ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

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ビンラディン久々の映像

 小さいコラム解説ですが、現在発売中の『週刊現代』に「ビンラディンの<生映像>から判明した新事実」と題する記事を執筆しました。ビンラディン久々の映像ですが、よくみると、どうも古い映像を使いまわした可能性大ですね。記事内容は編集部につけていただいたタイトルにふさわしいレベルに達してませんが、ビンラディンの動向についてはどんな小さな情報でもフォローしとかないと、ということで書かせていただいた次第です。
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  1. 2007/07/24(火) 13:44:20|
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イマイチだったCIA機密解除文書

短い記事ですが、現在発売中の『週刊現代』に、「数十年を経て公開されたCIA機密解除文書」という記事を執筆しました。
6月26日に“鳴り物入り”で公開された702ページの機密文書(CIAの秘密工作の実態が明記されているとの触れ込み)について紹介しています。
  1. 2007/07/19(木) 00:37:07|
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KGBの対日工作・番外編

 じつはレフチェンコ・メモの中身について筆者が書いたのは、『ワールド・インテリジェンス』誌が初めてではない。2001年1月に筆者の企画・構成で出版した別冊宝島『未解決事件の謎を追う』所収の「中川一郎はソ連エージェントだったのか?」という記事中でその概要を紹介している。
(同ムックはその後、同社より『迷宮入り~昭和・平成 未解決事件のタブー』と改題されて文庫化され、現在も版を重ねています。黒井名で書いたのは同記事だけですが、複数の筆名あるいは編集部名で、本全体の半分以上は筆者が書いています) 
 ここでは、参考までに当該記事を転載します。

中川一郎怪死事件
中川一郎は「ソ連エージェント」だったのか?
自民党総裁候補「謎の怪死」の真相に迫る!

文・黒井文太郎

 十七年前、自民党総裁候補にまでなった大物代議士・中川一郎が、札幌のホテルで縊死体で発見された。警察は自殺と断定したが、その異常な“死に様”に他殺説も根強くささやかれた。そして、注目される「KGB関与説」――。
 そんななか、ソ連の対日工作責任者だった大物スパイが「中川を協力者に仕立てあげていた」と暴露し、疑惑の火に油を注いだ。果たして、「反共の闘士」の正体はソ連のエージェントだったのか? そのことが彼を直接、死に追いやったのか?


沈黙を破った「闇の司祭」

 古びたテープをカセット・デッキにセットした。スイッチを入れると、落ち着いた、それでいて少し甲高いロシア語が流れ出した。ああ、こんな声だったんだな、と私はまるで初めて聞くような気持ちでしばしそれに聞き入った。
 彼の声質など、すっかり忘れていた。それはそうだ。このインタビュー・テープを聞き直すのは実に九年ぶりなのである。あれはもうひと昔前といってよかった。年月の長さだけでなく、時代はすっかり様変わりしていた……。そんな年月の移ろいに思いを馳せながら、シューシューと微かな音を立てて回るテープを見詰め、私は少しずつ“そのとき”の光景を思い出していった。

――九一年十一月。晩秋のモスクワはすでに零下の寒さだったが、町にはようやく自由を手にした市民たちの静かな熱気がただよっていた。だが、なかにはそうした新時代の空気から明らかに取り残された人物もいた。共産党政権時代に“支配する側”に身を置き、国民を監視し、海外で謀略をめぐらせたような人々だ。
「赤の広場」の真正面にあるメトロポール・ホテルで、私はそんな老人のひとりと会った。
 彼の名前はイワン・コワレンコ。
 冷戦時代、ソ連共産党中央委員会国際部日本課長・同副部長として対日工作のすべてを仕切り、「闇の司祭」などとも呼ばれた大物コミュニストも、ペレストロイカでその地位を追われてからはすっかり覇気が抜けたのか、年老いたありきたりの老人に見えた。その風評から、やたら押しの強いタイプを予想していたのだが、心臓病を患う老人は、とてもそんなふうには思えなかった。
「こんにちは。私はもう日本語をあまり覚えてないので、ロシア語で話させてもらいますよ」
 老人は実に愛想のいい笑顔を見せた。まてよ……と私は内心、気を引き締めた。これは心を隠す鋼鉄の仮面かもしれない。なにせ相手は百戦錬磨の「闇の司祭」なのだから……。
 インタビューは、彼の七十ニ年間の経歴を聞くところから始まった。貧しかった少年時代、日本人少女との恋、日本語科の学生だった頃、大戦中の宣伝将校時代、対日参戦と関東軍の武装解除、シベリア抑留者の赤化洗脳工作、戦後日本での左翼支援……。およそ二時間が経過した頃、私は最も興味を持っていた質問をようやくぶつけることができた。
「日本人で親しかった人は誰ですか?」
 コワレンコは、ゆっくり言葉を選びながら、何人かの日本人の名前を挙げ、彼らとどんなすばらしい人間関係で結ばれていたのかを語った。私としては、当然、そんな表面的な話ではなく、彼が篭絡した日本人エージェントの名前を知りたかったわけだが、あのコワレンコが簡単に口を割るわけがないことは分かっていた。
「自民党の政治家はどうですか? 個人的な付き合いがあった人物は?」
 私はそう尋ねた。コワレンコはちょっと思案した後、かなり古い時代の派閥領袖たちの名前を挙げていった。
 私は、インタビューがコワレンコの“欺瞞のペース”で続いていることに気がついていた。それまですでにこんな台詞が続いていたのだ――「関東軍の挑発でソ連は参戦を余儀なくされた」「シベリア抑留者の待遇は悪くなかった」「自分は諜報活動とは関係ない」――。
 この老人は結局、欺瞞にまみれたソ連共産党の申し子なのだ。本当のことは死ぬまで言わないつもりなのだろう……私はそう思った。
「ああ、そうそう……」
 そんな私の心を読み取ったわけではないだろうが、コワレンコはそのとき、気になる人物の名前を挙げた。
「ナカガワはいい男だった。彼は私の、じつにすばらしい友人だったのだよ」
 中川一郎――の名前が唐突に元ソ連スパイ・マスターの口から出た。

 戦後日本の政治家のなかで、中川一郎ほど生き急いだ人物はなかったろう。大野伴睦の秘書として政界入りし、石原慎太郎らとともにタカ派集団「青嵐会」を結成。農水族の実力者として自分の派閥を旗挙げするまでとなったが、八二年の自民党総裁選に出馬して落選し、その直後に壮絶な自殺を遂げた“悲運の政治家”だった。
 だが、反共右派の牙城といわれた青嵐会の中川とソ連共産党の接点はどこにもないように思えた。どこまで本当のことを話しているのか……私はコワレンコの表情を探った。
 老人は急に胸を張り、それまでにない強い口調でこう言った。
「惜しい男を亡くした。ナカガワが死ななければならなくなったのはじつに残念だった。よく覚えているよ、あの頃のことはね。私は彼にはたいへんな期待をしていたのだから」
 やけに芝居がかっている……。コワレンコの様子に、私はそんなふうに感じていた。

疑惑だらけの「怪死」

 八三年一月九日早朝、中川一郎は滞在先の札幌パークホテルで縊死体で発見された。現場の状況から“自殺”ということで片づけられたが、その奇妙な死には、その後もさまざまな疑惑がつきまとうこととなった。
 まず、その自殺方法がなんとも不可解だった。彼はバスタブ内に座り、首とタオル台の留め金とを浴衣の紐で繋いだかたちで絶命していた。完全な首吊り状態ではなく、なぜか“座って首吊り”していたのだ。物理的には、確かにそれで死ねないわけではない。だが、それは最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かわなければ不可能なものだ。そんなことが生身の人間に可能なのか? そう疑問を持つことは、当然のことといえた。
 なぜ自殺しなければならなかったのか、ということも関係者に大きな疑惑を呼んだ。
 遺書らしきものはまったく発見されなかった。それに、何といっても彼は総裁選に出馬するほどの大物政治家なのだ。当時、まだ五十七歳。たとえそのときは落選でも、次の次、あるいはその次にでも総理・総裁になれる政界の王道にいることに変わりはない。しかも、とりたてて致命的なスキャンダルが表面化したわけでもなかったのだ。
 謀殺説――がささやかれたのは、したがって、ある意味で当然だともいえた。
 それなら犯人は誰なのか?
 さまざまな憶測が活字に踊った。どれも決定力に欠けるものではあったが、中川の“謎の死”の真相を解明する試みは、あれから十七年が過ぎた現在に至るまで、しばしば繰り返し行われてきた。
 自殺なのか、他殺なのか?
 彼はなぜ死ななければならなかったのか?
 それは、昭和史に残された大きな謎のひとつといってよかった。

 確かに、中川が苦境に立たされていたことを証言する声は多い。実力派秘書・鈴木宗男(現・代議士)との確執という指摘もあった。貞子夫人から離婚を切り出されていたことも後に暴露された。
 石原慎太郎や田村元(元衆院議長)は、中川が“総裁選で福田派に裏切られたと思い込んで悲嘆に暮れていた”と明かし、さらには彼が派閥維持と総裁選のために無理に借金を重ねていた内実も指摘した。
 浜田幸一はもっと明快で、著書のなかで「三塚博が中川夫人からの離婚話まで持ち出して彼を追い詰めた」と書いた。そして、そんな誰もが“あまりに涙もろく、愚直なまでに純朴な男”が、そうした理由から発作的に自殺したのだろうと推測した。
 だが、他殺を匂わせる証言もないわけではなかった。
「中川の死の間際、誰かが彼を訪ねたようだ」
 中川の十三回忌を機に発表した手記『光と影』で初めてそう明らかにしたのは石原二三朗・元在札幌中川事務所長だった。同氏が手記出版に合わせて『文藝春秋』九五年一月号に語ったところによると、死亡推定時刻のわずか一時間前に中川は彼に電話をかけ、さまざまな悩みを相談していたのだが、その最中に突然、「やあ、やあ」と誰かに呼びかけた直後、あわてて電話を切ってしまったのだという。石原氏にはそれが明らかに、夫人ではない“誰か”が部屋に入ってきたと思われたとのことだった。
 一方、死亡する前夜のパーティでの様子がおかしかった、と証言する人も少なくない。「スピーチもおとなしく、いつもの元気がなかった」「しきりに汗をぬぐっていた」といったことを指摘する声が多かったが、なかには「(会場には)もみ上げの長い怖い人たちがたくさんいた」(出席者だった宮松よし子氏:『週刊文春』二〇〇〇年一月六日号)という気になる証言もある。
「中川は無理して借金を重ねていた」という情報とつき合わせると、彼がいかがわしい資金に手を出し、総裁選の惨敗で熾烈な追い込みをかけられていたのでは、と推定することもできる。

 だが、幾多の疑惑のなかで“きな臭さ”が最も際立っていたのが「KGB関与説」だった。
「中川はソ連のエージェントだった」
 あるいは、
「ソ連エージェントだった中川は、それが暴露されることを恐れて自殺した」
 果ては、
「ソ連エージェント・中川の台頭を恐れてCIAが暗殺した」
 という説まで、数々の疑惑が書きたてられたのだ。
 確かに、農水族として日ソ漁業交渉に辣腕をふるった中川と、駐日ソ連大使館の外交官たちとの交流は知られていて、その怪死以前から疑惑を指摘する声がなかったわけではない。
 だが、中川怪死に際していちやくクローズアップされたのは、七九年一〇月にアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコ元駐日KGB少佐が、三年の沈黙を経て八二年七月に米下院情報特別委員会秘密聴聞会で暴露したと伝えられた日本人エージェントのリスト=いわゆるレフチェンコ・メモの存在だった。その中に中川の名前があったのではないか、というわけである。
 もしそれが事実なら、少なくとも自殺の理由としては十分に説得力があった。しかも、レフチェンコが記者会見を開き、レフチェンコ・メモの存在が初めて世間に公表されたのは八二年十二月。中川怪死のちょうど一ヵ月前で、タイミング的にはつじつまが合う。
 では、そのレフチェンコ・メモの中味とは、いかなるものだったのだろうか――。

亡命スパイの爆弾情報

 今、私の手元に一枚のコピーがある。公安筋が作成したレフチェンコ・メモ公安版である。これまで断片的に伝えられてきた情報とほぼ一致しており(とくにレフチェンコを直接取材した『リーダーズ・ダイジェスト』八三年五月号が詳しい)、政界や一部マスコミに出まわったもののひとつと同一であるとみてまず間違いない。
 レフチェンコは『リーダーズ・ダイジェスト』のインタビューに「日本人エージェントは二百人はいる」と語っているが、このレフチェンコ・メモ公安版には、そのなかでレフチェンコが知り得た人物として計三十一名のコードネームと内十一人の実名が記され、それぞれKGB側の担当将校の名前、彼らがエージェントだとレフチェンコが知った時期、エージェントとしてのランク、等が列記されている。三十一名の内訳については、自民党関係者二名、社会党関係者十一名、官僚四名、マスコミ関係者九名、学者三名、財界人二名である。
 ここに実名が登場している人物を以下に挙げてみる。
 石田博英・元労相、勝間田清一・元社会党委員長、伊藤茂・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、上田卓三・社会党議員、杉森康二・日本対外文化協会事務局長、山根卓二・サンケイ新聞編集局次長、T・読売新聞記者(※本記事では実名表記しましたが、ここでは匿名とします)、三浦甲子二・テレビ朝日専務、山川暁夫・インサイダー編集者、堤清二・西武百貨店会長(以上、肩書きは当時)――。(尚、このなかの上田、T、三浦、堤の各氏については「無意識の協力者」ないし「友好的人物」とあり、さらにこの内の上田、T、堤の各氏の名前は初期に出まわったリストにはなかったものである)
 このレフチェンコ・メモについては、その真偽をめぐって、当時たいへんな騒動となった。名指しされた人物たちは当然否定しており、確かにこれで逮捕された人物はいない。したがって、内容の真偽は今もって不明である。
 が、昭和五九年(八四年)版『警察白書』には以下のような記述もある。
「レフチェンコが直接運営していたのは十一人で、そのうち数人から事情聴取したところ、金銭でスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として喫茶店等のマッチの受け渡しによる方法が用いられたり、『フラッシュ・コンタクト』(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった」
 右の“数人”がリストに実名が載った人物かどうかは、警察が公表していないので確認できない。レフチェンコが直接運営していた十一人についてはおそらく実名が判明しているとみられ、それはリストの実名記載人数と一致するが、だからといって、必ずしも人物名が一致するとはいえない。推測できるのは、おそらくこの“数人”が“犯罪として立件する”要件がより厳しい「非公務員」ではないかということだが、いずれにせよ真相は「藪の中」だ。
 だが、仮にこれが事実だとすると、どこにも中川一郎の名前は見当たらない。正体不明の自民党員にコードネーム『フェン・フォーキング』なる人物がいるが、リストに付された情報をみると、どうも中川のことを指しているようには感じられない。すると、中川がレフチェンコ・メモを怖がる理由はまったくなかったわけだ。
 しかし、それでもやはり、中川一郎がそれを恐れていた可能性は高い。なぜなら、彼にはある “心当たり”があったからである。
 それが、冒頭に紹介したソ連共産党国際部副部長イワン・コワレンコとの関係だった。中川は、KGBもアゴで使ったという恐ろしい「闇の司祭」と、誰も知らない秘密のコネクションを持っていたのだ――。

「反共の闘士」はソ連に篭絡されていた!?

 モスクワのホテルで録音した三時間分のコワレンコのインタビュー・テープは、実はその後、私のデスクの奥で長いことホコリをかぶっていた。なぜなら、私のしつこい質問の数々についに元「闇の司祭」が怒り出し、「このインタビューはなかったことにしろ」と言い出したからだ。取材としては最悪のパターンだったが、気難しいロシア人相手の取材ではときどきあることだった。彼らは“本当のこと”を聞かれることに慣れていないのだ(ちなみに、私は当時、モスクワに在住しており、毎日のようにそんなロシア人に会っていた)。
 そんなわけで、「対日工作の黒幕が初めて過去を語る」というスクープはお蔵入りになってしまったのだが、それから五年後の九六年十ニ月、なんとコワレンコは日本で手記を出版したのである。
『対日工作の回想』と題するその自伝は、政界でも密かな注目を集めたという。とくに、うやむやに終わったレフチェンコ・メモの中味について、何か決定的な情報が暴露されなかったか、という点が注意を引いたのだ。
 もちろん、“スパイ・マスター”コワレンコが、そんな隙を見せるはずはなかった。レフチェンコのことも、「プロの情報員ではなく、何も知らない」「麻薬中毒で、人間性も信用できない」と切り捨て、レフチェンコ・メモもすべてデタラメであると断言した。
 だが、注目される新情報もいくつかあった。その筆頭が、中川一郎との“秘密のコネクション”だった。
 コワレンコが自著の中で自慢気に語っているのは、明らかに中川篭絡の手口だった。コワレンコは、自主外交派の中川を支援することで日本を反米・反中路線に誘導することができると考え、中川の利権マタ―である日ソ漁業交渉で便宜を与えることで、彼を「親ソ派」に取り込もうとしたというのである。
 接触は八二年九月、レフチェンコ・メモにも名前のあった三浦甲子二・テレビ朝日専務の仲介で極秘裏に行われたという。その席で中川は「在日米軍の撤廃」「ソ連との長期的善隣関係構築」などの持論をぶち、果ては「北方領土は原則的な問題ではない」「中国の脅威に対抗するため、日ソ軍事条約締結の考慮の可能性もある」などとも発言。さらには、中川のほうが日ソ漁業交渉の便宜供与の早期実現を要求し、秘密接触のためにその後は大使館などの公式ルートを使わずに三浦ルートなどを使うことにも合意したというのである。
 驚くべき内容である。私とのインタビューでも語っていなかったことだ。これが事実なら、中川はまさに、コワレンコの術中にはまったといっていいだろう。それは、KGBより上位の共産党中央委員会国際部に直結する超A級の“協力者”に仕立てあげられたことを意味していた。
 だが、前述したように、私はコワレンコの“物語”には常に欺瞞が含まれていると確信している。おそらく、コワレンコが中川を篭絡しようとして「中川=コワレンコ会談」がセットしたのは事実だろう。だが、いくらなんでも「日ソ軍事条約」などのアイデアは青嵐会の“反共の闘士”とは結び付きづらい。この記述はかなり“脚色”されている可能性が高いというのが私の率直な〝勘〟である。
 しかし、それでももし本当に中川がコワレンコと極秘接触を続けていたとしたら、それだけでもレフチェンコ・メモの中味に「もしかしたら自分が?」と思い込んでも不思議ではないのかもしれない。日本の公安当局が最重要対象者としてマークしていたコワレンコの正体を、中川が知らなかったはずはないのだ。

 だが、果たしてそんな“疑惑”だけで果たして人は死ぬだろうか?――というわけで登場したのが「CIA暗殺説」だった。
 が、これもそのネタの出所は在日ソ連大使館筋=つまりコワレンコ周辺だった。コワレンコがやはり自著に書いているのだが、中川怪死に際し、在日ソ連大使館から本国へ「中川を日本の首相にさせたくなかったCIAが彼を暗殺した疑いがある」と報告していたというのである。おそらく、その話に尾ひれがついて流出したというのが真相だろう。
 コワレンコ自身は「在日ソ連大使館の分析担当者が憶測で書いたもの」と逃げているのだが、私には、そうした情報が流された背景にはコワレンコ本人の意図もあったのではないかという気がしてならない。いかにも「闇の司祭」がやりそうなことだからだ。


“エージェント”と“無意識の協力者”

 ところで、シベリア抑留者の洗脳工作を担当し、その帰還者を足掛かりに戦後日本へ浸透、対日工作の“黒幕”として君臨したイワン・コワレンコは、回想録の中で何人もの日本人の“友人”の実名を挙げている。そのほとんどは私とのインタビューでも語っていたが、それはつまり、逆にエージェントの可能性は低いということなのだろう。
 参考までにそれらの人々を挙げておく。(一部にレフチェンコ・メモ公安版に登場する名前もある)。
 政治家では、自民党が石田博英、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。社会党が成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。その他には、三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作(創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)――。
 このメンバーをざっと見渡すと、ソ連通を公言していた人物も確かに少なくない。そうした人々は、ソ連共産党のシンパではあっても、エージェントと呼ぶような存在ではないだろう。
 日ソ諜報戦に絡む資料を目にするたび、私はいつもひとつの違和感にとらわれていた。それは、「何をもって“エージェント”というのか」がいまひとつあいまいなことだった。
 日本のような国では、おそらく「カネを受けとって正式な工作員となった人間」の他に、相当数の“無意識の協力者”がいる。そして、そんな大勢の名前がシャッフルされることで、本当の工作員が隠されているのではないか、という気がしてならない。
 中川一郎は、この“広義のソ連コネクション”のどこかにいた。それは確かに、総裁の座を狙う保守派の派閥領袖としては“弱み”だったかもしれない。だが、それが彼の死に直接関係しているのかどうかは、結局のところ確認のしようがない。(了)
  1. 2007/07/13(金) 09:36:06|
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KGBの対日工作⑦

エージェントにファイルされても必ずしもスパイとは限らない

 本誌が入手したレフチェンコ・メモの内容は以上の通りである。インターネットの掲示板にもなかなか興味深い情報が出ているが、検証ができないのでここでは引用しない。本誌が以上の情報をあえて掲載したのは、これが公安警察の少なくとも一部から出た情報だということからである。
 ただし、念のために申し添えておきたいが、警察がこのようなメモを作っていたからといって、そこに掲載された人すべてがソ連の工作員だったということではない。
 たとえば、同メモには11人の実名が出ているが、三浦・テレ朝専務や堤・西部百貨店会長については、明確に「友好的人物」と位置づけられている。本人がKGBに協力しているという自覚がないままに、ただソ連大使館員と友好的に付き合っているだけの人物という意味である。
「無意識の協力者」に分類された人にも同じことがいえる。このメモでいえば、T(メモではカッコ付実名)読売新聞記者、上田・社会党議員、上田議員の秘書などである。彼らは当然ながら自分ではエージェントだと思っていないし、実際にエージェントともいえない。
 KGBに限らずどこの情報機関も、正式にリクルートしたエージェント以外に、このような「友好的人物」「無意識の協力者」を情報源あるいは「影響力のエージェント」として使っている。単に情報交換をする間柄だが、情報機関サイドはそれを工作と見なしていて、対象にコードネームをつけてファイルし、組織的に管理している。
 レフチェンコ・メモにはKGBの正規エージェントとして14人が挙げられている。うち、実名が断定されているのは山根・産経新聞記者だけである。
 だが、正式なエージェントとファイルされていても、それがどの程度の積極的なエージェントかというとケース・バイ・ケースであり、一概にはいえない。エージェントというと、組織の命令に絶対服従で、その指令に基づいてものすごい機密情報を盗み出すとか、あるいはその指令に基づいて積極的に偽情報工作を実行するといったイメージがあるが、ほんの少し便宜を図ってあげただけでも、組織側に「エージェント」とファイルされる可能性もあるからだ。
 とくに、ちょっとしたことの謝礼としてわずかでも現金や物品を受け取ったら、エージェントにファイルされる可能性が高い。そのため、こうした外国情報筋と日常的に接触し、情報交換している外交官や公安担当者、マスコミ記者などは、ある程度の情報交換はよしとしても、「カネは受け取らない」ことを心がけているはずである。
 山根記者をはじめ、このレフチェンコ・メモに登場する面々が実際にどのような役割をしていたのかはわからないが、彼らはなにも特別な存在ではなかった可能性もある。山根記者の場合も、スパイというよりは、単にニュースのネタ元としてソ連大使館員と接触していたのかもしれない。偽周恩来遺書を掴まされるなどの失策はあっただろうが、ソ連大使館員からネタを得るというのは、ジャーナリストなら誰にとっても魅力的な話だ。
 実際、日本の外交官、公安担当者、マスコミ記者のなかには、彼ら自身の日常的な職務である情報収集の一環として、外国情報筋と積極的に接触し、情報交換している人がいる。これらの職にある人で、ロシアや中国に太い情報源を持っているといわれている人は、当然ながら深い部分で情報交換をしているわけだから、かなり高い確率で、まず間違いなく向こうの情報機関に“勝手に”何らかのレベルでエージェントに分類され、怪しいコードネームでファイルされているはずである。それは「影響力のエージェント」の場合もあるし、「友好的人物」あるいは「無意識の協力者」の場合もある。
 KGB工作員とこうした〝エージェント〝の関係のなかには、おそらく両者が互いの利益のためにギリギリの情報交換をしているというケースが少なくないはずだ。金銭目的というよりも、「ロシアや中国の情報を得たい」というプロ意識、あるいは、それで「〝情報通〟として組織内で評価されたい」との動機でこうした危険な道に入る人もいるだろう。
 だが、だからといって、当然ながら彼らはスパイではない。同様に、レフチェンコ・メモに「正式エージェント」と記載されていたからといって、必ずスパイだったとは断定できない。たとえば、情報自体は日本の新聞に書いてあるような内容のことでも、それを政治家や官僚や記者などから「口頭で聞いて報告書にして本国に報告」することが、スパイ組織のなかでも「ちゃんと仕事をしている」として評価される。こうした構図では、単に「KGBスパイと会って、新聞に出ているような話をした」だけでKGBのファイルには〝エージェント〟として記録される。
 本誌も、彼らがスパイだったいうことではなく、KGB側にファイルされていたという事実をもって、ここにあえて実名を掲載した次第だ。

曖昧な「親ソ派」と「エージェント」

 このレフチェンコ・メモに「友好的人物」として登場する三浦甲子二・テレ朝専務や堤清二・西武百貨店会長、あるいは「意識的な協力者」として登場する石田博英・元労働相や勝間田清一・元社会党委員長などは、いずれももともと親ソ派の人物として知られていた。そういった意味では、彼らの立ち位置は秘密でも何でもなかったわけだ。
 こういう親ソ派の人物というのは、なにも彼らだけではない。91年11月、本誌編集長は冷戦時代の対日工作を牛耳っていたイワン・コワレンコ元ソ連共産党国際部副部長(元日本課長)にロング・インタビューを行なったことがあるが、そこでコワレンコ氏は、個人的に親しくしている日本側要人として、石田博英、勝間田清一、伊藤茂、三浦甲子二、杉森康二、堤清二といった人物の名前を挙げた。しかし、そこで名前が出るということ自体が、ソ連側の統制下にある秘密の〝スパイ〟ではなかったということではあるまいか。
 なお、コワレンコ氏はこのとき、それ以外にも、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎(以上、自民党議員)、成田和巳、石橋正嗣、飛鳥田一雄(以上、社会党議員)、松前重義(東海大学総長)、池田大作(創価学会名誉会長)各氏の名前を挙げた。なかでも池田大作氏のことはベタ誉めだったが、いずれにせよ自民党の派閥領袖クラスを除けば(中川一郎議員はコワレンコ氏と三浦甲子二・テレ朝専務らを通じて深い付き合いがあった)、すでに親ソ派として知られている人物たちである。
 また、コワレンコ氏はその後、96年に手記『対日工作の回想』を日本で出版したが、そこでは右記以外の友人・知人として、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男(以上、社会党議員)、岡田茂(東映社長)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、千田恒(元サンケイ新聞論説副委員長)、秦正流(元朝日新聞専務・編集局長・外報部長・モスクワ支局長)、白井久也(元朝日新聞モスクワ支局長)の各氏の名前が挙げられていた。
 彼らはいずれも大っぴらにソ連外務省、共産党国際部、あるいは駐日ソ連大使館と交際があったが、もちろんそれでスパイということにはならないだろう。レフチェンコ・メモに登場する〝エージェント〟の何人かも、コワレンコ氏が名前を挙げたこれらの人々とそれほど実態が違わないのではあるまいか。

スパイ「ミーシャ」(ナザール)は誰だ?

 ところで、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に登場する〝エージェント〟のなかで、もっとも興味を引かれるのが、「フェン・フォーキング」(ミトロヒン文書では「FEN」)なる人物である。
 レフチェンコ・メモには、その当時、「自民党員(自民党議員とは書かれていない)で、党内の一派閥に影響を及ぼし得る」と書かれている。自民党議員でなく、あえて自民党員と記載されているのであれば、議員でもないのに派閥に発言力があるという、なかなか特殊なポジションにいる人物ということになる。
 さらにミトロヒン文書によれば、彼は「田中角栄氏の側近」で「72年から接触がスタートし、75年頃にかなり進展がみられ、ついには正式なエージェントとして取り込まれた」人物とのことである。はたしてそれに当てはまる人物はいるのだろうか?
 さて、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に記載されていた(つまり、KGB側にエージェントとして登録されていた)からといって、本当にスパイだったとは限らない、と本稿では前述した。実際、レフチェンコ情報に基づいて誰かが逮捕・起訴されたか?といえば、そんなことはなかった。つまり、前述の警察白書にあるように、「犯罪として立証するに至らなかった」わけで、それはどういうことかというと、要するに「公務員が機密情報を漏洩」したことが確認されなかったということである。
 しかし、だからといって、いわゆるスパイ行為がまったくなかったのか?といえば、それもそんなことはなかったろう。ミトロヒン文書の記述をみると、「これはスパイ行為そのものではないか」というケースがいくつもある。
 たとえば、共同通信記者「ROY」(または「アレス」)。彼は金銭目的でKGBに情報を流し、さらにはKGBのために公安関係者「KHUN」(あるいは「シュバイク」)からネタを集めていた。公安に食い込んでいる記者というのは複数いるが、それをKGBに流すというのは、ほとんど犯罪的行為に近い。
(おそらく一部のエージェントに関して、KGB本部内の記録にはコードネームの変更があったようで、ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモではコードネームが一致しないケースがある)
 ミトロヒン文書には読売新聞記者の「SEMIYON」という人物が、ハニートラップなどで陥れられて無理やりエージェントとなったと書かれている。これも本人の意思ではないにせよ、明らかなスパイ行為といえる(ただし、徴募の経緯が違うので、これはレフチェンコ・メモに登場する前出・T記者のことではないと推定できる)。
 民間人である記者の場合、よほどのことがなければ犯罪性は問えないだろうが、ミトロヒン文諸には多くの外交官のエージェントが登場する。外交官が機密情報を漏洩すれば明らかな犯罪だが、日本の捜査当局はそこまで立証できなかった。おそらくその多くで実名を把握できていないものと思われる。
 なかでも、70年代にもっとも重要な情報源として活動した外務省職員「RENGO」と「EMMA」。両者とも明らかなスパイとして活動している。
 外交官の場合、モスクワ勤務時代にハニートラップに引っ掛かり、そのままスパイ行為を強要されるケースも少なくないようだ。たとえば、「OVOD」という人物はなんと2回もハニートラップにかかっている。
 ハニートラップでスパイとなった人物で、これらのファイルからもっとも悪質な人物といえるのが、「MISHA」(あるいは「ナザール」)だろう。彼はモスクワでハニートラップにかかかった外務省の電信官だが、結局は金銭と引き換えに大量の外務省公電をKGBに流し続けた。ミトロヒン文書およびレフチェンコ・メモを通じて、もっとも日本に損害を与えたスパイといえる。
 犯罪行為としてはすでに時効となるのだろうし、本人もまだ生存しているのかどうかわからないが、ミトロヒン文書で新たな手がかりが浮上した今、その正体もやがて明らかにされるかもしれない。
(了)
  1. 2007/07/13(金) 09:11:18|
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KGBの対日工作⑥

レフチェンコ・メモの中身

 ところで、実は本誌は「レフチェンコ・メモ」そのものを入手している。レフチェンコ自身の担当エージェントの実名がすべては記載されていないなど、部外秘レベル的には最高度のものではないが、入手経路からみて、公安警察の一部のセクションで作成されたものであることが確実の資料である。
 メディアに流出した「レフチェンコ・メモ」にはいくつかの種類があるのだが、本誌が入手したものの記述は以下のようになっている。実名を含めてここに明らかにするが、その理由は後述する(以下、カッコ内は『リーダーズ・ダイジェスト日本版』に掲載されたレフチェンコ証言情報)。

①石田博英・元労働相
 コードネーム「フーバー」。担当者はフロニコフ中佐。レフチェンコ氏は本国のKGB本部勤務時代にも報告書で名前を知っていたし、実際に東京でも工作支援の際に面識がある。意識的にKGBに協力している。
②コードネーム「フェン・フォーキング」
 実名不記載。自民党員で、党内の一派閥に影響力を及ぼし得る立場にいる。KGBの正式なエージェント。KGB東京支部の中国班が担当している。
(自民党の党員で、党内の一派閥の指導人に影響を及ぼし得る人物)
③勝間田清一・元日本社会党委員長
 コードネームは「ギャバー」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は工作報告官として報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
④伊藤茂・社会党議員
 コードネームは「グレース」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は報告官として工作報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
⑤佐藤保・社会主義協会事務局長
 コードネームは「アトス」。担当者はウマンスキー少佐。意識的にKGBに協力している。
⑥上田卓三・社会党議員(その後、党中央執行副委員長、部落解放同盟委員長)
 コードネームは「ウラノフ」。工作支援でレフチェンコ氏も面識がある。ただし、本人がKGBの正式エージェントというわけではなく、KGB正式エージェント「山本」の影響下で無意識にKGBに協力している。
⑦コードネーム「ズム」
 実名不記載。上田卓三の秘書。レフチェンコ氏は工作支援で面識がある。無意識にKGBに協力している。
(ウラノフの優れた秘書)
⑧コードネーム「キング」
 実名不記載。落選した議員。レフチェンコ氏が担当。意識的にKGBに協力している。
(社会党の有能なリーダーで議員。レフチェンコから選挙資金等を受け取った)
⑨コードネーム「ティーバー」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
(党の政策に影響力を持つ)
⑩コードネーム「ディック」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。数年協力していたが、その後、離脱した。
⑪コードネーム「ラムセス」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
⑫コードネーム「カメネフ」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。無意識にKGBに協力している。
⑬山根卓二
 コードネームは「カント」。サンケイ新聞編集局次長(後、局長)。担当は当初はスミルノフ少佐で、その後、レフチェンコ氏に引き継がれる。KGBの正式エージェント。
(社長と親しい)
⑭コードネーム「デービー」
 実名不記載。サンケイ新聞記者。KGBの正式エージェント。レフチェンコ氏はKGB東京支部内の情報でその存在を知る。
(サンケイ新聞東京版勤務。カントを補強しうる人物)
⑮T(メモには実名があるが、なぜかこの人物だけカッコ付きで記載されている。意味が不明だが、公安が確認していない可能性もあるので、ここでは実名を伏せる)
 コードネームは「トマス」。読売新聞政治部。担当者はレフチェンコ氏。ただし、実態はKGBのエージェントではなく、無意識の協力にすぎない。(編集部注/T氏と推定される読売新聞記者については前出・渡邊恒雄回顧録で登場するが、T氏自身はその後、日本テレビ取締役、ラジオ日本社長などを歴任した)。
(レフチェンコの執筆依頼に応じていた)
⑯コードネーム「カミュ」
 実名不記載。東京新聞記者。KGB正式エージェント。レフチェンコ氏は東京支部の報告書に記載したことがある。
(韓国問題のスペシャリスト)
⑰コードネーム「アレス」
 実名不記載。共同通信記者。担当は当初はフロニコフ少佐だったが、後にレフチェンコ氏に引き継がれた。KGB正式エージェント。
(公安関係の友人から膨大な秘密情報を入手し、KGBに渡していた。「情報の宝庫」と呼ばれていた)
⑱コードネーム「アギス」
 実名不記載。大手新聞記者で元モスクワ特派員。KGB正式エージェント。
⑲三浦甲子二
 コードネームは「ムーヒン」。テレビ朝日専務。レフチェンコ氏も工作支援で面識ある。ただし、エージェントではなく「友好的人物」。
⑳山川暁夫(ペンネーム)
 コードネームは「バッシン」。ニュースレター『インサイダー』編集者。担当者はレフチェンコ氏。意識的にKGBに協力している。
21 コードネーム「ドクター」
 実名不記載。フリージャーナリストで、KGB正式エージェント。
(経済的にフリーのジャーナリストで、熱狂的マルキスト。以前は共産党員。事務所、家屋、接触予定地点を撮影するなどして、KGBの工作活動に不可欠な、秘密のバックアップ活動を展開した)
22 コードネーム「山本」
 大学教授。KGB正式エージェント。
(インテリのエージェントにより成るグループの指導者で、大学教授。学界で活発に活動中で、ソ連の意思に従った各種著作物を発表している)
23 コードネーム「バロン」
 実名不記載。アメリカに詳しい学者。KGB正式エージェント。
24 コードネーム「ブラット」
 実名不記載。東京の大学教授。意識的にKGBに協力している。
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
26 堤清二
 コードネーム「ツナミ」。西武百貨店会長。担当者はグリヤノフ大佐。ただし、KGBエージェントではなく、「友好的人物」。
(億万長者で財界の実力者。ソ連の影響力が日本の財界や実業界に及ぶのを助けている)
27 コードネーム「シュバイク」
 実名不記載。公安関係。共同通信記者「アレス」のサブ工作員。
(アレスの友人の公安関係者。アレスに渡した情報の中には、公安当局が作成したレフチェンコの身上調書の抄訳のコピーも含まれていた)
28 コードネーム「マスロフ」
 実名不記載。元内閣調査室職員。KGB正式工作員。
(内閣調査室関係者で中国問題のアナリスト)
29 コードネーム「ナザール」
 実名不記載。外務省電信官。KGB正式工作員。KGB本部第1総局第16課(シギント担当)直属。担当者はウマンスキー少佐とベロフ少佐。
(各国の日本大使館から発信された通信文を同省の電信課で入手し、撮影もしくはコピーして、自分のケース・オフィサーに渡していた)
30 コードネーム「レンゴー」
 実名不記載。外務省職員(夫妻)。KGB正式工作員。
31 杉森康二
 コードネーム「サンドミール」。日本対外文化協会事務局長。意識的にKGBに協力している。
  1. 2007/07/13(金) 08:58:35|
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KGBの対日工作⑤

レフチェンコ証言を採用した『ミトロヒン文書』執筆者

『ミトロヒン文書』は、いわゆるレフチェンコ情報と重ね合わせると興味深い。ミトロヒン氏は明らかに「影響力のエージェント」の実名として、自民党幹部だった石田博英元労働相(コードネーム「HOOVER」)について名指ししている。
 サンケイ新聞の山根卓二・編集局次長については、ミトロヒン氏の資料に実名があったかどうかはこの記述だけからは確認できない。本書の著述は実際にはアンドリュー教授の手によるもので、必ずしもミトロヒン氏の資料だけからの記述ではないからだ。
 ただし、専門家であるアンドリュー教授が他の情報源(彼はレフチェンコ氏も直接聴取している)が本文中に実名を出したということは、それなりの根拠となる情報があったということにほかならない。山根記者の場合、周恩来の偽遺書スクープ工作の話が出ているので、その筆者である山根氏が確認されたのかもしれない。
 また、ミトロヒン氏が持ち出した機密資料写しには実名がなかったものの、レフチェンコ氏の証言を元に『ミトロヒン文書Ⅱ』では、3人の社会党議員の実名が断定されている。GAVR=勝間田清一氏、ATOS=佐藤保氏。GRACE=伊藤茂氏である。これは、KGBの内情に詳しいアンドリュー教授が、レフチェンコ証言の情報の信憑性をそれなりに評価したということを意味する。なお、『ミトロヒン文書Ⅱ』の巻末の脚注をみると、この点でアンドリュー教授は、『リーダーズ・ダイジェスト』誌ワシントン総局主任編集人のジョン・バロン氏がレフチェンコ氏に取材して執筆した『KGB Today』(83年5月刊)を参考にしていることがわかる。
 仮にレフチェンコ証言の信憑性が評価できるということなら、いわゆるレフチェンコ・メモもそれなりに正確な情報だったのだろうと推定できる。レフチェンコ・メモとは、日本人エージェントの実名についてレフチェンコ証言をまとめたものだ。
 なお、レフチェンコ証言の経緯は以下のようなものである。
 レフチェンコKGB少佐が亡命したのは79年10月。当然ながらアメリカ情報当局の管理下に置かれたが、82年7月、米下院情報特別委員会秘密聴聞会で証言し、続いて同年12月にレフチェンコ氏自身も初めて記者会見を行なった。
 レフチェンコ・メモの中身は非公開だったが、『毎日新聞』が82年12月に秘密聴聞会の内容の一部をスクープ。レフチェンコ氏は翌83年4月に初めて日本マスコミのインタビューを受けた。最初は毎日新聞で、続いて『読売新聞』『フジテレビ』『NHK』『週刊文春』などに次々と登場した。そこで何人かの日本人エージェントの実名を明らかにしたが、最終的には同5月に出版された前出『KGB Today』で、計26人のエージェントのコードネームと、うち9人の実名を明らかにした。実名を出されたのは、サンケイ新聞の山根記者、石田博英・元労働相、勝間田清一・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、伊藤茂・社会党議員(いずれも前出)、上田卓三・社会党議員(後述するリーダーズ・ダイジェンスト日本版には記載されず)に加え、杉森康二・日本対外文化協会会長、ニュースレター『インサイダー』の編集者である山川暁夫氏、三浦甲子二・テレビ朝日専務である(山川氏の場合は本名ではなくペンネーム)。
『KGB Today』の内容は、すかさず『リーダーズ・ダイジェスト日本版』同年5月号に、レフチェンコのロング・インタビューとともに掲載されたが、これを受けて日本の各メディアは大騒動となった。ここで名前を出された人は、いずれも疑惑を否定したが、周恩来偽遺書スクープ事件のサンケイ新聞・山根編集局長は、“エージェント疑惑”が曖昧なままに辞任を余儀なくされた。単にKGBに騙されただけの可能性もあったわけだが、誤報を出したこと自体は事実であり、その責任を問われたかっこうだった。
 なお、日本リーダーズ・ダイジェスト社から84年10月に出版された『KGBの見た世界~レフチェンコ回想録』には、日本人エージェントについて以下のような内容の記述がある。
▽ソ連のために働く日本在住の優秀なジャーナリストがいる。有力通信社勤務で、若い頃、プロニコフというKGB東京支部員にリクルートされた。日本の公安関係機関の秘密情報をもう何年も提供してくれていた。
▽40代後半の読売新聞のベテラン記者の場合、レフチェンコは最初は友人として接し、やがて篭絡。ついには報酬とひきかえに情報を流すエージェントに仕立て上げた。
▽東京新聞外信部の記者に工作をかけたが、篭絡できなかった。
▽元ジャーナリストでフリーランサーの男は、レフチェンコがKGBと知って盛んにインチキ情報を持ち込んだ。
▽大手新聞管理職の男がインチキなネタでKGBにタカった。あまりにタカりぶりがひどいので、KGB側が切り捨てた。
▽79年にレフチェンコは、元共産党員のニューズレター発行者をリクルートした。この人物は自ら進んで情報を提供した。金銭も最初からためらいなく受け取った。
(※ちなみに『KGBの見た世界』には、以下のようにKGB東京支部の描写もある。
▽11階建てのソ連大使館で、KGB東京支部は10階と11階を占めていた。レフチェンコ着任時の支部長は42歳のイェローヒン。部長室は10階。他に翻訳室、X系統室、通信傍受室、積極工作の部室、工作員の部屋などがある。電子機器類が並んでいる……)

渡邊恒雄回想録と警察白書

 レフチェンコの証言に出てくる読売新聞のベテラン記者に関して、『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社/2000年1月刊)に、以下のように興味深い記述がある。

 実は、当時我が社に当時いた記者が、レフチェンコ事件の協力者リストに挙げられたことがあったんだ。それで僕は本人を呼んで尋問したが、「スパイ協力行為はやってない」と言う。
 ある日、官邸で後藤田さんと会ったとき、「きみの社のあの記者は、ソ連のスパイ協力者だから解雇しろ」と言うんだ。いきなり命令調でね。だから、僕はカーッとなって、「政府の人間が我が社の社員を解雇しろなんて、命令するのは無礼じゃないか」と怒鳴ったんだ。
 後藤田さんはそうしたら、レフチェンコの自白を基にCIAや日本の公安当局がまとめた一覧表を僕に見せる。だけどコードネームだけで、実名は出ていない。それで、「おまえのとこの記者はこれに該当するんだ」とまた言う。僕は「内政干渉だ」と言い返したら、「お前は政府に喧嘩を売る気か」と怒鳴る。僕は頭にきて、総理大臣執務室に飛び込んだんだ。
 たまたま中曽根さんが一人でいて、僕は彼に、「いま後藤田さんと喧嘩してきた。やつとは絶縁する」と言ったよ。僕があんまり激しい調子で言ったんで、中曽根さんも真剣な顔をして理由を聞く。(略)
 中曽根さんは執務室の机の引き出しからガサゴソと大きな封筒に入った書類を持ってきて 「これは私と官房長官しか持っていないものです。どうぞご覧下さい」とだけ言うんだ。それを見ると、コードネームに全部実名が付いている。いまでは公然となったけれど、国会議員二、三人を含め新聞社もほとんど各社の人間が絡んでいるんだな。

 つまり、そこに、その読売新聞記者の名前も出ていて、渡邊氏も納得せざるを得なかったということだった。
 また、レフチェンコが証言した日本人エージェントについて、『警察白書』昭和59年版にはこうある。

 警察庁は、証言に表れたソ連の情報機関KGB(国家保安委員会)の我が国における活動に伴って違法行為が存在するか否かについて調査するため、58年3月、係官をアメリカに派遣し、レフチェンコ氏より前記証言の更に具体的な内容について詳細に聴取した。
 証言及び聴取結果によれば、レフチェンコ氏は、亡命当時KGB少佐の地位にあり、「新時代」誌支局長の肩書を利用しつつ日本の各界に対して、日・米・中の離間、親ソロビ-の扶植、日ソ善隣協力条約の締結、北方領土返還運動の鎮静化等をねらいとした政治工作を行なうことを任務としており、この任務に関して11人の日本人を直接運営していた。この種の工作においてKGBが成功した例としては、ねつ造した「周恩来の遺書」を某新聞に大きく掲載させたことがあった。
 警察は、そのうち必要と判断した数人から事情を聴取するなど所要の調査を行なった。その結果、レフチェンコ氏やその前任者等から、金銭を使ってのスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として、喫茶店等のマッチの受渡しによる方法が用いられたり、「フラッシュ・コンタクト」(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった。
 しかし、「レフチェンコ証言」については、同証言に述べられた政治工作活動の内容と、警察の裏付け調査の結果及び警察が過去に把握してきた各KGB機関員の政治工作活動の実態とが多くの点で一致するところから、その信憑性は全体として高いものと認められた。
  1. 2007/07/13(金) 08:49:19|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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