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ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

KGBの対日工作④

侵食された外務省

 レフチェンコ氏は後に、複数のKGBアクティブ・メジャーズのエージェントを名指しした。うち最も重要なのは、サンケイ新聞の編集局次長だった山根卓二氏(コードネームはKANT)だった。彼は、A部門の偽造に基づき、偽の周恩来遺書をスクープし、日中関係に打撃を与えようとした。KGB本部は、保守系紙で発表されたほうが効果が高いだろうと計算したのである。
(※同記事はサンケイ新聞の昭和51年1月23日朝刊に掲載された)
 この偽遺書については、北京ですら騙され、死にもの狂いで出所を発見しようとした。だが、やがて日本の情報機関関係者が偽造と特定した。
 79年秋時点で、KGB東京支部のPR系統は合計31人のエージェントおよび24人の秘密の接触者を持っていた。
 もっとも、その頃のKGB東京支部は、積極工作よりも諜報に大きな成功を収めていた。とくに、KGB東京支部が最も成功した標的はおそらく外務省だった。
 少なくとも60年代後半からレフチェンコ亡命のあった79年まで(おそらくその後も)、2人の日本外交官(「RENGO」と「EMMA」というコードネーム)は、東京と彼らの外国の勤務先で大量の機密扱いの資料を提供した。KGBの彼らのファイルには、両者とも『貴重なエージェント』と書かれている。
 EMMAには、彼女がエージェントになったまもなく、運営者によってハンドバッグが与えられた。そのバッグには、外交文書の写真を複写するためのミノックスカメラが仕込まれていた。
 RENGOはまた、自ら新たなエージェントのスカウトとしても働いた。
「OVOD」というコードネームの日本の外交官は、合計6年間のモスクワ勤務の間に2回、ハニートラップに引っかかり、それをネタにエージェントに仕立て上げられた。
 彼へのハニートラップのうち2回目のほうは、MARIANAというコードネームのKGBエージェントによって実行された。彼女は、OVODのロシア語教師として雇用されたが、まもなく男女関係となり、その性交渉時の写真が撮影された。OVODはいやいやながらも、KGBに協力することを承認した。
 KGBが最も成功した日本外交官へのハニートラップは、70年代前半にモスクワに駐在していた電信官「MISHA」を、LANDYSHというコードネームのKGB工作員が誘惑したケースだった。
 MISHAはおそらく、70年代後期に「NAZAR」というコードネームでKGBに運営されていた東京の外務省本省に勤務する電信官と同一人物である。このNAZARの情報は、最初の運営者だったバレリ・イワノビッチ・ウマンスキーと後任のヴァレンチン・ニコライエビッチ・ベロフが、他のすべての任務から離れてNAZAR運営に専念することになったことからわかるように、KGB東京支部でも最重要であると考えられた。
 NAZARによって供給される外交公電(それは東京とその駐ワシントン日本大使館の間の交信を含む)は、しばしばKGB東京支部がKGB本部に報告する前にすべて翻訳することが難しかったほど膨大だった。
 ミトロヒン氏はその他に、70年代にKGBにリクルートされていた日本人外交官として「MARCEL」というコードネームのエージェントも確認している。MARCELの協力で、「KONUS」というコードネームの自衛隊の駐ソ連の防衛駐在官もリクルートされたとのことだ。

KGBの科学技術情報スパイ

 70年代のKGB東京支部のその他の最も明らかな成功例は、KGB本部の第1総局T局の指揮下にある「X系統」による科学技術情報の収集だった。
 たとえば、71年6月に、東京地域のハイテク会社の社長で、「TONDA」というコードネームの日本人エージェントは、米国の空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ・エレクトロニクスのコンピュータ・システムに関する重要な機密資料をKGB東京支部に提供した。
 進行中の情報を提供したエージェントで最も高く評価されるものの一人が、半導体製造会社オーナーの「TANI」で、彼は日米の半導体の機密情報やサンプルを提供した。
 TANIは、KGBの担当者に対し、自分はKGBのために働いているというより、単にビジネスとして産業スパイで稼いでいると語っていた。ほとんどとまではいかないが、いくつかのX系統のエージェントは、おそらく同じような冷めた見方をしていた。
 その他に、最新技術の半導体に関する機密情報を提供したエージェントに「LEDAL」がいた。彼は日本の大学の半導体研究の責任者だった。KGBファイルのミトロヒン氏のメモによると、70年代に日本のハイテク産業と研究所の幹部職にある日本人エージェントは合計16人だったという。
 X系統のその他のエージェントには、通信技術研究者の「ARAM」、通信技術者の「ARGUS」、東京大学の科学者である「BRAT」、宇宙研究者の「EYR」、微生物学者の「KANDI」、物理学者の「KARI」、宇宙学者の「KISI」、日立社員の「RIONI」、三菱社員の「SAK」、技術専門家の「SOT」、赤外線分光学者の「TAIR」、電子技術者の「TONI」、核科学者の「UTI」などである。
 警視庁の監視チームと彼らの本部の間で交わされる通信をモニターするためにKGB東京支部が使っていた器材さえ、日本から盗んだテクノロジーに基づいていた。
 日本はKGBが最新技術を盗む対象国としては5番手の国だった。たとえば80年時点でいえば、最新技術の61・6%はアメリカからのもので、次いで10・5%が西ドイツ、8%がフランスから、7・5%がイギリス、そして3%が日本からということだった。
 日本が比較的低かったのは、日本は第1総局T局が主標的とする大きな防衛産業を持っていなかったからである。もっとも、KGBによるハイテク情報入手のわずか3%とはいえ、それでソ連では80年代に100の研究開発プロジェクトに使用された。
 70年代後期、KGB東京支部長だったオレグ・アレクサドロビッチ・グリヤノフは、部下に対し、「これらのX系統の活動で得る資金だけで、KGB東京支部全体の活動経費より大きい」と語っている。
 実際、KGBの世界的なハイテク技術のスパイによって得る利益は、全世界でのKGB海外部門の活動経費をすべてカバーした。それをみたT局長のレオニード・セルゲイエビッチ・ザイツェフは、T局を第1総局から独立したセクションに格上げするように画策して失敗した。

レフチェンコ亡命のダメージ

 79年秋のレフチェンコKGB少佐の亡命は、KGB東京支部の活動、なかでもPR系統に大きなダメージを与えた。この事件で、KGB本部はすかさず損害制限措置に着手した。東京支部とエージェントとの一連の接触は中止された。
 なかでもPR系統のネットワークはすべて作り替えることになった。とくに、「DENIS」と「山本」との接触はすかさず凍結された。この2人はレフチェンコ氏が直接運営しっていたエージェントだったからだ。
 レフチェンコ亡命によって正体が露呈する恐れがあったエージェントのうち、最も重要なものはNAZARだった。彼とその他のエージェントについて、東京支部ではその後の数年、それが露呈するかどうか神経質に見守った。
 ところで、KGB本部では、80年代初期の頃にアメリカのレーガン政権が核の先制攻撃計画を作っているとの認識で、その情報を探ることを各支部に命じた。そのため、KGB東京支部の主な優先順位にも、西側諸国のKGB支部が「RYAN作戦」と題して行なっていたこの存在しない計画に関して情報を集めることが挙げられた。
 一方、70年代にはKGBによって日本での積極工作の対象とみられていた日本社会党も、その頃に極東でのソ連軍増強に驚くようになっていた。83年、日本社会党執行部は、ソ連がアジアに配備しているSS-20ミサイルが日本やアジア地域に脅威を与えているとして、公式にソ連共産党に申し入れた。
 KGB工作員の侵入のための「主な目標」のうちの1つとして、アメリカ、その他のNATO同盟国、中国に加えて、日本も加えられた。各支部は、アメリカ、西欧諸国、日本の間で亀裂が生じるように積極工作的に乗り出すように指示された。
 レフチェンコ亡命の結果としてPR系統が大打撃を受けたが、X系統はほとんど影響を受けず、87年春までその活動を拡大した。
 その年の5月に、潜水艦のスクリュー音軽減に役立つ東芝子会社の機密情報漏洩が発覚。ほとんど同時に、ソ連情報部のための日本のスパイ網が、ソ連情報部にAWACS技術に関する秘密文書を提供したことが露呈した。
 日本政府は、KGB要員を国外に追い出すことによって応えたが、それを受けてモスクワでも、海自防衛駐在官と三菱駐在員が国外追放された。
(以上、『ミトロヒン文書Ⅱ』日本の項の抄訳)
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  1. 2007/06/30(土) 09:43:59|
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北方領土問題についての私見

 当ブログでは今、昨年弊誌で掲載した「KGBの日本人エージェントは誰だったのか?」という記事を転載していますが、前回記事の冒頭で、こんな文章がありました。

「73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた」

 以上は、一昨年にイギリスで出版された『ミトロヒン文書Ⅱ』の日本の項の一部ですが、北方領土に対するロシア側の意識がよく表れているなと思います。
 日本では、ある日、突然にロシアが悔い改めて、「悪かった。北方領土が日本のものであるのは当然だから、返しましょう」などと言ってくるかのような幻想があるようですが、1956年の日ソ共同宣言のずっと後の73年の時点で、あちらはこんな意識だったということを、もう少しシビアに考えるべきではないかと思います。
 なにせ、「日米安保条約を破棄して在日米軍基地を閉鎖するなら、見返りに歯舞・色丹だけは返してやってもいいよ」なんですね。ものすごい「上から目線」なわけです。
 実効支配というのは、パワーポリティクスではそのくらいの価値があります。それなのに、そういう向こうの現状を〝見ない〟ようにして、希望的観測を振りまく言説がこの国ではやたら多いのではないかという気がします。
 私はこの問題をずっとフォローしているわけではないので、今どうなっているのかはわかりませんが、過去にこんな経験があります。
 91年春にゴルバチョフが来日し、さらにその年の夏にクーデター騒動があってエリツィンが実権を掌握し、ソ連解体へと繋がっていくわけですが、その間、モスクワに居住してその動きをずっと取材したことがあります。
 で、当時、日本のメディアに盛んに流れていたのが、「ついにソ連(ロシア)もまともな国になったし、ものすごくカネに困っているから、いよいよ北方領土返還交渉が進展する!」との観測でした。けれども、モスクワで取材すると(ゴルバチョフやエリィン本人には取材できませんでしたが、上のほうは最高会議議長とか下院議長とか日本担当外務次官とかソ連外務省の局長・課長とかエリツィンの側近とかも取材しました)、まあ皆さん決まって「まあ、そういうのはあんまりマジにとらないでよね。カネもらったからってロシアの領土を売るわけないじゃん。今はこっちもたいへんなんだから、日本どころじゃないのよ」というような反応でした。よくあることなのですが、向こうと日本側の意識がものすごく乖離していたわけです。
 では、どうしてこんなふうになったのか?というと、当時、日本のメディアに流れていた北方領土交渉楽観論の震源地は日本外務省だったのですね。
 つまり、日本外務省が接触していたソ連・ロシア側のカウンターパートというのは、それは対日交渉担当ですから、向こうも希望的観測でいろいろなことを言いますけれども、まあそれほど本気ではなかったのではないかと思うのです。だいたい、ソ連(ロシア)の外交戦略を動かしているのは、第一に対アメリカ担当の人たちで、次が対西欧担当、その次が対中国担当で、その次が対中東&南アジア担当、というような感じです。対日関係なんて優先度からいうとずっと下のほうです(たぶん)。あんまりそういう人たちの言うことを真に受けてもしかたがないのではないかと思うのです。
 領土問題で妥協は許されないとの主張に異論を挟む気はありませんが、北方領土が返還されるチャンスなどそうそうあるとも思えません。なにせ「米軍を追い出したら、ご褒美に小さい島のほうだけなら返してやってもいいよ」と考えていたような人たちですので。
 以上は15年前の取材経験だけを基にした私の単なる印象ですので、間違っているかもしれません。ですが、あの頃、そんなことがあったので、その後もたびたび浮上する「領土交渉進展か!」「2島先行返還か!」「領土問題の存在をロシアが再確認!」などのニュースを見るたびに、「また同じことやってるなあ」という気になっちゃうのです。
 外交は戦争みたいなものですし、正論を掲げることは戦略上も重要なことですが、それはそれとして、現実を把握することも重要ではないかと思うのです。
  1. 2007/06/29(金) 17:32:23|
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KGBの対日工作③

マスコミ記者のエージェントたち

 73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた。
 こうしたなか、石田博英氏は70年代を通じて日ソ友好議員連盟を足がかりに、「影響力のエージェント」として使われ続けた。
 77年には、KGBの要請に基づき、彼は個人的に福田赳夫首相に意見した。モスクワの日本大使夫妻がソ連反体制派と接触し、「歓迎されざる人物」になったから、日本に呼び戻すようにということだった。
 70年代の間に、少なくとも2人のエージェントが自民党内でリクルートされた。田中角栄の側近だった「FEN」と、KGB東京支部が積極的に篭絡した自民党議員の「KANI」である。
 ミトロヒン氏がみた74年と75年のKGBファイルによると、FENのリクルート工作は72年からスタートし、75年にかなり進展があり、ついには正式なエージェントとして取り込まれた。レフチェンコ氏の証言にある「フェン・フォーキング」とほぼ同一人物とみられる。
 KGBは、自民党の一部の派閥と日本社会に固有の腐敗につけこんだ。ただ、アメリカのロッキード社がばら撒いたような巨額の資金を持たないKGBは、ロッキード社のようには日本政財界の上層部に食い込むことはできなかった。
 メディア界のKGBエージェントの大多数はおそらく金銭目的だった。ミトロヒン氏が書き写したファイルには、日本社会党機関紙以外に少なくとも5人の一般マスコミの記者が特定されている。
 朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(またはKARLOV)、東京新聞の「FUDZIE」、そして、社名不明な主要新聞社の上級政治部記者の「ODEKI」である。
 さらに、ジャーナリストの「ROY」(ファイルによると、彼はKGBとの取引を単なるビジネスと考えていた)は、日本の防諜機関上級幹部の「KHUN」をリクルートするのに役立った。KHUNはとくに中国に関する機密情報を提供した。
 なお、後にレフチェンコ氏が明らかにしたところでは、ROYはレフチェンコ氏がエージェントとして使っていた「ARES」なるコードネームの人物と同一人物だろうということだ。彼は60年代半ばにリクルートされ、「KR系統」(防諜部門)に運営された。
 彼は日本の機密情報に近く、完全に金銭目的で情報を流していたが、70年代半ばに日本の防諜機関にマークされたために、その後はあまり活動しなくなった。ただ、レフチェンコ氏によれば、ARESは77年に再び活動的になったということだった。
 ミトロヒン氏はそれ以外にも「FET」(あるいは「FOT」)というジャーナリストの存在を書き留めているが、この人物については具体的な情報はない。
 ところで、日本のマスコミ人のすべてのエージェントが、自発的だったというわけではなかった。とくに読売新聞記者のSEMIYONのKGBファイルについてのミトロヒン氏のメモには、「彼が70年代初期のモスクワ訪問の間に、『名声を陥れるような資料が作られた』ことが記されていた。それは、闇市場での通貨両替の摘発事例(おそらく国内防諜を担当するSCD=第2総局によるオトリ工作)と、不道徳な振る舞い(まず間違いなく変形的なハニートラップ)だったという。
 ソ連のエージェントとしての彼の6年間の活動の間、SEMIYONはしばしば、彼を解放するようKGBを説得しようとした。そして、彼が偽情報を流すのが発覚した後、KGB本部は結局、彼との接触を切断した。
  1. 2007/06/28(木) 18:22:48|
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「不安定の弧」完全MAP

本日発売のSAPIO誌に「“不安定の弧”完全MAP」という記事を寄稿しました。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_magcode?sha=1&zname=2300&keitai=0
  1. 2007/06/27(水) 11:03:53|
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第7号のラインナップ

『ワールド・インテリジェンス』Vol.7「特集 ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史」が6月28日に発売になります。
雑誌コードの関係により、正式な商品名は『軍事研究2007年7月号別冊』になります。皆様よろしくお願いします。
 前にも書きましたが、セブンアンドワイでも扱ってもらえるようになりました。こちらを参照ください。
http://www.7andy.jp/magazine/detail?accd=T0154274

 さて、今号はなんと言っても、メディア初のインタビューがあります。陸上自衛隊に発足したばかりの中央情報隊の市川隊長のインタビューです。
 他にも、今回はかなりインタビュー記事が充実してます。私も知らない話がいろいろあって、今回の取材はなかなか面白かったですね。
 では、コンテンツを以下にアップします。

『ワールド・インテリジェンス』Vol.7「特集 ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史」

ついに誕生! 陸自初の総合的・本格的インテリジェンス部隊「中央情報隊」の任務と実像
 市川卓治(陸上自衛隊中央情報隊長)

そのインテリジェンス理論は現代「対テロ戦」にどう適用できるのか?
大河ドラマ『風林火山』で注目される「孫子の兵法」
 太田文雄(元防衛庁情報本部長/防衛大学校安全保障・危機管理教育センター長)

特集①ロシア・欧州の情報機関

KGB解体後もいまだ強大な組織・機能は健在!
現代ロシア「インテリジェンス機構」のしくみ
 橋本力(英ウェールズ大学大学院修士課程)

(コラム) FSBの権力が強化されている! 橋本力

世界に浸透する「寒い国から来たスパイ」
ロシア諜報機関「SVR」「GRU」の“長い手” 橋本力

(コラム)「政治」の中の諜報機関 ソ連からロシアになって何が変わったか 橋本力

EU加盟全27カ国の情報機関 完全ガイド
 ジェームス・シンプソン(安全保障問題研究家)

西欧主要4カ国「英仏独伊」インテリジェンス事件簿
 村上和巳(ジャーナリスト)

真の目的は「産業スパイ」!?
フランスの通信傍受計画「フレンシュロン」の実像
 橋本力

「合同状況センター」「EU衛星センター」「欧州軍参謀部情報班」 EUとしてのインテリジェンス
 ジェームス・シンプソン

「国際軍事スタッフ」と「テロ対策情報ユニット」で情報共有 9・11以降のNATOインテリジェンス
 ジェームス・シンプソン

対テロ戦で“再建”急ぐオランダ情報機関
 菅原出(安全保障アナリスト)

アメリカも頼った“イラク国内”の情報網
ポーランド×米国 諜報分野の意外な“蜜月”
 ジェームス・シンプソン

検証 アルカイダ「プラハ・コネクション」騒動
チェコ諜報機関と9・11
 ジェームス・シンプソン

特集②日本の戦後情報秘史

自衛隊退官後も東南アジアで情報活動!
伝説の「F機関」指揮官 藤原岩市の戦後
 冨澤暉(元陸幕長/藤原岩市氏女婿)

日米の深層で活躍した政界ブレーン
天川勇・元海軍大学校教授の「戦後秘史」
 天川由記子(帝京大学准教授)

大阪万博で始まった関西「対ロシア諜報戦」
昭和40年代 公安調査庁“ソ連班”の活動とは
 榊久雄(元近畿公安調査局調査官)

CIA機密解除文書でわかった戦後アメリカの対日工作(前編) 「有末機関」と「河辺機関」の真実

陸自「情報保全隊」の調査力はどれほどなのか
共産党に流出した内部資料を「採点」する
 村上和巳

《情報史研究》英国における中央情報機構設立の営み① アーサー・バルフォアの「CID」運営
 奥田泰広(京都大学大学院博士後期課程)

アジア太平洋「米空軍」インテリジェンスの全貌
 福好昌治(軍事ジャーナリスト)

地図から消された極秘の警察「電波傍受施設」
愛知県「守山無線通信所」探訪
 青木勝弘(ジャーナリスト)

中国TVドラマ『沙場点兵』にみる現代「人民解放軍」事情
 本田善彦(在台北ジャーナリスト)

テネット元CIA長官はなぜ回想録を出したのか
 落合浩太郎(東京工科大学准教授)

インテリジェンス機関「民主的統制」の研究
 川合秀幸(京都大学大学院博士前期課程)

フランス情報機関の歴史⑤
騒乱初期のベトナムで仏情報機関はどう動いたか
 柏原竜一(情報史研究家)

(コラム) 特殊部隊SAT隊員の殉職に思う
 麻生幾(作家)

巻頭グラビア
 北朝鮮VS警察極秘チーム「ヤマ」~電波をめぐる攻防(青木勝弘)/実戦の警察特殊部隊~「町田」「愛知」拳銃立てこもり事件(菊池雅之)/空撮!断崖の島「尖閣諸島」に肉薄する(西牟田靖)/黒覆面の陸自特殊作戦群(野口卓也)/本誌特派員・在タイ北朝鮮大使館を見に行く

インテリジェンスNEWS
 イギリスのアルカイダ系テロ未遂犯に長期刑判決/FBIのデータマイニング・プログラム/西アフリカにアルカイダ浸透か/イスラエルが偵察衛星打ち上げ/中米新興麻薬マフィア「マラ」急成長・ほか
  1. 2007/06/26(火) 20:38:16|
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KGBの対日工作②

社会党最高幹部と自民党大物議員

 この頃、すでにおそらく5人の有力な社会党員がKGBのエージェントとなっていた。
▽勝間田清一
 コードネームはGAVR。彼は66年の日本社会党書記長選挙の次点者で、74年にその党内地位を強化するために400万円をKGBから受け取っている。KGBでは社会党中道派のリーダーと評価されていた。
(※ミトロヒン文書に勝間田氏の名前はないが、後にレフチェンコ氏がGAVR=勝間田氏と断定した)
▽佐藤保
 コードネームはATOS。社会党左派(マルクス主義派)のリーダーで、4つの党刊行物の責任者だった。KGBファイルには、佐藤氏が日本社会党機関誌に記事を掲載するための資金として73年10月に40万円をKGBから渡した記録がある。
(※ミトロヒン文書に佐藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏がATOS=佐藤氏と断定)
▽ALFONS(実名不明)
 社会新報に記事を書いていた。72年に250万円受け取っている。KGBファイルには、社会新報に記事を書くために15万円が支払われた記録もある。
▽DUG(実名不明)
 日本社会党委員長に非常に近かった社会党員。選挙資金として72年に39万円を渡された。
▽DIK(実名不明)
 選挙ビラとポスター制作費として72年に20万円を支給された。
――それ以外にも、社会党でKGBエージェントとファイルされていたのは以下の通り。
▽JACK(キリル文字でDZHEK/実名不明)
 73年からエージェント。社会党議員。
▽伊藤茂
 コードネームはGRACE。社会党議員で党中央委員会のメンバー。おそらく75年よりエージェント。
(※ミトロヒン文書に伊藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が断定。レフチェンコ氏はその他に、ミトロヒン文書に出てこない2人の社会党員「RAMSES」と「TIBR」の存在も断定している)
▽DENIS(実名不明)
 江田三郎・社会党書記長の親しい側近。
▽KING(実名不明)
 後に日本社会党の幹部となった。
▽KERK(実名不明)
 勝間田派議員。KGB東京支部と日本社会党執行部のコネに重要な役割を果たした。
――この他にも、70年代には著名な労働組合活動家などがいた。
 ミトロヒン氏のメモによれば、DENISとGRACEのファイルには、彼らがエージェントになった動機は、イデオロギーと金銭獲得の両方だったと書かれていたという。他の社会党議員の場合もほぼ同様と思われる。
 また、KGBファイルによると、親ソ派の学者で「山本」という人物が、KGBの協力者として議会で影響力を行使したという。「山本」がリクルートされたのは77年。以後、彼はKGBの意に沿うような国会質問が出るように議員に働きかけた。
 社会党以外の協力者でもっとも重要だったのは、「HOOVER」というコードネームだった自民党幹部の石田博英・元労相である。石田氏は73年2月に「日ソ友好議員連盟」(コードネームはLOBBY)の代表になり、同年の8月~9月の訪ソ団の団長となった。この訪ソ団は17年ぶりの日本国首相の訪ソとなる田中角栄首相訪ソの直前に行なわれた。石田氏がソ連中央で重く扱われるようにKGBGが裏で支援した。
 主要な日本の新聞社(KGBが少なくとも1人の高い地位にあるエージェントを運営している)である朝日新聞は、73年夏のモスクワへの石田氏の訪問の後にこう書いた。
「ソビエト連邦は今日、ソビエト領海侵犯で拘留される全49人の日本人漁師をすぐに解放すると発表した。発表は、石田博英訪ソ団長とソビエト最高議会党任幹部会議長の会談時になされた」
 石田氏は74年にKGB東京支部のPR系統部長ウラジミル・プロ二コフによって正式に「影響力のエージェント」としてリクルートされた。この功績によってプロ二コフは叙勲されている。
 70年代前半期、日本でのKGBの活動は、非常に重視された。たとえば、73年の日本での活動資金は、KGB本部第1総局第7部が管轄する他の11のアジア諸国のどれと比べても3倍の規模であり、インドに対する工作資金とほぼ同額だった。
(※73年のKGB第1総局第7部の工作予算は、日本が20万3100ルーブル、インドが20万4600ルーブル、パキスタンが5万4800ルーブル、ラオスが1万9000ルーブル、タイが3万2500ルーブル、カンボジアが2万6700ルーブル、シンガポールが2万2600ルーブル、マレーシアが2万3600ルーブル、インドネシアが7万2800ルーブル、ビルマが3万5300ルーブル、ネパールが1万2200ルーブル、スリランカが3万0600ルーブル、バングラデシュが5万2900ルーブル。なお、後にインド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ、スリランカ、ネパールは新設の第17部に移管。ラオス、カンボジアは第6部に移管された)
(続く)
  1. 2007/06/26(火) 00:35:02|
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KGBの対日工作とフェン・フォーキング①

アクセス解析をみていたら、5月31日より「フェン・フォーキング」をキーワードに検索したヒットが極端に急増していた。どうやら、松岡大臣自殺→盟友・鈴木宗男→「宗男=フェン・フォーキング」説、という連想のようだ。
 フェン・フォーキングとは、かつてレフチェンコが暴露したという日本人エージェントのリストに載っていたコードネームで、「謎の自民党員」のことである。かねてより宗男=フェン・フォーキング説というのはマスコミ記者のあいだでは有名な話だったが、一昨年イギリスで公表された旧KGB文書の分析書『ミトロヒン文書Ⅱ』によって、「どうもガセらしい」ということになった。
 けれども、おそらく宗男=フェン・フォーキング説はなかなか面白い話なので、ネット世論を中心にどうやらかなり出回っているようだ。
 弊誌では、昨年12月発売の第4号でミトロヒン文書とレフチェンコ・メモ(弊誌では公安筋より現物入手)について長文の解説記事を掲載し、さらにその一部を当ブログで紹介したが、せっかく多くの人にアクセスしていただいているので、今回より数回に分けて、弊誌掲載の元原稿をそのままここでアップしてみたい。
 このくらい具体的な内容が弊誌では毎号読めますので(たぶん)、今後も御購入をお願いいたします!

KGBの対日工作とフェン・フォーキング①


「ミトロヒン文書」と「レフチェンコ・メモ」
KGBの日本人エージェントは誰だったのか?

KGBの元文書保管担当者がイギリスに持ち出した大量の資料――。かつてアメリカに亡命した元KGB東京支部工作員の証言――。この2つの情報源から、冷戦時代の対日工作が見えてくる。

持ち出された機密情報

 1992年4月、ワシリー・ミトロヒンという旧KGBの幹部が2000ページもの大量の機密文書の手書きの写しとともにイギリスに亡命した。ミトロヒン氏は22年生まれ。48~84年にKGB海外部門(第1総局)の将校として勤務していたが、なかでも72~84年には第1総局の書庫の機密文書を整理し、新書庫に移す作業を指導していた。その際に、多くの機密文書を書き写していたのである。
 この大量の資料は、イギリスのインテリジェンス学の権威であるクリストファー・アンドリュー・ケンブリッジ大学教授(現在はコーパス・クリスティ大学学長兼任)によって詳細に分析された。その後、99年にミトロヒン氏とアンドリュー教授の共著として『欧州と西側のKGB~ミトロヒン文書』が出版された。同書はミトロヒン文書のなかでも、対欧米工作がメインとなっていた。
 ミトロヒン氏自身は2004年に死去したが、その後、残りのアジア、中東、中南米、アフリカでのKGBの工作についてまとめた続編『ミトロキン文書Ⅱ』が2005年9月に出版された。
 ここではまず、同書内の「日本」の項を以下に抄訳する。

『ミトロヒン文書Ⅱ』第16項 JAPAN

 KGB東京支部は冷戦時代を通じ、日本の対ソ外交政策をソ連に有利なように仕向けるため、積極的なウラ誘導工作=アクティブ・メジャーズ(積極工作)に力を入れた。とくに、日本とアメリカの間にくさびを打ち込むことが優先された。
 なかでも、60年安保闘争の際にいくつかの工作が行なわれた。そのひとつは、予定されたアイゼンハワー米大統領の訪日時にいくつかの破壊活動が行なわれるかもしれないという不穏情報を流すことだった。
 また、KGB本部の対外部門である「第1総局」内の欺瞞情報・秘密工作セクションである「A部門」が偽の日米安保条約付属書作戦を企画し、KGB東京支部が実行した。これは、「日本国内の暴動を鎮圧するために米軍の出動を認めるなどの旧日米安保条約の協定が、極秘で継続されることを確認する秘密付属書がある」という偽情報を流すことだったが、これはいくらかは安保反対の学生運動を鼓舞することに成功した。
 KGB本部では、日本はNATO加盟国と同様の主要な工作対象国と認定した。60年代を通じて、KGB東京支部の「F系統」(特殊活動担当)が活発に活動した。
 F系統は、本部で非合法破壊活動を実行する「破壊活動情報グループ」(DRGs)に直結したセクションとして、日本国内での非合法破壊活動を担当した。毎年、4~6つ程度の対象に対する破壊工作の作戦が立てられたが、そこでは主に在日の米系施設が狙われた。たとえば、62年にF系統は、沖縄の米軍基地および全国4カ所の精油所に対する破壊工作を準備した。
 また、F系統は、DRGsのための日本国内の秘密拠点を作ることも指示された。70年には北海道の北西海岸に4カ所の秘密上陸地点を確保した。その上陸拠点は、KGBの資料では、正確な地図および詳細な地形説明とともにそれぞれコードネームを付けられてファイルされた。上陸拠点のことは「滑走路」(Dorozhka)、その他のDRGsの拠点は「蜂の巣」(Uley)と呼ばれた。
 KGB東京支部はまた、日米関係に打撃を与えることを目的とする平時の破壊工作に熱中した。さまざまな作戦が企画されたが、そのときに使われたF系統の隠語を例示すると、破壊活動を「ユリ」(Liliya)、爆薬装置を「花束」(Buket)、起爆装置を「小花」(Tsvetok)、爆発を「スプラッシュ(=跳ね散らす)」(Zaplyv)、破壊活動実行者を「庭師」(Sadovnik)と呼んだ。
 F系統が企画した破壊活動にひとつに、バルカン作戦がある。これは、65年10月のベトナム反戦デモと同時に東京のアメリカ文化センターの図書館を攻撃するという計画だった。ノモト(野本あるいは野元か)という工作員が閉館直前に図書館の本棚に、本型爆弾とタバコ箱内に隠した起爆装置を置く。タイマーは翌朝の早い時間にセットすることになっていた。KGBの犯行であることを隠すため、本部の「A部門」が、日本の極右グループにみせかけたビラを準備した。
 米国=日本関係で危機を引き起こすためにF系統によって考案された最も劇的な計画は、東京湾に放射性物質を撒き散らし、横須賀基地のアメリカ原子力潜水艦への非難を引き起こすという69年の計画だった。
KGB東京支部はその作戦を承認したが、ソ連製放射性物質を使った場合にそれが露呈する可能性があることと、かといってアメリカから適当な放射性物質を得ることが難しいということで、KGB本部で却下された。
 71年、F系統の将校オレグ・リャーリンがロンドンで亡命したため、KGBは非合法破壊活動全体を劇的に縮小させた。東京支部のF系統担当者たちも一斉に本国に召還された。ミトロヒン氏は、「KGB資料には70年までの日本での数々の非合法破壊活動計画がファイルされていたが、その後はまったくなかった」としている。

影響力のエージェント

 他方、アクティブ・メジャーズと政治・経済・軍事・戦略情報を担当する「PR系統」は、60年代前半に日本共産党の支持を失うという手痛い目にあった。中ソ関係が決裂した際に、日本共産党を中国にとられてしまったのである。日本共産党は、それまでのソ連KGBの「資産」からいっきに監視対象となった。
 KGBの日本での活動は、長年のKGBの協力者だった中国人の「ジミー」を63年に失ったことによって大きダメージを受けた。ジミーは中国情報機関の支援を得て、香港と東京に貿易会社を設置していて、KGBの非合法要員のために偽の香港の身分証を入手していたのである。ジミーの配下の非合法員だった中国系ソ連人「ワシリーエフ」は、東京で学生に扮していたが、日本人女性と結婚するためにソ連への帰国を拒んだ。
 こうして、中国との対立から日本共産党を失ったKGB東京支部にとって、62~67年にもっとも重要だったエージェントは「KOCHI」というコードネームの『東京新聞』の記者だった。この人物は、内閣と外務省から高い水準の内部情報を入手していた。KGBファイルによると、KOCHIがリクルートされたのは62年のこと。ただし、67年からその情報価値がKGB部内で否定されていて、74年に記者を辞めた1年後の75年にはエージェント登録を抹消されている。
 なお、日本共産党との関係が切れたKGB東京支部は、次に日本社会党左派にコネを構築し、「KOOPERATIVA」とコードネームを付けた。彼らは、いわゆる「影響力のエージェント」である。
(※編集部注/影響力のエージェントというのは、インテリジェンス専門用語で、要は「自分たちの都合がいいように相手国内で言動する影響力の強い人物」のこと。工作対象を出世させて影響力をつけさせるために資金援助するケースも多い)
 70年2月26日に、ソ連共産党政治局は、日本社会党とその機関紙に助成金を支給するために、合計10万ルーブル(当時、3571万円)の支出をKGBに承認した。類似した助成金は、毎年払われたようだ。
 たとえば、72年に支払われた10万ルーブルのうち、6万ルーブルは政治資金として各議員個人に渡された。1万ルーブルは日本社会党とソ連共産党の交流資金、2万ルーブルが日本とアメリカおよび中国との関係に打撃を与えるアクティブ・メジャーズ工作資金、1万ルーブルが日本社会党に公明党や民社党など他の野党と提携させないためのアクティブ・メジャーズ資金として使われた。
(以下、続く)
  1. 2007/06/25(月) 09:44:48|
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ネット販売はじめました

 弊誌がネットで買えるようになりました。大都市圏の大型書店以外にはなかなか配本できずにご迷惑をおかけしておりましたが、今後はぜひ、セブンアンドワイにてご注文をお願いいたします。(推薦コメントも是非是非!)

 http://www.7andy.jp/magazine/detail?accd=T0154274
『Vol.7 ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史』は、流通上の商品名は『軍事研究別冊2007年7月号』になります。

 また、前号『世界&日本の地下社会』を購入御希望の方も、以下で注文できます。
http://www.7andy.jp/magazine/detail?accd=T0013328
 こちらは『軍事研究別冊2007年5月号』となります。
  1. 2007/06/23(土) 22:58:31|
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ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史

 第7号校了しました。
 今回、当初は「ロシア・欧州の情報機関」という特集テーマで企画進行していましたが、昭和の情報史に関する秘話をいろいろ取材していくうちに、興味深い記事がいくつも集まりましたので、急遽、特集を「ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史」の2本立てに。ちょうど創刊1周年記念号でもありますし、なかなか豪華なラインアップになりました。
「ロシア・欧州の情報機関」のほうは、「ロシアのインテリジェンス機構」や「EU全27カ国の情報機関総覧」などに加え、私もほとんど知らなかった「NATO」や「EU」のインテリジェンスのしくみも解説しています。いずれもイギリス在住の日英大学院生の手によるものですが、詳細なところまで調べ上げていて、まず他紙誌では絶対にお目にかかれないハイレベルな内容になっています。乞うご期待です。
 他方、「日本の戦後情報秘史」のほうは、「CIA機密解除文書からわかる昭和裏面史」「“F機関”指揮官=藤原岩市の戦後」「日米を繋いだ政界ブレーン=天川勇・元海軍大学校教授」「元公安調査官が語る昭和“対ソ連”諜報戦の舞台裏」など。日本人が知らなかった昭和期のインテリジェンス世界について、いくつものエピソードを掘り下げます。  
  1. 2007/06/23(土) 09:04:11|
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フェン・フォーキングは誰?

 本日発売の『週刊エコノミスト』に「噂の検証~松岡利勝前農水相自殺でなぜか浮上 “宗男=KGBスパイ”説の怪」という記事を執筆しました。弊誌の読者にはすでにお馴染みの「レフチェンコ・メモ」+「ミトロヒン文書」のネタですが、興味のある方はぜひどうぞ。

 じつは当ブログにこの“宗男=KGBスパイ”説についてちょっと前に書いたのですが、その直後にエコノミスト誌に書くことになり、業界の仁義として削除していました。
 ですが、ネットの怖いところは、半日くらいで削除したはずなのに、もうデータが残され、複製が出回ってしまっていることですね。まあ、しかたないですが。
 それにしても、宗男説が消えたフェン・フォーキングは誰?
「角栄の側近」といえば、元共産党員のアノ人???じゃないですよねえ。話が面白すぎますし……。
  1. 2007/06/18(月) 18:31:36|
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御礼『迷宮入り』4刷

「スパイ&テロ」とはあまり関係がないのですが、私がかつてプロデュースした『迷宮入り』という本がめでたく4刷となりました。
 これは2000年末に出版した別冊宝島REAL『未解決事件の謎を追う』というムックを文庫化したもので、それから6年以上も経てなお読んでいただいていることには感謝感激です。
http://www.geocities.jp/wldintel/book/mikaiketu.html
ということは、まだまだ充分に面白い本だということですので(たぶん)、未読の方はぜひどうぞ。
http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%B7%E5%AE%AE%E5%85%A5%E3%82%8A-%E2%80%95%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%83%BB%E5%B9%B3%E6%88%90%E6%9C%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC-%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4796622381/ref=sr_1_3/503-9179472-0981545?ie=UTF8&s=books&qid=1181531937&sr=8-3
  1. 2007/06/11(月) 12:26:40|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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