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ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

きわめて計画的な核実験への布石

日本にとってたいへんな問題である北朝鮮の核実験ですが、危惧していたとおり、早くも日本ではトップニュースからフェードアウトしつつあります。日本にとってどうでもいいテポドンのときの大騒ぎと比べると歴然の差ですが、騒ぐべき順位が違うんじゃないかなあ。

 この3日間、テレビや新聞でさまざまな識者の方のコメントを拝見しましたが、私がいちばん共感を覚えたのは、防衛研究所の武貞秀士さんが、「北は外交でなく軍事をやっている」と指摘していることでした。思わず心の中で「そのとおり」と膝を打ちました。
 ネットも見てみましたが、韓国・中央日報日本語版で5月26日午前にアップされていた張瑰・中国共産党中央党校教授の見方が面白かったです。当たっているか外れてるかはわかりませんが、中国共産党の学者がリアリズムに徹しているのは非常に興味深いですね。
 非常に面白かったので、以下、引用して紹介します。

「北、6カ国協議は核実験に向けた時間稼ぎ…昨年から緻密に準備」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=115764&servcode=500§code=500
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=115765&servcode=500§code=500

「昨年から北朝鮮は南北(韓国・北朝鮮)間の緊張を高め、核実験を緻密(ちみつ)に準備してきた。予見されていたものだから、驚くことでもない。北朝鮮の核問題を話し合う6カ国協議を通した非核化の努力は失敗した」--。
中国の代表的な韓半島専門家とされる、中国共産党中央党校(党校:党役員の学校)の張瑰教授(66、写真)は25日、北朝鮮が行った2回目の核実験の意味をこのように診断した。同氏は「北朝鮮は(03年以降)この6年間、終始核兵器を保有するという目標を実現するため、一途に邁進(まいしん)してきた」と述べた。「6カ国協議も朝米交渉も、北朝鮮にとっては(金正日国防委員長が指示した)核開発に向けた時間稼ぎの手段にすぎなかった」と同氏は強調した。次は一問一答をまとめたもの。

--北朝鮮が再び核実験に踏み切ったが。
「予見されていたものだ。北朝鮮は昨年から緻密に準備してきた。北朝鮮は核実験の名分を得るため、昨年から韓国との関係を故意に悪化させてきた。1月末、韓国と結んだ各種の協定を廃棄すると発表した。4月中旬にも、6カ国協議を離脱すると一方的に宣言した。これを通じ徐々に韓半島と国際社会の情勢を緊張させ、核実験に有利な条件を作った」。
--核実験の時点が、盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の死去から2日後となったが。
「北朝鮮が核実験を行った時点は、盧前大統領の死去とは何の関係もない。北朝鮮の核実験は体系的に準備してきたものだが、盧前大統領の自殺は突然なことだ」。
--核実験に踏み切ったのは、北朝鮮のハト派がタカ派に押されたという意味か。
「そうした分析は根拠がない。北朝鮮にはハト派とタカ派の区分がない。“金正日派”があるだけだ。交渉も金正日委員長の指示によるもので、核実験も金委員長の指示によるものだ。いずれも核保有という目標を実現するための時間稼ぎだ。金桂寛(キム・ケゲァン)外務次官が会談に出席して崔承哲(チェ・スンチョル)氏が南北対話に臨んだのも、金委員長の“時間稼ぎ”というカードであった。ただ戦術上、強弱の変化があるだけだ」。
--外部から見ると、強硬派と穏健派に分かれているように見えるが。
「韓国や米国などが、北朝鮮内部をそうした図式で分析するのは間違っている。外交官が会談に臨もうが、軍部が挑発しようが、背後には必ず金委員長がいる」。
--6カ国協議はどうなるのか。
「北朝鮮を除いた米国・韓国・日本・中国・ロシアの5カ国が事実上だまされたと見ることができる。北朝鮮は6年間にわたり、6カ国協議を通じて食糧と石油を獲得することに成功した。6カ国協議当事国のうち、北朝鮮だけが勝利した。残りの5カ国は失敗したと言える」。
--今後、6カ国協議が事実上無意味になるということか。
「6カ国協議という形は当初から成功できないものだった。6カ国協議は、冷静に話せば、北朝鮮が周辺諸国に詐欺を働くための手段に転じた。6カ国協議を通した非核化の構想は終わったと見るべきだ」。
--北朝鮮が2回も核実験を行ったが、今後核保有国と見なすべきか。
「北朝鮮の核兵器は、米国とは意味が異なる。長距離の運送ができなくても、核を爆発させることができる技術さえあれば、周辺諸国にとっては脅威の要因となる。核兵器のレベルが高いか低いかは、大きな意味がない。核を保有した北朝鮮が、休戦ライン付近でも日本付近の海上でも運搬できるならば、それ自体が大きな脅威だ。核実験を行ったという事実、致命的な脅威になるという事実自体が重要だ」。
--1回目の核実験以降、国連が北朝鮮への制裁案を可決させ、中国も支持したが。
「今回も米国・日本などが主導し新たな制裁案を作る可能性が高い。06年の決議案(1718号)よりさらに厳しくなる可能性が高いとみられる。経済・外交・軍事の3方面から、より明確かつ具体的な対北制裁案を作らねばならない」。
(以上、引用)

私がまず共感するのは、以下のくだり。
▽北朝鮮は核実験の名分を得るため、昨年から韓国との関係を故意に悪化させてきた。

 国連に噛み付いたのは、明らかに核実験への布石だとは思っていたが、韓国との関係悪化も、そうかもしれない。つまり、もうずっと前から、おそらく金正日が脳出血で倒れた頃から、核ミサイル開発の加速化が進んできたのだろう。

 そういうことでは、そもそも以下が正しいのではないかと私も思う。
▽(6カ国協議は)北朝鮮を除いた米国・韓国・日本・中国・ロシアの5カ国が事実上だまされたと見ることができる。

 そうですよねえ。記事タイトルにもあるように、時間稼ぎなのが見え見えのような気がするのですが、どうして信じてしまったのでしょう。わが日本外務省は今までもずっと「6カ国協議再開を」とか言ってますね。私には理解できません。

 ちょっと見方が分かれるけれども、なんとなく私もそうではないかと思っているのが以下です。
「北朝鮮にはハト派とタカ派の区分がない。“金正日派”があるだけだ。交渉も金正日委員長の指示によるもので、核実験も金委員長の指示によるものだ。いずれも核保有という目標を実現するための時間稼ぎだ」
 今の報道では「ポスト金正日を睨んで権力内部で抗争がある」というような見方が多いですが、どうなのでしょう? 内部情報のインテリジェンスがないので判断は不可能ではあるのですが、神格化に近い独裁体制ですからね。タカ派ハト派も多少はあるでしょうが、最終的にはトップの判断だということではあると思うのですが。
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  1. 2009/05/27(水) 23:36:25|
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核ノドンから日本国民を守るために何が出来るか

 本日、TBS「THE NEWS」にコメントを採用していただきました。「日本政府は、北朝鮮が核ノドンを配備することを想定したシミュレーションを急げ」といった当ブログでこれまで主張してきたようなことをお話ししました。
 北朝鮮の今回の核実験で、新聞報道などをみると、「北朝鮮はこれで小型起爆装置を完成した可能性が高い」との見方も多いようですが、現時点での情報では、それはわかりません。米韓の最高度のインテリジェンスを入手しうる立場にないのに「間違いない」という人がいたら、テキトーと思っていいかと思います。
 で、私のテキトーな勘なのですが、今回はそこまではいっていないのではないかという気がします。2年半前の実験でおそらく不完全爆発だったのが、今回、それなりに起爆に成功したとまず考えられます。前回の不具合を2年半で改善したのでしょう。前回の起爆が不完全だったということは、普通に考えると、開発担当者としては、とりあえずそこはきっちりと直しておきたいというのが第一目標です。技術開発はステップを踏むのが普通で、いきなり高度な2ステップ特進の実験に進むのは、普通ならちょっと考えづらいです。もちろん普通の国ではないので、断言はできませんが。
 ですが、それはそれとして、北朝鮮が小型起爆装置開発に向け、今後も邁進していくことは確実です。日本政府としては、「近い将来」に北が核ノドンを実戦配備するものとして政策を決めていかなければならないと思います。
 では、日本はそういった事態になったとき、何が出来るのでしょうか?
 まず、ミサイル防衛をどんどん進め、核ノドンに対する防御力を高めることを目指すという選択肢があります。
 ですが、現在のミサイル防衛では、核ノドンを完全に迎撃するのはまだまだ難しいのが現状です。理論上はかなり有効な手段にまで技術が進められているのはそのとおりなのですが、所詮100パーセントの確実性は期待できません。どんな機械でも、ほんのわずかの誤作動というのは常に起こりえます。攻撃サイドの場合は、多少の誤差があっても効果的なことが多いですが、防御側、とくに迎撃ミサイルともなれば、ほんのわずかな誤差でも取り返しのつかない失敗となります。高校野球にイチローが出場したとしても、必ずヒットを打てるとは限らないようなものです。空振りしたら殺すよ、と言われれば、余計に凡ミスするかもしれません(喩え、なんか違うかな?)。
 とはいえ、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるということで、ものすごい数のMDイージス艦を揃え、大げさに言えば「SM3の弾幕を張る」ような態勢を作れば、かなりの確率で迎撃に成功できるかもしれません。もう陸自を解散し、その防衛予算をすべてそっちに回すくらいのことをすれば、それもいいかなという気がします。
 では、いま結構話題になりつつある「敵基地攻撃能力を持つ」というのはどうでしょう? 手っ取り早いのはトマホーク導入ですが、車載化された核ノドンをつぶすというのは難しいですね。対地攻撃機、空中給油機、電子戦機、偵察機のセット運用というのもアリではありますが、それでも神出鬼没の車載ノドン相手では限界があります。空挺もしくは強襲揚陸の特殊部隊の投入というのも、それだけでは出来ることは限られてます。つまり、いずれにせよ完全な防衛というものは保証されないわけです。

 ということは、来るべき核ノドン配備のときに、日本政府は日本国民の生命を完全に保証することはできなくなります。
 いえ、ちょっと待ってください。よく考えたら、それでも日本国民を守る究極の方法が2つありました。
①金正日を応援する。
 いくら核ノドンを持っても、平時において北朝鮮が対日核攻撃をすることは考えられません。米軍の徹底的報復を呼び、北朝鮮政権が瞬時にこの世から抹殺されることが確実であるからです。核ノドンが実際に使用されるとしたら、北の体制崩壊時の最後っ屁とか、北の国内が騒乱状態になった場合のノドン部隊の暴走といった局面です。
 ということは、北朝鮮の独裁体制が揺るがなければ、日本に核ノドンが飛んでくることもまずありません。よって日本政府は、北朝鮮の独裁体制をどこまでも支えていくことが、自国民の生命を守ることにつながります。アメリカが何と言おうと、拉致被害者や日本人妻や北朝鮮の可哀想な住民たちがいくら犠牲になろうと、日本政府は自国民のために将軍様を助ける。あくまで自国の国家安全保障のみを考えた場合、これが日本政府の正しい選択ということになります。
 たとえば、94年の核危機のとき、寧辺の核施設への限定的爆撃に動こうとしたクリントン政権に対し、ときの金泳三大統領は、「戦争は絶対に許さない」姿勢を貫きました。1万門以上ともいわれる休戦ライン沿いの長距離砲によって、首都ソウルがいわば人質にとられていたからです。当時の韓国政府に対し、日本では「軟弱だ」といった批判もありましたが、今度は東京を核ミサイルで人質にとられる日本も同じ立場に立たされます。
②先に北朝鮮をボコボコに攻撃する。
 核ノドンが実戦配備された時点で、日本の国家安全保障は崩壊します。ですので、その前に自衛隊の総力をもって北朝鮮を攻撃し、少なくとも核ミサイル開発が二度と出来ないようにボコボコにしてしまえばいいわけです。
 たとえば、イスラエルだったら躊躇なくそうします。たぶんアメリカもそうします。なんだかんだいって、自国が同様の立場に立たされたら、ロシアや中国だってそうするでしょう。それが「普通の国」というものです。自衛隊の場合、現有の空自の戦力だけでは難しいですが、そこは海自と陸自も総力戦であたり、さらにアメリカから大量にトマホークを買えれば、なんとかなるとは思うのですが・・・・・・。

 北の核問題について、日本はアメリカや国連安保理を頼っているようですが、いずれもあまり頼りになりません。安保理はロシアと中国がいますし、アメリカはまだ北がICBMを持っていないという余裕があります。日本は独自に安全保障政策を考えなければならないわけです。
 けれども、上記したように、「ミサイル防衛」も「敵基地攻撃能力」もそんなにアテにはならないと考えるべきです。以前当ブログでも書きましたが、核武装なんてなんの抑止力にもなりません。
 となると、完全な安全保障政策は上記①②しか残りません。でも、それは現実に無理ですね。無理なんだろうけれども、まったく話題にも上らないというのは、なんだかそれはそれでおかしいのではないでしょうか。
 他に「日本国民の生命を完全に守れる施策」はあるのでしょうか?
(反戦派みたいに、日米安保条約を破棄して在日米軍基地を閉鎖すればどうかというシナリオも考えてみましたが、それでも北朝鮮の体制崩壊のとき、自暴自棄の勢いで「積年の恨みだ!」とか言って核ノドン撃ち込まれる恐れは残りますよね)
  1. 2009/05/26(火) 21:06:18|
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北朝鮮が核実験

北朝鮮が地下核実験に成功…朝鮮中央通信

首相官邸に対策室設置…北朝鮮核実験、日本でも地震波確認

 思いのほか、早かったですね。かなり前から準備万端だったということでしょうか。今回、アメリカのインテリジェンスからほとんどリークありませんでしたが、うまく隠れて準備したということかもしれません。
 問題は、小型起爆装置なのかどうかですが、もしも米韓のインテリジェンスが内部に情報網を持っていないと、なかなか本当のところはわからない可能性が高いです。爆発の規模が小さくても、必ずしも小型装置とは限らないので、ここがなかなか情報収集・分析・評価が難しいところです。
 ただ、北朝鮮の核武装が着実に進んでいることは疑いありません。テポドンなんかより日本にとってはものすごい脅威です。今後の情報に注目です。
  1. 2009/05/25(月) 12:52:00|
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ダマスカスで会った人が・・・

 バックパッカーの経験者ならおわかりいただけると思いますが、旅行中、意外と同世代の日本人と会う機会が多くあります。で、結構そのときは仲良くなり、しばらく一緒に行動したりすることも。
 ですが、「日本でまた会おうぜ」なんて言って住所を交換しても、たいていは旅を続けているうちに親近感も色褪せ、めったに帰国後に連絡をとったりはしません。仮に一度会っても、一度きりでフェードアウトというのがだいたいですね。
 ところで、先ほどテレビのニュースをみていて驚きました。かれこれ4半世紀前にダマスカスで会った人が、さいたま市長に当選したとのこと。たしか「帰国後一回会った」パターンだったと記憶してます。
 なぜそんなほとんどゆきずりの人のことを覚えていたのかというと、その人物こそ、私がいま現在こんなことをやっているきっかけを作ってくれた大恩人であるからです。さすがにどんな人だったかはもうあまり覚えてはいないのですが、「将来は政治家になるつもりだ」と熱く語っていた印象が、当時ただのほほんと旅行していた20歳そこそこの私には非常に強烈だったわけですね。
 当ブログで以前、「そもそも私はダマスカスのユースホステルで会った年長の日本人学生に、取材のしかたを教えてもらった」というような内容のことを書いたことがありますが(→過去エントリー)、その人がこの人物です。この人に会っていなければ、私は普通のバックパッカーとして生きていたことと思いますから、まさに私の運命を変えた人物ですね(もちろんご本人には知ったこっちゃない話ですが)。
 どういう政策を掲げているのか知りませんが、たしか世襲議員ではないはずなので、初志貫徹はすごいなあと思います。
  1. 2009/05/25(月) 02:07:58|
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写真館3(ボスニア戦線)

 そんなに書くネタもないので、本日も古い写真で失礼します。私が戦場写真を撮り歩いていたのは主に88年から97年までなのですが、その中でももっとも個人的に思い入れの強い写真をアップしてみます。
▽ボスニア戦線
ボスニア6
 92年7月、ボスニア中部の街モスタル東方の高原地帯の前線(ポドベレッジという村の付近)です。この年は3月からボスニアは激しい内戦に突入していたのですが、私は同年6月から現地を取材しました。
 ボスニア内戦は「セルビア人」「イスラム教徒」「クロアチア人」という3つの勢力が戦ったのですが、私はまずサラエボ南部のセルビア人支配地区でセルビア人部隊に、次いでサラエボ市内で篭城中のイスラム教徒部隊に従軍取材し、最後にモスタル近傍のクロアチア人部隊に従軍しました。で、この最後の従軍取材のときに、敵方のセルビア人部隊からものすごい大攻勢を受けました。私が従軍していた部隊は壊滅し、この写真の場所もこのすぐ後に敵に突破されました。
 従軍取材というのは、攻めているほうにくっついているうちはいいのですが、負けているほうにいると悲惨なことになります。この写真も、たまたま撮れたわけではなく、もうどっちを向いても砲撃の雨状態になってました。戦場取材をしていればもちろん何度かは危険な目にも遭いましたが、マジで「こりゃ死ぬなー」と思ったのはこのときくらいです。
 実際、このとき至近距離で着弾した迫撃砲の破片を腰(というかお尻)に喰らい、ケツから血がダダ漏れ状態になりました。この写真を撮ったときは、すでに被弾した後で、出血のせいか精神的ショックのせいかわかりませんが、手足がしびれてロクに歩けない状態になってました。そんな状態でフラフラ前進して写真を撮影するなんて、まともではないですね。
 この後、私は他の負傷兵とともに車両に積まれ、ものすごい砲撃下をなんとか脱出することができましたが、ここで別れた多くの兵士がそのまま戦死しました。
 戦死者だらけの修羅場のインサイドに入る経験でしたが、まあこういうとき、あまり人はいろんなことは考えないらしいということが少しわかりました。戦争の最中というのは、兵隊は最期の瞬間まで戦争のひとつの駒としてあたふた機械的に動くだけです。恐怖はありますが、敵が憎いとかそんな感覚はないです。言ってみれば大災害に遭ったときに似ているかもしれません。「ひえー、こりゃかなわんなあ」というようなちょっと引いた感覚ですね。もちろん人によってそれぞれではあるのでしょうが。
 ああいう場所で負傷し、やがて身体の感覚がなくなってくると、ぼんやりとした頭で「こりゃダメかもなあ」なんて、なんとなくあきらめの心境になります。このあたりは、たとえば交通事故の被害者とかでも同じかもしれませんが、よくわかりません。
 モスタルはその後、某テレビ局の取材で95年にも行きました。まだ戦争中でしたが、だいぶ静かになってました。その取材では本当はサラエボに入る予定だったのですが、局の上層部が「サラエボは危険なようなので、他の街にすべし」と判断しました。モスタルがサラエボと同等の危険度だと知らなかったようです。
  1. 2009/05/24(日) 21:34:49|
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3・5島返還論の妄想

「3.5島返還」発言 谷内政府代表「一切していない」

 谷内氏や外務省の方がロシア側とどういう話をしたのかは知りませんが、ロシア側が「3・5島返還ならいいよ」などと言うなんて、ちょっと私には信じられません。
 あちらの外交担当者も仕事しているふりしなければなりませんし、政治家も単なる社交辞令か、あるいは面倒くさいからか、「すべての選択肢を考慮する」くらいのことを言ったかもしれませんが、それを思いっきり希望的観測で妄想してしまったのではないでしょうか。私は「ロシアでは何の権限もないロシア外務省日本担当者が、領土問題にマジな日本外務省に辟易し、適当に調子よく話を合わせただけなのに、日本外務省がいちいちそれにマジに反応した」という構図なのではないかなと見ています。実際、ロシア外務省内がそんなような空気であることを、同省職員から聞いたこともあります。
 日本では2島返還とか3・5島返還とかを「国辱的譲歩だ」と考える人が多いようですが、現実問題として、あの国では「1割返還」の可能性すら現実的ではありません。プーチンでさえ、それやったら政治生命が終わるのではないかと思います。
 ロシアが領土で譲歩するとしたら、せいぜいが言葉上ではなく現実として係争している土地に限られます。北方領土はロシアが100パーセント実効支配し、国際社会から立ち退きを命じられているわけでもないので、要は言葉上の問題にすぎません。つまり、ロシア政府の「係争の存在を認める」スタンスとは、現状維持でいこうということにほかなりません。
「係争の存在を認める」→「自分の非を認める」→「いずれ返す気だ」とはなりません。ロシアでは「係争の存在を認める」→「けど、どっちが正しいとかは考えない」→「このままでいいじゃん」となります。彼らは「このままでいい」というスタンスを、私の知るかぎり一度たりとも崩してません。なぜか日本側では何度も「北方領土交渉の進展」と騒がれましたが、ゴルバチョフもエリツィンもそうでした。
 プーチンのイルクーツク声明とかで最低2島返還は約束されたと日本側では考えていますが、ロシア側ではそう考えている人はたぶんほとんどいないと思います。ロシア側は領土交渉は「実現性ナシ」と踏んでいますので、あくまで「日本外務省の立場に配慮し、言葉上、空手形に付き合いましょう」という程度の話なのではないでしょうか。私は、仮に日本側が「国後・択捉主権放棄」を決めたとしても、ロシア側はなんだかんだと前言を翻す可能性が高いと思っています。
 いずれにせよ、谷内氏が3・5島返還の可能性を言ったにせよ言わなかったにせよ、現実に何の影響もありません。
 以前にも同じようなことを書いた記憶がありますが、毎回同じような話が出てくるので、ロシア社会を多少知る者としてまた書きました。私はべつにロシアの肩をもつ気はさらさらありませんし、国家の根幹で立場を揺るがせるなという主張に異論もありませんが、現実を直視することは必要ではないかなと、北方領土問題での日本外務省の「定期的な空騒ぎ」を目にするたびに強く思います。
 もしかして、外務省もわかってやってるのかも。高度な外交戦略ってやつでしょうか? あるいは国内向けのパフォーマンス? いずれにせよ、そうであれば空騒ぎに巻き込まれるマスコミ&国民の立場はどうなるのかという話になりますが。 
  1. 2009/05/22(金) 11:13:10|
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写真館2(モスクワ)

 前々回のエントリーでモスクワ在住時代の話を書きましたが、当時撮影した写真を4点アップします。
①エリツィン派デモ
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 エリツィン支持派の集会です。撮影は1991年6月。ソ連初の直接選挙となったロシア共和国大統領選挙での一場面です。まあ当時はエリツィンもモスクワ市民の圧倒的支持を受けていたのですね。まるでヨン様ファンの追っかけみたいです。ゴルバチョフ軟禁クーデター事件が発生し、エリツィンがロシアの実権を手中にするのはこの2か月後のことです。
 自分としては歴史の熱気をとらえた自信作ショットのつもりなのですが、当時、あちこちの雑誌編集部にフィルムごと送っていたので、自分でも誰に何を預けたかわからなくなってしまい、この写真の原版も紛失してしまいました。よってこれも掲載誌の誌面切り抜きからのスキャンです。

②極右組織
極右組織2
 戦後日本の「みんな民主主義」みたいに、ロシアも急に「みんな改革派」の時代になったので、そうなると保守派のほうが珍しく、取材価値が出てきます。この人は、ロシア最後の皇帝ニコライⅡ世をまつった祭壇の前に立つ「ロシア愛国主義運動」のリーダー。モスクワのロシア正教会にて。91年10月撮影。仕込みではなく、ある取材でロシア正教会を撮影してまわっていて偶然出会いました。

③ヌード撮影風景
ヌード撮影風景
 いつも政治ネタばかり追っていたのではありません。共産主義時代なら「ラーゲリ送り」間違いなしのエロ本もペレストロイカでようやく解禁されました、というようなネタです。これも原版はカラーなんですけど、もう手元にはありません。

④オセチア紛争
オセチア紛争
 いちおう自称・戦場カメラマンなので、オセチア紛争にも行きました。写真は南オセチア州で、ソ連内務省軍の装甲車パトロールに従軍した際のもの。91年3月撮影。これもカラー原版はどっかにいっちゃいましたが、反転ネガが残ってました。あんまりいい写真でないですが。
 これはグルジア人村ですが、このとき、オセチア人の襲撃者が捕まった場面に遭遇しました。いや凄かったです。羽交い絞めされて暴力的に撮影を妨害されたので撮れてないのですが、いわゆるリンチってやつですね。もうぞっとする恐怖の叫び声でしたね。殺されるところまでは見ていませんが。ちなみにソ連軍は政治的にはオセチア寄りのはずなんですが、このときのソ連兵は見てみぬふりでした。

 以上、古い写真を見てると、当時の写真送りの苦労を思い出します。モスクワの場合、たいてい私は「国際空港に行って、日本に帰る日本人旅行者に土下座してフィルムを託す」方法をとってました。これがいちばん確実です。もう毎週のようにやってましたね、土下座。
 いまやネットで送れるなんて、夢のようです。ちなみに当時の私の海外からの写真送付方法は他には以下のとおり(早い順)。
▽自分で現像キットと写真電送機を持参し、ホテルなどから国際電話回線で送る。
 新聞社・通信社のカメラマンなんかはこれです。私は湾岸戦争取材のときだけ、某社に支給されてこれやりました。荷物がバカ重で面倒くさいですが、数百万円の高額機材なので、欧米人のフリーカメラマンなんかからは「やっぱ日本人すげー!」という目で見られます。
▽通信社の現地支局を通じて電送する。
 本社同士でビジネスとして話をつけると、これが可能です。私はペルーの大統領選(フジモリさんが大統領になったとき)にこれやりました。ロイターだったかAFPだったか忘れましたが。早いですが、難点もあります。通信社の現地支局なら、もっといい写真いっぱいあるので、「こんなの送んの?」という冷たい目で見られることです。
▽業者を使う。
 航空貨物で送る方法です。航空会社直でも国際貨物会社でも出来ます。貨物会社のなかには、成田の営業所がどういう裏技か税関を超特急でスルーしてしまう会社もありました。バカ高ですが、たしかに早かったので週刊誌なんかではよく使いました。

 ネットがない時代、日本への連絡とか、外電ニュースの入手とかでもいつもひと苦労でした。仕事の3割くらいはそういう面での手配でしたね。
 年寄りの昔話にて失礼しました。
  1. 2009/05/21(木) 00:41:04|
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タミル・タイガー「プラバカラン議長」とは何者だったか

 スリランカの反政府ゲリラ「タミル・イーラム解放のトラ」(通称タミル・タイガー)がようやく敗北宣言を出しました。

スリランカの「解放のトラ」が敗北宣言、指導者死亡か

 ファナティックなボスを頂く武装組織によって一般住民が不幸を強いられるという典型的な戦争でした。こういう例は世界の紛争地にはよくあることではあるのですが、プラバカラン議長はなかでもかなり酷いほうだったと思います。
 では、このプラバカラン議長とはどんな人物なのか? これについて、過去に自分が書いた文章をパソコン上で探してみました。たしか9・11テロ直後の『文藝春秋』増刊号に「世界のテロリスト列伝」とかいうタイトルで寄稿した記事がいちばんスッキリまとめた記憶があるのですが、ちょっと見つかりません。で、凄く細かいですが、たぶん拙著『世界のテロリスト』用と思われる原稿を見つけました。2002年時点の情報で、いまさら旧聞な話ですが、マンネリ化したスリランカ紛争に関するデータはあまり日本語メディアにはないので、資料として再録しておきます。

スリランカ内戦とタミル・ゲリラの軌跡

 スリランカでは、全人口1700万人の74%を占める多数派の仏教徒シンハリ人と、18%の少数民族であるヒンズー教徒のタミル人の民族対立が古くから続いてきた。とくに、タミル人の居住地域である北部と東部(ジャフナ州、ムライテブ州、バブニヤ州、マナール州)では、シンハリ重視政策のスタートした56年より、独立運動が顕在化し、住民同士の武力衝突が繰り返されてきた。
 過激テロ組織も、そうした土壌を背景に発生した。組織としては、60年代にスリランカ全土に吹き荒れた左翼学生運動から派生したタミル民族主義の学生組織「タミル学生運動」(TAMIL MANAVAR PERAVAI)が、ジャフナ半島のウルンパイ村で70年に結成され、その武装部門がゲリラ化したのが元祖といわれる。さらに、そこから数々の分派が旗揚げされたが、とくに「タミル連合戦線」(TAMIL UNITED FRONT)が最大組織として運動の中心となった。
 72年、公用語をシンハリ語に限定するなど、さらにシンハリ人優遇政策が進められると(77年にタミル語も公用語に加える)、それに対して、インド本国のドラビダ人民族運動と連動してタミル人独立運動が開始される。
 また、同時にジャフナ半島では「タミル学生運動」「タミル連合戦線」の流れを汲む過激派たちのテロ活動がエスカレートした。タミル穏健派指導者チェリア・クマラソリエル爆殺未遂が起こったが、逮捕された42人の容疑者は、タミル人政治家たちの思惑により釈放された。ちなみに、その42人が後に3大ゲリラ組織「タミルの新しいトラ」(TNT:TAMIL NEW TIGERS)「タミル・イーラム解放機構」(TELO:TAMIL EELAM LIBERATION ORGANIZATION)「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)を創設することになる。
 
◎「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE:LIBERATION TIGER OF TAMIL EALAM)
 76年に創設された「タミル・イーラム解放のトラ」は、当初は学生運動に連なる過激派の一分派に過ぎなかったが、圧倒的な戦闘性で他組織を吸収し、まもなく事実上のタミル独立派最大の武装ゲリラへと成長した。
 当初の理論的指導者はアントン・バラシンガム。後に過激路線のベルピライ・プラバカランが議長となる。海外54カ国に広がる6000万人のタミル移民社会にも浸透し、「世界タミル協会」(WTA)「世界タミル運動」(WTM)「カナダ・タミル協会連合」(FACT)などを通じて、海外同胞から資金を吸い上げる仕組みを確立。さらに移民社会に根を張るタミル・マフィアとも人脈を築いた。
 83年7月に発生した政府軍を狙った爆弾テロ(兵士13人殺害)と、続くシンハリ人の暴動(タミル人400人虐殺)をきっかけにゲリラ闘争が開始され、スリランカ内戦が勃発した。「タミル・イーラム解放のトラ」は、他派との熾烈な抗争も含め、無差別テロを主力とする激しい独立闘争を戦っている。ゲリラ側・政府側双方の犠牲者数はすでに6万人近いといわれる。
 最大動員兵力は1万といわれ、うち、訓練された中核部隊は3~6000人とみられる。特攻部隊「ブラック・タイガー」も創設され、自爆テロを戦術として採用している。潜水夫部隊「シー・タイガー」、情報部などの特殊部隊も組織している。特徴としては、10代中頃の少年少女兵が多いこと。全員が自殺用に青酸化合物カプセルを携帯している。
 インドの親タミル勢力(マドラスを中心とするドラビダ人組織)の支援を得て、北部ジャフナ半島を本拠地に、80年代半ばにはタミル人居住地域である北部・東部の密林地帯を事実上支配した(本部はワンニ地区)。
 87年4月、政府が一方的停戦を発表したが、タミル人側は無差別テロを激化させてこれを無視。5月には、ジャフナ半島に政府軍が総攻撃を開始することとなった。インド平和維持部隊(IPKF)5万が介入したが、戦闘収束を図るインド軍と「タミル・イーラム解放のトラ」は決裂し、戦闘状態に突入した。この戦闘で、ゲリラ側1500、インド軍800が戦死し、インド軍は90年3月に撤収することとなる。
 また、この頃より、資金調達のために支配地での麻薬栽培を拡大し、インド及び欧州のタミル・マフィアと結託して多大な利益を得たとみられる。
 90年代に入ると、特攻部隊「ブラック・タイガー」が本格的なテロ活動を開始している。テロは日常的に行われたが、とくに主なものは以下の通り。
91年3月、ウィジェラトネ国防相ら30人を爆殺。
同年5月、元インド首相ラジブ・ガンジーを暗殺した。
▽93年5月、メーデー行進中に爆弾テロを行い、ラナシンゲ・プレマダサ大統領ら24人を殺害。
▽94年4月、コロンボのホテルで連続爆破テロ。
▽同年10月、自爆テロで本命次期大統領候補含む57人を殺害。
 95年4月には、和平交渉決裂から、内戦が再び激化した。とくに、同年10月には、政府軍がこれまでの内戦で最大規模の攻勢に出ており、同年12月にはついにジャフナ半島陥落。LTTEは、拠点をジャフナから東部のトリンコマリー及びバッティカロア地区に移動した。
 軍事的に敗れたLTTEは、以後、テロ攻勢を激化させた。動物園や観光地を狙った無差別爆弾テロや、観光産業打撃を狙った外国人旅行者襲撃も開始。また、とくに女性ゲリラを使った自爆テロを常套手段とするようになった。
 90年代半ば以降の主なテロ事件は以下の通りである。
▽96年1月、コロンボ中央銀行前でトラック爆弾。90人死亡、1400人が負傷した。
▽同年7月、ジャフナ市中心部の政府機関開所式で女性ゲリラの自爆攻撃。政府軍ジャフナ司令官ら21人殺害される。また、コロンボ近郊デヒワラ地区で、通勤列車が爆破され、70人殺害される。
▽97年7月、北朝鮮の貨物船をジャフナ沖でシージャック。このとき、北朝鮮人船員1人を殺害している。
▽同年9月、今度は米国化学会社がチャーターしたパナマ船籍の貨物船を襲撃。中国人船員5人含む20人が死傷。
▽97年10月、新規オープンした近代設備「コロンボ世界貿易センター」で自爆テロと銃撃戦。自爆者含む18人が死亡(警備員、治安部隊員含む。自爆テロリスト数は不明)し、日本人6人と外国人多数を含む96人が負傷した。実行グループのうち、2人は治安部隊に射殺され、3人は自殺。1人は手榴弾を投擲して活路を作り逃走した。このとき、手榴弾で僧侶1人が巻き添えになって死亡した。
▽98年2月6日、コロンボ市内スレイバリー・アイランドの繁華街で、車両で女性含むゲリラ3人自爆。警備兵士4人と市民2人殺害。
▽98年2月22日、ジャフナ沖で海軍貨物船団を自爆攻撃。2隻撃沈し、5人を殺害。LTTE側も16人死亡といわれる。
▽同年3月5日、コロンボ中心部のマラダナ駅付近で、車両自爆。32人死亡し、250人負傷。
99年7月、自爆テロでタミル穏健派議員ニーラン・ティルチェルバムを暗殺。
同年11月、北部のワニ地区でキリスト教会を砲撃。44人を殺害する。
▽同年12月、大統領選中の与党・人民連合の集会に爆弾テロ。26人を殺害したほか、演説していたチャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガ大統領や取材中のNHK記者らも負傷させた(大統領は右目失明の重傷)。
2000年1月、首相公邸前で自爆テロ。12人を殺害した。
▽同年3月、コロンボ中心街で爆弾テロ+無差別銃撃。18人死亡。
(同年4月下旬より、LTTEはジャフナ半島で大攻勢)
▽同年5月、東部のバティカロアの仏教寺院で爆弾テロ。17人死亡。
▽同年6月、コロンボ郊外ラトマラナ軍用空港で行われた政府軍記念パレード中に自爆テロ。クレメント・グーネラトナ産業相ら21人殺害。
▽同年10月、コロンボ中心部で自爆テロ。2人殺害。欧米人観光客ら多数が負傷した。
▽2001年7月、ゲリラ9人がバンダラナイケ国際空港を急襲し、駐機中の民間航空機3機を破壊し、自らも自爆した。

◎べルピライ・プラバカラン
「タミル・イーラム解放のトラ」議長。五五年四月、ベルベティツライ生まれ。
 スリランカの少数民族タミル人の社会では、七〇年代、学生運動をルーツとする無数の民族主義グループが、互いに内ゲバしながら、穏健派政党へのテロを繰り返していた。若き日のプラバカランがどういう経緯でそういったグループに入り、どのようなポジションで活動していたのかはさだかでないが、七五年四月、そんなテロ・グループのひとつが、スリランカ北部ジャフナ市の市長アルフレッド・ドゥライアパーを殺害したとき、その襲撃団のなかにプラバカランの姿があった。
 七六年にアントン・バラシンガムが創設した独立派ゲリラ組織「タミル・イーラム解放のトラ」にプラバカランは参加したが、卓越した戦闘力で頭角を現し、八〇年代に入った頃には、組織の軍事部門の司令官に就任している。「タミル・イーラム解放のトラ」自体の性格が変化してくるのも同じ頃で、要は実権を握ったプラバカランの攻撃的な性格が、組織ごと過激化させていったということなのだろう。プラバカランの命令でゲリラが政府軍を攻撃し、スリランカ内戦が勃発するのは、八三年七月のことだった。
「タミル・イーラム解放のトラ」内部の事情はよくわかっていないが、漏れ伝わる情報によれば、組織内のプラバカランの恐怖体制は、かなり強固なものがあるようだ。
 そんなプラバカラン指導部が“導入”した作戦のひとつが、自爆テロである。とくに少年少女を徴兵し、自爆テロ部隊「ブラックタイガー」を編成しているといわれている。
 さらにすさまじいのは、兵士たち全員に青酸化合物入りのカプセルを持たせていると報道されていることだ。これはいくらか誇張があるのかもしれないが、複数のメディアが報じている有名な話で、実際にカプセルの写真も撮られている。
「捕まるぐらいなら自殺せよ!」ということなのだろうが、特殊なテロ工作に出撃する人間だけでなく、普通のゲリラ兵が日常的にそんなものを持ち歩いている例は世界中で他にない。
 ところで、九一年五月、プラバカランは暗殺チームをインドに送り込んで、ラジブ・ガンジー首相を殺害した。それ以降、インド情報部「調査分析班」(RAW)が何度かプラバカラン暗殺を試みたようだが、いずれも失敗に終わっている。(了)

 また、これも今となっては旧聞ですが、『ワールドインテリジェンス』のインテリジェンス・ニュース欄の過去記事にも2つありました。ついでに再録しておきます。

スリランカ自爆テロで100人超死亡(2006年11月号)

 もう少しで和平のところまで行っていたスリランカ内戦だが、今年に入って再び散発的な衝突が始まったと思ったら、あっという間に内戦に逆戻りした様相だ。10月16日には同国中部のハバラナで、スリランカ国軍の車列を狙ったトラック自爆テロで、周囲の民間人も含めて102名が殺害されるという大惨事となった。
 オスロで続いていた和平交渉では、9月末に反政府ゲリラ「タミル・イーラム解放のトラ」が、最高指導者であるベルピライ・プラバカラン議長の交渉参加の方針を表明していたが、これでその大きなチャンスが完全に潰れた。
 これまで、政府側と解放のトラ側の交渉はかなりいいところまでいっていても、どうしても決着しなかったのは、解放のトラの独裁者であるプラバカラン議長が乗り出してこなかったことにもあった。停戦違反はお互い様の両者だが、こちらもどうやら内戦激化の様相を深めている。

スリランカ内戦激化で自爆テロ部隊の訓練強化へ(2007年3月号)

 1月31日、スリランカ政権にシンハリ強硬派政党が参加したことで、スリランカ和平崩壊はさらに加速される懸念が高まってきた。
 そもそも、2002年に停戦合意されたスリランカ内戦だったが、まもなく両派の違反行為が頻発し、とくに2005年12月よりは両派が事実上の戦闘状態に逆戻りしていた。昨年2月と10月にはその打開を目指す直接対話がスイスで開催されたりしていたが、同12月にはラジャパクサ大統領の実弟ゴダバヤ・ラシャパクサ国防次官を狙った自爆テロが行なわれるなど、テロ行為がエスカレートし、そうした努力はまったく実らなかった。
 しかも、そんななか、昨年12月14日にはゲリラ組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の穏健派の重鎮だった同派政治顧問のアントン・バラシンガム氏が病没した。これで、和平の機会はほとんどなくなったと言っていいだろう。
 今年に入ってからも、1月6日に全土でLTTEによる同時爆破テロがあり、20人近い人が殺害された(うち15人は乗合バスの一般乗客)。同国北東部の要衝バティカロア県バカライではLTTEに対する政府軍の大攻勢があり、同19日までに政府軍側が同地を占領した。
 そんななか、LTTEゲリラの自爆方法に若干の変更がみられるようになっている。政府軍が自爆テロ対策に乗り出したため、ゲリラ側も自爆テロ要員が臨機応変に現場で対応できるようにするため、そのための訓練を強化している形跡がある。
 たとえば、LTTEは現在、自爆部隊「ブラックタイガー」のメンバー350人に9カ月程度の「自爆テロ」講習コースを設置しているとの情報がある(『ジェーンズ・インテリジェンス・レビュー』3月号)。海洋で政府軍艦艇に自爆攻撃をかける「ブラック・シー・タイガー」部隊の訓練も、より緻密に行われるようになってきたようだ。
 政府軍側はこのため、疑わしいタミル人(女性含む。実際、自爆テロ犯は女性ゲリラに多い)や車両、船舶を見つけた場合に、躊躇なく攻撃するようになっている。表面化されていないが、このため、誤解によって殺害された犠牲者もかなりの数に上っているとみられる。
  1. 2009/05/18(月) 03:03:25|
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ロシア取材の実態

 先日、コメント欄に「ロシアでの機密文書公開」に関して投稿いただき、自分がかつてモスクワに居住していた頃の話をレスポンスしました。そこで今日は、当時のロシア取材の実態について少し書いてみます。
 先日、『戦後秘史インテリジェンス』で私は「KGBの日本人エージェントは誰だったのか」という記事を書きましたが、私がロシアにいた90年代初頭というのは、正直言ってそういう怖いイメージはまったくありませんでした。私は多くの怪しげなロシア人に日々接触していたので、そのなかには情報機関員やその協力者も当然いたと思いますが、たとえば金銭や女で取り込みを図られたことは一度もありません。
 ニュースの「ネタ」を提供されたことは多々ありますが、リクルートのための餌というよりは、ビジネス上の「売り物」として提示されたかたちです。当時の私はまだ20代の最下層のフリーランスだったので(今でも変わりませんけど)、軽く見られたということは当然あるのでしょうが、それよりも、私の感触では、情報機関員なども含めて、当時は「すべてのロシア人がサバイバル競争下におかれ、剥き出しの拝金主義にどっぷり浸かっていた」状況だったように思います。
 冷戦構造が音を立てて崩壊していったあの時代、モスクワ発のニュースは毎日のように日本の新聞・テレビ・雑誌に溢れていましたが、そのほぼ100パーセントが金銭報酬で売られたネタといって過言ではないと思います。これは雑誌のケースに限らず、大手のテレビ局や新聞社も事情は変わりません。なにせ、とくにVIPでもない人物相手の普通の取材でも、まずは謝礼交渉からスタートとなるくらいです。今の脱北者証言ビジネスみたいな感じですね。
(日本でも似たようなことはあります。たとえば、私はかつてかの731部隊の生き残りに取材を申し込んだところ、謝礼金が折り合わなくて取材を断念した経験があります。1時間の取材に5万円を要求されました。それはこちらの都合でわざわざ時間を割いていただくわけですから、1~2万円くらいの謝礼は当然と思いますが、5万円はボッタクリですよね。テレビの取材だったので取材費は充分にあったのですが、なんか心情的に許せませんね。731関連の報道では当時よく出てきていた「語り部」的な人物です。「語り部」ビジネスなんですかね)
 でも、逆に言えば、90年代当時のロシアではドルがあればたいていのことは可能でした。「機密文書」だけはさすがにガードが固く、欧米メディアも含めて外貨パワーでもほとんど流出しませんでしたが、いわゆる「関係者証言」であれば、たいていのVIPまでビジネスと割り切ってホイホイ応じていました。一介のフリーだった私でさえ、さすがにエリツィン本人は無理でしたが、コワレンコ元共産党国際部副部長(元日本課長)、ハズブラートフ最高会議議長、イサコフ連邦会議議長、バシャノフ共産党国際部顧問、アルクスニス「ソユーズ」議長(極右勢力のリーダー格)、ムラショフ・モスクワ市警察長官、クナーゼ外務次官、パノフ外務省太平洋・東南アジア局長(後、日本大使)などと会見したことがあります。ほとんどカネの力ですけど。
 金額面で叶いませんでしたが、エリツィン夫人のインタビューという企画も、エリツィン側近のユマショフという男の仲介でもう一歩のところまでいきました。このユマショフという男は、当時は『アガニョーク』という雑誌の副編集長でしたが、エリツィンの手記のゴーストライターだった関係でエリツィン・ファミリーに食い込み、後に大統領府長官にまで出世しています。
 彼はたいへんカネに汚い男で、部下の記者を使って日本のメディアで相当カネ儲けしていました。この部下の記者は、ロシア・マフィア絡みのネタにたいへん強い男で、日本の複数のジャーナリストの取材コーディネーターをやっていましたが、後に不審な交通事故で死亡しています。マフィアに殺されたのではと、もっぱらの評判でした。ちなみに、この記者をとりあって、日本の某フリージャーナリストとカメラマンが内ゲバ状態になった話(要するに、そのジャーナリストに起用されたカメラマンが、ちゃっかり同じコーディネーターを使って別途取材し、より凄い記事をモノにしちゃったため、ジャーナリストが激怒したということでした)は、われわれライター仲間では語り草になっていました。
 いずれにせよ、当時のモスクワでは、日本のメディア(雑誌、テレビ、新聞まで含む)が大金をバラ撒いていて、それを狙ってロシア人側が日本のメディアにネタを売ろうと殺到するという構図が出来ちゃっていました。そういう意味では当時、クレムリンにもっとも食い込んでいたのは、日本のある大手メディアの特派員でした。CNNや『ニューズウイーク』の特派員、それに先述したユマショフにさえ、「あの男はやり方がえげつない」と悪口を言われていましたが、逆に言えば世界のメディアに一目置かれていたわけで、それは日本人記者としてはたいしたものです。
 いろいろ笑い話的な裏話もあります。著名な日本人国際ジャーナリストが独自ルートでVIP取材したとか称しているのが、実際には現地コーディネーターがひたすら電話をかけまくってたまたま繋がっただけだったとか、テレビ局でVIPの出待ちをして声をかけたのを独占取材と称したとか……。まあ私も似たようなことは散々やってるので他人を笑えませんが。
 そんな同業者の話をどうしていろいろ知っているのかというと、日本メディアのカネを求める現地のコーディネーターたちが、当時モスクワに住んでいた私のところに集まっていたからです。ロシア紙記者、日本語通訳、英語通訳、役人や研究者(日本関係の役人や研究者がアルバイトでそういうことを盛んにやってました)といった人たちですね。私は当時、「モスクワ在住ジャーナリスト」とかカッコよく名乗って記事を書いたりしていましたが、実際には自分でネタを発掘するなんてことはほとんどやってません。ネタを日本の雑誌やテレビ局に卸す、いわばネタのバイヤーのような立場でした。カッコ悪いですね。
 それはともかく、ここで私が言いたいのは、私がダメ記者だったということではなく(それも事実ですけど)、おそらく情報機関関係者も含まれていたであろうそのコーディネーターたちが、いずれも大金を稼ぎまくっていたという事実です。私の知っているロシア人たちは、ごく短期間のうちにモスクワ中心部にアパートを買い、郊外にダーチャ(別荘)を買い、日本車を複数台乗り回す身分になっていました。というのも、当時ロシアではルーブルの実勢レートが大暴落し、庶民の月収が1万円以下くらいにまでなっていたのですが、そんなときに、日本メディアからは1日1万5000円とか2万円とかの通訳料や、1件数十万円もの巨額のコーディネート・フィーが支払われていたからです(私自身、ある取材で50万円以上をバラ撒いたことがあります。他の人ですが、数百万円をつぎ込んだ例も知っています)。つまり、日本メディアはまるで打ち出の小槌みたいな黄金の利権だったわけですね。
 守旧派も改革派も、極右も極左も諜報機関もマフィアも、そういう状況ですから、みんなカネ目当てで日本のメディアとは付き合っていたのだろうと思います。あの時代、じつに胡散臭いロシア人がたくさん日本メディアと関係していましたが、日本人記者が情報機関にリクルートされたとかいう噂話はまったく聞いたことがありません(それより、元KGBがCIAに寝返ったとかいう噂はたくさんありました)。
 そういう時代がソ連末期からエリツィン時代のロシアにはあったため、私はSVRやFSBといっても、つい「どうせ腐敗した連中なんだろう」という目で見てしまいます。先入観なのはわかっていますが、あれほど銭ゲバだった人々がそう簡単に更生するかなあとも思うわけです。
  1. 2009/05/15(金) 11:09:48|
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北朝鮮の核実験は?

 短い記事ですが、現在発売中の『週刊朝日』に「北朝鮮の日本“人質”計画」という記事を寄稿しました。
 北朝鮮は瀬戸際外交カードを見せ札にしつつ、国連への非難を口実に核実験まで進むハラづもりのようです。なかなか緻密で計画的ですね。これは油断すると、ロシアや中国が丸め込まれる方向になる懸念があるかと思います。アメリカも追認するやもしれません。

ところで、ヤフー経由のアクセスが急に増えたので、何かと思ったら、「軍事」の項目で登録サイトに登録されていました。どなたか存じませんが、ご親切にありがとうございました。
 
  1. 2009/05/04(月) 09:57:19|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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