独裁者の世襲がすんなりと成功した例もあります。中東シリアです。
シリアでは、30年間も独裁権力を握ってきた先代のハフェズ・アサド大統領が2000年に急死した後、次男のバシャール・アサドが大統領職を世襲しました。その経緯を紹介してみましょう。
父ハフェズはもともとソ連留学歴のある空軍将校で、要するにKGBの後押しでシリアの独裁権力を握った人物でした。最大のライバルは軍の実力者だった実弟リファアト・アサド副大統領で、兄弟は一時期、首都で戦車隊を対峙させ、内戦一歩手前までいったことがあります。そのときは実母が仲裁に入り、人騒がせな兄弟喧嘩はどうにか収拾されました。
なお、このリファアトは親ソ派の兄に比べて、どちらかというと親西側的な立場にありましたが、かといって国内での人気はほとんどありませんでした。中東ではよくいるチンピラ・マフィア系ボス的なキャラの人物で、それに比べると兄ハフェズは性格が真面目だったため、「弟よりはマシ」と大方の国民はとらえていたようです。結局、リファアトは兄弟喧嘩に敗れたかたちで、国外追放となります。
アサド家はシリアでは少数派にあたるアラウィ派に属していました。アラウィ派は同国西部の地中海沿岸地域を地盤とするイスラムの宗派で、そのため父アサド政権はアラウィ派の仲間を中心とする側近政治を行いました。ただし、盟友の国防相は国内多数派のスンニー派だったりしますから、全員というわけではありませんが。
いずれにせよ、父アサドの盟友たちは、軍や秘密警察の要職を独占したことで、その独裁体制を支えました。アサド政権の中核は「バース党」という政党で、これはアラブ民族主義と社会主義をミックスしたようなものでしたが、要は独裁政権の母体ということです。現在もシリアの権力中核はバース党です。ちなみに、隣国イラクの故サダム・フセイン独裁政権もバース党独裁でしたが、両国のバース党同士は敵対関係にありました。ハフェズとサダムが個人的に仲が悪かったからですね。
ともあれ、そういうことでシリアのアサド王朝では、アラウィ派人脈を中心とする「軍・秘密警察」&「バース党」幹部ネットワークが国民の上に君臨しました。ただし、イラクのサダムと違い、国民の弾圧はそれほどやってません。反政府派の筆頭が、レバノン・マフィアなんかとつるんだリファアトだったりするので、一般の国民の中に反政府運動がそれほど育たなかったからです。
唯一、たいへんな惨事になったのが、イスラム原理主義組織「モスレム同胞団」に対する弾圧ですね。82年には、モスレム同胞団の拠点と目された地方都市を丸ごと殲滅するような過酷な大弾圧を行っています(これを指揮したのはリファアトでした)。
それでもアサド政権は、国民の間では「イラクのサダムよりはマシ」「たいへいのアラブの国よりはマシ」というような雰囲気で、それほど反政府運動は生まれませんでした。まあ、きわめて消極的な支持ですが。
さて、そんなアサド王朝の世襲ということを睨み、父ハフェズは早くから青写真を描いていました。長男バシルを王位継承者として、幼少の頃から帝王学を仕込み、エリート軍人への道を歩ませます。国中に、父子のツーショット写真が貼られたりもしています。ティアドロップのサングラスが似合う、なかなかの2枚目です。
その一方で、弟たちは権力から徹底的に遠ざけました。自分が兄弟抗争の経験があるので、そうした芽を最初から摘み取ったのですね。
それだけではありません。シリアではどうも「長男はものすごく優秀な人物。弟たちはイマイチ」というようなプロパガンダが意図的に流された形跡があります。兄弟がまだ幼かった頃より、一般国民のあいだに、そうした噂が一般的に広がっていたのです。独裁国で権力者の子供たちを揶揄するような言動は命がけの危険行為のはずですが、なぜかそれが黙認されていました。ですから、こうした噂が広範囲に広がった背後には、父ハフェズの意図があった可能性があります。
なお、ハフェズには4男1女がいました。長男バシルは軍人、次男バシャールは眼科医、三男マジドは電気技術者、四男マヘルは軍人の道に進みました。シリアの国民の間では、バシャールは無能、マジドは精神異常、マヘルは乱暴者というイメージが定着しています。ちなみに長女ブシュラは薬学を学び、後にエリート軍人と結婚しています。
そうして長男世襲が当然視されていたわけですが、なんと彼は1994年に交通事故で急死します。謀殺説もありますが、真相はわかりません。
で、ここで困ったのが父ハフェズです。そこですぐに、イギリスで眼科研究をしていた28歳の次男バシャールが連れ戻されます。本心は嫌だったかもしれませんが、父の命令ですから、バシャールに選択の余地はありませんでした。
バシャールはすぐさま軍学校に入校し、軍人として遅咲きの帝王学を仕込まれます。99年に大佐となり、2000年に父が病死すると、取り巻きに担がれて34歳で大統領になります。バシャールが大統領になったとき、シリア国民の多くは「あのバシャールが?」と驚きましたが、それでも「古参幹部連中の誰かよりはまだずっとマシ」「サダム・フセインのドラ息子なんかよりはずっとマシ」という受け止め方をしていたようです。
リーダーとしてまったく経験のないバシャールを担いだのは、古参幹部たちでした。先代アサドはナンバー2の台頭を徹底して阻止してきたので、突出した権力者がいない状態でした。そこで主導権を争って共倒れになるより、急ごしらえリーダーをしつらえて、実権はみんなで分け合おうとしたのです。
ところが、そこに挑戦した人物がいました。バシャールの姉ブシュラの夫であるアシフ・シャウカトです。そもそもシャウカトとブシュラが結婚するとき、アサド家の全員が反対したなか、バシャールだけが応援したことで、バシャールとシャウカトは深く結びついていました。
シャウカトはもともと軍人でしたが、アサド・ファミリーの一員となった後、義父ハフェズから国内の秘密警察系統の権力を一手に与えられていました。そこでバシャール政権誕生後、若手の仲間たちとともに世代交代を進め、古参幹部の追放に成功します。一時期、バシャールの弟マヘルと対立していましたが、乱暴者のマヘルをアサド・ファミリーも持て余していたため、シャウカトは影の実力者としてバシャール政権下に君臨します。なお、その後、マヘルとシャウカトは和解しています。
いずれにせよ、シリア国民の多くも、とにかく利権屋集団だった軍やバース党の古参幹部たちの退場は好意的に受け取ったようです。その後、シャウカトを中心として、元国防相の息子なども参加するバシャール側近世代は、先代世代の剥き出しの汚職体質を若干改めながら、緩やかな経済改革などを進めています。
現在、バシャールの義兄アシフ・シャウカトは軍事情報部長を経て国軍参謀副長(大将)。弟マヘルはエリート部隊である大統領警護隊の司令官(中将)。もうひとりの弟マジドは精神的に病んでいるとの噂もありますが、消息は不明です。
現在もシリアでもっとも有力な政府批判勢力は、バシャールの叔父リファアトのグループですが、ほとんど力はありません。リファアトは現在ロンドン在住です。
こうして若き日は嘲笑の対象ですらあった現大統領も、今では政権10年のベテラン。今後もその独裁権力の基盤が揺らぐ兆候はありません。
ヒズボラやハマスを庇護しているため、いまだにアメリカ政府からは「テロ支援国家」指定を受けていますが(米政府のテロ支援国家指定は、いまやシリアを含め、イラン、スーダン、キューバの計4カ国だけです)、イギリス生活歴があり、イギリス育ちの夫人がいるバシャールをはじめ、西側経験の豊富な現指導部世代はもはやそれほどアナクロな反米派ではありません。対アルカイダでは水面下で部分的協力関係にすらあります。
シリアでもいまやインターネットが自由に使えますから、もうあまり強権的なことは難しくなっています。
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- 2010/09/30(木) 14:22:04|
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金正銀(中国がこう表記しました)が朝鮮人民軍大将に続き、朝鮮労働党中央委員および、党中央軍事委員会に新設された副委員長に就任しました。
ロイヤル・ファミリーとしては、金正日の実妹の金慶喜・党軽工業部長(中央委員会委員)も人民軍大将、政治局員(常務委員含め全17名)に入り、その夫の張成沢・党行政部長(国防副委員長)も党政治局員候補(15名)および党中央軍事委員会委員に入りました。
党人事は、政治局常務委員に金正日、金永南・最高人民会議常任委員長、崔永林・首相、趙明録・国防第1副委員長、李英鎬・人民軍総参謀長(次帥に昇格)の5名。
書記局では総書記・金正日の下に、書記が金己男、崔泰福、崔竜海、文京徳、朴道春、金永日、金養建、金平海、太鍾守、洪錫亨の10名。
上記含め中央委員が全124名、中央委員候補が105名となりました。
金正日は、党では中央委員会総書記、政治局常務委員、中央軍事委員長を務め、軍では最高司令官、それに国家の最高指導機関である国防委員会の委員長を独占しています。
金正銀は党ではいずれ政治局常務委員に入ることになるでしょうが、実権ということでは、中央軍事副委員長はなかなかよく考えられたポストに就いたといえます。党ではその他にも、空席の組織指導部長という事実上の実務筆頭ポストがありますが、将来的にはそれに就任する可能性もあります。
(北朝鮮ではその他にも、たとえば秘密警察である「国家安全保衛部」など、部長ポストが空席になっている権力機構があります)
ですが、金正銀はいずれ、権力中枢である国防委員会で中枢ポストに就く必要があります。人民軍大将で党中央軍事副委員長というのは、その下地としては完璧ですね。国防委員会入りの時期については、国内外の情勢、それに父親の健康状態次第ではあると思いますが。
- 2010/09/29(水) 11:40:54|
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これまでの私の戦場取材経験の中で、もっともシビアな場所はソマリアでした。内戦と飢餓が本格化した92年の撮影。まだ多国籍軍が入る前の段階です。

無政府状態のソマリアはマジで『マッドマックス/サンダードーム』みたいな雰囲気で、取材者は必ず機関銃装備のピックアップ・トラックと武装護衛チームを高額で雇って活動しなければなりません。私の護衛チームのガンマンの一人(上写真のフードの兄さん)は常に覚醒草「チャット」でぶっ飛んでいて、ときおり奇声をあげて銃を乱射します。

首都モガデシオ北部を掌握するムハマド暫定大統領派の民兵。ソマリアの民兵たちは通常、写真撮影を拒絶しますので、こういう写真がいちばん難しいです。

遠くから隠し撮りです。見つかるとマジで撃ってきます。

メチャクチャで有名だった当時の最大勢力「アイディード将軍派」の民兵。アイディード将軍派は後に乗り込んできた米軍と血みどろの市街戦を演じ、結局は追い出しています。

もっとも飢餓がひどかった内陸部の町バイドアの空港を掌握するアイディード派。地元住民を奴隷のように使役し、海外からの援助物資をすべて独占していました。

アイディード派の将兵。いちばんタチの悪い方々です。

護衛付きのトラック。これでもしばしば略奪に遭います。
- 2010/09/28(火) 19:28:16|
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米軍パナマ侵攻の後編です。

捨てられた死体を見下ろす米兵。もの凄い臭気でした。

国防軍司令部近く。

米軍検問所の周囲に配置された兵士。

米軍の検問。

潜伏中のパナマ国防軍兵士が米軍に拘束されました。

目隠しをされて連行。

米軍が「進駐軍」として市内に展開。


市内要所にはことごとく米軍の警備が展開。

市民から銃器を買い上げています。

ノリエガ将軍が逃げ込んだバチカン大使館上空を超低空で旋回する米軍ヘリ。爆音でプレッシャーをかけています。この数日後、ノリエガは米軍に投降し、パナマ戦争は終結しました。
ところで、このパナマ侵攻や湾岸戦争など、私の戦場カメラマン時代の取材記の一部は、アリアドネ企画/三修社刊『戦友が死体になる瞬間~戦場ジャーナリストが見た紛争地』にも収録されています。戦場ジャーナリスト・加藤健二郎さんの尽力で出版された共著書で、他にもジャーナリスト・村上和巳さんも執筆されています。2001年出版ともうかなり古い本ですが、アマゾンでみたらなんとまだ在庫がありました。強烈なタイトルはカトケンさんの章タイトルからですね
。(→アマゾン)
- 2010/09/27(月) 12:13:57|
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ブログが重くなって申し訳ありません。が、ちょぼちょぼ更新するのも面倒なので、写真館の続きをいっきにアップさせていただきます。
これもかなり昔の事件ですが、89年の米軍パナマ侵攻です。

主役はこの人。当時の独裁者ノリエガ将軍です。これは前年の88年に行ったパナマ取材時の撮影です。

89年12月に米軍の侵攻作戦開始。当時ニューヨークに住んでいた私は、米軍報道部仕切りのチャーター機に便乗してパナマ入りしました。もっとも、メインの侵攻作戦中は、私たち外国人記者は米軍基地に軟禁状態。上写真はそこから対岸を撮影しています。

米軍が数日で市内を掌握してから、ようやく私たちも「解放」され、街に取材に出ることができました。が、当初は私服姿で市内に潜んだパナマ軍残党との散発的な銃撃戦があちこちでありました。

市内制圧に投入されたのは、かの第82空挺師団第1旅団。

制圧した国際空港を警備する装甲車。

警戒しながらパナマ市内をゆく第82空挺師団。

こちらはいわゆるMPの警備兵。

空挺部隊は夜営支度も携行するので、荷物が多いです。

米軍ヘリがひっきりなしに上空をいきます。民間人に偽装して隠れたパナマ軍残党兵たちは、さすがに携帯SAMまでは携行できなかったようです。

米軍の爆撃で破壊されたパナマ国防軍司令部付近。

パナマ市内は、米軍に破壊されたというより、警察が消滅した間隙に暴発したパナマ市民の略奪によって破壊されました。
- 2010/09/27(月) 12:01:03|
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日本人のカメラマンの場合、数ヶ月の長期滞在や頻繁な訪問でじっくり対象に迫るタイプの方が多いですが、欧米のカメラマンの場合には、どちらかというと短期決戦でニュースの現場を次々に渡り歩くタイプのほうが多数派です。私は初仕事となったニカラグア内戦と、約2年間を費やしたソ連取材を除き、2~3週間くらいの短期取材がメインでした。そもそも出自が週刊誌なので、そういうのが性にあっていたのでしょう。
なかでも慌しかったのが、91年1月の湾岸戦争です。週刊誌のアサイメントで計7週間に4カ国を取材。その間、飛行機に搭乗したのは20回以上におよびました。

まずは90年8月にイラク軍がクウェートに侵攻し、湾岸危機が勃発すると、ちょうど統合直前の東ドイツを取材中だった私はすぐにヨルダンに入り、イラク国境のルウェイシドで、クウェートから逃れてきた外国人避難者たちを取材。ここに足留めされた多数の避難民を輸送する自衛隊機を派遣するのしないのと日本国内で政治問題になるのは、この少し後のことです。

翌91年1月に湾岸戦争が勃発すると、すぐにイスラエルに行きました。当時、一介の日本の週刊誌契約フリーランス記者の私には戦争当時国のイラク、および米軍が前方展開するサウジアラビアの入国ビザが発給されなかったので、周辺国取材しかできませんでした。
本来、戦場取材の基本形は軍隊への従軍取材なので、これは自分としてはかなり不本意でした。エンベッド(埋め込み)取材に対しては批判もありますが、まずは最前線を見聞したいというのがホンネなわけです。
上写真はテルアビブのホテル内に設置された「気密室」。みんな欧米人ジャーナリストです。戦争勃発初期は、イラク軍のスカッドに「化学兵器が使われる」との懸念があって、空襲警報が出るたびにこんな感じでした。そのうち慣れっこになりましたが。
(以下、カラー、モノクロともに写真のほとんどは安物のコンパクト・カメラによるベタ焼きの接写なので、画質かなり劣悪です。上写真の赤線は、当時ベタに書き込んだ目印です)

当時のテルアビブ市民。最初のうちは市民もこんな感じでした。もっとも、こんな緊張感はせいぜい数日間くらいだったように思いますが。

テルアビブ郊外のパトリオット・ミサイル基地をハイウェイの高架より隠し撮り。元ネガは出国時に没収されました。

スカッド被弾地。このへんの元ネガも没収です。

スカッド被弾地から被害者を救助。

この時期のイスラエル取材のメインは、やはりスカッド被弾でした。空襲警報と同時に車両で飛び出し、イスラエル軍車両を見つけて追走し、軍が立入制限する前に現場を素早く撮影して話を聞くという手順です。

イスラエルの次に訪れたのはトルコ。上写真は、イラク国境に近い同国南東部タットバンに設置された収容所で取材したイラク軍脱走兵たち。トルコ当局のガードが極めて固く、ここの取材は結構難しかったです。

トルコ南東部ディヤルバクル近郊のクルド人難民収容所。無許可取材を強行し、警備兵に本気で殴られました。

あまり注目されていませんでしたが、トルコにも多国籍軍の出撃拠点があり、イラク空爆作戦が連日行われていました。


出撃する戦闘機パイロットたち。国際的な記者証があれば、こういった取材は比較的容易です。

トルコの後は再びヨルダンへ。サダム・フセイン支持のデモが、外国報道陣が宿泊するホテルの前などでしばしば行われてました。もっとも、参加者はごく少数。当時、「ヨルダン人は反米。アメリカに同調する日本人も敵視されている」なんて報道もありましたが、私の取材ではそういうことはまったくなかったですね。

毎度お馴染みの故・アラファト議長。湾岸戦争当時はサダム・フセインに同調して下手を打ちました。
さて、私はその後、ヨルダンからトルコ経由でイランに入りましたが、テヘランからアフワズに向かう長距離列車に乗っているところで終戦となりました。
その直後、イラク国内で反政府武装蜂起が発生。私はちょうどその頃、イラク国境近くのホラムシャハルに潜入していたのですが、イラン秘密警察「コミテ」に捕まって、強制退去とあいなりました。警察国家であるイランは報道管制が厳しく、記者身分だと逆に動きがとれないので、旅行者としての入国でした。

オマケその1。移動天幕生活を送るクルド人の家族。

オマケその2。天幕の中。
- 2010/09/26(日) 15:56:59|
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尖閣問題で日本は中国に完敗です。今の流れだと、これからも負け続ける公算が大ですね。
政府の情報分析と戦略の弱さが露呈したかたちですが、今回の件は、インテリジェンス分析の世界で「コグニティブ・バイアス」(認知先入観)と呼ばれるものの典型例でもあると思います。「確たる根拠なく、希望的観測にしがみつく」「相手も自分と同じように考え、判断すると思い込む」というようなことで、いずれも社会心理学でお馴染みの誤謬のパターンです。
対中だけではないです。対米も同様で、たとえば「尖閣は日米安保の範囲内」ということをめぐり、日本側は米政府から言質をとろうと努力しているようですが、「核の傘」まで含む安保の範囲内となるかどうかは、そのときの米大統領の判断です。「現実問題としてあり得ないだろう」という分析も可能なはずですが、米政府の誰それが「安保の範囲内」と言ったとかどうだとかということにしがみつき、それ以外の可能性を見ないようにしているのはアマいですね。外交はタテマエの作業ですから、米政府当局者から言質をとることは重要ですが、その一方で、「そんなのアテにならない」という前提での準備も必要ではないかなと思います。
私自身は、この問題はアメリカでは「日中間の領土問題」と実質的に見なされていくことになろうかと見ています。現時点では問題がそれほど切迫していないので、米政府当局も暢気に構えていますが、仮に日中間が軍事的対立まで切迫した場合、「領土問題には介入しない」と米政府が態度を変える可能性は充分にあり得るのではないでしょうか。インテリジェンスの基本ですが、まずはとにかく考えられうるすべての可能性を検討することが必要だと思います。
それと、下記のこんな記事を見ると、もっと本格的な対米世論工作というものも必要ではないかなと思いますね。こういうのも心理戦なんですから。
外務省、尖閣問題で「中国に分がある」コラム掲載のNY紙に反論(産経)
- 2010/09/26(日) 11:32:02|
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その他のペルー「動乱の90年代」の取材です。


アンデス高地にある極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ」の本拠地アヤクチョ県にて。

アヤクチョ県ワンタ陸軍基地の新兵訓練。

こちらは国家警察特殊部隊「ディノーエス」。96年末に発生した日本大使公邸占拠事件の取材にて(公邸前を警備する兵士)

90年代には首都リマでもしばしば反政府デモや放火がありました。

首都リマでの陸軍式典にて。

陸軍の戦車部隊。

こちらは、やはりセンデロの拠点でもあり、コカイン麻薬産業の中心地でもある密林エリアのワヌコ県ティンゴマリア基地の陸軍部隊。一般的にどこの途上国の軍隊でもそうなのですが、いろいろ裏でアコギなことをやっていると黒い噂が絶えないペルーの軍隊も、実際にはなかなか内外のジャーナリストの取材を認めないのですが、いろいろ裏技を駆使して粘ればなんとかなったりします。

この辺では長靴着用です。

ティンゴマリアから北上してサンマルティン県トカチェに至る通称「トカチェ・ルート」は麻薬マフィアおよびセンデロの一大拠点。上写真はトカチェ・ルート沿いの軍の検問。

通行する車両はいちおう調べられます。もっとも、聞いた話によると、中南米での通例どおり「賄賂」がそれなりに有効なようです。

トカチェ・ルート沿いでみかけたコカ収穫風景。収穫自体は合法です。

オマケその1。そもそも私の最初のペルー取材は、フジモリさんの最初の大統領選挙(90年)でした。(元写真紛失のため掲載誌から複写)

オマケその2。まだ仲が良かった頃のフジモリ家の食卓。その後、この家族にもいろいろありましたね。
- 2010/09/24(金) 16:12:11|
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南米ぺルーでは90年代まで、毛沢東主義を掲げる「センデロ・ルミノソ」(輝く道)という過激な極左ゲリラが大きな勢力を持っていました。ジャーナリストの取材を一切受け付けないので(というか、ジャーナリストは連中の攻撃対象でした)、ペルー陸軍の対テロ偵察チーム(×1個小隊)に従軍取材しました。

取材場所は当時センデロの本拠地だったアヤクチョ県ワンタ地区。アンデス高地です。

私が従軍したのは、ワンタ基地の対テロ部隊が編成した偵察チームです。高地の村々を巡回し、センデロの動向を調査します。

センデロは基本的には夜間行動で、装備に勝る政府軍と日中に交戦することはほとんどありませんが、ときおり奇襲攻撃を仕掛けるので油断はできません。

途中で出会った先住民の農民を厳しく取り調べます。センデロは、中枢の幹部は都市部出身の学生活動家などがメインですが、実働メンバーのほとんどはアンデス高地でオルグされたインディヘナ(先住民)のカンペシーノス(農民)です。ゲリラと農民は区別がつかないので、兵士たちの住民に対する態度はかなり高圧的なものです。部外者からみると「ひでえなあ」という気もしますが、古参兵士曰く「甘い奴は必ず早死する」。これも事実なのです。

大気の薄い高地の行軍は結構シンドイです。兵士のほとんどは低地出身のメスティーソ(混血系)なので、彼らもシンドイようです。

村に入ると、ゲリラが浸透していないか、かなり徹底的に調べます。よくベトナム戦争映画で、米兵がベトコン拠点村と思しき村で乱暴に家捜しするシーンがありますが、あんな感じです。
実際、村では男性がほとんどおらず、女性&子供ばかり残っていることが多いです。センデロに徴発されているのですね。どちらにせよ可哀想な話です。


兵士たちは食糧を持参しません。途中の村で強制的にタカリます。当然カネなんか払いません。いずれも貧しい村なので、それも可哀想な話です。かく言う私も同罪なのですが。


夜間は村でもっとも頑丈なつくりの家屋を専有し、こんな感じで寝ます。夜間はセンデロの活動時間なので、交代で見張りを立てます。村人は妊婦や乳幼児のいる母子以外、全員を1カ所に強制監禁して監視します。なお、偵察チームが村で宿営していることは、センデロ側も確実に掴んでいるだろうとのことです。
- 2010/09/24(金) 12:33:19|
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SF小説というのはほとんど守備範囲外なのでこれまで読んでいなかったのですが、ある企画の参考資料として伊藤計劃著『虐殺器官』を読みました。
SF分野での近年屈指のベストセラーということで、もちろん内容は文句ナシの大傑作なのですが、私が「すごいなー」と思ったのは、そこに描写されているインテリジェンス関連の情報が非常に精緻であることです。主人公が近未来のアメリカ軍特殊部隊隊員ということなのですが、米軍関連の情報、米情報機関関連の描写に関しては、著者の知識はまさに専門家クラスといっていいかと思います。
同小説の主軸はむろんそういった分野ではなく、科学的なものから哲学的なものまで広範囲にわたっているのですが、そのいずれもが非凡なレベルに達しています。文学的な好みは人それぞれでしょうが、同書の凄みはそうした著者の凄まじい「勉強量」にも拠っています。
同書は伊藤氏の処女作で、2007年の出版。当時32歳の著者は、20代の頃から癌を患っており、同書の出版も手術後の病床で迎えたといいます。同書を含め長編3篇と短編2篇を刊行した後、昨年3月に34歳で死去。同書における「死」に対する深い洞察には、おそらく著者のこうした境遇も関係しているのでしょう。
私があまり知らなかっただけで、日本の小説界では大注目された作家だったようですが、未読の方にはぜひお薦めします
。→アマゾン(現時点で今年2月発売の文庫版のランキングが510位。レビューが56件!)
- 2010/09/23(木) 10:23:01|
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戦争取材ではないですが、フィリピン南部スールー海では、こんな撮影もしました。海上生活者として知られる漂海民族「バジャウ人」です。

島嶼の沿岸部ではありません。大海原のど真ん中にこうした高床式の集落が作られ、生活しています。このあたりは広大な範囲にわたって、干潮時水深1メートル弱くらいの巨大プールみたいな海になっているので、こういうことが可能です。

集落の周辺海域は、アガルアガルという海藻の“畑〝になっています。この収穫が定着したことで、もともと船上生活者だったバジャウ人が海上集落を形成するようになったようです。

これがアガルアガルです。寒天の材料になります。男は漁師が多く、アガルアガル収穫はほとんど女子供の仕事ですね。

大人はなんだかんだでときどき島にいくこともありますが、子供たちはほとんど海上家屋か船上での暮らしになります。

もともとは船上生活でした。国境など関係なく、フィリピン、マレーシア、インドネシアあたりを漂流していました。

現在は、家船生活者はかなり減ったようです。ただし、日常の移動手段は船しかありません。ちなみに、こういう場所の撮影はぜんぶ船上からですので、構図とかタイミングとか、結構たいへんだったりします。

実際には、いわゆる“ダイナマイト漁”が盛んです。なので、片手をなくした漁師もいっぱいいます。

漂海民族バジャウ人のほとんどはモスレムです。このあたりではバジャウ人は少数派で、多数派はタウスグ人といいます。タウスグ人は非常に戦闘的な文化を持つ民族で、同海域のイスラム・ゲリラはほとんどタウスグ人で構成されてます。同海域は海賊が非常に多いエリアなのですが、海賊もほとんどタウスグ人ですね。というか、イスラム・ゲリラと海賊(&山賊も)の兼業も普通です。

漂海民もいまでは島嶼の町の経済圏に組み込まれています。

当然ですが、魚介類が豊富でメチャ安です。私などは毎日が蟹三昧でした。
- 2010/09/22(水) 11:37:12|
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私が戦場取材をメインにしていたのは冷戦終結前後の時期という、もうふた昔近く前のことなのですが、その頃とあまり状況が変わってないと思われるイスラム・ゲリラの写真をアップしてみます。

フィリピン南部スールー諸島でもっとも治安が悪いホロ島で取材した「モロ民族解放戦線」(MNLF)のゲリラ。前列の薄頭髪のオジサンの右隣が、90年代前期当時の最大勢力の軍事司令官。

ホロ島のMNLFには他にもいくつかのグループがいて、タチの悪い連中は外国人の誘拐を生業にしていました。キリスト教の宣教師やボランティアなんかがよく拉致され、ときには惨殺されたりしていました。ジャーナリストも標的にされていて、日本人のフリーカメラマンの方を1年半くらい監禁したこともあります。


日本人カメラマンを拉致していたのは、ちょっと名前忘れてしまいましたが、ナントカ兄弟が率いる一派。極悪で有名だそうです。ちなみに、フィリピンだけではないですが、途上国のゲリラというのは大抵、最上級幹部以外は知人・友人のコネで各組織を比較的自由に出入りしています(各派の主義主張の違いなんて誰も知りません)。なので、私が取材した部隊の中にも、日本人カメラマン拉致グループに所属していた兵士が何人もいました。

なので、こういうゲリラの取材はけっこう難しいです。私はMNLF書記長という政治家ルートで取材したので、なんとか無事に取材できましたが、それでも仲介者の選択はかなり慎重にやりました。詐欺師みたいなのも多いので、そのへん多少は場数が必要です。

MNLFの検問所。ここまで来ればまず安心ですが、怪しい自称・仲介者に引っかかれば、いきなり密林に連れ込まれて射殺、なんて可能性もゼロではないわけですね。

政府軍が駐屯するホロ市内以外は、ゲリラの占領地域。白い砂浜とコバルトブルーの超美景な島です。

このへんは、いかにもイスラムです。熱帯雨林なので酷暑なのですが。



イスラム・ゲリラなので、サラートは欠かしません。ただし、イマームとか以外はみんな飲酒はけっこうしてます。欧米ロック音楽も大人気です。そのへんがやはりフィリピンですね。
- 2010/09/21(火) 12:15:13|
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講談社様より平城弘通・元陸将補の著書『日米秘密情報機関~「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』をいただき、さっそく拝読しました。
詳細は本書を読んでいただきたいですが、私も初めて知る新事実がいくつも紹介されています。たとえば、「ムサシ機関」の存在がバレそうになり、名称を「小金井機関」に変更したなどという話もあります。途中で何か違う名称にしたらしいということは私も聞いていたのですが、それが「小金井機関」という名前だったことは初めて知りました。
また、別班長時代のことだけでなく、その後の東部方面二部長時代の回想も非常に興味深いものです。ちょうど70年安保闘争の時代で、平城さんは「東部方面特別調査班」という秘密機関を創設していて、その隊員たちは身分を隠して左翼組織に潜入したりしています。現代の感覚なら「そんなことまで」という印象を持つ人も多いでしょうが、当時はたとえば「過激派が自衛隊に潜入して武器を盗む」なんて可能性もあったわけですね。治安出動が本気で検討されていたような時代のことです。
宮永陸将補のソ連スパイ事件の裏話も、初めて聞く話です。同事件の裁判では、宮永氏は『軍事情報月報』など「秘」程度の情報をソ連に売ったとされていて、私もそれに基づいて同事件に関する記事を書いた経験があるのですが、実際には「極秘」指定の日米情報連絡会議の中国関連資料まで流していたそうです。日米中の関係悪化を懸念して、防衛庁の要請で公安警察もその事実を伏せたそうです。いやあ、そんな裏事情があったとは驚きです。
いずれにせよ、さすが元別班長の手記だけあって、非常に詳細です。戦後冷戦期の裏面史に興味のある方にはお薦めです
。→アマゾン なお、「あとがき」にこんな一文がありました。
「~が『自衛隊秘密諜報機関』なる書のなかで、『ムサシ機関長平城一等陸佐』と実名で発表したため、さっそく軍事雑誌『軍事研究』の黒井文太郎氏、(中略)らから取材の申し入れがあった。しかし、高齢であり、なおかつ毎週三回人工透析を受ける身でもあったため、大変な迷惑を被った~」
まことに申し訳ありませんでした。
- 2010/09/15(水) 18:06:16|
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ボスニア紛争初期のポドベレッジ戦線(モスタル東方の丘陵地帯)従軍取材です。92年の撮影です。

クロアチア人部隊です。敵はセルビア人部隊になります。

ここは最前線。砲弾が昼夜を問わずバンバン飛来します。

前線司令部に集結したクロアチア人兵士たち。多くはこの日に戦死しました。

敵の集中的な砲撃が開始されました。こういうときはまず動けません。その第一撃であえなく負傷した私は、このときすでに血まみれ状態になっていました。

以前のエントリーにも載せたことがありますが、死ぬほどビビリながら撮影したカットです。これだけ着弾点が近いと、音や風圧、粉塵、火薬臭なんかけっこう迫力モノです。

敵軍が目前に迫ってきて、砲撃戦から銃撃戦になってきました。味方は一方的に攻め込まれていて、かなりヤバイ状況でした。

最前線の最前線です。しかも、負けてるほうの部隊! いま思うと、こういうところにのこのこ行ってはダメですよね。

ただ、まあこういうところに行ってみないと見えない現実、わからない世界というのもあるわけで、それが戦場取材の難しいところではあります。

ポドベレッジはこの日、完全に陥落しました。この兵士や私なんかは「負傷した」ことで優先的に脱出させてもらえましたが、この日はたくさん、実にたくさんの兵士たち(人数はわかりませんが)が還ってきませんでした。

帰還した幸運な兵士たち

精根尽きたといった感じですね。


野戦病院にて。

難民キャンプにて。

息子の戦死通知を受けた女性。難民キャンプでは日常的な、実に哀しい風景です。

オマケ。セルビアの首都ベオグラードで行われていた野党の反政府集会。当時、セルビア大統領ミロシェビッチを「独裁者」と報道していた海外メディアが多かったですが、実際にはそんなに(金正日やサダム・フセインなんかと比べて)独裁者ではなかったです。
- 2010/09/13(月) 15:33:57|
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ボスニア紛争初期のサラエボ攻防戦です。撮影年は92年です。

セルビア人のスナイパーです。目の前に軍事境界線になっているミリャツカ川という小さな川があって、その向こうの人間は誰でも撃ちます。女子供でも撃ちます。もちろん敵側のスナイパーも同様です。

サラエボ市南部のグルバビッツァ地区を押さえるセルビア人武装勢力の兵士。この戦線は動かないのですが、定期的に銃撃・砲撃戦をやってます。

グルバビッツァのセルビア人部隊。ユーゴ政府軍の重装備を使ってますが、兵隊そのものは地元出身の即席民兵がほとんどなので、操作はあまり熟練していませんでした。

戦場取材というのは、戦闘中のほとんどの時間は、兎にも角にも「全力疾走」です。日頃自堕落生活を送っている身にはめちゃくちゃシンドイですが、目の前に銃弾がバシバシ飛んでくるので、自分でもびっくりするほど速く走れたりします。
そして、遮蔽物を見つけたら頭からダイビング! レンズのフィルターは全部割れますし、ヤワなオート式カメラは一発で作動不能です。このときはFE2がすぐに戦力外通知。F3とFM2がかろうじて作動してくれました。戦場カメラマンの機材はシンプル・イズ・ベターなのです。

実際には、戦闘中にはなかなか写真を撮る余裕はないです。

こういうの、前からは撮れないので、どうしても後姿が多くなっちゃいますね。

敵(モスレム部隊)の砲撃で炎上。このくらいは日常茶飯事なので、誰も慌てません。

こちらはサラエボ市内に篭城中のモスレム部隊。サラエボ北部戦線は丘陵地帯。

モスレム部隊。こちらも職業軍人はあまりいません。

国連部隊。あまり力はありません。

サラエボ空港を守る国連部隊。周囲のセルビア人部隊は空港周辺の道路を平気で撃ってきていました。

砲撃を受けるサラエボ南西部。こんな感じのが毎日ありましたが、車のガソリンがなかなか手に入らず、現場にすぐに駆けつけるということが、なかなかできません。かといって、徒歩移動は自殺行為です。

サラエボ南部を東西に流れるミリャツカ川。この川が軍事境界線になっていて、両サイドのスナイパーが常に撃ち合ってます。ちなみに、川の北方の地区を東西に走る大通りが通称「スナイパー・ストリート」。

サラエボ市内では、やむを得ず外出するときは、常に走ります。しょっちゅう狙撃されます。

ライフラインは完全ストップ。なんといっても、いちばん困るのは「水」です。
- 2010/09/13(月) 12:52:57|
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ニカラグアでも反政府ゲリラばかり取材していたのではありません。私は自分の原則として、「敵対する両サイドを取材する」ことに決めてました。片方の情報だけだと、全体がよく見えないからです。

こちらは政府軍です。ソ連&キューバに支援されていたので、こちらは装備・軍服から訓練まで、ソ連/キューバ軍方式でした。

まあ、ゲリラも政府軍も、どちらもかなり貧弱な武装です。もともと貧しいうえに、外国からの軍事援助も、いわれているほどたいしたものではありません。しかも、両サイドともに、訓練もあまり行き届いていません。厳しいことが苦手な国民性なのかも。たとえば、隣国ホンジュラスの陸軍の規律正しさに比べると、ニカラグアは内戦中だというのに、政府軍もゲリラも同好会みたいなノリでした。私自身はそういうほうが好きですけど。

実戦で役に立つとは思えないような、少女たちの高射砲部隊もありました。上写真は、ギャル好き戦場ジャーナリスト・加藤健二郎さんに案内していただいた首都マナグア防衛の部隊です。

上写真は、政府軍の集会で見かけたギャル兵士たちです。当時の政府軍は学生運動出身者が主導する左翼革命軍だったので、ギャル兵士をかなりフィーチャーしてました。マッチスモの中南米では珍しいです。実際にはあまり本気ではないですが。

上写真は国軍ではなく、それよりも武装が優遇された内務省軍のヘリ基地です。旧ソ連製の古い機体ですね。ニカラグアでは長い間、アメリカと旧ソ連の代理戦争が続いたわけです。で、旧独裁政権下ではそこそこあった国力も、内戦を通じて、中米一の最貧国に成り下がりました。それに対して、アメリカやソ連のせいだと言う人もいますが、なんか違う気がします。周辺国に比べて、やはりダメダメな人が多かった印象があります。なぜなんでしょう。内戦終結後も、いまだダメダメはあんまり変わってないようです。
平和になった後は仕事で訪れる機会もありませんでしたが、私の初の長期取材地であり、個人的に非常に思い入れの深い国なので、ぜひ頑張って欲しいと思います。

上写真は、オバンドさんというカトリックの枢機卿です。『サルバドル』や『アンダー・ファイア』でも描写されていましたが、中南米の内戦ではカトリック教会が政治的に非常に重要な役割を果たしてきました。この枢機卿もニカラグア政界ではVIPのひとりでした。

上は当時の左翼政権を率いたダニエル・オルテガ大統領。小さい国なので、VIPの撮影・取材がたいへん容易です。オルテガ氏は最近、16年ぶりに政権に返り咲いて、現在も現職の大統領の地位にあります。

この恰幅の良い男性は、エデン・パストーラという人物で、非常に変わった経歴の持ち主です。もともと独裁政権時代の反政府ゲリラ創設メンバーでもある最古参のゲリラ司令官で、1979年に24人の部下とともに政府中枢施設を急襲して政府要人多数を人質にとるというテロを成功させ、有名になりました。本国では「コマンダンテ・セロ」(ゼロ司令官)として知られています。
このテロで、収監中の仲間の釈放と多額の身代金をゲットし、それをきっかけに翌年にゲリラは政権を奪取します。コマンダンテ・セロは、いわば革命第一の立役者だったわけです。
パストーラは新政権で国防次官に就任しますが、新政権では学生活動家出身のオルテガら左翼系幹部が主導権を握り、どんどんソ連/キューバ寄りになっていきます。パストーラは冷や飯食いとなり、ついには嫌になって政権から飛び出し、再び反政府ゲリラを組織します。最初はアメリカCIAなどから資金・武器を得ていたのですが、やがてアメリカとも対立するようになって、最後はゲリラ組織を解散し、引退します。私が会ったときは、隣国コスタリカに亡命し、ロブスター漁の漁師になってました。
内戦終結後は、コスタリカでの漁業を続けながら、本国で大統領選挙などにしばしば立候補し、泡沫扱いで落選したりしています。後に一度だけ、その選挙活動を現場で取材したことがあるのですが、ちょっとイタい感じでした。
ところで、国家建設はイマイチなニカラグアですが、その国土は非常に素朴な美しい風景を持っています。人々の暮らしぶりを少し紹介します。

東部カリブ海沿岸地方です。家屋は高床式ですね。

湿地帯ではコメを作っています。国民のほとんどは農業です。

コメを乾燥させているところ。後ろを歩いているのはコントラの一派のインディオ系部隊です。

人々の暮らしは、中南米でもかなり貧しいほうです。

ニカラグアには小規模ながら金鉱があり、一攫千金を夢見る山師が集まってます。ただし、船戸与一さんの南米3部作に出てくるガリンペイロみたいなアウトローな雰囲気はなく、たいへんフレンドリーな人々でした。

ニカラグア人のほとんどはカトリック教徒ですが、布教の経緯から、カリブ沿岸地方にはモラビア教というプロテスタント系の宗派が根付いています。上写真はそのモラビア教のミサの風景です。
- 2010/09/09(木) 12:42:11|
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所用が一段落したので、久々に仕事部屋の整理整頓をしました。ついでに引っ張り出した古い写真ファイルのポジのなかから、中米ニカラグアのゲリラ取材の写真をまとめてアップしてみたいと思います。
撮影年は1988年から89年にかけて。周辺国も合わせて半年以上の長期取材でした。当時、私は週刊誌編集者を退職したばかりの、25歳の駆け出し戦場カメラマン。この取材は、私の原点です。

当時は冷戦時代末期で、中米ではまだ左右両陣営に分かれていくつかの国で内戦が続いてました。
今の戦場写真は舞台がイラクやアフガ二スタンがメインなので、いわゆる乾燥地帯の風景がほとんどですが、私の世代だとまだまだベトナム報道の影響を受けていて、「戦場=ジャングル」というイメージが強かったですね。
なので、私もフリーランスの初仕事に、中米ニカラグアのゲリラ「コントラ」の従軍取材を選びました。

(写真はポジをデジカメで接写しただけなので、周辺部ちょっと歪んでます)

密林地帯での取材は、どちらかというと「探検」みたいな旅になります。その後、あちこちの戦争を取材しましたが、肉体的には密林はかなりシンドイです。「湿地帯や泥濘の山岳を徒歩で踏破しなければならない」「ときにカヌーを1日中漕がなければならない」「基本的に酷暑」「2時間毎にスコール」「泥まみれで野宿」「蚊や蛭の大攻撃」「泥水を飲まなければならない」などなど。若かったからなんとかやれましたが・・・・。
私の場合、この取材での病歴は「マラリア×1回」+「正体不明の風土病による高熱で失神×1回」。これは、半年の熱帯取材では少ないほうだと思います。

その後、ニカラグアでは内戦が終結し、平和が訪れました。このゲリラ部隊も今は存在しません。

この時代の中米の内戦については、オリバー・ストーン監督の『サルバドル』、あるいはニック・ノルティ主演の『アンダー・ファイアー』がよく現場の雰囲気を伝えています。私たち外国人ジャーナリストのノリも、あんな感じです。

上写真は、政府軍支配地域に潜入中のコントラの偵察部隊。

カリブ海岸の湿地帯地方には、原住民インディオ主体の反政府軍もあったのですが、そこでは黒人系混血の人も多く、アフロ・ヘアがよくいました。この部隊が比較的広い占領地域を持っていたので、私はインディオ系ゲリラの従軍取材がいちばん長かったです。ちなみに、私は左右どちらにせよ反政府ゲリラを英雄視するのが嫌いなので、「解放区」という言葉をこれまで記事で一度も使ったことがありません。武力で掌握している「占領地域」です。

もうこんなところばっかり歩いていきます。地雷はほとんどありませんが、敵のトラップや待ち伏せは察知しにくいので、結構緊張します。

ワニもいます。生きているのを見たことはないですが、骨は見ました。
川を高速ボートで移動するのが、いちばんラクです。ただし、ものすごい嵐の中、真夜中に海路で敵地沖合を猛スピードで横切ったことがあったのですが、揺れと寒さで地獄のような一夜でした。

ゲリラといっても、もともとそこに住んでいる人々なので、住民との垣根はほとんど感じられません。

ヘリにも乗せてもらいました。といっても、ゲリラは武装戦闘ヘリは持ってないので、物資輸送用の偽装民間ヘリです。アメリカの資金で運営されています。操縦士もアメリカ人でしたが、「アメリカ人はいない」ことになっていたので、彼の撮影は禁止されました。

コントラは装備や迷彩服から訓練内容まで、原則的に米軍方式です。幹部はアメリカ本土で軍事訓練を受けていました。事実上、アメリカの傭兵みたいな立場でした。

コントラの本部キャンプは、隣国ホンジュラス領内にありました。親米派のホンジュラス政府は実際にはコントラを支援していましたが、公式には「自国領内に外国人武装組織などいない」ことになっていたので、外国人ジャーナリストの取材をかなり厳しく制限していました。私は日本人としては初のコントラ取材者のはずです(プチ自慢ですが)。

コントラには少年兵もかなりいました。といっても、アフリカのように「拉致して洗脳」しているわけではなく、経済難民のようなかたちで本国から逃げた人々のなかから、子供の志願者が続々と名乗りを上げているのです。食うためです。

コントラの訓練風景。ちなみに、私もこの機会に簡単な訓練を受けてみました。射撃の成績は、まあまあ悪くなかったです。

ニカラグアは実は、珍しく野球が盛んな国です。『アンダー・ファイアー』にもその話は出てますね。
コントラも、出撃や訓練の合間に、野球をやってます。
- 2010/09/08(水) 23:24:27|
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先日、米露スパイ事件に関連して『朝日小学生新聞』にコメントを採用していただきましたが、同記事の一部修正版が8月22日の姉妹紙『朝日中学生ウイークリー』に掲載されました。スパイというより、インテリジェンスという分野がもう少しメジャーになってくれればホントはいいのですけれども・・・。
- 2010/09/02(木) 11:26:17|
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