不肖わたくしが講師役をやらせていただいた先週の勉強会(来ていただいた方々および主催者の方はたいへんありがとうございました)に来ていただいたジャーナリストの安田純平さんより近著『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書)
→アマゾン をいただき、たいへん興味深く拝読しました。
イラクで一時拘束されてしまったことで知られる安田さんですが、さらに深く現地取材をするために、今度はなんと出稼ぎ労働者(料理人)として現地入りしています。いろいろ戦場ルポものは私も読んできましたが、こんな面白いアプローチをする人ははじめてではないかと思います。
自分も含めてですが、海外取材者はしょせん、現地ではほんのわずかな人としか接触しません。普通の取材者であれば、取材対象である軍隊や武装勢力の指揮官や戦闘員、政治家、役人、研究者、学生、難民、被害者、人権活動家、医療関係者などなど。あるいは通訳、運転手、ホテル従業員、食堂や酒場で出会う人々くらいなものですね。
これはフリーランスでも大手報道機関の特派員でもそれほど変わりません。「政府関係者(日本の外交官など外国人含む)」の割合が少し変わる程度かなという感じです。
外交官などは、全体的に現地でもハイレベルの人と接触する機会が多いようですが、それでも地元国民のほんの一部としか接触しません。商社とかメーカーの駐在員などは、それぞれの取引相手と深い接触がありますが、それ以上ではありません。NGOスタッフなどはなかなかディープな人脈を持っていたりするケースもありますが、そこに特化していて、むしろ現地の狭い範囲としか接触していないことが多かったりします。
そして、そういう人々が自分の経験に基づいて分析し、「この国はこうなってる!」と判断します。それを伝え聞く側は、そうした現地経験者の声から、当該国に対するイメージを得るわけです。
ここで重要なのは、どんな優秀な人間であれ、その見聞したものは「一部にすぎない」ということです。戦場ものに限らず、海外ルポの読み手はそうしたことを頭に入れておく必要があります。
私たち書き手としても、それを自覚しているかどうかというのは重要です。自分の見聞を基に「こういう現実もある」と伝えるのはいいのですが、自分の見聞だけに拘泥し、それだけで「その国や国民」を断定的に論じたり、あるいは自分の見聞以外の情報をすべて「嘘だ!」と否定するような文章は最悪です。これは意外と陥りやすいもので、私自身もしばしばやっちゃっています。
こうしたことを回避するためには、多くの他の人の意見を聞いたり、その書かれたものを読んだりすることが必要です。また、現地でも、少しでも見聞を広めることが重要です。たとえば、「対立する双方を取材する」ことや「他の人の目がないところで、ひとりひとりから話を聞く」ことなども重要で、そうしないと同じ状況でもまったく違った印象になってしまうことがしばしば起こります。最悪なのは、最初から自分の主義主張とマッチする相手しか取材しないことで、こうしたスタンスでは、どれだけ現地経験を重ねても、ほとんど現地を見ていないのと同じですね。
しょせんは「よそ者」である取材者としては、どれだけ当事者に近づけるかというのも、非常に重要です。これは各人がそれぞれ苦心しているところではあるのですが、なかなか難しいことです。私自身、どれだけできたかと振り返ると、まったく情けない思いです。
ルポルタージュの方法論としては、取材者としてアプローチする方法の他に、自分が当事者になって体験してしまう体験ルポという手法があります。でも、戦場を知ろうとするなら自分が兵隊になってしまうという究極の方法がありますが、いくらなんでもそこまではちょっと・・・と考えると、なかなかうまい道はありません。
ということで、安田さんの戦場出稼ぎ労働者体験ルポは、方法論としてまさに出色のものです。でも、やろうとしてなかなかできることではありません。クウェートでネパール人労働者たちと一緒に職探しをしているのですが、ビザの問題とか国籍の問題とかで、最初はなかなかうまくいきません。私だったらせいぜい10日くらいダメなら嫌になっていたことでしょう。
でも、その最底辺のところを体験することで、イラク外国人労働者ワールドの深いところを見聞されています。彼はアメリカには批判的な目を向けていますが、それでも労働者として接した雇用主たちの声もきっちりと拾っています。職探しに約2ヶ月、イラクで約8ヶ月、最後はシェフに昇格。脱帽です。
本書最終章での考察は私の意見とは必ずしも同じではありませんが、これまで誰もアプローチしていなかった唯一無二の方法論で書かれた貴重な記録であることは間違いありません。興味のある方には是非お薦めします。
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2010/03/31(水) 13:18:49 |
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昨日、国松警察庁長官狙撃事件の時効が成立し、警視庁公安部が「オウムが犯人だったのに、証拠が固められなかった」と異例の声明を発表しました。
同事件についてはすでに報道で情報が出尽くしていますが、結局は「オウムの犯行であった」ことが実証できていません。状況的に最大の被疑者であることはそのとおりなのですが、現時点に至っても、それ以上のものではありません。なにより死刑囚たちが一様に否定していますし、情報分析としては「判断できない」とすべきではないかと思います。公安部が、いまだ非公表の何か強力な情報をつかんでいるのでなければ、です。
なお、いくつかのメディアが、「警視庁刑事部が、Nという老受刑者を真犯人だとして捜査していた」と伝えていますが、Nは半ば妄想的な虚言癖のある人物として知られている人物であり、刑事部もとくにそれ一本で考えていたわけではないと思います。N真犯人説は情報の確度でいうと、ノイズとまではいいませんが、せいぜいワン・オブ・ゼム程度といえます。
いずれにせよ、警察庁長官狙撃事件は、真実がまったくわからないといえますし、真相解明のための端緒すらもなかった事件といえます。
ところで、オウム関連ではもうひとつ、謎の事件があります。教団幹部・村井秀夫の刺殺事件です。この事件では、実行犯Jが現行犯逮捕され、すでに刑期も終えていますが、Jが誰に頼まれて犯行を行ったのか?ということが未だ解明されていません。Jは取調べに、山口組系羽根組のK若頭の命令だったと供述していますが、Kは完全否定。Kの裁判では教唆は証明されず、無罪になっています。
それなら、いったい誰がJに村井刺殺を依頼したのか? 当時、J本人も途中から沈黙に転じ、現在までその姿勢は崩していません。
この事件も謎が多い事件ですが、不思議なのは、兄貴分であるKを売ったかたちになるJが、出所後もいっさい報復らしきことを受けていないことですね。ヤクザ世界の常識からいうと、ちょっとこれはどういうことかよくわかりません。なんらかの手打ちがなされたのか、あるいは最初から出来レースだったのか??? もちろん犯行そのものに対する裁判は終了していますから、捜査機関がJの背後関係をさらに捜査することはありませんが、大きな謎が残されています。あとはメディアがJ本人の了解を得て取材するぐらいしか道はないのですが、それもなかなか難しいようです。
オウム事件の残された大きな謎ですが、すでに刑期を終えたJと、無罪になったKについては、当人たちの不利益になるような取材は人権上の問題がまず生じます。それに、両者とも強面筋の人なので、取材するのはなかなかおっかなかったりもするのでしょう。一部の事件記者のあいだではいろいろ噂もありますが、????な感じはいまだ続いています。警察庁長官事件と違って、こちらの謎には真相解明に繋がる端緒があるのにかかわらず、このまま迷宮入りする可能性が高そうです。
2010/03/31(水) 11:20:03 |
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『ニューズウイーク日本版』今週号に特集記事も出てましたが、現在、パキスタンのアザド・カシミール&パンジャブ系イスラム過激派テロ組織「ラシュカレ・タイバ」が勢力を伸ばし、従来の対インド限定から対欧米キリスト教社会へと攻撃対象を拡大している傾向があります。『ニューズウイーク』では「第2のアルカイダ」とまで表現されていますが、あのあたりはもうアルカイダとタリバンとパキスタン・タリバンとラシュカレ・タイバと他のパキスタン&バングラデシュ各イスラム過激派とをひとまとめにして考えないといけないでしょう。いわば「中央アジア・南アジアのアルカイダの仲間たち」という一大テロリスト勢力がいるわけです。
もっとも、この「仲間たち」のなかで、アルカイダの中核であるアラブ人やタリバンのアフガン・パシュトゥン人よりも、米軍の攻撃に晒されずに大っぴらに軍事訓練ができるパキスタン人グループの存在感が徐々に強まっているということはあります。ラシュカレ・タイバの台頭は、「仲間たち」のなかでパキスタン人勢力が主役になりつつあることにリンクしています。
パキスタン人のイスラム強硬派ネットワークが要警戒ということになると、日本の公安警察も忙しくなるかもしれません。アメリカと同盟国の情報機関は911以降、全力で世界に散ったアルカイダ系ネットワークの監視作業を行っていますが、その中核だったアラブ系ネットワークについては、日本はあまり関係ありませんでした。国内にほとんどアラブ人コミュニティが存在しなかったからです。
ですが、パキスタン人はかなり流入していて、実際に日本国内のイスラム活動の主役になっていますから、例えば本国のイスラム強硬派の人脈に繋がる人物が入国していてもおかしくありません。その人物がたとえイスラム過激テロ組織のメンバーでなくても、ちょっとした知り合い程度の関係ならいくらでも見つかることでしょう。そのほとんどが無害だとしても、公安警察には、そのあたりはいちおう押さえておくことが要求されます。公安警察の対イスラム・テロ部門はこれまでもパキスタン人たちを監視してきているようですが、そのさらなる徹底化をアメリカのカウンターパートから要求されることにもなるでしょう。
日本に武器を持ち込むことは容易ではないので、日本国内でアメリカ大使館を狙うといった類のテロはあまり現実的ではないですが、中古車や電化製品などの貿易の利益とか、あるいは在日のモスクが集めた寄付金などが回りまわって「仲間たち」の資金源になっていた、なんてことくらいはあってもおかしくないですね。
ちょっと古い情報ですが、2002年1月刊の拙著『世界のテロリスト』(講談社)から、ラシュカレ・タイバの項を転載します。
◎「ラシュカレ・タイバ」(正義の軍隊:RASHKAR-E TAYYIBA)
ラホール近くのムドゥリケで、ISI(パキスタン軍統合情報局)がパキスタンのスンニ派原理主義組織「伝道・指導センター」(MDI: MARKAZ UD DAWA WA WALIRSHAD)の軍事部門として、89年に創設。93年よりカシミールで武装闘争を開始するが、もともとアフガン戦争時代の義勇兵人脈を母体としているため、幹部のほとんどはパキスタン人かアフガニスタン人である。司令官はハフィズ・ムハマド・サイード。全世界のイスラム連帯を掲げる。兵力は300~400人とみられている。ISIにより訓練され、その強力な影響下にある。ISIの傭兵として、シーク教徒やヒンズー教徒住民の虐殺を行っているとされる。
2010/03/26(金) 10:30:23 |
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20日の前エントリーで、サラエボとレバノンの戦場でお会いしたCNNの女性戦場カメラマン、マーガレット・モスさんについて書きましたが、なんとその翌日の3月21日、お亡くなりになったそうです。享年59歳。ご冥福をお祈りいたします。
2010/03/23(火) 01:29:12 |
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先ほど深夜テレビを何気なくつけたら、「笑撃ワンフレーズ」というバラエティの未公開集というのをやっていました。そこに現役の戦場カメラマンの方が出ていたのですが、なんともいえない味(落語界でいうフラっていうやつですね)があって、見事に爆笑ものでした。世の中にはすごい人がいたものです。
私は同番組は初めて観たのですが、どうやらこれまでレギュラーだったようです(今回が最後の出演ということで、送迎会という設定でした)。渡部陽一さんという方で、お名前は雑誌などで何度も拝見していて、良いお仕事をされていることは知っていたのですが、これまでお会いする機会がなく、こんなに面白い方だったとは知りませんでした。
ところで、戦場カメラマンになろうなどという人には、個性的な人が少なくありません。私がこれまで出会った人を何人か紹介してみましょう。
1992年のサラエボは、非常に危険な状況でした。そこで会った2人の印象的なカメラマンがいます。ひとりはイブ・ドベイという筋骨隆々のマッチョマンです。『軍事研究』グラビア頁でお馴染みのカメラマンですが、当時の私は彼を知りませんでした。
この人とは、外国人記者たちの唯一の宿泊施設になっていたホリディ・イン・サラエボのバー(砲撃中も営業してました)で会いました。彼は元ベルギー軍兵士で、ローデシアで傭兵経験もある戦争野郎でした。彼が来ると、他の記者たちはあからさまな軽蔑の目で、完全シカト状態でした。私が彼と話していると、他の記者がこっそり「あんなヤツと関わるな」と忠告してくれたりしました。
たしかに目付きがかなりアブナイ感じでしたが、船戸与一ファンの私としてはそういうのも面白いと思い、1日取材に同行しました。当時のサラエボには世界中から記者・カメラマンが集まっていましたが、間違いなくこの人がもっとも戦場経験豊富に思えたからです。
いやあ、驚きました。この人は「重いから」という理由で防弾ベストも付けず、銃弾がヒュンヒュン飛んでくるなかを、じつに嬉しそうに走り回るのです。その後を私は重い防弾ベストにへとへとになりながら、よたよたとついていきました。けれども、そのおかげで、当時の前線の被弾危険エリアがだいたいわかりました。こういうとき、戦場のプロはじつに頼もしいものです。
もうひとりは、マーガレット・モスというCNNの女性TVカメラマンです。この人はホテルで隣の部屋だったので、ときおり挨拶程度はしましたが、とくに親しく話すということはありませんでした。
それでも非常に強く印象に残っているのは、この人はものすごくカッコ良かったからです。ロック・ミュージシャンみたいな派手なロングヘアーに、全身をSWATみたいな黒の戦闘服でキメていて、まるでハリウッド映画のヒロインみたいなスタイルなのです。女性の戦場カメラマンというのは結構多いのですが、オシャレ度では群を抜いていました。
この人もすでにCNNではエース級の戦場特派カメラマンでしたが、私がサラエボを離れた直後、銃弾を顔面に受けるという重傷を負ったことをニュースで知りました。
じつはこの人とはそれから4年後の96年にレバノン南部で再会しました。イスラエル軍とヒズボラがドンパチしているなか、私が取材していた難民避難所に走りこんできたCNNの車両から彼女がカメラを抱えて颯爽と飛び出してきたのです。顔面には一目でわかる痛々しい傷跡が残っていました。生死をさまよったはずなのに、また戦場に戻っていたのですね。私は「彼女を題材にレポートしたらウケるかも」などと不埒なことを一瞬考えましたが、あまりにあざといので止めました。
ちなみに、昨年9月、CNNは彼女のドキュメンタリーを放送しました。現在、末期がんで闘病中ということです。こんな体調でも変わらぬ魅力的な女性です。
http://www.youtube.com/watch?v=OCTMrx8ZyfA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Rss_Zylkshg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vFYZMYxhAlM&feature=related
世間には戦場カメラマンを評価してくれる方もいますが、私などはあまり使命感というものはなく、どちらかというと旅の延長みたいな感じで、野次馬的にやってました。ドンパチのシーンをどうすれば「よりカッコよく」撮影できるかとか、不幸な人々をどうすれば「より不幸」ぽく撮影できるかということばかり、いつも現場では考えていました。こう言ってはナンですが、自分自身はいわばハイエナみたいなものだと思っていましたし、紛争現場ではいつもそれに対する後ろめたさを感じていました。
まあ、いずれにせよ良い悪いは別にして、私たちは常に「どれほどライバルより衝撃的な画を撮れるか」という競争をしていたので、他人の仕事はそれなりに気になります。
私は駆け出しの頃、ニューヨークを拠点にしていて、中南米などをよく取材していたのですが、そんなときに紛争現場で必ず出会う同世代の駆け出しのカメラマンがいました。彼もニューヨーク在住で、ときどきニューヨーク市内でも顔を合わせました(私は取材の練習のため、ニューヨークでもなにか事件があると撮影によく行ってました)。その頃は私も比較的あちこちの紛争地にすぐ行ってしまうほうだったのですが、私が行くと必ずいるということは、この彼はおそらく常に世界中を飛び回り、当時のほとんどの国際紛争を取材していたのだろうと思います。
数年後、ボスニア紛争のとき、『ニューズウイーク』で衝撃的な写真を目にしました。街角で小さな子供を連れた父親が狙撃され、父子ともに射殺される場面の連続写真でした。クレジットには、ロン・ハビブというその彼の名前がありました。その後、彼は世界トップクラスの戦場カメラマンとして名を成しています。
一方、紛争取材中に亡くなった日本人のジャーナリストもいます。東京で何度かお会いした南条直子さんは、アフガ二スタンのゲリラを撮り続けていた方だったのですが、88年に地雷で亡くなられました。
ソマリアで数日間共同取材した共同通信の沼沢均・ナイロビ支局長は、94年にルワンダ難民取材に向かう途上、小型飛行機の事故でフジテレビ特派員の方とともに亡くなりました。沼沢さんは大手報道機関の特派員としてはちょっと個性的な面白い方で、共通の友人がいたこともあって親しくさせていただいていたので、私としてもたいへんショックでした。
沼沢さんの遺稿はその後、『神よ、アフリカに祝福を』(→<
u>アマゾン) として出版されました。彼はボブ・マーリーの大ファンで、アフリカ駐在にたいへんな期待をして希望配属されたのですが、そのシビアな現実を前にして、いろいろ考えているようでした。「でも、アフリカの現実って違うんだよなあ」とナイロビの酒場で語っていたことが思い起こされます。私は沼沢さんのそんな姿を、たしか「終わりなき旅の途上」とかいうようなダサダサなタイトルで、それでもレクイエムにはなんだか相応しい気がして、雑誌の書評欄に書かせていただきました。
同じ戦場といっても、ブラック・アフリカはその他の世界とはシビアさのレベルが違います。私などはたった3回(ソマリア内戦、南アフリカ部族抗争、ルワンダ難民)取材しただけでもう嫌になってしまったので、結局は世界の一断面しか知らないということになります。アフリカを取材し続けている方々は、私からするとそれだけで尊敬です。
こんなことをとりとめもなく書いていたところ、書棚のある写真集が目に入りました。インドシナ紛争で死んだ戦場カメラマンたちの遺作集『レクイエム』です。久々に頁をめくってみましたが、これはもうなんと言うか、やっぱり凄いですね。
ところで、先週の当ブログに世界の危険地帯に関して私自身の体験を少し書きましたが、戦場となるとまた別種の生命の危険があります。私の場合、92年にボスニア戦線で迫撃砲弾の破片を受け、出血多量で意識が霞んでしまったときが最大の危機でしたが、後で思い返すと、それよりも「マジでやばかったなあ」という瞬間がありました。
同年のソマリア取材でのことです。首都モガデシオを取材中のことなのですが、あるときユニセフのスタッフに同行し、武装勢力同士が睨みあっている幅300~400メートルほどの軍事境界線(グリーンラインと呼ばれていました)を越えることになりました。片側から一方の武装勢力に所属する護衛が運転する車両でグリーンラインの中央まで行き、反対から敵対勢力の要員が運転する車両が来て、私たちだけが乗り換えるという手はずになっていました。ちょうど人質交換みたいな感じですね。
ところが、片側の最前線で待機しているとき、突然相手側から発砲されました。私たちの周囲にいる兵士たちはみな一斉に後退し、臨戦態勢に入りました。私たちの車両だけが両派の間に取り残されてしまったのです。
これは非常に危険な状況でした。両派が銃撃戦を開始すれば、私たちは車両もろとも蜂の巣になるのは明らかでした。ところが、運転手は気が動転したらしく、震えて動けなくなってしまっています。その車両にはもうひとりカメラマンが同乗していたのですが、彼が「ゴー・バック!」と狂乱して叫んでいて、それで運転手はさらに焦ってしまった感じでした。
私は瞬間、ドアを開けて飛び出そうかと考えましたが、それが良いのか悪いのかとっさに判断がつきませんでした。結局、私たちはその場でしばらくビビりながら成り行きを見守りました。そのときは幸運なことに銃撃戦は起こらなかったのですが、生きた心地がしない時間でした。
そのとき同乗していたカメラマンは、『ニューズウイーク』のピーター・ターンリーという人で、戦場カメラマン業界ではすでに著名なベテランだったのですが、その人も「こんな危険な状況は初めてだ!」とユニセフのスタッフにさんざん文句を言ってました。有名な戦場カメラマンなのに、今思えばなんだか雰囲気がマイケル・ムーアみたいな感じの人でした。
最後に、戦場取材の話ではないのですが、危機一髪体験談をもうひとつ。私は大学2年の夏休みに初めての海外旅行でアメリカとメキシコに行ったのですが、最後のニューヨークが結構面白かったので、帰りの飛行機を1週間延期しました。ニューヨーク発ソウル経由の便でした。
ところが、単なる偶然ではあるのですが、その延期によって私は命拾いすることになります。当初予約していた便が、サハリン沖上空でソ連軍機に撃墜されてしまったのです。1983年9月1日、いわゆる大韓航空機撃墜事件でした。同便には、私と同じようにアメリカから帰国する大勢の日本人乗客が乗っていました。冷戦真っ只中の悲劇でした。
1週間後、恐る恐る同じ航路に搭乗しました。旅行シーズンでしたが、機内はガラガラで閑散としていました。
2010/03/20(土) 01:26:55 |
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昨日、私も企画協力させていただいた洋泉社ムック『戦後「裏」外交史』が発売になりました。→
アマゾン 内容的にはこの手のムックにありがちなポップであざとい作り方とはあえて一線を画し、担当された編集者の真摯な熱意が伝わってくる力作になっていると思います。私もだいたいの戦後外交史は知っているつもりでしたが、ぱらぱらと読んでいて、意外と知らないことや勘違いしていたことがあったことに気づきました。
同書の内容を以下に紹介します(※印は私が担当しました)
『戦後「裏」外交史~「国益」の名のもとに隠された秘密交渉の真相に迫る』
▽日米同盟の正体//手嶋龍一(インタビュー※)
▽日本はアメリカの属国なのか? 普天間基地問題に見る日米同盟の行方//石破茂(インタビュー※)
▽反共謀略工作に水面下で暗躍した日米「裏コネクション」※
▽ワシントンから戦後日本を操った影の勢力「ジャパン・ロビー」※
▽国交正常化交渉の水面下で跋扈した日韓アンダーグラウンドの魑魅魍魎//内藤雅男(ジャーナリスト)
▽吉田茂から鳩山由紀夫まで~日本政界を掌握するCIAの対日工作//春名幹男(インタビュー※)
▽戦後外交のウラを歩いた「昭和の参謀」瀬島龍三※
▽金大中拉致事件~玉虫色の政治決着の真相//森省歩(ジャーナリスト)
▽「核の檻」に閉じ込められた田中角栄の資源外交//山岡淳一郎(ノンフィクション作家)
▽自衛隊機をめぐる日米航空商戦※
▽プラザ合意に始まる日米通貨交渉の舞台裏//滝田洋一(日本経済新聞論説副委員長)
▽冷戦下ニッポンで繰り広げられたソ連諜報機関によるスパイ工作※
▽いま明かす北方領土交渉秘史//鈴木宗男(インタビュー※)
▽金丸訪朝団が篭絡された金日成のサプライズ外交//野村旗守(ジャーナリスト)
▽毛沢東に始まる中国共産党の天皇工作//城山英巳(時事通信外信部)
▽2度にわたる小泉訪朝の舞台裏~密約と暗躍した2大エージェント//野村旗守
▽戦後外交小史①1945~72(日本降伏、対日占領政策、逆コース、朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約、日ソ国交回復、日米安保条約改定、日韓国交正常化、日米繊維摩擦、沖縄返還、日中国交正常化)
▽戦後外交小史②1973~89(石油危機、ロッキード事件、福田ドクトリン、日米貿易摩擦、中曽根外交と冷戦終結)
▽戦後外交小史③1990~2010(湾岸戦争、カンボジアPKO、北朝鮮危機、小泉訪朝と拉致問題、北朝鮮の暴発と6カ国協議、イラク戦争と自衛隊派遣、中国反日デモ騒擾、普天間交渉)
▽戦後外交で活躍したネゴシエーター列伝(白洲次郎、末次一郎、若泉敬、矢次一夫、田中清玄、山下太郎、岡崎勝男、加瀬俊一、高島益郎、黒田眞、佐藤優、田中均)
2010/03/19(金) 12:52:49 |
著作・メディア活動など
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捕鯨反対で無茶な活動をやって世間の注目を集めている環境保護団体「シー・シェパード」がまたまた世間を騒がせています。あれは、環境保護団体大手の「グリーンピース」から跳ね返りの幹部が追い出されて作った団体で、いまどきの左翼業界では、反主流派の厄介者なのですが、日本のメディアではなんだかかなり有名になってきました。
そこで今回は、2年前の洞爺湖サミットのときに、サミット妨害を生き甲斐とする「ブラック・ブロック」という集団を中心に、いまどき左翼過激派について総括した記事を再録してみようと思います(元原稿は『週刊エコノミスト』に寄稿)。
いまどきサヨク過激派の系譜
2008年3月10日、サハリンから北海道・小樽港に入港したロシア貨物船に1人のドイツ人男性が乗船していたが、札幌入国管理局小樽港出張所によって上陸を拒否され、そのまま数日後にロシアに送り返された。入国拒否の理由は、所持金が少なく帰国チケットを所持していなかったことや、滞在日程が不明だったということだが、この37歳のドイツ人はじつは反グローバリズム活動家で、北海道洞爺湖サミットに対する反対集会に出席する予定だった。
08年7月に開催される洞爺湖サミットに対しては、当然ながら入管当局や警察当局がテロ対策に本気になって取り組んでいる。もっとも危険なのはイスラム過激派アルカイダであり、全国の外事警察は現在、かつての極左過激派取締りの際の〝アパート・ローラー作戦〟にも似た国内在住イスラム系外国人の徹底した情報収集を進めているが、もうひとつ最重要警戒対象となっているのが、世界経済のグローバリズムに反対する〝過激派〟勢力だ。
欧米の若者層を主力とするこれらの反グローバリズム団体は、先進国主導のグローバリゼーションが途上国の国民生活を圧迫しているとして、近年のすべてのサミットにおいて、街頭での抗議行動を実行してきた。その際に警備当局としばしば衝突していて、何度も暴動まがいの騒動を引き起こしてきている。たとえば07年6月の独ハイリゲンダム・サミットでは8万人規模のデモが暴徒化し、約1000人が身柄を拘束される事態となった。
彼らは今度の洞爺湖サミットに際しても日本での抗議活動を計画しているが、日本政府は過激派の入国を空港や港湾の入国審査時に水際でくい止めようと、そうした活動家と思しき人物への入国審査を厳しくする措置をすでにとっている。2002年のワールドカップ時に導入した入管難民法のフーリガン条項(過去に暴動参加や建造物破壊行為などで摘発されたことのある外国人の入国を拒否できる条項)の適用も準備されているようだ。
一方、こうした反グローバリズム団体の〝兄弟分〟として環境保護団体があるが、こちらにも近年、日本を対象とする過激な抗議行動を続けている団体がある。世界的に有名な環境保護団体「グリーンピース」から過激分子が分派して結成された「シー・シェパード」という団体で、日本の捕鯨を実力で妨害するという行為を続けている。たとえば08年1月15日に南極海を航行中の日本の調査捕鯨船に不法侵入したり、同3月3日に酪酸と思われる薬品入り瓶で〝襲撃〟したり、はたまた同3月6日には在英日本大使館の外壁をよじ登ってバルコニーに侵入し、捕鯨反対の横断幕を掲げたりと、その活動はもはやデモンストレーションの域を超えていると言える。
こうした団体は、もちろんアルカイダのような本物のテロ組織ほど危険な存在ではないが、それでも「自らの信条のためなら多少の暴力行為も正当化される」という行動パターンは治安上も決して無視できるものではない。では、このようにしばしばニュースに登場するようになった〝暴れ者たち〟の正体とは何か?
ひとことで言えば、彼らは、血の気の多い〝いまどきのサヨク〟ということになるだろう。必ずしも政治的な左翼思想とは言えないが、反核・平和、環境保護、動物愛護、反グローバリズムといった価値観の市民運動を基盤としていて、そこに労働組合やリベラル派・左派政党なども関与しているケースが多い。系譜としては、70年代のベトナム反戦運動に穏健な立場から参画したヒッピー・ムーブメントの末裔にあたると考えていい。
(実際、代々のロック・ミュージシャンがこうした運動のシンボルになっていて、たとえばかつてのジョン・レノンの役回りを今では「U2」のヴォーカルのボノが務めている。ちなみにオーストラリアのピーター・ギャレット環境相は元ロックバンド「ミッドナイト・オイル」のヴォーカル。日本ではさしずめ坂本龍一や忌野清志郎がその系譜にあたる)
彼らの最大の特徴は、「弱者の味方である自分たちは正しい」と一分の迷いもなく信じていることだろう。ヨーロッパの多くの国では地域の普通の子供たちがボランティアとしてグリーンピースの募金集めを行っていたりするので、そのあたりの感覚は日本人が考えるよりはかなり強固なものがある。日本ではグリーンピースは半ば左翼団体視されているが、欧米豪などでは絶対的な〝善〟に捉えられているのだ。
こうした運動は政治的にはたいていは穏健なものに終始するが、「〝ラブ&ピース〟と叫んでいるだけでは何も変わらない!」と直接行動にはしる過激派はいつの時代にも実在する。街頭で暴徒化する若者の群集心理はまさにフーリガン、あるいはネオナチなどの極右と似たようなものだが、ネオナチが「外国人移民は出ていけ!」と叫んで暴れるのに対し、〝いまどきサヨク〟はあくまでも弱者の味方なので、「外国人移民を守れ!」と叫んで暴れるわけだ。
では、こうした〝いまどきサヨク〟の過激派を以下に分類してみよう。
反グローバリズム団体
▽ブラック・ブロック
街頭で過激な抗議デモを行う反グローバリズム活動家の総称。正式には「ブラック・ブロック」という名の組織はないが、メディア的に使い勝手がいい用語のため、近年の欧米主要メディアに定着している。
言葉の由来は、デモ参加者たちが好んで黒い衣装を着ることにある。黒がもともと無政府主義者のシンボル・カラーだったからだとの説もあるが、その真偽は不明だ。実際のところ、当初はデモ参加者の身元を隠すためのものだったようだが、今では同志の結束を誇示する一種のトレードマークのようなものになっている。ブラック・ブロックの起源は80年代のドイツで、それが91年の湾岸戦争反戦デモを機にアメリカに広まったとの説が有力である。
とくに99年頃より、サミットをはじめWTO(世界貿易機関)あるいはIMF関連の国際会議などで組織的にデモ活動をするようになり、しばしば暴徒化している。破壊行為の対象は、主に有力な多国籍企業や金融機関の事務所など、グローバリズムを象徴する建造物が多いが、暴徒化の端緒として計画的に警官隊と衝突している傾向も見てとれる。
ブラック・ブロックには欧米およびオセアニアの多くの団体が参加しているが、とくに有名なものをいくつか挙げる。
▽DISSENT!(異議)
05年7月の英グレンイーグルズ・サミットに対する抗議活動を組織するために、欧州各地の反グローバリズム団体が参加して結成した国際ネットワーク。
▽ウォンブルス
ロンドンを拠点とする反グローバリズム団体。「自由獲得効果的闘争オーバーオール運動」の頭文字だが、イギリスの子供向けアニメのキャラクター「ウォンブルス」に引っ掛けたもの。かつて街頭デモで白いオーバーオールを着用したことが名前の由来となっている。2000年代に入って活動を本格化させている。
▽ワイルド・グリーン
97年にニュージーランド緑の党から派生した青年運動。その後、カナダをはじめ英語圏に勢力を伸ばしている。
▽反人種差別行動ネットワーク(ARA)
80年代後半に米国ミネソタ州で結成。ネオナチ、白人至上主義運動、妊娠中絶反対運動などに反対する組織。主に北米を活動エリアとする。06年8月のウイスコンシン州での右翼デモに対抗するブラック・ブロックを主導した。
▽反ファシスト行動(AFA)
85年にイギリスの極左活動家らによって結成された。主に右翼勢力への抗議を行っている。
環境保護団体
▽グリーンピース
オランダを本部とする世界最大の環境保護団体。もともとは69年にアメリカの核実験に反対する主旨でカナダで創設された。70年代はじめより、各国の核実験海域に自前の抗議船を派遣して実験を妨害するという活動を続け、さらに70年代半ばからは反捕鯨運動にも乗り出している。
グリーンピースは決して暴力的な直接行動を指向する団体ではないが、メディアを意識した派手なデモンストレーションを身上としており、各国の治安当局とときに対立する。日本との関連でも、92年に核物質を輸送していた輸送船を護衛していた海上保安庁の巡視船と衝突事故を起こしたり、05年12月、06年1月に南極海で日本の調査捕鯨船と接触したりといったことがあった。
▽シー・シェパード
グリーンピースの共同創設者で直接行動派の中心人物だったポール・ワトソンが77年に組織を追放された後、81年に米カリフォルニアで設立した過激な環境保護団体。主に捕鯨反対運動で知られる。
80年代より世界各地で捕鯨船を爆破したり、エスキモーのアザラシ漁を妨害したりといった活動を続けているほか、日本の調査捕鯨船に対しても、体当たりやスクリューにロープを絡ませて停止させるなどの妨害行為を続けている。また、03年には和歌山県のクジラ追い込み漁の仕切り網を切断するなどの犯罪も行っている。
日本では〝エコ・テロ組織〟の代表格として非常に評判が悪い組織だが、「クジラがかわいそう」という声が圧倒的多数派の欧米豪などの国民のあいだでは英雄視されている。支持者にはミック・ジャガーやダライ・ラマなどの大物も名を連ねており、米『タイム』誌は00年に彼を「20世紀で最大の環境問題ヒーローのひとり」と評した。英『ガーディアン』紙は08年1月に「地球を救う50人」に彼を選んでいる。同年3月20日には、環境保護活動に関する豪州の有名な賞である「野生動物保護の戦士賞」が彼に贈られている。
エコ・テロリスト
以上が〝いまどきサヨク〟の代表格と言えるが、世の中にはじつにさまざまな考えの人々がいる。地球環境や野生動物の保護のためには、テロも辞さないというエコ・テロリストの面々だ。ほとんどが〝仲間内〟の集まりによる泡沫組織のようなものだが、なかには以下のように、それなりに組織的な活動をしているケースもある。
▽動物解放戦線(ALF)
76年にイギリスで結成された過激組織。狩猟愛好者の車両や皮革販売店、食肉店などへの放火や、それらの従業員への脅迫・傷害などを行う。90年代には「動物実験を行う研究施設に抗議して、HIV感染血液を食品に混入した」とか、「皮革靴店にHIV感染血液を詰めた爆弾を仕掛けた」などといった声明を発表したこともあった。
同組織は極端な例だが、ベジタリアンも多い欧米先進国では動物愛護活動の裾野は日本とは比較にならないほど広く、ニューヨークやロンドンの高級エリアでは毛皮を着る女性にいきなり赤インクをかける行為なども頻発している。
▽地球解放戦線(ELF)
前記「動物解放戦線」の姉妹組織。94年結成。環境保護のためならテロも辞さないと公言する。環境に影響を与える高級SUV車などを標的としている。
▽ハンティンドンの動物虐待阻止(SHAC)
動物解放戦線の姉妹組織。イギリスの医薬品・食品安全性試験会社「ハンティンドン・ライフ・サイエンス社」の動物実験を阻止するために99年に結成された。01年には同社社長に暴行を加えたほか、同社関連施設への放火・爆破をたびたび起こしている。
こうした〝エコ・テロ組織〟は社会的な支持基盤もほとんどない弱小組織とはいえ、やっていることは立派な犯罪行為であるため、米英の治安当局は明確にテロ・グループと定義してその動向を追っている。
とりあえず日本にとって喫緊の課題は、洞爺湖サミットにおけるブラック・ブロックの活動をいかに抑えるかということだ。幸いなことに極東の片隅にある日本にまでわざわざ大人数の〝血の気の多い若者たち〟が押し寄せることはなさそうだが、セミプロ活動家の何人かは必ず訪日するだろう。ただ、彼らは同時に、サミットの重要な議題のひとつである地球環境問題のNGO活動家でもあるから、サミットに合わせて日本を訪問する正当な理由もあるということになる。正当なNGOメンバーをやみくもに入国拒否するわけにもいかないはずだ。
今のところ彼らの受け皿になる日本国内のサヨク系市民団体はいずれもきわめて小規模なものであり、日本国内で大掛かりなデモを組織する力はなさそうだが、かといって警戒を怠ってはなるまい。
(以上、再録)
2010/03/15(月) 16:01:36 |
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知り合いの編集者の方が主催している定例講演会(というか勉強会兼呑み会みたいな感じです)で講師を仰せつかりました。誰も来ないとあまりに寂しいので、以下に告知させていただきます。もしもお暇でしたら是非いかがでしょうか。
街のカフェレストランを借り切るもので、大きな会場ではないですが、いたってフランクな雰囲気で、どなたでも参加ウエルカムです。
サムライの会・第61回例会(といっても、いわゆる「右」の方々の集まりではありません)
日時:3月26日(金)午後6時半~
場所:「ル・パン」港区麻布台1-11-2星野ビル2階(東京メトロ神谷町駅下車1番出口、東京タワー方面徒歩5分、飯倉交差点角 螺旋階段昇る)
会費:3000円(軽食つき)(その後の呑み会は実費)
演題:「戦後インテリジェンス裏面史」
内容は、自衛隊ウラ部隊の話を中心に、戦後のG-2と旧軍反共人脈、内調や公安警察の戦後史、米ソの対日工作、在日アメリカ諜報機関、現在の日本の情報機関・・・・といったものを考えています。これまであちこちに書き散らしてきたものをまとめる感じでしょうか。よろしくお願いします。
2010/03/12(金) 12:54:53 |
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先ほど夕方のニュースで、今年ワールドカップが開催される南アフリカの治安が心配だというようなニュースをやっていました。
もうふた昔ちかく前ですが、南アフリカは一度取材したことがあります。ヨハネスブルグの貧民街にある「ホステル」と呼ばれる出稼ぎ者収容施設と、東部インド洋岸のクワズールー・ナタール州です。当時、マンデラ率いるANCの主流派を構成していたコサ人と、少数民族ズールー人のインカタ自由党が鋭く対立していて、とくに互いのチンピラ集団による襲撃合戦が激しかったときでした。
私はあまり他のジャーナリストが取材していなかったズールー側を取材しようと思い立ち、彼らの本拠地であるクワズールー・ナタール州の内陸部のインカタ自由党組織と、ヨハネのズールー人ホステルでズールー人の武装ギャング団の取材をしました。とくにギャング団のほうは、いきなりホステルを訪ねていったのですが、それはそれは怖かったですね。後で考えると、無謀以外のなにものでもありませんでした。よく無事に出てこれたものです。
(ちなみに、私は他にもあちこちでギャングの取材をしたことがあるのですが、その際のコツというのは、とにかくそのグループのボスに最初に接近し、ナシをつけてしまうことです。これはゲリラ取材のときも同じです。とはいえ、くれぐれも真似しないでください。責任は持てません)
他方、クワズールーのほうは、彼らは主に夜間に対立民族の村を襲撃するので、昼間にインカタ自由党の活動家連中を取材しているぶんには危険はありません。移動中のジャーナリストが強盗団に襲撃されたこともあったようですが、私のときはそういうことはありませんでした。
ですが、当時から南ア最大の危険地帯は、ヨハネの中心部でした。とくに夜間は強盗集団の巣窟になっていて、ちょっとホテルから数ブロック移動するためだけでも、タクシーを使いました。そのくらい危険な土地でした。
もっとも、そういう連中は少人数のカモを狙います。なので、数百人単位の観光客がひしめいているところを襲撃することはまず考えなくていいと思います。ワールドカップの観戦にいかれる方は、大勢の観光客がいるところならそれほど気にしなくてもいいと思いますが、たとえばこっそりと「夜の街」に行こうなどとすると、いっきにバイオレンス空間に入り込むことになるので気をつけてください。
ときどき「どこがいちばん危険でしたか?」なんて聞かれることがあります。
私はテロ続出時のバグダッドを取材していないので、それ以外の場所ということになりますが、戦争の最前線従軍取材のような特殊なケースを除くと、まずダントツ1位はソマリアでしょうね。前線でなくても、とにかく外出時は機関銃や対戦車ロケットで武装したボディガード・チームを雇い、ピックアップトラックで行動するのが原則です。前に書いたことがあるかもしれませんが、私はユニセフ事務所の前でAKで武装した地元チンピラと口論になり、ユニセフに逃げ込んだのですが、連中は平気で敷地内まで追っかけてきました。こんな場所は他にないです。
私の場合、次点はヨハネスブルグでしょうか。西アフリカはかなりシビアだと聞いたことがありますが、残念ながら私はそちらの取材経験はありません。
外国人狙いの強盗団が多いということでは、フィリピン南部スールー諸島のホロ島もそうですね。ここにはイスラム・ゲリラ兼強盗団がいて、外国人宣教師などがしばしば誘拐され、殺害されています。日本人のカメラマンの人が長期間拉致監禁されたこともあります。私はこのときはかなり慎重にゲリラ接触ルートの選定をやりました。最後は運任せみたいなことはあるのですが。
その次は、アメリカの大都市のスラムですね。私はニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミあたりはかなり奥のほうまで出入りしましたが、あれは怖いです。他の国のスラムも治安は悪いですが、スリや泥棒やカルい強盗程度で、あまり生命の危険までは感じません。その点、アメリカのスラムは世界最危険地帯といっていいかと思います。
とはいえ、どこに行っても犯罪に遭う可能性はあります。私自身もたとえばスペインでピストル強盗に遭遇するなど、数え切れないくらい犯罪被害に遭っています。こういうのは今では「自己責任」とかいって被害者が批判されるのでしょうが、後で思い返すと、危険な土地ほど強烈な思い出になっていることはたしかです。ときおり呑み会の席で若い人に「武勇伝」をひけらかし、嫌われたりしますが。
2010/03/11(木) 20:01:23 |
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外務省の有識者委員会が、日米密約の存在を認定しました。
なかでも60年の安保改定時の「核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする」という密約は、「暗黙の合意」が存在し、「広義の密約」に相当すると判定されました。
栗山尚一・元外務次官の証言によると、もともと曖昧だったこの問題をアメリカ側が後に懸念し、68年1月、当時のジョンソン米駐日大使が牛場信彦・外務次官と東郷文彦・北米局長に対して念押しした事実があるということです。それで、東郷局長がこの密約の経緯をまとめたメモを作成し、その後、外相や首相が変わるたびに外務次官が密約について説明していたとのことです。栗山元次官も89年に当時の海部首相と中山太郎外相に対して説明し、了解を得ていたということですが、栗山氏の前任者の村田良平・元次官も認めているので、少なくとも海部政権までは継続して行われていたわけです。
ですが、次の宮沢内閣では、宮沢喜一元首相も、外相だった渡辺美智雄・武藤嘉文・両元外相も故人なので、証言者がいません。当時の小和田恆・外務次官は言わずと知れた皇太子妃の実父なので、なんとなくアンタッチャブルな存在になっています。次の細川政権あたりからは、反自民政権に伝達してはマズイという判断があったのかもしれません。
いずれにせよ、密約はなぜ必要だったかというと、日本政府がアメリカに対してノーと言えなかったためです。苦渋の選択だったとは思いますが、やはりそんなのはおかしいと思います。国民に情報を開示し、その判断に任せるべきです。
それで日米同盟が壊れるかもという懸念があったのかもしれませんが、そんなことで日米同盟は壊れません。理由は簡単で、アメリカの国益に反するからです。アメリカは日本のタテマエを立ててやり、曖昧さを残すかたちで決着したことでしょう。こうした曖昧外交というのは、韓国への戦後賠償とか、沖縄返還時のニクソン=佐藤共同声明第8項とか、歴代の日ソ間の共同声明とか、けっこうよくあることです。両国でそれぞれ都合よく解釈するというウラ技ですね。
そういうのもどうかとは思いますが、政権担当の方々はせめてそこを苦心していただきたいですね。密約はアウトです。詐欺ですから。
ところで、昨年、私が週刊朝日に寄稿した「もうひとつの日米密約」について、ここで紹介しておきます。
これは、70年代前半に金大中事件の関連してマスコミで騒がれた自衛隊ウラ部隊について、その誕生に日米間の秘密協定があったことが、当時を知る関係者への取材からわかったという話です。
そもそも自衛隊の前身である警察予備隊は、旧軍の服部卓四郎一派が排除され、旧内務省系の人脈を中心に創設されました。情報関係を主導したのは、初代の陸幕2部長となる小杉平一(後に関東管区警察局長)、2代目2部長となる山田正雄(後に陸幕長)、内局調査課長となる後藤田正晴らの旧内務官僚エリートたちでした。それまでG-2と連携していた有末機関・河辺機関系の人脈もほとんど入れませんでした。
そこで在日米陸軍は、警察予備隊の警察士長(3佐)・1等警察士(1尉)クラスの人間を在日米陸軍情報部隊で研修させ、その配下に組み込むことにしました。これがそもそものスタートで、よってその後もこのウラ部隊では、組織の発端は「マッカーサー司令部の命令」だと代々言い伝えられてきました。
けれども、実際にはちょっと違っていて、その時点ではまだちゃんとしたものにはなっていませんでした。じつは、昭和29年の吉田茂政権末期に日米相互防衛協定(MSA協定)というのが日米間で締結され、正式に自衛隊が創隊されるのですが、その際、当時のジョン・ハル極東米軍司令官から吉田首相に書簡が出され、「陸上自衛隊と在日米陸軍が共同で諜報活動を行う」という秘密協定が結ばれます。この秘密協定をもとに前述した諜報研修が順次拡大され、昭和36年に非公然組織「陸幕第2部情報1班特別勤務班」が発足します。これがこのウラ部隊の正式な誕生になります。
そもそもこの諜報研修は米軍側では「MIST-FDD」と呼ばれていました。FDDというのはキャンプ座間を本拠とする米陸軍情報部隊「第500情報旅団」の朝霞キャンプにあった分遣班の名称で、MISTというのはミリタリー・インテリジェンス・スペシャリスト・トレーニングの略。ミストと発音します。この研修はFDDによって朝霞キャンプで行われ、設置された共同部隊もそこを本拠としました。後に朝霞キャンプ(キャンプ・ドレイク)が日本側に返還されたのにともない、このウラ部隊もキャンプ座間に移転します。
ところで、当時の陸幕2部では、ミストに語感が似ているからということで、この秘密の日米共同班に「武蔵」というコードネームをつけます。昨年、元隊員が出版した手記に初めて名前が登場した「ムサシ機関」というのは、このことです。
武蔵という通称はその後、使われなくなり、部内ではもっぱら「特勤班」と通称されます。「別班」との通称もありましたが、マスコミには70年代にこの通称が漏れ、このウラ部隊はマスコミ的には「陸幕2部別班」ということになって今日に至っています。特勤班の実情については、『軍事研究』『週刊朝日ムック』に拙稿を書いておりますので、そちらを参照していただければ幸いです。
興味深いのは、この特勤班の過去の活動内容について、現在の防衛省当局はあまり詳細を知らないようだということです。というのも、昨年春に私が『軍事研究』や拙編著『戦後秘史インテリジェンス』に初めて元隊員の実名証言を掲載し、その後、別の元隊員が手記を発表するなどしたことを受け、関係筋に「あの話はどうなの?」という問い合わせがあったらしいのですが、もう古い話なので、防衛当局にもほとんど関係資料がないようなのです。
私が間接的証言として聞いた話では、80年代くらいまで、陸幕にはこの特勤班誕生に関わる日米秘密協定の文書が残っていたようですが、その後、どうなったかは定かでありません。たぶんよくわからないまま破棄してしまったのではないかと思います。
ハル=吉田秘密協定について、私自身は実物を見たわけではありません。しかし、この話を証言していただいた方は、かつてこの件の詳細を知る立場にいた方ですので、その信憑性は非常に高いと私自身は確信しています。
残念なのは、この件に関して、昨年出版された前述の手記がかなり話を誇張・脚色して書かれてしまったため、現在、関係者が互いに牽制する事態になってしまっていることです。すでに皆さん70代後半から80代の方々なのですが、まだいろいろしがらみがあるらしく、実名でお話しいただけない状況です。
日米関係に関わる戦後史には、まだまだ知られていない秘史がありそうです。
2010/03/10(水) 23:21:46 |
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トンデモ陰謀論のマニアが世の中にそれなりに存在していることは承知しております。出版業界では、その類の本はかなりウマミのある商売にもなっています。この厳しい出版業界の現状では、私もつい誘惑にこころが揺れることもありますが、いかんいかんと己に活をいれ直し、ささやかなテロ本(エロ本ではありません)を書かせていただいてきた者として、最後の魂は売らんぞと痩せ我慢を続けている今日この頃なのであります。
しかし、それにしても困ったものです。
民主・藤田国際局長を米紙が酷評 同時テロ陰謀説示唆で 共同通信
べつに誰が何を考えていても構わないとは思うのですが、政権与党の国際局長ですからね。この方は前々から911陰謀論を主張してきた方で、たしかイラクのときに日本人外交官が射殺された際にも、米軍誤射説という陰謀論に乗っかっていたのではないかと思います。いわば筋金入りの陰謀論信奉者なのでしょう。
911テロは首謀者KSMが犯行の全貌をゲロっていて、その裏づけもとれてます。KSMとアルカイダの犯行に一分の疑問もありません。疑問点を提示・検証することはおおいに結構なのですが、情報のノイズだけピックアップして全体にこじつけるならば、どんな仮説だって構築することは可能です。911は宇宙人のしわざだったという仮説だって成り立ちます。洗脳兵器でビンラディンやKSMを操ったとか。これを論理的に100パーセント否定することはできません。ばかばかしい話ですが。
2010/03/09(火) 15:49:58 |
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ここのところ別件で慌しく、あまりニュースをチェックしていませんでした。で、『選択』今月号をぱらぱらと読んでいたところ、またウンザリする記事が。沖縄からグアムに移転する予定の海兵隊のために、日本政府から一戸あたり6000万円超の住宅建設費が支出されるということです。6000万円超です。3LDKです。しかも、あちらのLDKは日本みたいなミニミニ・サイズではござんせん。
今のところの計画では、海兵隊員8000人とその家族9000人が移転するのに、全体経費1兆円のうち、日本政府は6000億円を出すことになっています。
思いやり予算の思いやりすぎも、結局そのままですね。もうこうしたことがおかしくないと、慣れてしまっているのが不思議でなりません。
普天間移設問題で結局、日本政府は沖縄県内移転ということに内定しつつあります。たしかにヘリだけどこかに持っていくというのはあまり意味がないですね。でも、そもそも海兵隊が沖縄にいなくても私は構わないと思っているのですが。
2010/03/04(木) 23:19:58 |
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かつて私がニューヨークのブルックリンに住んでいたとき、ちょうど人種対立が2つありました。ひとつは、韓国人グロッサリーと黒人住人の対立で、つまりは[ドロボウvs暴力店主」の戦いですね。これはドンパチにエスカレートしていて、実際に死者も出ていました。日本人住人としては、とにかく「韓国人に間違われないようにしなきゃ」と注意しましたが、黒人に聞いたら「韓国人も日本人も中国人もよくわかんない」とのことでした。
それは地元紙なんかにも載って社会問題になったんですが、私がいたプロスペクトパーク~ワシントンアベニュー界隈では、もうひとつの熾烈な抗争が起きてました。土着のアフリカ系アメリカ人ギャングvs新興ハイチ人ギャングです。ハイチ人は新しく来た移民で、圧倒的に少数派なのですが、その戦闘力はアフリカ系を上回っていたようです。
ハイチは私は行ったことはないのですが、取材経験者情報ではカリブ・中南米地域でもワースト1、2を争う治安の悪い国だということです。ジャマイカなども場所によっては要注意らしいですが、概して黒人や混血系の多いところほど治安が悪くなっています。治安が悪いというと、なんだか当局の責任みたいに聞こえますが、要は「ガラの悪い」国だということですね。ハイチは政変や暴動がしばしば起こりますが、そういうお国柄なのかもしれません。
中南米だと、ドロボウが多いのはなんといってもペルー。それにブラジルとメキシコの都市部ですね。恥ずかしながら、私もメキシコシティの地下鉄で大ドロボウ軍団に襲撃されたことがあります。ガラが悪いということでは、コロンビアもそうですね。コロンビアは白人系が多いのですが、麻薬産業が発達しているからなのかもしれません。パナマの都市部もかなり治安はよくありませんね。パナマでは知人の日本人記者が強盗に遭ったこともありました。
さて、先般のハイチ地震では案の定、略奪行為が頻発しました。これはこの地域を多少知っている人間からすると、充分に予想されたことでもあります。他方、今回のチリ地震でも略奪が発生しています。白人系の多いチリは南米ではどちらかというと治安の安定したほうなのですが、それでもこういうことが起こります。チリのニュース映像を見ると、略奪といっても、ギャングのような感じではなく、住民総出で悪びれずにやってますね。ハイチのほうが殺伐とした空気を感じます。本日の『朝日新聞』にはチリの脱獄囚の狼藉が書かれていて、それはもちろんシリアスな話ではあるのですが。
ところで、これで思い出すのは、89年末の米軍パナマ侵攻です。あの戦争を私は現地取材したのですが、あのときもパナマ政府が機能停止した間隙に、住民たちがこぞって「楽しそうに」略奪し、自分たちで自分たちの街を壊滅させました。敬虔なカトリックの国ですが、そのモラルがいかに表層的かがよく表れていた光景でした。
私はもともと中南米や中東の紛争地取材からスタートしていたので、そういう意味では90年代に取材したボスニア紛争は少し印象が違いました。彼らは「敵」民族に対しては容赦ないのですが、公権力が空白になっても自らの共同体で略奪行為にはしるということは、ほとんどなかったように思います。外国人記者の私も、中南米のようにスリや強盗や悪徳警官を警戒する必要はほとんどありませんでした。当時の私は単に「さすが白人は違うなあ」くらいにしか思っていなかったのですが、そう単純なことでもないでしょう。日本ではたとえば神戸の地震のときにいくらかドロボウも出たようですが、諸外国のレベルから比べると、ほとんど皆無といっていいかと思います。さすがわが同胞ですね。
各国の火事場ドロボウの動向を分析すると、おそらく興味深い社会学的・民族学的考察になりそうな気がします。こういうのは国民性のひとつの指標になりますから、紛争が発生した場合の危機管理に応用できると思うのですが。
2010/03/03(水) 16:28:12 |
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