生し、後に多国籍軍が介入しましたが、治安回復は失敗に終わっています。私は当時29歳でしたが、このソマリア取材を機に、しばらく戦場取材から遠のきました。思えば20代後半はずっと戦場取材ばかりでした。

「週刊現代」(特派)
⑨レバノン侵攻(96年4月)
96年4月、イスラエル軍はヒズボラを叩くために14年ぶりのベイルート爆撃を含む大規模なレバノン侵攻作戦を行いました。当時エジプトに居住していた私は、すぐにレバノンに入って戦況を取材しました。写真は沖合のイスラエル海軍艦艇から激しい艦砲射撃を受けるサイダ(シドン)市。

「軍事研究」
(※当時は現役のENGカメラマンだったので主に影像取材をしましたが、ネタがマイナーなことと、自分の力量不足から、テレビでは採用されませんでした)
⑩アルバニア騒乱(97年4月)
97年、東欧の小国アルバニアでネズミ講の破綻をきっかけに暴動が発生。軍の武器庫が破られ、国民の多くが武装して全土が無法地帯となりました。写真はもっとも治安が悪化した港町ブロラで、略奪グループの襲撃を受ける武装市民。当時、長期取材中だったペルー日本大使公邸占拠事件が膠着状態に陥ったので、こちらにスイッチしたのですが、結局、この取材を最後に紛争地取材から引退しました。時代はすでに「戦争」から「テロリズム」にメイン舞台が移りつつありました。

「週刊プレイボーイ」
「軍事研究」
以上、過去の紛争地取材のなかから、「戦場写真」という観点でセレクトした自選10点でした。メインは20代の頃だったので、あまり深くも考えずにやっていました。フォトジャーナリストというよりは、明確に「コンバット・フォトグラファー」を目指していて、「戦場」をとにかく探し歩いていた感じでした。
- 2011/02/23(水) 18:19:44|
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リビアは本格的に内戦みたいになってきました。軍の中堅幹部が反旗を翻したとの情報も飛び交っていますが、情報が錯綜していて、事実はよくわかりません。
地方の有力部族は続々と「反カダフィ」を表明しています。地方では部族の影響力が強いので、あとは首都の攻防戦がカギを握ることになりそうです。
ただ、こちらはエジプト以上に「カダフィ後」が混乱しそうです。エジプトのように軍がしっかりと機能すればいいのですが、おそらくそうならないと思います。部族が割拠した場合、00年代半ば頃のイラクのように治安が著しく悪化する可能性もあります。
なかでも注意すべきは、イスラム武装勢力「リビア・イスラム戦闘集団」(LIFG)というグループです。90年代からアフガン帰還兵を中心に活動してきたグループで、人脈的にアルカイダあるいは隣国アルジェリアで90年代に非道の限りを尽くした旧「武装イスラム集団」(GIA)=現在の「イスラム・マグレブのアルカイダ機構」(AQIM)と非常に近い関係にあります。
今回の反政府デモの初期にあたる今月16日、リビア当局はデモを懐柔する目的で、なぜか収監中だったこの「リビア・イスラム戦闘集団」の受刑者110人を釈放しています。人数的にはたいした数ではありませんが、これは危険行為です。アルカイダ系のテロリストが今後、混乱に乗じて過激なテロを行っていく可能性は決して低くないと思われます。
カダフィ父子は、「政権が倒れればイスラム過激派が台頭する!」と警告していますが、まさかそのレトリックのためにわざと釈放したのでしょうか?
これまでリビアでは、直接民主主義とかいうふざけたタテマエのもと、カダフィ一家以外の勢力はことごとく抑えつけられてきました。エジプトでも野党勢力の不在が指摘されていましたが、リビアはそれ以上にアナーキーな状況に陥る可能性があります。イスラム・テロや部族民兵が跋扈が不可避な情勢になりつつあるといえるかもしれません。
- 2011/02/22(火) 12:17:53|
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本日発売の『週刊朝日』に「フェイスブック革命に怯える中国~インターネット検閲の戦慄」という記事を寄稿しました。ネット警察やネット軍についての紹介で、一般誌にはちょっとマニアックすぎるかなとも思ったのですが、入稿後に中国で民主化デモ関連のニュースが出たので、タイミング的にはちょうど良かった感じです。
今回のデモ(というかデモ呼びかけの試み)はそもそも、2月19日にアメリカをベースとする中国語ニュースサイト『博訊網』に「2月20日午後2時に集まろう」との告知が掲載され、それがネット掲示板やツイッターなどで瞬く間に中国国内でも広まったことから始まりました。
同メッセージでは、北京や上海など中国国内の13都市の繁華街がデモ開催予定地に指定され、民主化のための中国茉莉花(ジャスミン)革命を始めようと呼びかけられていました。ジャスミン革命とは、中東の一連の民主化運動の発端となったチュニジアの政変を指す言葉ですね。
実際、同20日は指定されたデモ予定地に公安当局は多くの警察官を配置し、徹底的な取締りを行いました。たとえば、北京では野次馬を入れて約100名が集まったようですが、警察が介入して解散させられたということです。上海では参加者3名が警察に連行されたようですね。瀋陽では、予定場所を見に行った日本総領事館員が一時身柄を拘束されています。
また、香港の人権団体「中国人権民主化運動ニュースセンター」の発表では、同19日から20日にかけ、民主化運動の活動家1000名以上が、各地で当局に連行されたり外出制限を受けたりしたということです。
なお、デモ呼びかけの震源地だった前述の『博訊網』は20日、サイバー攻撃を受けてサーバーがダウンさせられました。犯人は不明ですが、まず間違いなく中国政府当局のサイバー・テロでしょうね。
中国ではなかなかアラブのようにはいかないですね。ちなみに、胡錦濤国家主席は19日、中央党校で「ネット管理をさらに強化する」と表明しました。デモを呼びかけた側は、これからも毎日曜日の集会呼びかけを継続するようですが、まだちょっと難しいかなというところでしょうか。
リビアはついに首都トリポリでも銃撃戦が始まったようです。かなり深刻な事態になりそうです。
- 2011/02/22(火) 02:05:37|
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告知です。
私はたぶん行けないと思うのですが、お世話になっている日新報道の敏腕編集者・倉内慎哉さんから下記のイベントのご案内をいただいたので、ご紹介します。
▽サムライの会・第71回例会
共同通信カメラマンの原田浩司氏をお招きします。原田氏は、エジプト革命を取材するために2月2日に現地入りし、先頃、ご帰国されたばかりです。現地で取材した最新の生々しい情報を伝えていただきます。
講師:原田浩司(はらだ・こうじ)氏
1964年生まれ。共同通信カメラマン。94年パレスチナ、95年よりルワンダ内戦、98~99年インドネシア(東ティモール独立運動、アチェ内戦)を取材。96~97年のペルー日本大使公邸人質事件と、2001年のアフガニスタン・カブール陥落取材でそれぞれ日本新聞協会賞を受賞。
演題:「現地で見たエジプト革命」
日時:2月25日(金)午後6時半~
会費:3000円(軽食つき)
場所:「ル・パン」 港区麻布台1-11-2星野ビル2階 (東京メトロ神谷町駅下車1番出口、東京タワー方面徒歩5分、飯倉交差点角 螺旋階段昇る)
今回の講師の原田さんは、先月のロフトプラスワンでの戦場カメラマン・ナイトにも参加された共同通信のカメラマンです。
私はカトケンさんや不肖宮嶋さんなど、駆け出し時代からの古い付き合いの同業者がたくさんいますが、なかでも原田さんがいちばん古いですね。互いにまだ大学生だった頃に、マニラのユースホステルで会っています。ちょうど86年の2月革命のときです。当時から行動力は抜群の人でしたね。
- 2011/02/21(月) 13:55:25|
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08年に内閣情報官が、アメリカ国務省情報調査局長に「金正日に関するウチの最大の情報源は元専属料理人ですよ」と伝えていたとのことです。
ネタ元は「金正日の料理人」=内調トップ、情報不足を米に告白―ウィキリークス(時事通信 2011/02/21)
これは、ウィキリークスが入手した在東京米国大使館発の公電の内容として、21日にオーストラリア紙『シドニー・モーニング・ヘラルド』が報じたもの。ウィキリークス公式サイトにはアップされていないので、同紙の独自スクープですね。
ここで名前の出た元料理人とは、お馴染みの藤本健二さんです。内調どころか、私が聞き及んでいるかぎりでは、米韓中のインテリジェンスもその証言を最大のネタ元としているほど、その筋では注目されていた人です。
日本のインテリジェンスは伝統的に朝鮮総連情報に強いのですが、近年は総連経由の情報がかなり劣化しているようです。それで支援組織、脱北者、あるいは内部情報源を開拓しているジャーナリストなどがもたらす情報に頼っている面が多くなっているみたいですね。情報の精査がたいへんみたいですが。
同公電では、「08年9月までに、中国、北朝鮮を対象にしたスパイ組織の創設が日本で決定された」(上記時事通信記事より引用)と報告されていたとのことですが、スパイ組織の創設は決まっていませんから、何か先走った話になっていたのかもしれません。
ただですね、いくら藤本さんがオモテの人だからといって、「自分たちの情報源は××です!」なんて、普通は他国のインテリジェンスには言わないものです。インテリジェンスの世界の最低限のルールですね。「こういうことをホイホイしゃべるということは、こちらの話も第三者にホイホイしゃべる可能性がある」と判断されかねません。これだけでは、どういう話の流れでそういう会話になったのかは、よくわかりませんが・・・。
ところで、インテリジェンスといえば、こんなニュースも。
間抜けな韓国情報機関員 外国特使のパソコン盗図りホテルの一室で鉢合わせ(産経 2011.2.21)
経済交渉で訪韓中のインドネシア特使団の手の内と探ろうと、国家情報院のスパイ3人がソウル市内のホテルの部屋に侵入し、パソコンを盗もうとして失敗したということです。こういうこと、やっぱり今でも行なわれているのですね。
さて、北朝鮮の地下核実験場で、また新たな動きです。
北朝鮮豊渓里に新たな坑道掘削、3回目の核実験準備か (東亜日報日本語版 FEBRUARY 21, 2011)
北朝鮮は現在、軽水炉建設とのセットで「平和利用目的」というタテマエでウラン濃縮を進めていますから、現時点でウラン型原爆の実験をやるかどうかは微妙な気がします。現在、ウラン濃縮問題の国連安保理提議を中国が抑えていますが、ウラン濃縮型で実験をしてしまうと、それも難しくなります。北朝鮮も現段階では、濃縮ウラン量産態勢が出来る前に北朝鮮包囲網が強化されることは避けたいのではないかと思います。
ということは、プルトニウム型原爆の小型起爆装置の実験でしょうか? もしもそれが成功したら、先月の『週刊朝日』に書いたように、「今年、日本を照準する核ミサイル配備へ」ですね。
リビアが内戦みたいになってきました。東欧革命でいえば、チャウシェスクのルーマニアみたいな感じでしょうか。カダフィのバカ息子7人衆(詳細はいま発売中の『週刊SPA』を参照ください)のうち、後継者候補のトップとみられる次男が出てきました。
カダフィ大佐の次男がテレビ演説で改革明言、デモには徹底抗戦(ロイター 2011年 02月 21日)
次男セイフはイギリスで学んだ親欧米派というのが「売り」でしたが、やはり独裁者の息子なのですね。これだけの流血の事態になると、政変になったら自身の身が危ないということでしょうか。
本日の『読売新聞』国際面に、中東情勢に関してイギリスの専門家ベービッド・ヘルド氏のインタビューが掲載されています。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(前述したセイフ・カダフィは最近、ここの博士課程を修了しています)の教授なのですが、仰っていることが全部、私の見方と「真逆」でした。逆に面白いので、一部紹介します。
▽中東の民衆蜂起は89年の東欧革命とは違う。
▽東欧では米欧流の民主主義を導入するという目標でも合意があったが、中東の民衆は違う。米欧流の民主主義を求めていない。
▽中東での米欧のイメージは対テロ戦争のせいで、薄汚れたものになった。
▽中国のように、国民の生活レベルが向上している限りは、専制支配も正当化できる。
ホントに見事なまでに私の考えと180度違っています。著名な専門家ですから、もちろん緻密な分析による結論なのでしょうが、そうすると以下のような私の考えのほうが間違っているのでしょうか。
▽中東の人は、人前では「米欧流の民主主義を求めていない」とよく言うが、2人きりで話すと、「あれはね、嘘だよ」としばしば言う。
▽対テロ戦争で欧米を言葉で批判する人は多いが、出来ればみんな夢の国=欧米に移住したいと思っている。アメリカやイギリスの国籍がとれれば最高!
▽中国で専制支配が続いている最大の理由は、政府が怖いから。
どこの世界でもいろいろな人が、いろいろな考えを持っています。なので、「みんながこうだ!」とはなかなか言えません。だいたい、同じ人物でも話す相手やタイミングで、違うことを言ったりします。私も内心では自分の見立てに自信があるわけですが、先入観というのはインテリジェンスの最大の敵でもあるわけで、そのあたりはなかなか難しいです。
- 2011/02/21(月) 12:14:29|
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中東の反政府デモの連鎖は、バーレーンとリビアで流血の事態になっています。とくにリビアでは治安部隊の銃撃で死者が100人規模になっていると報じられています。カダフィのキャラからすれば、徹底弾圧路線を緩めることは考えづらいですね。アルジェリア、イエメンなども今後、流血の事態になる可能性があります。
イランでもまだまだわかりません。すでに改革派に対する徹底弾圧が行なわれていますが、改革派は今もデモ呼びかけを行なっています。すごい勇気ですね。是非頑張っていただきたいと思います。
18日付の英紙『デイリー・テレグラフ』が独自のウィキリークス情報として、興味深い記事を掲載しています。08年の米外交公電で、バーレーンの国王が「国内の反政府活動家たちは、レバノンでヒズボラに訓練されている。旅券なしの出入国をシリアが密かに支援している」と語っていたというのです。事実はわかりませんが、今もこうした混乱のなか、様々な勢力がそれぞれの思惑でいろいろ水面下の動きをしているはずです。
ウィキリークスといえば、19日付の『朝鮮日報』が「北朝鮮がエリック・クラプトンの平壌公演を画策していた」と報じましたが、ウィキリークスですでにその話は出ています。07年のソウル発公電で、北朝鮮政府の人物が、クラプトンの大ファンの金正哲(金正日の次男)のために、クラプトン招聘を打診してきたというのです(別冊宝島『機密告発サイト ウィキリークスの真実』の「流出情報ベスト100」にも入れています)。
今回の『朝鮮日報』記事では、北側からの打診は06年とのこと。07年中に平壌の綾羅島メーデースタジアムで開催することまで決まったのに、その後、クラプトン側からキャンセルされたとのことです。
なお、正哲は06年にクラプトンのドイツ公演に現れたところをマスコミにキャッチされているほか、この14日にもシンガポール公演に現れています。弟・正恩がせっせと世継ぎの道を歩んでいるのに比べ、ずいぶん暢気な構えですね。
話は変わりますが、旧知の朝日新聞社の方から、同社の新刊『何かのために~sengoku38の告白』(一色正春著)をいただきました。件の尖閣ビデオの人です。(それにしても凄い書名ですね)
ということで、ここでアマゾンのリンクを貼ろうとしたのですが、発売日が18日なのにすでに14本もカスタマー・レビューがついていて、ランキングも14位! 凄いです。
(⇒アマゾン)
- 2011/02/20(日) 15:12:41|
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前々回エントリーでご紹介した別冊宝島『機密告発サイト ウィキリークスの真実』が発売になりました。
私も自分の担当ページ以外を目にするのは初めてですが、思わず引き込まれていっきに読了しました。各項目がコンパクトにまとめられているので、手っ取り早くウィキリークスを知りたい方にはお勧めです。
また、すでにご案内したように、同書所収の公電情報カタログは、情報の内容だけでなく、公電発信日や発信元の情報も明記していますので、より詳しく調べたい方が公式サイト等でチェックする際にも至極便利。資料集としても使っていただけるかと思います。
(⇒アマゾン) 以下に内容を詳しく紹介します。
1章 元ハッカーの素顔
▽創設者ジュリアン・アサンジ氏 ロング・インタビュー/NHK取材班(構成協力・大野和基)
▽取材後記/石博亮(NHKディレクター)
▽アサンジ氏の秘められた過去/川村力(ジャーナリスト)
2章 ウィキリークスとは何か
▽『ガーディアン』副編集長が明かす「メガリークの舞台裏」/小林恭子(在英ジャーナリスト)
▽ウィキリークス物語/川村力(協力・片桐葉子<シカゴ大学>)
▽資金不足&アサンジ逮捕で噂の新しいメガリークはどうなる?/川村力
3章 米外交公電流出事件の真相/黒井文太郎
▽ケーブルゲート事件の概要
▽情報源~文書提供者は陸軍上等兵
▽波紋~謝罪外交に追い込まれたクリントン米国務長官の苦悶
▽広がるウィキリークス包囲網
▽擁護派の反撃
▽各国首脳・メディアはどう反応したか
4章 保存版カタログ「流出情報ベスト100」
▽日本編(黒井)
▽アメリカ編(同)
▽ロシア・欧州編(同)
▽中国編(同)
▽北朝鮮編(同)
▽アジア編(安田純平<ジャーナリスト>)
▽中東編(同)
▽他の地域編(同)
5章 情報漏洩社会の近未来図
▽インタビュー 小飼弾(プログラマー・投資家)(聞き手・川村力/ 構成 金賢<ジャーナリスト>)
▽対談 小谷賢(防衛研究所主任研究官)×黒井
▽コラム 効率よくウィキリークス情報を得る方法/黒井
コラム ウィキリークスは是か非か
▽猪子寿之(チームラボ代表)
▽堀江貴文(SNS社ファウンダー)
▽上杉隆(ジャーナリスト)
▽手嶋龍一(外交ジャーナリスト)
▽田原総一朗(ジャーナリスト)
▽河上和雄(元東京地検特捜部長)
個人的には、小飼弾さんのインタビュー記事が面白かったですね。技術者の視点から、ウィキリークスおよび今回の騒動を冷静に見ておられ、たいへん参考になりました。
内幕話でいえば、小林恭子さんのレポートにあるガーディアンとアサンジ氏の確執話も興味深いものがあります。
ひらたく言えば、ガーディアンはスクープのためにアサンジ氏を利用しようとしたわけですが、最終的に思惑通りにネタを独占出来ず、両者は決裂してしまうという、まあわかりやすい構図です。
それでガーディアン側はもともと共闘関係にあったウィキリークスの暴露本を出版し、それにアサンジ氏が激怒というのが現時点の状況のようです。ネタ独占を目論んで肩透かしをくらったガーディアン側の気持ちもわからないではないですが、もともとネタをつかんだのはアサンジ氏側ですし、この経緯をみるとちょっとアサンジ氏が気の毒な気もしますね。
それにしても、以前のエントリーで紹介したように米暴露サイト「クリプトム」に私的メールを公開されたことといい、仲間だったガーディアンに内幕を暴露されたことといい、アサンジ氏は信頼していた人間に次々に自分のことを暴露されるという目に遭っています(その他にも、ウィキリークスの元ナンバー2にも暴露本を書かれています)。自身が他者のことを暴露するはずだったのに、なんだか皮肉な展開ですね。もちろん文句を言えた立場ではないわけですが。
- 2011/02/19(土) 12:11:34|
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昨日TBSで放送された「スパモク」という番組に、旧知の戦場ジャーナリスト・加藤健二郎さんのお誘いで、ほんのちょっとですがVTR出演させていただきました。
バラエティですから内容は他愛もないことだったのですが、なんと嬉しいことに、収録現場で元傭兵・義勇兵の高部正樹さんと久しぶりに再会しました。高部さんは元航空自衛官で、アフガニスタン、カレン(ミャンマー)、ボスニアで実戦を多く経験してきた方です。
私は最初、フジテレビのニュース番組で「戦場カメラマンが日本人義勇兵とミャンマーの戦場へ行く」みたいな企画で現地で高部さんにお会いしました。その撮影から帰国したら日本のほうが地下鉄サリン事件でたいへんなことになっていたのを覚えているので、たしか95年3月のことですね。
日本と海外を頻繁に往復されていたようで、その後も何度か東京での呑み会の席で顔を合わせたことがありますが、たぶんここ10年くらいは、とんとご無沙汰しておりました。
そもそもそのテレビ取材は私のプランニングだったのですが、なぜそんなことを思いついたかというと、ちょうどその頃に彼は最初の著作である『戦争ボランティア』という本を出していて、その内容が非常に興味深かったからです。
それまでの日本人の手による戦場体験記というのは、虚実ないまぜに「ワイルドでハードボイルドなオレ」全開のタッチのものが多かったのですが(聞いたウワサだと、ほとんど虚の人のほうが多いみたいです)、同書ではどちらかというとあまりカッコ良くない傭兵・義勇兵の実像が、自虐的ともいえる乾いた筆致で坦々と綴られていました。ですが、それゆれに逆にリアルなハードさが伝わってくるのですね。
義勇兵経験での本当の心情は、経験を共有しない部外者にはまずわからないものですが、当時は私も戦場取材の現役だったので、まあ本物か偽者かぐらいは手記を読めばそれなりにわかりましたから、それで高部さんに興味を持ち、版元さん経由で取材をお願いしたという経緯です。
同書はすでに絶版になっていると思いますが
(⇒アマゾン)、もちろん氏の近刊書もありますので、興味のある方にはお薦めいたします。
(⇒アマゾン)
- 2011/02/18(金) 19:12:53|
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私も書かせていただいた別冊宝島『機密告発サイト ウィキリークスの真実』が、まもなく発売になります。(
⇒アマゾン) ウィキリークス関連書は昨年末あたりから各社が一斉に動き始めていて、早いもの勝ちのスピード競争みたいになっていました。だいたいどこも1月中に入稿し、2月出版です。印刷・配本競争で大手社が若干有利といった感じですね。日本人で書ける人が少ないので、洋書の翻訳が多いというのも特徴です。読者の皆様には、是非とも各書読み比べていただければ幸いです。
別冊宝島版の特徴は、創設者ジュリアン・アサンジ氏本人の長文のインタビュー記事が収録されていることと、流出した米外交公電の中でも主な100ネタをダイジェストで網羅していることです。
アサンジ氏のコメントは結構あちこちで出ていますが、これだけまとまった分量のロング・インタビューは日本語の活字媒体では初になるかと思います。
公電情報ダイジェストは私が担当しましたが、海外メディアの独自取材による非公開公電のネタ数本を除き、公電の原本をいちいち全部確認したので、作業としてはこれはかなりきついものとなりました(一部をジャーナリストの安田純平さんにも執筆していただいています)。まあ、シンドイといえばシンドかったですが、私個人としては、かつての『軍事研究』ワールドワイド・インテリジェンス欄の作業みたいで、なかなか懐かしい感じでした。
ウィキリークスそのものに関する解説は他にもボチボチ出て来つつありますが、肝心の公電情報の中身の総括は、現在進行形のネタということもあって、洋書も含めて他ではまだほとんどやっていないと思いますので、興味のある方はぜひどうぞ。
私はその他に、公電流出の経緯に関する一連の解説と、ウィキリークスをどう評価するかについての対談記事(インテリジェンス専門家である小谷賢・防衛省防衛研究所主任研究官と)を担当しました。ウィキリークスの評価に関してはその他にも手嶋龍一氏、堀江貴文氏、上杉隆氏、小飼弾氏、河上和雄氏、猪子寿之氏、田原総一朗氏ら錚々たる面々の寄稿もあるようです。
- 2011/02/16(水) 17:54:51|
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事実であれば、意外に早かったですね。金正日の体調が想像以上に悪いのかもしれません。
後継者問題:金正恩氏が国防委員会副委員長に 権力序列2位、10日正式に推戴朝鮮日報 2011/02/16
金正恩の国防副委員長就任は、北朝鮮ウォッチャーのあいだではかねて当然視されていました。私も過去エントリーで言及しています。
金正銀・次は国防委員会?2010/09/29エントリー
趙明禄・国防委員会第1副委員長死去で空いたポストは?2010/11/07エントリー
国防副委員長就任が成立すれば、後継体制は完成となります。今後の北朝鮮情勢の最大のポイントとなるのは、いつ金正日が死ぬかということになります。
- 2011/02/16(水) 16:55:10|
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本日発売の『週刊SPA!』の記事「アラブ独裁者のバカ息子が世界を滅ぼす!」(凄いタイトル!)に、コメントを採用していただきました。なんといっても、変人カダフィの息子たちのバカさ加減が突出していますね。
ところで、『サンデー毎日』先週号で「次はイランか?」なんてコメントを採用していただいたのですが、案の定、始まりましたね。エジプト・デモをイラン指導部がなぜか「イスラム革命」とカン違いし、方向違いの賛辞声明を出してましたが、イランこそフェイスブック革命の次なる主戦場になるでしょう。
私の知るかぎり、イラン人はアラブ人よりも反骨の気風があります。今後、批判の対象はアハマディネジャドを通り越して本丸のハメネイあたりまで及ぶことになると思いますが、コワモテ集団「革命防衛隊」「バシージ」「コミテ」あたりによる徹底抗戦が予想されますから、こちらはもしかしたら血をみる展開になるかもしれません。
カギは、民主派にどれほどの人が加わるかということですね。イランにはいわゆるイスラム保守層もそれなりにいますから、エジプトのようにいっきに「みんな民主派」という流れにはいかないと思います。ただし、シガラミ社会のなかで、民主派内に「隠れ保守派」は考えられませんが、保守派内に「隠れ民主派」はかなりの割合でいるはずですから、フェイスブックやツイッターの自由言論空間の力で、どれだけ保守派からの転向組が出てくるかという勝負になるのではないでしょうか。
フェイスブック革命の担い手は「拒否する群集」であり、教条はもう勝てないですね。イスラム主義は教条主義の権化のような存在なので、多少紆余曲折はあっても、中東の政治の舞台ではいずれ脇に追いやられていくでしょう。いや、そうなればいいなと心から思うわけですが。
シリアのバシャール・アサド大統領が珍しく『ウォールストリート・ジャーナル』のインタビューを受けています。
【インタビュー】反政府運動は新時代の前触れ=シリアのアサド大統領2011年 1月 31日
アサド大統領は改革を進めていけば自身の独裁は安泰だと思っているようですが、どうなのでしょうか。シリアでも反政府デモの呼びかけはありましたが、秘密警察によってがっちりと抑え込まれました。首謀者としてモスレム同砲団の70代の幹部が逮捕されています。
チュニジアもエジプトも他の国もそうですが、要は政権側がどれだけ無慈悲に従来のような弾圧をするのかということがいちばん重要です。デモをやっているほうは、そういうことでは最初は恐々とやっていたわけです。それが、どうももう軍・治安警察はあからさまな国民弾圧をやらなさそうだということで、俄然活気づいたのですね。
そういうことでは、シリアはまだちょっとそこまで機が熟しているとはいえませんね。アシフ・シャウカト率いる秘密警察群はまだまだ怖い存在です。
いずれにせよ、今はイランに注目です。ここで民主派が勝利すれば、中東の政治状況はがらりと変貌します。
- 2011/02/15(火) 17:39:19|
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いくつかのテレビ番組を視聴しての雑感です。
まずは、昨日のNHKスペシャル『北方領土 解決の道はあるのか』です。よく取材されておりまして、北方領土問題がきわめてハードルが高いことを経緯検証から浮かび上がらせています。「解決の道はあるのか」というサブタイトルで、番組の〆のコメントも同様なものでしたが、実際に番組を見ると、「もう解決の道はないのだ」と言っているような印象でした。私自身、この問題の取材をかなりしたことがあり、きわめて悲観的に感じていますので、それもしょうがないだろうなと感じました。
番組では日露双方の関係者のインタビューや発言が詳細に紹介されていましたが、やはり「ロシア側は北方領土を返すとの言質を日本側に与えていない」ことがわかります。外務省が間違っていると私は思うのですが、彼らは「2島を返す」とも一度も約束していません。ロシア外務省側が「日本側の頑なな態度を批判」しているのは事実ですが、それが「4島一括にこだわる」ことだとはロシア側は具体的に指摘していません。「4島一括だから動かないのだ」というのは日本側の思い込みだと思います。
番組では収監前の鈴木宗男さんのインタビューも流していました。私も昨年、まさに対ロシア外交をテーマに、鈴木さんにお話を伺ったことがあります。鈴木さんは、ロシア側が一時期、本気で2島返還を決意していたと信じています。ですが、それはあくまで鈴木さんが交渉の過程で「そう感じた」というだけで、あちらの責任者が約束した話ではないわけです。もちろん鈴木さんほどの方がそう感じたのですから、交渉相手の誰かがそれらしきことを仄めかしたことはあったのでしょう。ですが、それはおそらく仄めかしただけだったのではないでしょうか。
いくつか異論を書くと、番組では、90年代に国民経済が崩壊したロシアは、日本の経済協力を得るために領土を売ろうとしたかのような表現がありましたが、ロシア側担当者がインタビューで答えていたように、それはないと思います。領土問題で妥協すれば、最盛期のエリツィンでさえ失脚していたでしょう。エリツィン政権時代、モスクワでいろいろな方に話を聞きましたが、私の見聞でもそうでした。
これは単なる私の推測ですが、ロシア外務省のなかに、「日本側が大きいほうの2島の主権を放棄するなら、小さいほうの2島の返還の可能性について話し合いをスタートさせてもいいのではないか、というくらいのことはクレムリンに打診できるかもしれない」と考えた人はいたのでしょう。「2島放棄+2島交渉継続」という、連中の「新たなアプローチ」ですね。以前も書いたことがありますが、実効支配している側はそれくらいアドバンテージを持っています。
中国など他国で領土問題の妥協がありましたが、それらは現実上の「係争地」でした。日本の北方領土に関して、日本政府は単に言葉上の話をしているだけで、ロシア側には痛くも痒くもありません。
北方領土でなにかしらの成果を本気で目指すなら、「係争地」にするほかありません。ロシア側がアクションを始めてますので、日本側もすかさずアクションを起こすくらいでないと話になりません。むろん軍事的なアクションも含みます。北方領土正面を軍事的最前線にして一触即発の状態にするくらいでないと、ロシア側を動かせないでしょう。
日本政府は「国際法的にはわが領土」と繰り返し述べていますが、それなら国際社会に堂々と訴えるべきです。最低限、「国際問題化」+「軍事問題化」を仕掛けないと、事態は動かないのではないかと思います。言うまでもありませんが、私自身が「そうせよ!」と言っているわけではありません。
番組の終盤、前原外相がインタビューに答えて「両国の指導者が決意を持って問題解決にあたることが求められます」というような意味のことを語っていますが、あちらのリーダーはあちらの国益のためにすでに動いています。
ところで、やはり昨日視聴したのですが、ディスカバリー・チャンネルの『FBIが追う指名手配犯ワースト10』という番組を見ました。この分野は私のもっとも得意分野であり、内容はだいたい知っていることばかりだったのですが、ちょっと驚いたことが1点ありました。
98年にアフガニスタンでウサマ・ビンラディンのインタビューをとったことで有名なABCテレビの敏腕記者ジョン・ミラー氏が、なんとFBIの広報担当官として番組に出ていたのです。花形記者からFBIへ転身って、日本ではまず考えられないですね。さすが転職が当たり前のアメリカです。
最後は、数日前にやはりディスカバリーで拝見した『レストレポ~アフガニスタンで戦う兵士たちの記録』というドキュメンタリーです。最前線のコレンガ渓谷で戦う米軍小隊の長期密着ドキュメントで、2010年のサンダンス映画祭グランプリ受賞作だそうです。
いやあ、凄いドキュメンタリーでした。ある戦闘では仲間が戦死するシーンまで撮影しています。泣き崩れる兵士もいますが、指揮官が激しい戦闘中にも冷静に対処する姿がありました。タリバン側の話は出てきませんが、米軍兵士の日常がよくわかる秀作です。レストレポというのは、戦死した仲間の名前ですが、彼らは最前線に築いた基地をレストレポ基地と命名しています。年若い兵士たちは、仲間が何人も戦死するような戦場を、日々坦々と過ごします。渓谷の最前線に、ギターだの電飾だの筋トレ用ダンベルだのを持ち込んでいるあたりは、さすが米軍という感じです。
ただ、番組では帰国後(彼らはイタリアの基地からの派遣)の兵士たちを個別にインタビューしているのですが、彼らが精神的にかなりダメージを受けている様子がよくわかります。
こういうドキュメンタリーを見ると、私もつい20代の頃の戦場取材の日々を思い出します。とくにシビアだった90年代のボスニア戦線ですね。現代のアフガンも死がごろごろしている戦場ですが、ボスニアもたいへんでした。
私は当時、戦闘の最前線を撮影することだけをひたすら考えて行動していて、仮に死んでも「しかたがない」と覚悟していました。戦場の最前線では、ここから先は極めて危険だというラインがだいたいわかるのですが、私は自分の意思で、その先の行けるところまで行くことがよくありました。銃弾が目前を飛び交い、ブロック塀や足下の瓦礫で弾けたり、砲弾が飛来し、ついさっきまで話していた兵士が血まみれで倒れているような場所ですから、死はとてつもなくリアルなもので、以前書いたことがあるように、自分自身も迫撃砲弾に当たってほとんど観念したことがあります。
ですが、そうした時間は濃密なものでもありました。『レストレポ』でも、若き兵士たちは自身の死をある程度はしかたがないものと覚悟し、それでも戦友たちと充実した生を生きます。ただ、私はたとえば戦場から逃げ出すことができますが、兵士たちはそうではありません。タリバン兵士なら、さらにそうでしょう。エンドレスというのはかなり精神的にキツいはずです。
交代で引き揚げる日、取材者はレストレポ基地の兵士たちに「名残惜しいという気分は?」と問います。兵士たちの答えは明快です。
「嬉しいに決まってるじゃないか」
「もう2度とここには来ないさ」
そうだろうな、と思います。
戦場といっても、場所によって緊張感の濃淡があり、シビアな戦場はやはり地獄のような場所です。そこから脱出できたときの安堵感はたいへん大きなものです。しかし、砲撃下の時間はたいそう濃密なもので、その後の平和な日々のなかで、思い出すと懐かしさすら感じることがあります。
- 2011/02/14(月) 12:11:00|
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数日前に発売になった『軍事研究』に「ウィキリークスの衝撃」という記事を寄稿しました。ウィキリークスを巡っては「善か悪か」というような議論が多い印象がありますが、こちらでは少し引いた視線で、その誕生から現在までを俯瞰してみました。ウィキリークスに関する情報は、ときおり散発的に報じられる程度で、まとまった解説はまだあまり出ていませんので、興味のある方はぜひどうぞ。
ところで、暴露サイトといえば、そのパイオニア的存在に、ニューヨーク在住の建築家ジョン・ヤング氏が主宰していた「クリプトム」というサイトがあります。かつて日本の公安調査庁職員名簿を掲載し、FBIから削除を求められても拒否し、しかもそのFBIの削除要請の詳細まで暴露してしまったという、とにかく「何でも情報公開!」を信条としていたサイトです。
とにかくさまざまなネタが検証作業抜きでどんどんアップされるので、どちらかというと読みづらいサイトではありましたが、そこそこ興味深い情報が出てくるので、私も『軍事研究』でインテリジェンス情報欄を担当していた頃は定期的にウォッチングしておりました。こうしたネットでタレコミを募集してどんどん公開してしまうというのは、たしかにインテリジェンス業界的に見ても「新しい」印象でした。
で、このたびのウィキリークスのメジャー化を、クリムトムはどう思っているのかと気になって少し調べてみたのですが、じつはウィキリークス主宰者側は、ウィキリークス立ち上げ時にすでにヤング氏にコンタクトをとり、助言を仰いでいたそうです。
ところが、方針をめぐってやがて両者は決裂。いまやヤング氏はウィキリークス批判の急先鋒になってしまっています。ネット界の方々は、なんだか皆さんすぐに喧嘩することが多いですね。
ヤング氏はそうとう切れてしまったらしく、過去にウィキリークス幹部とやりとりした私的メールまですべて公開してしまったそうで、それでウィキリークス側の初期の内部事情が赤裸々にさらけ出されてしまったということです。
そういえば、わが『ワールド・インテリジェンス』でも一度、メール取材ではありましたが、ヤング氏の短いインタビュー記事を掲載したことがあります。見ず知らずの外国人の突然の取材依頼にも快く応じていただいたことはもちろん感謝なのですが、その後、編集部とやりとりしたメールをこちらにひとことの断りもなく、ぜんぶクリプトムにアップしてましたね。別に実害はないですから構いませんが「油断できんなー」とちょっと思った記憶があります。
- 2011/02/13(日) 11:07:10|
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10日の演説でムバラク大統領が辞任を拒否したため、またデモが盛り上がっています。ストライキなども発生していて、また情勢は緊迫してきました。これでまた先が読めなくなってきました。
ところで、デモのニュース映像をみていたら、靴を振りかざしている人が結構いました。この「靴を振りかざす」というのは、アラブの伝統的な「ぶっ飛ばすぞ!」アピールの方法です。
アラブ社会では、「靴を手に持って叩く」というのは、最高度の侮辱を示します。たとえば、03年のイラク戦争のときも、引き倒されたサダム像に皆が靴でパンパンやってました。後に、ブッシュ大統領の記者会見でイラク人記者が靴を投げつけた事件がありましたが、あれも同じ意味です。
とはいえ、実際には靴で叩いても、そんなに痛くはありません。そのまま踏みつけたり、キックするほうがよほど有効です。でも、そんなことをしたらホントに痛いので、アラブの人はあまりそこまでやりません。「アピールする」ことがより重要なわけです。
アラブの街角では、男たちがよく口論しています。ものすごく激昂しているように見えますが、よく見ると、激昂したふりをして、ちゃあんと仲裁役が集まってくるのを待っています。そして、両者の激昂が頂点に達すると、互いに罵り合いながら、胸で押し合ったりします。このとき大事なのは、両腕は身体の後ろに回すということです。なので、めったなことでは殴り合いになりません。
そうして「なんだ、このコノヤロー!」としばらくやり合って、やがて仲裁者が入って引き離すという流れが決まっています。まあ、お約束ですね。
そういう意味では、アラブの人々はむしろ平和的ともいえるのですが、それが政治の上のほうでは残念なことに事情が違ってきます。せっかくの民主化の流れなので、「靴」程度でなんとか留めておいてほしいものです。
話は違いますが、中東イスラム圏の「アピール文化」(?)繋がりで思い出した話をひとつ。
イランでシーア派の神聖なる宗教行事「アシュラ」を見たことがあります。ナイフを括りつけた鎖を背中に打ち付けて血だらけになるやつです。
もっとも、ナイフや鎖を使う人はそんなにはいなくて、実際にはほとんどの人は拳で身体を叩きます。ですが、あれもよく見ると、明らかに手抜きして身体を叩いている人が圧倒的多数派です。勢いよく手を振り下ろすのですが、インパクトの直前に急減速して、ぺシャッという感じでごまかすわけです。
で、みんなで泣かなければならないのですが、まあ半分くらいは泣いたフリです。信仰心とこれとはまた別ですから、それで他人様の宗教行事をどうとか言うつもりは毛頭ありませんが、なかなか興味深い光景だったことを覚えています。
なお、モスクではアシュラの祈りの後は、ご馳走大会になります。男たちが泣いている間に、隣で女たちが炊事していて、祈りの最中にも旨そうな匂いが漂ってきます。男たちの泣き声と、身体を叩くぺシャッという音の合間に、お腹が鳴る音があちこちから聞こえてきます。
追記>本当かどうか確認したわけではないのですが、ある人から「アラブ人の靴叩き」について以下のような話を聞きました。
あれはもともと昔々ドレイを靴でぶっ叩く習慣から来たそうです。昔の靴は今のよりずっと硬かったそうです。
あと、靴叩きの次の侮辱アピールは、「唾ぺっぺ」だそうです。私はアラブ圏であまりそういう場面を見たことがないのですが、子供から大人まで、つまらない喧嘩でもよくやるそうです。
日本の子供も唾ぺっぺはよくやりますが、たいてい大人に怒られてやらなくなりますよね。「男らしくない」行為という印象もありますし。映画なんかで、縛られて拷問に遭っている人が抵抗アピールで唾ぺっぺやるシーンとかはありますが。
アラブではあんまり怒られないので、そのまま大人になってもやるそうです。そういえば、けっこう他の国ではやる人いますね。その昔、ジーコさんがボールに唾ぺっぺして大問題になっちゃたこともありましたね。
- 2011/02/11(金) 14:48:41|
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昨日発売の『サンデー毎日』の「エジプト・ショック~どうなる日本経済」という記事で、コメントを採用していただきました。
エジプトのデモは現在も続いていますが、軍がしっかりと機能していて、現時点では混乱は収拾されつつある印象です。デモ隊は「ムバラク退陣」を要求し、政権側はボスのメンツをなんとか保ちながら、緩やかな妥協の道を探っている状況ですね。問題は野党勢力ですが、懸念していたとおり、モスレム同砲団の暗躍が始まっているようです。
モスレム同砲団は現在、脱過激主義を前面に押し出してソフト・イメージ戦略を図っていますが、内部はかなりバラバラな派閥の集合体であり、当然ながら過激な勢力も存在します。いきなり反米=親アルカイダに振れることはないと思いますが、反イスラエルはすでに鮮明に出していますから、中東の平和ということではあまりよろしくないアクターになる可能性が高いといえます。仮に同砲団が発言力を高めた場合、内部の強硬派と、各地でコプト教徒と〝抗争〟していたイスラム武闘派がシンクロしたりすると、さらに攪乱要因になっていくかもしれません。
それにしても、「モスレム同胞団」という日本語訳は誰が考えたのでしょう? 名訳といっていいですね。現地語では「アル・イフワン・アル・ムスリミーン」(AL-IKHWAN AL-MUSULIMEEN)といって、直訳すると「イスラム教徒の兄弟たち」となります。英語では「モスレム・ブラザーフッド」と訳されています。「ブラザーフッド」を「同砲団」と訳した人のセンスは素晴らしいですね。
同胞団の創設は古く、1928年に教師のハッサン・アル・バンナ(1906~49)によって、ナイル川下流地方のイスマイリアで結成されました。バンナはもともとはイスラム神秘主義教団「タリーカ」(「道」あるいは「方法」という意味。英語の「ウェイ」に相当)に関係していたのですが、そこから社会運動としてのイスラム復古運動に乗り出したのです。
創設者のバンナは、今のカテゴリーで分ければ、はっきり言って過激派に分類されます。同砲団は瞬く間に100万人近い巨大組織になりますが、バンナはその内部に100~200人の若者たちから成る秘密のテロ組織「特別局」(TANZIM AK-KHAS)を創設し、マフムード・ヌクラシ・バシャ首相など多くのエジプト支配層を暗殺しています。
その後、バンナ自身も暗殺され、それから組織は迷走しますが、ナセル政権時代にサイード・クトブという指導者が出て、組織そのものがテロ組織化します。クトブはその後のイスラム・テロの元祖というべき人物で、「ジハード団」や「イスラム集団」などのエジプトの過激テロ組織も元をただせばクトブ主義から誕生したような背景があります。「ジハード団」「イスラム集団」は後にアルカイダに繋がっていますから、現在のイスラム・テロの源流のひとつが同砲団だったとも言えます。
巨大組織モスレム同胞団は早くから他の国に支部を広げてきました。エジプトの〝本家〟が各国の〝分家〟に指示を出すような関係ではありませんが、人的ネットワークは今でもあります。
同胞団主流派がソフト路線を打ち出しているのが、どれほどホンモノなのかはわかりません。世俗主義が根強い一般社会への迎合かもしれませんし、単にムバラク強権独裁政権下でのカムフラージュだったかもしれないわけです。私がいま興味あるのは、現時点でのモスレム同胞団の内部事情なのですが、なかなかそれがわかるOSINT資料が見つかりません。
追記)今しがたロイターで見たのですが、昨日スレイマン副大統領が語ったところでは、デモ騒擾のドサクサに脱獄した囚人たちのなかに、アルカイダ系のイスラム過激派やヒズボラのメンバーたちもいたとのことです。エジプト北部ではすでにテロも起きていますが、今後の動向も懸念されますね。
- 2011/02/09(水) 13:37:40|
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