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ワールド&インテリジェンス

ジャーナリスト・黒井文太郎のブログ/国際情勢、インテリジェンス関連、外交・安全保障、その他の雑感・・・(※諸般の事情により現在コメント表示は停止中です)

病院にて

「下流社会」とか「格差社会」とかイヤーな言葉が流行しましたが、今のハヤリは「ワーキング・プア」だそうです。
 で、ついにというか、来るべきものが来たというべきか、過労(隔月刊誌ですが執筆も兼ねているのでオッサンの身には結構シンドかったりします。誰か手伝ってくれる方いませんか?)でダウンし、しばし入院と相成りました。20代の頃に某熱帯性熱病で入院して以来の入院体験です。
 しかも、どうもあちこちガタが来ているというので、上から下から徹底的に調べたところ、さらに体内にとてつもなく巨大な「石」が発見され、切腹しました。
 ということで、弊誌次号では『軍事研究』本誌の先輩編集者諸氏にもいろいろ手伝っていただいています。(職場では私の先輩ですが、本誌には私とまったく同年齢の編集者が2人います。3人ともいいオッサンなのに童顔=若づくり=なので、私は勝手に「童顔トリオ」と名付けていますが、そういえばお2人もよくダウンしてます。この世代はもしかして病弱世代?)
 ということで、寄稿者引き続き大募集! 詳細は「ワールド・インテリジェンス」サイト(http://www.wldintel.com/)の「寄稿募集」欄にて。

 ところで、昨日、6カ国協議で北朝鮮代表が帰国しちゃいました。バンコ・デルタ・アジアの凍結資金を実際に返してもらわんうちは話し合いできんとのこと。まあ、駆け引きなんでしょうが、たしかに北朝鮮側からすれば、かつての枠組み合意でエネルギー支援や軽水炉建設をのらりくらりと引き伸ばされたり、拉致被害者一時帰国の約束を反故にされたりということがあったので「口約束など信用できん!」ということなのでしょう(もちろん悪いのは北朝鮮ですが)。
 また、北朝鮮自身が「口約束なんか守らんでいい」と考えているので、「他の国も同じように考えているに違いない」というミラー・イメージングで考えているということもあるのでしょう。いずれにせよ、あの6カ国協議には「実」のヒトカケラも見えないように思うのですが、まだ続けるのでしょうか。
 ところで、都知事選に登場したドクター中松が、記者会見で「北朝鮮のミサイルを途中でUターンさせ、北朝鮮自身に向かわせるという発明をする!」と公約していました。私は迂闊なことに拙著『北朝鮮に備える軍事学』でそのようなスゴい発明のことを書き漏らしていました。さすがドクター中松、すごすぎます。
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  1. 2007/03/23(金) 09:00:40|
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戦場NAVI・ボスニア編②

 一昨日だったか、テレビで『エネミーライン』というCGバリバリの戦争アクション映画をやっていました。米軍の偵察機がボスニアで撃墜され、脱出した米兵がセルビア人勢力の追っ手から逃げ回るというストーリーです。
 映画では米空母のホンモノが撮影に協力しているのですが、私はそれだけでも「おおおおっ!」という感じでした。戦争の現場をいくつも取材し、戦争を見て喜んでいてはいけないとは思うのですが、ハードウエアを目にするとつい興奮してしまいます。
 白状しますが、ニカラグアの密林をコントラのヘリで移動したときには、私の頭の中ではワーグナーの『ワルキューレの騎行』が鳴り響いていましたし、フランス軍輸送機のコックピットに陣取って砲撃下のサラエボを脱出したときにはストーンズの『サティスファクション』が鳴っていました。南オセチアでソ連軍の装輪装甲車に同乗して疾走しているときや、レバノン南部でイスラエル空軍のF-16が急接近して「ソニック・ブーム」をかましてきたときも、恐怖感よりむしろ「スゲエなあ」なんて興奮してました。
 我ながら馬鹿だなあとは思いますが、自分のことを棚に上げて言えば、戦争の悲惨さを訴える人道派のジャーナリストの方々でも、戦場で戦車や戦闘機を間近にして妙にハイになっている人はたくさんいます。
(もっとも、現地に生きる人々はまず第一に恐怖感を抱くようで、そのあたりの感覚の断絶が、しょせん野次馬である取材者との違いということなのだとは思いますが…)
 と、いきなり話が脱線しましたが、今回は、だいぶ前に当ブログでボスニア取材体験記を書きはじめていたことを、映画を観ていて思い出しましたので、その第2弾を書きます(もろもろの仕事に追われてすっかり忘れていました)。弊誌読者の皆様はあまり関心ないかもしれませんが、映画で興奮した余勢を駆ってやってみます。

 さて、前回は、ユーゴスラビアの首都ベオグラードからボスニア行きの乗合バスに乗ったところまでだったかと思います。
 ボスニアというところは、丘陵もしくは山岳が多い土地です。『エネミーライン』では雪景色でいかにも寒そうでしたが、私が取材したのは6月の初夏の季節であり、たいそう美しい高原の風景でした。山間に村々が点在しているのですが、報道の印象と違って、なんというか「経済的に豊かな人たちだなあ」というイメージです。戦争で破壊された家を除けば、住環境は日本人の数倍恵まれています。もっとも、戦場になった町はメチャクチャで、『エネミーライン』でもボスニア南部の町中での戦闘シーンがありますが、廃墟ぶりはまさに映画の通りでした。
 ところで、以前にも書いたと思いますが、当ブログでは戦場ルポそのものというより、戦場取材における情報収集の実例を書いていこうと思います。
 乗合バスの終点は、パレという町でした。ここはサラエボからは山ひとつを隔てた隣町で、完全に観光地(軽井沢のような避暑地)です。当時の状況は、サラエボ中心部にはイスラム教徒軍が篭城し、周囲をセルビア人勢力が包囲して猛烈な無差別砲撃を連日、市内に加えているという状況でした。パレは、サラエボ中心部から脱出したセルビア人たちが集まり、セルビア人側の暫定的な首都のようなポジションになっていました。
 当日はもう夕刻になっていたので、パレで唯一営業しているというホテルに投宿しました。その日は私の他に10人の欧米人記者が宿泊していて、いろいろ話を聞きました。全員が翌日、サラエボ市内に入る予定とのこと。サラエボ取材が初めての人もいれば、ベオグラードとの間を行ったり来たりしているベテランもいました。
 私は同地の取材に必要な情報を何も持っていなかったので、彼らの話はたいへん参考になりました。なかでも重要だった情報は2点。「サラエボは市外と市内が敵対する陣営に完全に断絶しているので、交通の便がない。したがって、市内に入るには自前の車両が必要」ということと、「サラエボ市内ではガソリンが枯渇しているので、ガソリンをたっぷり積んだ自前の車両がなければまったく動けない」ということでした。サラエボ経験者からは、サラエボ市内取材のコツなどもいくつか聞きましたが、ちょっと気になったのは、そこにいた誰もが、せっかくパレにいるのに、セルビア人勢力側の取材を考えていないことでした。
 このときサラエボ入りの同乗を誘ってくれた人もいたのですが、私はサラエボ潜入の前に、とりあえずセルビア人勢力の取材をしたかったので、断わりました。このホテルで網を張っていれば、サラエボ入りでヒッチハイクをする相手が後でもどうせすぐ見つかるだろうと思ったからです。他人まかせでなんだかなあという気もしますが、他にいい方法がないのでしかたがありません。
 翌朝、セルビア人側の取材をスタートしました。こういう場合、定石としては、いきなり部隊を訪ねるのではなく、まずはパレのセルビア人側代表事務所に顔を出すところから始めます。また、現地プレスの支局を訪ねるということも有効です。こういったところからいろいろコネを増やすとともに、現地の政治状況を徐々に理解していくわけです。
 ところが、このときはそういった手順を踏む前に、取材ルートが出来てしまいました。その日の朝、最初に訪問した事務所で、外国人記者狙いのガイド(要するに運転手。英語はあまり上手くなかったので、カタコトのやりとり)が売り込んできたのです。聞くとそんなに高いギャラでもなかったので、多少ディスカウント交渉した後、雇うことにしました。
 まあ、こういう場合、本当に使えるガイドかどうかは試しに使ってみないとわからないのですが、そのときのガイドは本当にセルビア人武装勢力の仲間で、検問を顔パスで通過し、セルビア人勢力の最前線にあっと言う間にたどり着くことができました。
 取材効率としては申し分ないのですが、問題は、あまりに展開が速すぎて、私は状況をまったく理解しないうちに前線取材に臨むことになってしまったということです。
 だいいち、その最前線はサラエボ市南部のグロバビツァ地区というところで、市街地で唯一セルビア人側が押さえている場所だったのですが、そんな場所があることすら私はそのとき初めて知りました。それまで、市街地はイスラム教徒が押さえ、周囲の山をセルビア人側が押さえるという構図しか知らなかったのです。ですから、サラエボという町の地理的情報も含め、私は最前線に身を置きながら、自分がどういう状況で取材しているのかよくわかっていないというマヌケな状況になっていました。
 これは取材者としてはまるでダメです。なぜなら、おそらくこのときの取材で、見落としたことがたくさんあるはずだからです。
 もっとも、戦闘の従軍取材ということに限れば、この日は大当たりでした。運転手は慣れた様子で同地区の部隊司令部に直行しましたが(もっとも、狙撃ゾーンを走るので、ほとんど無人の市街地をモナコGPみたいに疾走するわけです)、司令官は取材者の私を快く迎えてくれました。この部隊はサラエボ中心部を追い出されたセルビア人住民(非軍人)が結成した住民部隊で、ユーゴ連邦軍側から武器を支給されていました。司令官自身も高校の教師だったということで、いわば被害者の有志部隊でもあるので、外国人記者の取材もウエルカムだったわけです。
(その点、周囲の山腹に陣取って榴弾砲を市内にドカドカ撃ち込んでいるユーゴ連邦軍系セルビア人部隊は一切取材拒否です)
 しかも、私が到着して1時間もしないうちに戦闘が始まり、市内を二分する川を挟んで双方の撃ち合いが始まりました。私は司令官にくっついて前線を駆け回り、その様子を撮影しました。司令官の話だと、戦闘はそういつもあるわけではないとのことなので、不謹慎な言い方ですが、戦闘場面の写真を狙う取材者としては幸運でした(こうした態度を不快に思う方も多いと思います。その感覚のほうが正しいことは私もアタマでは承知しています)。
 戦争取材を重ねてわかってきたことは、実際に戦闘場面を撮影するということはかなり難しいことです。当時の私はすでに4年以上も紛争地取材をほとんど専門に続けていたのですが、こうした市街戦の瞬間を体験するの初めてのことでした。これは私にとっても人生上の大きな体験でした。なにせ目の前をホンモノの銃弾が飛び交っていて、周辺の道路だとか壁だとかでバシバシ弾けるわけです。映画などとまるで違うのは、「音」と「臭い」でしょう。
 さて、そんなことで図らずもいきなり戦闘の取材ということができたわけですが、それでも戦闘が1日中続くということはありません。興奮していたので正確なところは確認していませんが、おそらくその日の戦闘も1時間くらいだったのではないかと思います。此方側の人的被害はゼロ。かつてガソリンスタンドだったところが迫撃砲かロケット弾で大炎上したのが唯一の大きな被害でした。装備に勝る此方側からは携帯ロケット砲や装軌車の主砲をバカスカ発射していましたが、彼方側の被害はまったくわかりませんでした。
 その後、いちおうグロバビツァ地区を取材してその日は昼頃にパレのホテルに戻りました。ところが、興奮をビールで鎮めていたところに、BBCの若い記者がやって来ました。サラエボ常駐の記者でしたが、ベオグラードに買い出しに入った帰りというので、頼んで同乗させてもらうことにしました。結局、セルビア人側の取材はグロバビツァの市民兵士部隊しかしていなかったので、戦争取材としては明らかに取材不足でしたが、私は興奮状態にあったためか、そこまで考えが回らなかったように思います。
 パレからサラエボ市内へのアクセス・ルートは、そのBBC記者が熟知しているので、もう「お任せ」となります。ただ、欧米プレスはセルビア人側に評判が悪いので、途中、セルビア人部隊の検問でかなり時間をロスしました。
 BBC記者はさすがに世界のBBCだけあって、現地の国連軍司令部に話をつけ、最後の軍事境界線を突破する際、国連部隊装甲車にエスコートしてもらう手はずを整えていました。
 けれども、約束の時間に約束の場所に行っても、国連の装甲車が来ていません。日本以外の場所では、約束事など結構いい加減なものです。
 で、見晴らしのいい被弾ゾーンを2キロくらい突っ切らなければならないのですが、BBC記者はもう夕刻だったこともあり、そのまま突っ切る選択をしました。こちらはヒッチハイクの身なので、決定権はありません。側面からの狙撃に備え、窓は全開にし、予備の防弾ベストを左右のドアに立てかけたうえ、突入しました。遠くで銃声も聞こえましたが、なんとか危険ゾーンを突っ切ることができました。
 後から考えると、このときの私の選択は完全に間違いで、不要な危険を冒したことになります。
 まず、当時の私はまだボスニア(パレ)に到着して約24時間しか経っておらず、危険情報をまったく把握していませんでした。われわれが通ったルートは、パレからサラエボ南西部に回り、そこから国連軍が守るサラエボ空港に至る道でしたが、最後の空港手前の道が、狙撃頻発ゾーンでした。そこに無防備に突入すれば、問答無用で狙撃される危険性が多分にありました。
 紛争地帯で動く場合、そこを生き抜いてきた地元住民や先輩記者に覚悟を決めてお任せしてしまうという選択肢もあります。けれども、当時はボスニア紛争勃発3ヵ月で、すでに30人以上の外国人記者が〝戦死〟していました。いくらBBCの記者だからといって、その判断が絶対だとは言えないことは数字が示しています。しかもその記者は、すでにユーゴ取材歴が長いとはいえ、先輩に買い出しに行かされるような、まだ20代の若者でした。日を改めればまだ方法があるところを、一か八かで突入するのは、蛮勇というものです。
 でも、なんとかサラエボ空港に到着。外国人記者などめったに来ないセルビア人側のグロバビツァ地区と違い、空港には各国のプレスがたくさん集結していました。こういうとき、いちばんの情報源はまず同業者となります。国連軍の指揮官にも接触しましたが、「報道部へ行け」と一蹴されました。被弾ゾーンを突っ切ってきたところを目撃されていたので、「お前等、死ぬ気か? 馬鹿者め!」と怒られてしまいました。
 問題は、空港から市内にどう行くかですが(当時、もっとも危険な被弾ゾーンだったのが空港から市内に向かう一本道だった)、別のBBCの記者がちょうど市内に戻るところだったので、頼み込んでヒッチハイクしました。猛爆撃で瓦礫の廃墟となったサラエボ市内を例によって猛スピードで疾走。市内で唯一、外国プレスが宿泊してるホリデイ・インに送ってくれました。
「車は一瞬しか停めないから、いっきにホテル内に走りこめ! ホテルの出入口は常に狙われているからな」と言われ、その指示に従いました。
 ホテルは南側が砲撃でかなり破壊されていましたが、内部は小奇麗な感じで、ビシッとしたホテルマンたちによって普通に営業されていました。1Fホールにはバーもあって、各種洋酒が揃っていました。まさに『アンダー・ファイアー』や『サルバドル』に出てきそうな雰囲気の場所でした。
 うろ覚えですが、1泊70~80ドルくらいで、当時の私にしては贅沢ですが、他に行くところはありません。ベオグラードからの長距離バスでパレに降り立ってから丸1日。なんだか目まぐるしい1日でした。
 疲れていたので、「ま、明日考えよう」と、夕食もとらずにそのままベッドに倒れこみました。何があっても自力での脱出は不可能という完全に包囲された街に自分の身を置いたわけですが、この時点で、なんと私は自分が街のどのあたりにいるのか、政治状況や軍事状況はどうなっているのか、そうした「情報」を一切を知らないという恐ろしい状況にありました。(続く)
  1. 2007/03/13(火) 17:04:30|
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現地情報活動私案

 拙著『北朝鮮に備える軍事学』の「あとがき」に書きましたが、軍事でも兵器とか戦術というものと違い、軍事戦略に関しては無数の考え方があって当然です。専門家の数だけアイデアがあり、これが「正解」というものはありません。軍事評論家の方々はもちろんそれぞれが持論というものを持っているのですが、みな基本的には「自分がいちばん正しい」と自負しているようです。それは当然といえば当然であり、さまざまな方が持論を展開し、論戦していくことが日本の軍事評論業界のレベルアップにも繋がることになるのでしょう。
 でも、ホンネをいえば、あんまり「オレ様」ばかりでもなあ、というところはあります。あまりのオレ様ゆえに「××元帥」などと揶揄されている人も業界には実在します(でも、たしかに軍事評論家の先生方には読者を見下したような書き方をする人が多いですよね)。
 だから、こういうことを書くのはどうかなあとちょっと思ったりもしたのですが、まあたまにはいいかなということで書いてみます。自衛隊の現地情報収集活動の私案です。
 というのも、弊誌今月号で、イラク派遣先遣隊長だった佐藤正久さんにインタビューする機会がありました。ご苦労の数々をお聞きしてそれを批判する立場にありませんが、アラブ経験は私にもそれなりにあるので、お話を聞くうちに「自分だったらどうするかな」ということを自然に考えました。記事ではあくまで自分はインタビュアーなので、自分の意見というものを書きませんでしたが、ここに書き留めてみます。

 さて、私がもしもイラク派遣部隊の指揮官だったなら、以下のような情報収集チームを編成します。
 まず、2人1組の情報収集班を4~5個程度作ります。隊員にアラビア語能力は不要ですが、英語は堪能な人材を選抜します。そして、この情報収集班は各自別個に情報収集活動をさせます。現地でさまざまな人脈を築き、ムクタダ派や部族の情報などを集めるわけです。
 この際のポイントは、各班が自衛隊内部でライバル関係にあることを装うということです。各班はそれぞれ他の自衛隊員の悪口を吹聴しまくり、自分たちが接触した相手と「他のヤツらを出し抜いて、俺たちだけでいい目をみようぜ」という共犯関係を作るのです。
 自衛隊のイラク派遣部隊は敵を作らないために平等に接するということを基本的スタンスとしたようですが、それが通用したのはおそらくサマワがまだ比較的平和だったからだと私は思います。これが本当の戦場であれば、たぶんそうしたやり方では限界があると考えます。
 私なら、互いにライバル関係にある地元勢力のそれぞれに、ライバル関係を装った自衛隊情報班をバラバラに接触させ、それぞれが小銭をバラ撒いて情報ルートを作ります。いいネタにはより高い金額が払われるようにするわけですが、資金の出所は自衛隊本部ということにします。それで、金額面での不満は情報班とネタ元たちで共有できます。
 こうした場所での情報収集では、どうしても小銭目当てのガセネタが大量に持ち込まれますが、互いにライバル関係にあるネタ元を多数抱えていれば、「そのネタはガセだ!」と裏付ける情報も別ルートから入ってくるので、情報分析に役立つはずです。
 また、イラク派遣部隊では通訳の選定に気を遣ったようですが、私の情報収集班は基本的に固定の通訳は使ってはいけません。イラクなら英語で充分にやり取りができます。情報をカネで集めている下っ端自衛官がいるという噂を聞きつければ、相手のほうがそこそこ英語のできる仲間を連れて接触してくるはずです。仲間でないイラク人がいる場では、誰も極秘情報は話してくれません。イラク人が警戒するのは自衛隊でもアメリカ軍でもなく、「他のイラク人」です。
 このプランの最大のメリットは、資金の有効活用です。日本政府の莫大な資金を正攻法でばら撒くより、ちょっとした小銭をこうしたやり方で使ったほうが、こと情報収集だけに限ればですが、2ケタくらい小額で、より高い効果があると断言できます。
 インテリジェンスのセオリーの基本に、心理学のミラー・イメージングの問題があります。相手も自分と同様の考え方をするということを無意識のうちに前提として考えてしまうことですが、自衛隊のイラク派遣部隊の性善説的なアプローチは、どうもこのミラー・イメージングの気配があるように思います。
 私のアイデアはむしろ、イラク人のミラー・イメージングを利用しようということです。自分たちも仲間内で足の引っ張り合いをしているので、自衛隊の中も同じだろうと思わせるやり方です。そういうことをすると尊敬を得られないと考える人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。より「抜け目のない人間」が、どんな国でも一目置かれます。
 ただ、以上のような作戦は、現場で濃密な人間関係を形成する方法なので、現場で感情的な行き違いあるいは金銭的動機に基づく犯罪行為により、末端レベルでのトラブルを発生させる危険性があります。大きな危険を避けるために、小さな危険を冒すわけですが、したがってサマワ程度の危険度なら、自衛隊の方式のほうが無難だということは言えるかもしれません。私のプランは、もっと危険なホンモノの戦場に派遣される場合を想定しての話になります。

 ところで、佐藤さんは海外での活動に対応できる自衛隊員の養成のため、「大使館よりも商社に出向させるのがいいのではないか」との意見をおっしゃっておりました。まったく同感です。
 ただ、付け加えるなら、大手商社に出向するより、現地法人の小規模な商社に出向するか、あるいはむしろ自前で商売をやってみるのがいいのではないかと思います。
 私は80年代前半より海外をブラブラするようになって、商社系の人たちもたくさん見てきましたが、大手商社の人は最近はもうあまり自分たちでは非合法スレスレの泥臭い動きはしなくなってきています。そういうことを代行するコンサルタントが現地人にいるので、そういう人をパートナーとして契約するわけですね。
 ふた昔前くらいは、中南米とか東南アジアには得体の知れない日本人がたくさんいて、たとえば大手商社の名刺を持った現地契約の日本人で、正規のライセンスを持ってピストルを腰に差しているような人が何人もいましたが、そういう人はどんどん少なくなってきています。
 日本では、海外情報に関していまだに商社幻想がありますが、現在の日本の総合商社は、テロリストだとか犯罪組織だとか、あるいは現地の軍や警察の闇商売だとかいった、裏の世界の情報ネットワークからはかなり距離のある存在になっているように見えます。
 私が実情をそれなりに知っているマスコミの特派員の世界もそうで、大手マスコミの特派員は、あまり裏社会のことを知りません。問題行動を起こしてトラブルになってはいけないので当たり前ですが、何をやって食べているのかよくわからないような現地在住のフリーランスの人のほうが圧倒的に詳しかったりします。
 現地情報隊の隊員から若手を5人くらい選抜し、150万円くらいの資本金を与えてベイルート、イスタンブール、カラチ、カブール、ナイロビ、プノンペンあたりで商売をやらせてみてはどうでしょうか。その間、給料の支出を停止しちゃえば、より本気になって取り組むと思うのですが、もちろんそんなことは無理なんでしょう。
 でも、以上は決して冗談ではなく、私が経験則から考えたマジなアイデアです。もしも防衛省の方で、何かの間違いで当ブログにたどり着いてしまった方がいらっしゃったら、ぜひ「オレ様」の意見を参考にしていただければと思います。
(こういうことを書くと、気をつけたつもりでもやっぱりオレ様な文章になってしまいますね。どうもすみません)
  1. 2007/03/10(土) 18:52:41|
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北朝鮮ウラン濃縮はガセなのか?

 ここ数日のメディア報道に、北朝鮮ウラン濃縮情報=ガセネタ説が急浮上してきている。米当局者がここに来て、北朝鮮のウラン濃縮計画に関するインテリジェンスに対して、かなり自信なさげなコメントを繰り返しているからだ。
 遠心分離器・特製アルミ管をいくつか調達したとか、パキスタンからウラン濃縮技術を導入したとかいうことが確認されていて、そのことから北朝鮮がウラン濃縮型核爆弾の開発に関心がある可能性はほぼ確実と推定されているものの、実際に北朝鮮がどこまで本気でウラン濃縮型核爆弾開発に乗り出しているのかはどうも確たる証拠はないらしい。

 昨年末、拙著『北朝鮮に備える軍事学』執筆時に主な報道をざっと総ざらいしてみたのだが、たしかに米インテリジェンス筋から北朝鮮がウラン濃縮を進めていることを断定する情報は出ていない。
 同書からその部分を引用すると、以下の通り。
ーーーーーーーーーーーーーーー
 パキスタンから濃縮ウラン型原爆製造の技術・資材が北朝鮮に流れていた疑惑はかねてからあったが(99年11月の米下院諮問グループ報告など)、アメリカが確度のきわめて高い情報を掴んだのは2002年夏のことである。小泉訪朝直後の同年10月にケリー米国務次官補が大統領特使として平壌を訪問し、その疑惑を北朝鮮に糺したところ、非公式にウラン型原爆の開発を認めたうえ、プルトニウム型原爆をすでに保有していることも仄めかしたようだ(米主要メディア各社の報道による)。
《※ちなみに、パキスタンの核開発の中心人物であるアブドル・カディル・カーン博士は2004年2月になって、パキスタン当局に対して、北朝鮮への技術供与を正式に認めている。それによると、パキスタンから北朝鮮への核技術の供与は91年から97年まで。ただし、ウラン濃縮に使う遠心分離器の供与は2000年まで継続していたという。
 その後、北朝鮮のウラン型原爆製造秘密計画については、米情報当局のリークに基づく情報がいくつも報道されている。主なところを列記しよう。
▽CIAは、2004年中にウラン型原爆を作る見通しとの分析をまとめた(『USニューズ&ワールド・レポート』2003年9月1日号)
▽CIAが「パキスタンはウラン型原爆の製造に必要な設備と核弾頭設計図を含む技術の一式をすべて北朝鮮に渡していた」との報告書を作成していた(『ニューヨーク・タイムズ』2004年3月14日付)
▽米情報当局者によると、北朝鮮は2007年までに6個のウラン型原爆を製造する見通しである(『ワシントン・ポスト』2004年4月28日付)
――ただし、いずれの報道もその真偽は不明である》
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 6カ国協議での玉虫色の米朝合意を受けて、一時、「ウラン濃縮がまんま抜けているじゃないか!」との批判が頻出した。そこで盛んに言われたのが、「そんな交渉をやっているあいだに、今も北朝鮮は秘密の研究施設でウラン濃縮を進めていて、すぐにも北朝鮮はウラン型核爆弾を完成させるだろう!」ということだった。
 これはたしかに「疑惑」として残っており、今後とも警戒を怠るべきではないが、現時点のインテリジェンスとしては、そう言い切るだけの材料もないということらしい。
 イランの核開発に関しても「誇張情報説」「イラン側のブラフ説」があるが、イラク大量破壊兵器問題でミソを付けたことから、いまや米インテリジェンスの信用度もいまひとつとみられている。
 そこそこ情報ルートが残されていたイラクに関してさえ情報をとれなかったわけだから、イラクの1万倍も閉鎖的な北朝鮮の情報をつかむことは、それこそ一筋縄ではいくまい。
 実際のところ、北朝鮮のウラン濃縮情報がガセネタの可能性は決して低くない。
  1. 2007/03/06(火) 20:03:19|
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米軍VSクドス部隊

 本日発売の『週刊現代』に、「イラクで勃発!米軍vsクドス部隊の死闘」という記事を寄稿しました。編集部より「米軍がイラン空爆計画!」とのBBCの報道を受けて、関連の解説をとの話があり、それならばということで書きました。
 将来のことはわかりませんが、米軍はたぶんイランを空爆する気は現時点ではないと思います。軍というものは、常に実戦を想定した作戦計画を考えていますが、それは通常業務のようなものに過ぎません。イラン空爆説がしょっちゅうリークされるのは、一種の心理戦です。
 ただし、この心理戦はなかなか本格的なもので、周辺海域にはすでに米海軍は空母打撃群3個を投入しています。これはイランからするとかなり圧迫感があります。
 アメリカがこんなふうにイランを恫喝する理由は2点。ひとつは核開発ですが、これはどうなるか現時点での情報からはよくわからないところがあります。イランの核武装はアメリカもイスラエルも許さないとは思いますが、イランのウラン濃縮施設はイラン自身が公表しているほど進んでいないとするインテリジェンスがこのところ盛んに米英の有力メディアにリークされています。それが事実なのか、あるいは心理戦なのかがよくわかりません。
 イラン側は5月にも18基のカスケード(遠心分離器が約3000個)を設置するとしていて、それがその後、実際に稼動に移されれば、もう文句なく核爆弾大量生産態勢に入ります。けれども、どうもそんな緊迫感がアメリカにもイランにもありません。こちらはもう少し時間的余裕がありそうな気配になっています。
 それよりも、アメリカが今、直面している最大問題はイラクでしょう。米兵の犠牲を減らすことがもう待ったなしになっています。ということで、米軍は今、イラクからイラン工作員を排除することにマジになってます。
 イラン側でいろいろ悪事を実行している特殊工作機関が「クドス部隊」というハメネイ直系の謀略機関(革命防衛隊の特殊部隊)です。アメリカの対イラン圧力は、とにかくこのクドスを押さえることを最優先課題として行なわれてます。クドスはイランの謀略工作機関としてとくに90年頃から専門筋に注目されてきた秘密部隊で、イラン国内の外国人テロリスト養成キャンプの運営、さらに数々の海外でのテロを実行してきた組織です。筆者は日本の筑波大助教授殺害事件の黒幕ではないかとも考えています。96年のサウジでの米軍兵舎爆破テロでは当時のクドス司令官だったアハマド・バヒディがアメリカ捜査当局の容疑者リストに加えられたこともあります。
 ともかく、クドス部隊はイランのなかでも政府中枢ですらアンタッチャブルな秘密のコワモテ組織として、大統領も手を出せない独自の動きをしています。この特殊機関はすでにイラク国内で、有力なシーア派民兵およびクルド民兵に深く浸透していますし、おそらくスンニ派民兵の一部にも影響力を持っています。クドスを排除することなくして、イラク駐留米軍の被害は抑えることはできないでしょう。

 いずれにせよ、ブッシュ政権の残り期間は、イラクの後始末に全力を尽くすということだと思います。アメリカからの報道を見るかぎり、北朝鮮のことなど、ワシントンではあまり関心がもたれてないように見えます。日本の報道では、米朝協議で雪解けムードになってるように感じられますが、要はアメリカが北朝鮮なんて後回しでいいと考えているということではないでしょうか。
  1. 2007/03/05(月) 15:25:03|
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ワールド・インテリジェンス5号・目次アップ

 ちょっと遅くなりましたが、2月26日に発売となっていた『ワールド・インテリジェンス』第5号(特集・イギリス情報機関)のコンテンツをアップしました→http://www.wldintel.com/
 どうぞよろしくお願いします。
 注文の際は、『軍事研究3月号別冊』と指定して書店に注文いただくか、上記サイト内の「ご注文等のお問い合わせ」フォームもしくはサイト内に掲載した弊社電話に直接お問い合わせください(ただし、弊社直送の場合は別途送料を承ります)。
 弊社取置き分も早いうちに品切れとなるケースが多いので、注文はお早めにお願いいたします。
  1. 2007/03/04(日) 10:02:37|
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プロフィール

黒井文太郎

Author:黒井文太郎
 63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(とくにイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。

 著書『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』等々。

 ニューヨーク、モスクワ、カイロに居住経験あり。紛争地域を中心に約70カ国を訪問し、約30カ国を取材している。




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