それにしても「???」である。7月30日付新聞各紙は、「テポドン2が発射直後に墜落していた」との政府情報を報じた。ニュースソースは「政府筋」である。
その根拠は、「アメリカ早期警戒衛星が発射地点での40秒のブースター燃焼だけを探知していた」「日米の偵察衛星が、発射基地付近でテポドンの残骸と思しき物体を撮影した」「日本海に展開していた日米のイージス艦が航跡を探知できていない」である。
それはまあ納得できる。不思議なのは、では、発射直後に防衛庁が発表した〝ものすごくピンポイントまでわかっていたはずの着弾地点〝はいったい何だったのか?ということだ。
当初の報道によれば、この着弾地点は、展開中の各イージス艦の位置からそう遠くない地点だったのではなかったか。航跡の一部を捉えたはずではなかったか。
北朝鮮軍事情報ではいくつもヒットを飛ばしている『読売ウイークリー』誌も8月6日号で、米軍事筋から入手したはずの「独占! 北ミサイル着弾全データ」を掲載していたはずではなかったか。
考えられることは次のようなことだ。
①軍事筋、政府関係者の誰かがさしたる根拠もなく適当な話をデッチ上げた。
②ブースターが40秒燃焼したことで、なんとなく「このへんまで飛んだのだろう」と思い込んだ。実際、当初から「テポドン2は40秒飛行した落下した」と報じられている。
③(ほとんどあり得ないが)シギントで北朝鮮側が「ここまで飛んだ」と交信したのをキャッチした。
④(もっとあり得ないが)北朝鮮の情報源が、「テポドンはここまで飛んだ」と伝えてきた。
⑤テポドンが飛ばないと北朝鮮の脅威を喧伝できないため、わざと偽情報を流した。(いずれバレるわけだから、ちょっと考えづらいが)
まあ、可能性としては①か②にような気もするが、それにしては着弾地点情報がリアルすぎる。あれをもとにいろいろな論評が飛び交っていたが(ハワイを狙ったとか、わざと日本列島を越えないようにセーブして撃っただの等々)、あれはいったい何だったのか。
こうなると、スカッド、ノドンの航跡のほうもなんだか怪しい話になってきた。「直線上の方向に集め、しかも等間隔に撃ち込んだ精度は恐るべきものだ!」などという論評が多いが、それもデータが間違っていたら成立しない。
そういえば、アメリカのヒル国務次官補は7月20日の米上院外交委員会公聴会で、「ミサイル発射にイラン人が立ち会っていた」という認識を持っていることを明らかにした。
また、たとえば、前出『読売ウイークリー』誌の記事では、米軍事筋が「ロシア人が立ち会っていた。イランとパキスタンの関係者がいたという情報もある」と語っている。
そんな情報がわかるなら、テポドン2の顛末も即座にわかりそうな気がするのだが。
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- 2006/07/31(月) 13:47:29|
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イスラエル軍のレバノン爆撃が続いている。国連施設や避難所も容赦はない。
7月25日には、レバノン南部ヒアムの国連施設が攻撃を受けた。イスラエル軍の爆撃は午後1時20分に始まり、午後7時30分まで計16波の攻撃が行なわれた。その間、国連軍側はイスラエル側に10回にわたり攻撃中止を要求。国連副事務総長などもイスラエル国連大使に連絡をとった。
しかし、イスラエル側はそれを受諾したのにもかかわらず、現場のイスラエル部隊はそれを無視したかっこうだ。イスラエル側から、どのような情報伝達が同国内で行なわれ、今回の爆撃続行になったのかなどの一切の説明はない。
結局、5発が施設を直撃。この日の最後の爆撃で国連部隊兵士4人が死亡した。兵士の国籍はカナダ・中国・オーストリア・フィンランドである。
なお、自衛隊が参加しているゴラン高原PKOが国連部隊活動開始ただの1人も戦死者を出していないという無風地区なのに対し、すぐ隣のレバノン南部は、これまでもイスラエル軍とヒズボラの戦闘に国連軍が巻き込まれ、多くの戦死者を出している危険地域だ。実際のところ、今回と同様の事件も何度もある。
たとえば、96年の大規模衝突の際には、筆者も現場取材でそれを経験している。医薬品を配る国連部隊のコンボイに同乗取材した際、イスラエル軍の猛烈な爆撃を受けて前に進めなくなったのだ。
このとき、同乗していた国連軍の指揮官が直接イスラエル国防省に電話して(現場から直接、イスラエル軍司令官に電話を入れていた)攻撃中止を求め、相手もそれに同意したのだったが、その後も攻撃は続いた。国連軍部隊指揮官は何度も抗議の電話を入れたが、相手は「司令部は攻撃中止を命令したんだけどなあ・・・」とすっとぼけていた。国連部隊指揮官は「あいつらわざとだ」と断言していた。いつもそうなのだと言っていた。
こうしたコンボイは、当時、南部国境地帯に展開していたイスラエル傀儡のキリスト教徒軍「南レバノン軍」にもしばしば妨害された。南レバノン軍はイスラエル軍の完全指揮下にあったから、国連軍への嫌がらせも当然、イスラエル軍の指示によるものと現場では皆が信じていた。
国連軍指揮官はこういうとき、南レバノン軍司令部ではなく、本当のボスであるイスラエル国防省に抗議するのだが、南レバノン軍が出てきたときは、もう何のかんのと理由をつけてはぐらかされるのが常だった。南レバノン軍の検問を筆者も通過したことがあるが、こちらもなんだかヤクザのような雰囲気の組織だった。
また、一度、国連軍(フランス軍)コンボイの後に追走したら、普段はあまりイスラエルに嫌がらせを受けないフランス軍が、なぜかそのときだけイスラエル軍の猛烈な爆撃を受け、前進を阻止されたことがあった。指揮官がイスラエル側と連絡をとったところ、「イスラエル現場部隊のことはわからないが、おそらく追走車両(筆者の車)がヒズボラと勘違いされたか、あるいは外国プレスとわかっていて、現場取材を妨害しようとしたのかのどちらかではないか」とのことだった。
以前に当ブログでも触れたが、レバノン南部攻撃の際には、無人偵察機で詳細なリアルタイム監視活動を必ず行なっている。また、AWACSも上空を遊弋し、ヘリや戦闘機も常に飛び回っている状態だ。イスラエル北部にはロケッド砲の航跡を探知する対砲レーダー・システムも完備している。
そんな状態で、爆撃は非常に洗練された情報連携のもとに行なわれる。96年のときも、イスラエル軍の爆撃は驚くほど正確で、街中のヒズボラ関係者の自宅をピンポイントで破壊していた。当時、救急車が爆破されて国際世論の非難を浴びたこともあったが、私が取材したところ、その救急車はヒズボラが使用(家族と弾薬を積んでいた)していたダミーだった。
そのような情報力を持つイスラエル軍が、国連施設を誤爆したとは考えづらい。故意に攻撃した可能性が高いのではないかと思う。
当ブログですでに触れたが、避難民100人が殺害された96年のカナの国連軍施設爆撃も、おそらく施設を盾代わりにしたヒズボラに対し、聖域はないと警告するために故意にやったのではないかと思う。砲撃戦の現場に立つとわかるが、戦場は広く、砲弾1発の破壊エリアは小さい。住宅密集地で標的以外の建物に当たってしまったということはあるだろうが、丘陵地帯でたまたま当たってしまうなどいうことは、何百波もの絨毯爆撃ならともかく、普通は確率的にほとんど考えられない(今回の国連軍部隊への攻撃は、前述したように16波と報じられている)。
今回はさらに、7月30日未明にレバノン南部カナで避難民が集まっていた施設が爆撃され、子供37人を含む54人が殺害された。イスラエルのオルメルト首相は、「民間人を盾にするヒズボラの責任」とコメントした。
実際のところ、ヒズボラは民間人を盾にしているが、それは、住民を脅して自分たちの周囲に配置しているのではなく、たとえば避難所のすぐ隣に自分たちが隠れたりするというやり方だ。ヒズボラは避難所のほかにも、国連軍施設、病院、モスクなど、普通の国の軍隊だったら攻撃を躊躇するようなものを選び、そこを隠れ蓑にする。
たとえば、筆者が避難所を取材すると、ヒゲ面で目つきの鋭い数人の男たちが、世間話を装ってこちらの素性を調べにかかってくることが多い。避難所にヒズボラが入っているのだ。
また、走行するマスコミの車両があれば、その背後にピッタリと追走することもある。私もF-16が上空を飛び交うなか、ヒズボラの車両に追走されて冷や汗をかいた経験がある。
ややこしいのは、ヒズボラ=住民ということだ。つまり、多くの兵士はそこで家族とともに生活している。イスラエル軍は原則的には、ラジオやテレビで爆撃予告を行なうが、ヒズボラの家族は逃げないことが多いし、逃げてもヒズボラ兵士の父親といっしょだったりすることが多い。そこを、イスラエル軍は女子供もろとも問答無用で抹殺してしまう。民間人の犠牲者のなかに、このヒズボラの家族が多く含まれている。
避難民を殺害するなど言語道断だが、おそらく今回のカナの事件も、オルメルト首相が言うように、そこをヒズボラが隠れ蓑にしていた可能性は高い。
10年前のカナ事件でも、爆撃直前にヒズボラが当該施設付近からカチューシャを発射していた。イスラエル軍はおそらくすべてを把握したうえで、あえて国連軍施設を攻撃したのではないか。
10年前のカナ事件では、現場はフィジー軍のポストで、数名のフィジー兵が犠牲になった。そのちょっと前には、ネパール兵が犠牲になったこともあった。当時、一般避難民が言っていたのは、「なるべくフランス軍などヨーロッパ系の軍隊の近くにいたほうが安全だ。有色人種系の部隊は、イスラエルも遠慮なく撃ってくる」ということだった。
いずれにせよ、レバノン南部の戦争現場とは、そういう場所だ。
- 2006/07/31(月) 12:48:20|
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警察庁警備局ではこの7月28日付で、小林武仁局長(72年入庁)が退職し、新たに米村敏朗・前警視庁副総監(74年入庁)が新局長に就任した。
小林前局長は警備局の筆頭課である警備企画課長なども経験した公安・外事畑のエキスパート。長官官房審議官→内閣衛星情報センター次長→警察大学校長→警備局長というコースを歩み、切れ者として知られていたが、同期に伊藤哲朗・警視総監や安藤隆春・官房長がおり、まもなく予定される、異例の長期政権だった漆間長官の退任を前に、今回の辞職となった。
順番でいけば、内閣情報官の目もあったのだが、官邸の安倍官房長官の強い意向で、74年入庁の三谷秀史前外事情報部長が内閣情報官に大抜擢されたという経緯がある。ちなみに、三谷内閣情報官は、外事情報部長のときに官邸拉致問題対策チームの法執行班に参加していて、そこで安倍官房長官に認められたとのことである。
なお、新警備局長の米村俊朗氏は、もともとは人事畑などが長かったが、警備局外事課長、警備企画課長、警視庁公安部長、警備局担当審議官などの経験も積んでおり、経験値に不安はまったくない。大阪府警本部長、警視庁副総監として、公安・外事警察の本丸である東京・大阪を熟知しているのも強みだろう。
- 2006/07/29(土) 16:29:49|
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週刊エコノミスト増刊号「経済を根底から揺るがす三大不安要因~ドル・原油・戦争」が来週初めに発売される。筆者は同誌で「ヒズボラvsイスラエル」と「サウジ石油施設狙うテロと内務省の戦い」の2本を執筆している。
本日見本誌が送られてきたが、内容をみると、1章がまるごとイラン問題に割かれていて、江畑謙介氏、高畑昭男氏、保坂修司氏、宮田律氏ら錚々たる面々が非常に興味深い論考を執筆していた。世界経済の章はともかく、このイランの章ではほぼインテリジェンス・マターの話がテンコ盛りなので、興味のある方にはぜひ一読をお薦めする。
ところで、同誌によると、ドルの価値が大幅に下がる可能性があるようだ。1ドル=60円の可能性すらあるという。今、我が家にはドルは小額紙幣が数十ドルしかないが、それでもなにかもったいない気になってしまう。
まったく別の話だが、アメリカの圧力を受け、中国銀行もマカオ支店の北朝鮮口座を凍結した。こうしたアメリカによる経済制裁に対し、北朝鮮が外貨決済をどんどんユーロ立てにシフトしているという。いっそ円建てにしたほうがいいのではないだろうか。
原油は現在1バレル70ドル台(一時は80ドル近く)だが、この後、90~100ドルまで一時的に上がる可能性があるという。これは数年後には60ドルくらいまで落ちるらしいが、それでも数年前には20~30ドルだったわけだから、原油高が続くことには変わりはなさそうだ。
イラン、中国、ロシア、ベネズエラ。このあたりの動向が要注意だ。
とくに『ワールド・インテリジェンス』vol1でも近藤大介氏執筆記事を掲載したが、中国の資源戦略は凄まじいものがある。そういえば、数日前のNHKニュースで、「モンゴルのゴビ砂漠に新たな鉱脈が続々見つかっている」との話を紹介していたが、そこでも中国の鉱業会社がいち早く入り込み、利権を次々と手中にしている様子が伝えられていた。
資源をめぐる水面下の攻防も、インテリジェンスの重要な対象なので、今後も機会があれば弊誌で取り上げていきたいと思う。
- 2006/07/29(土) 15:38:45|
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『ワールド・インテリジェンス』vol2の記事制作でアップアップな状態が続いていて、なかなかブログまで手がまわりません(弊誌サイトのほうも開店休業の状態です)。
そこで、苦し紛れにコラム企画を考えてみました。題して「戦場NAVI」。現地での情報収集ということでは、取材活動もインテリジェンス活動に通じるところがあるので、「戦場取材とはどういうものか」ということを、ちょっと話が古いけれども、私の体験から紹介しようと思います。ただの個人的な思い出話なので、アップ・トゥ・デイトなインテリジェンス・マターに興味のある方にはまったくつまらない話になりますのでご容赦を。
私の場合はもちろん、訓練されたインテリジェンス・オフィサーとは違い、ほとんど珍道中に近いものですが、それでも場数だけは踏んでいますので、まあネタはたくさんあります。「紛争地の歩き方」の一例として読み飛ばしていただければ幸いです。
(私の尊敬する戦場野郎・加藤健二郎さんの著書『戦場へのパスポート』『戦場のハローワーク』のコンセプトのパクリですけど・・・)
と、「です・ます」調のごあいさつはここまで。以下さっそく本題に―ー―ー。
さて、現場取材というかたちの情報収集を行なうには、とりあえず現場=つまり戦場にたどり着かなければ始まらない。では、戦場へはどうやって行ったらいいのか?
まずは、私がこれまで体験したもっとも激しい激戦の地=内戦勃発直後のボスニアの例を紹介しよう。
89年11月のベルリンの壁の崩壊をきっかけに、東欧諸国はドミノ式に民主化された。私はその頃、ニューヨークのブルックリンというなかなかハードボイルドな町に住んでいて、そこを拠点にいわゆるフリーのジャーナリストとして中米だの中東だのをあちこちを渡り歩いていた。
90年8月からは中東に入って湾岸危機の取材に入ったが、翌91年1月からの湾岸戦争が一段落した後、91年春よりモスクワにアパートを借りて暮らし始めた。
その年のモスクワはソ連からロシアに変わる激動の時期だった。私はモスクワでの取材活動にかかりっきりで、しばらく戦場取材をする余裕はなかった。その頃、旧ユーゴスラビアではスロベニアの独立運動から流血の民族衝突が始まっていて、クロアチア独立紛争では激しい市街戦まで発生していたが、私は結局、それらを取材することはなかった。
92年に入り、モスクワの政局がいったん安定したので、私は同年春、イギリス・ケンブリッジ市の友人宅に転がり込み、現地の大学が開設している語学講座に入った。モスクワの暮らしは結構シンドいものがあったので、私は久々の文明圏の生活、しかも学生生活という楽しい時間を過ごした。
もっとも、その間も生活費は稼がなければならないので、日本の週刊誌や夕刊紙の仕事を何本かこなした。イギリスではテニスの松岡修造選手が決勝まで勝ち上がったウインブルドンのプレ大会を取材したし、スペインに飛んでオリンピック直前のバルセロナのテロ対策状況なども取材した。
が、その頃、世界では同年3月頃から始まっていたボスニア内戦が激化の一途を辿っていた。私はBBCやタイムズなどを見ているうちにガマンできなくなり、同年6月、学校に一時休学を申し出て、ボスニアに向かった。ロンドンのセキュリティ用品店で日本円換算で10万円くらいのケプラーの防弾ベストを買った。
海外で取材する場合、まったくの個人で動くこともあるが、私はそのときは『週刊現代』誌に話を通した。私は無謀にも、ボスニア、南アフリカ、ソマリアなどなど何ヶ所もの戦場を連続ルポするという企画を同誌に提案し、「とりあえずボスニアからやってみて」ということでOKを得た。
メディアとの契約のことを「アサイメント」というのだが、これを獲得しておくのとおかないのとでは、経費の面で大きな違いが出る。アサメントがなければ全額自腹だが、アサメントがあれば、原則的に経費は雑誌社に請求できる。ただし、ここが日本の出版業界の妙なところなのだが、最初から版元サイド発注の場合は全額版元負担だが、ライター売り込み企画の場合はそのあたりがファジーなのだ。経費請求はまあ金額次第ということになり、どこまで出してもらえるかは、実際のところ、担当編集者の編集部内での発言力次第というのが現実である。
外報部が完備されている大手メディアとは違い、出版社の場合は海外事情に詳しいスタッフもほとんどいないので、取材法などはすべてこちらに一任される。このとき、担当編集者からの要望は「日本人としてのサラエボ一番乗り」だった。これは「タイトルを打つ」ことを考えた場合に当然のことで、私も異論はない。当時、日本人のフリーランサーでサラエボ周辺および郊外の空港エリアを取材した人はいたが、包囲された市内に入って取材した人は(たぶん)いなかった。大手メディアの場合は、今もそうだが、責任問題が面倒なこともあって社員記者を危険地帯には派遣しない。
さて、そんなこんなでともかくボスニア戦場取材を思い立った私は、「では、どうすれば戦場に到達できるか?」を考える。順序としては、まずはメディア報道を片っ端からチェック。それによって、「先行の記者たちはどこを取材できているのか」ということがわかる。
紛争地の場合、物理的なアクセスの問題だけでなく、取材対象のガード(記者を受け入れない軍・武装勢力も多い)という問題もある。実際のところ、BBCやCNNが入れていない場所に私ごときが潜入できるはずはない。
ボスニアの場合、特徴的だったのは、どうやら記者たちが「どこへでも自由に入れている」らしいということだった。何人ものベテラン記者たちが「こんなに最前線が取材できたのは初めてだ」と書いているし、確かに戦闘場面のルポルタージュもたくさん出ている。現に、その時点ですでに約30人の記者が死亡していた。「オレの体験はこんなにすごい!」式のレポートには誇張が付き物だが、数字はウソをつかない。
ボスニアがこんなに「取材できてしまう」のは、おそらく戦闘中の現地軍がまだ即席の軍隊で、報道統制というものがまだしっかりと出来上がっていなかったからだと考えられた。どこの軍隊でも体制が整ってくると、外国プレスの影響力を痛感し、報道管制を敷く。ボスニアの場合、内戦はまだまだ拡大の様相をみせていたが、取材者としては、早く現場に入らないと、今のような自由な取材ができなく恐れがあった。
報道というのは常にいちばん緊迫した瞬間の情報を切り取って伝えるので、読者・視聴者には当然ながらそうしたイメージが伝わるが、報道されている戦争と実際の戦場でたいてい違っていることのひとつは、「戦闘はそんなにいつも行なわれているわけではない」ということだ。
戦争の最中とはいえ、戦場のほとんどの時間は、非常に静かである。たいていの戦争では戦場は広域に広がっており、昨日はあっち、今日はこっちというふうに戦闘がある。したがって、これは私のようなハイエナ系記者にかぎらず、世界の一流メディアでもまったく同じなのだが、記者たちは戦場で「流血の場所」、もっとミもフタもない言い方をすれば、ライバル同業者たちと「死体や怪我人」探しの競争をしている。
現に私は当時、すでに4年近く戦場取材を続けていたが、目の前を銃弾が飛び交うような戦闘シーンには遭遇したことがなかった。戦場に行くことはそんなに難しくないが、戦闘現場に身を置くということは、それなりの経験を積んで取材ノウハウを身に付け、それなりの嗅覚を働かせなければ実際には難しいものだ。
ボスニアからの「死のリアリティ」があふれる各報道は、不謹慎な言い方だが、そこに「戦闘のど真ん中」に身を置くチャンスがあることを示していた。
さて、どうやらボスニアに入れば最前線の取材をするチャンスがありそうだということはわかった。では、どうやってそこまでアクセスするか?
ぶっちゃけて言えば、こういうとき、もっとも参考になるのは同業者の情報だ。アメリカに住んでいたときもソ連に住んでいたときも、取材方法に関しては、欧米メディアの支局あるいは現地メディアに聞くのがもっとも手っ取り早かった。とくに米英の国際メディアはどんな現場でもそのアクセス法を真っ先に開拓するので、そこに知り合いを作っておくことは非常に重要だった。
取材ノウハウを同業者に頼るというのは情けない話で、フリーランスのなかにはそういうことを一切しない人もいるのだけれど、私の場合、実利主義なのでそういう面でのプライドはあまりない。実際、日本人のフリーである私と、APやロイターでは実力が横綱と乳児ほども違うので、そのへんは私は割り切って甘えることにしている。
では、こうした国際的なメディアと知り合うにはどうするか? ロンドンやニューヨークの支局にいきなり尋ねていっても、門前払いを食うのがオチである。いちばんいいのは取材現場での名刺交換。そして、現場での記者同士の酒宴に積極的に参加することだ。ノミ二ケーション(?)を古い日本社会の悪癖だと馬鹿にする向きもあるが、私の経験では、万国共通に有効だと思う。
ともあれ、そのとき私は知人の欧米メディア記者数人を通じて情報を集めたが、それによると、もっとも一般的な方法は、クロアチアに飛び、国際援助物資を運ぶコンボイに同行して首都サラエボに入る方法だということだった。だが、それだとほとんど直接サラエボへのイン&アウトになり、他の土地の取材が難しい。
私はそれまでの取材経験から、ひとつの方法論を自分なりに持っていた。敵対する両陣営を取材すること、である。片方の陣営だけの取材では、紛争の全体像がどうも見えづらいからだ。
そこで、行き当たりばったりになるが、ともかくボスニア紛争3派(クロアチア人、セルビア人、イスラム教徒)のなかでももっとも外国プレスと疎遠な関係にあるセルビア人側を最初に取材することにした。最初の目的地をユーゴの首都ベオグラードと決めたのである。
細かい話になるが、アクセス・プランで意外と重要なのが、ビザと航空券の問題だ。ビザは国籍によってみな制度が違うので、通過予定国も含めて日本人の場合を事前に確認しなければならない。だが、たとえばロンドンの東欧各国の大使館に電話しても、よくわからなかったり、いまいち信用できなかったりするから、確実に確認したいときは東京の大使館まで電話確認するほうが間違いはない。
どういう動きをするかわからないので、ビザは原則的にマルチ・エントリー。その国の中で取材活動を予定している場合は、報道ビザ取得可能かもいちおう確認する。ただし、私の経験では、報道ビザが必要だったケースはそんなにはない。
ちなみに、報道ビザの申請というのは、プレスカード(記者証)の申請と同じで、原則的には所属報道機関からの手紙が必要になる。なんだかたいへんそうだが、実はそんなに面倒ではない。実際のところ、取材用のプレスカードを作るか作らないかというところが、旅行者と取材者の分岐点なのだが、そのノウハウについてはまた稿をあらためたい。
さて、そのとき私は、まずユーゴ(セルビア側)に入りたいと決めたのだったが、当時すでにベオグラードの空港は閉鎖されていたので、私はロンドンからハンガリーのブダペストに飛んだ。航空券はロンドンの格安航空券を扱う代理店で購入した。
ビザの場合は取材アクセスの制度的な問題だが、航空券については経済上の問題である。いまや世界は航空路で縦横にネットワークされていて、たいていの場所には数日内で行けるが、じつは、航空券の価格が購入地によってかなり違う。たとえば、私が学生バックパッカーだった80年代前半でいえば、ヨーロッパではアムステルダムとアテネが格安チケットの本場だったが、90年代はすでにそんなことはなく、ロンドンでも格安チケットが入手できるようになっていた。社員ジャーナリストでないフリーの場合、いくら雑誌社のアサイメントがあっても会社がどこまで出してくれるかはいまひとつ信用できないので、取材経費はできるだけ切り詰めなければならない。
アクセス・プランを考えるとき、まずはビザの問題、次いで交通費や交通アクセスの問題を検討することになる。たとえば、アメリカから南米に行くときにマイアミからよりニューヨークからのほうが安かったり、アメリカから安く中米に入るときに陸路でメキシコに入り、国内便でメキシコをショートカットすると安いなどということがある。今では日本発も安くなったが、以前は結構高かったので、アフリカに行くのにいったん香港に飛んで、そこで航空券を購入したこともあった。
また、路線によっては混雑していてすぐに乗れない場合もあるので、いろいろ裏ワザが必要なときもある。たとえば、北京にすぐに入りたかったが空がなかったため、いったん香港に飛んでそこから広州に入り、広州から国内便で北京に飛んだこともある。結果的には経費もそちらのほうが安くついた。このあたりは格安旅行術そのものだ。
話がだいぶ脱線した。ボスニアの話に戻ろう。
私はブダペストは初めてだったので、ホントは少しブダペスト見物もしたかったのだが、空港から中央駅に直行し、そのままベオグラード経由アテネ行きの国際列車に乗り込んだ。今はどうかわからないが、当時はハンガリーもユーゴスラビアも日本人はビザ免除だったので、そんなことが可能だった。
後から思えば、ベオグラードでも取材すべき対象はいくつもあった。とくに、セルビア民族主義者陣営やらセルビア人の裏社会関係などは、ボスニア内戦の影の主役でもあり、話を聞いておくべき相手だった。
だが、当時の私はそんなことには気づかず、まずは何はともあれ戦場取材を狙った。ボスニアの首都サラエボを包囲し、市内に爆弾の雨を降らせているセルビア人部隊の取材を考えたのである。
そのために私はまず、ボスニアに入るためユーゴ政府の正式な許可を得ようとした。内務省、外務省、大統領府報道部などをまわり、そのどれかでゲットしたのだが、どこだったかは忘れてしまった。いずれにせよ、取材対象国に到着した場合、まずは政府機関や軍の報道担当セクションに顔を出す。そこで「どこそこに行く」あるいは「なになにを取材する」ためには何か特別な許可が必要かどうかをチェックするわけだ。
ベオグラードでは国連部隊(国連保護軍)の本部にも行き、そこで記者証を作った。当時、ベオグラードの国連軍からボスニア各都市への援助物資コンボイも出ていて、メディアは自前の車両を調達すれば、そのコンボイにくっ付いて現地に行くことができた。
国連軍に同行すれば、セルビア側もまず攻撃したりしないから、それは安全確保ということでは非常に有効な方策だったが、当時の私にとっては、自前で車両を調達するなどという「贅沢」は考えられないことだった。
ただ、この国連軍部隊本部には各国からのメディアが集結していて、いろいろ情報収集には便利な場所だった。ベオグラードからボスビアに乗合バスが出ているなどとう情報もここで入手した。
知人のFNS(フジテレビ系)モスクワ駐在記者にもここでバッタリ会った。「ボスニアに入りたいけど、危険だという理由で会社が許可を出さない」と言っていた。私も実はそれから数年後、同じフジテレビの番組の取材でサラエボに入ることになったのだが、クロアチアの首都ザグレブまで来てから、危険だとの理由でストップがかけられ、なぜか取材地をモスタルに変更されたことがある。モスタルはサラエボ以上に危険な町だったが、東京の局上層部はそれを知らなかったのである。
ところで、当時、ベオグラードでユーゴ政府の事実上のプレスセンターになっていたのが、国営通信社だった。たいていの報道資料はそこで発表するから、私もそこにはしばしば顔を出し、情報を集めた。こういう場所は、情報収集だけでなく、各国から来ている記者や、地元の記者たちと知り合いになるのにもいい場所である。たいして用がなくても時間があれば私はこういうところには顔を出すことにしている。そういえば、そこで日本の某紙特派員にも会った。ときおりいるタイプの、なんというか、フリーを見下した感じの人だった。
もっとも、ベオグラードでやることはあまりなかったので、私はまもなくボスニアのパレという町に向かう長距離乗合バスに乗ることにした。パレというのはサラエボから約15キロの山ひとつ離れた町で、戦争がはじまってからはサラエボからセルビア系住民が多数逃げ込み、当時はボスニアのセルビア系住民の首都のような役割を果たしていた町だった。サラエボを砲撃しているセルビア人部隊を取材するなら、まずパレに行ってみる必要があった。
乗り合いバスは早朝にベオグラードを出発した。(続く)
- 2006/07/26(水) 10:10:12|
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たった今、『週刊エコノミスト』記事を脱稿した。今回は「イスラエル軍vsヒズボラ」についての考察である。
筆者の得意分野はどちらかというとヒズボラのほうなので、そちらを中心に書いたが、イスラエル軍の行動をみると、「軍事合理性」という言葉を思い起こさずにいられない。
今回のイスラエルの軍事行動について、オルメルト首相とIDFの力関係などさまざまな政治的要素を指摘する声もあるが、私からみると、IDFの行動はほとんど常に「軍の論理」に忠実に動いているようにみえる。軍の論理とは、「目的のためにもっとも合理的な軍事行動をとる」ということで、そこには政治的な思惑や人道的な配慮などが入り込む余地がほとんどない。
たとえば「一般の住民でも、軍事行動の障害になるなら殺しちゃえ」というところが徹底している。これは、イスラエル人がとくに残虐な民族ということではなくて(ユダヤ民族は商売の世界でも徹底した合理主義者で有名だが)、常に攻撃にさらされるなかで、生存のためにそうした恐るべき思想が形成されたということなのだろう。
(なお、念のために申し添えると、もっと酷いのがヒズボラ。連中は一般住民を盾にするなどの卑怯な行為をなんら恥じない連中である)
ともあれ、今回のIDFの大規模軍事攻撃も、軍事合理性からみるとわかりやすい。今回、なぜIDFがこれほどの反応をみせたのか? それは、ヒズボラがこれまでにない長射程のロケット砲/ミサイルを実戦配備したからだ。
いい例が、イスラエル最大の港湾都市ハイファへの攻撃である。これまで、ヒズボラによるイスラエル北部への越境攻撃やロケット弾攻撃はしばしばあったが、その標的は国境近くのいわば「戦略村」ばかりだった。ところが、今度は国境から40キロ近い大都市への攻撃だ。その軍事的脅威を、IDFがそのまま放置しておくはずがない。
ヒズボラが使用したロケット砲/ミサイルについては、確認された情報が少ないので断言はできないが、おそらく推定射程32~48キロの「FAJR-3」ミサイルが含まれているものと思われる。また、ヒズボラはこのほかにも推定射程130~160キロの対艦ミサイル「C-802」も保有しているとの情報もある。それだけの射程があれば、テルアビブも攻撃範囲に入るはずだが、今のところそこまでは攻撃されていない。
ともあれ、ハイファが攻撃されたという事実の衝撃はイスラエルでは非常に大きい。IDFはヒズボラのロケット砲/ミサイルを徹底的に破壊したうえ、ヒズボラ兵力をそれらの射程の範囲外に押し上げるまで、攻撃の手綱を緩めることはあるまい。
今回のイスラエル軍のレバノン攻撃は、そうした軍事的目的のうえに行なわれているが、目的が同じであっても、「一般住民の被害をどれほど配慮するか」によって、戦場の実態は天と地ほどの差をみせる。イスラエル軍のやり方は、無差別虐殺とまではいえないが、もう少し自重されてしかるべきだ。
振り返ると、米軍のイラク占領にも同じ問題がある。
イラクでの米軍は、もちろん一般住民の被害を抑える努力はしているが、いかんせん敵はゲリラだから、どうしても誤爆・誤射は起こる。ゲリラ掃討という目的がある場合、ここで反比例の関係となるのが、「一般住民の犠牲」と「米軍の犠牲」だ。米軍は一般住民の犠牲を厭わなければ自軍の犠牲を限りなくゼロに減らすことができるし、逆に一般住民の犠牲回避を最優先すれば、自らの屍の山を晒すことになるのは必至だ。
米軍兵士の死者はすでに2500人以上になる。これは、イスラエル軍の非情な合理性などから比べると、雲泥の差と言っていい。
だが、それだからといって、米軍が必ずしも正当に行動しているとは言えない。いかに正当な理由があったかは別にして、ともかくも米軍はイラクで戦争を起こし、万単位のイラク人を殺害している。そうした犠牲のうえにイラク再建の責任を負っているわけだから、自軍の兵士が何人死のうと、一般国民の犠牲をゼロにするにする努力を本来はすべき立場だ。
たとえば、これがアメリカ国内ならどうか? 犯罪集団を殲滅するため、警察が通行人ごと殺してしまうなどということはない。警官隊にいくら犠牲が出ようとも、市民の犠牲回避は最優先される。イラク駐留米軍の役割はまさに警察であり、そこに「アメリカ人の命は重く、イラク人の命は軽い」などという差別があってはいけない。戦場での原則は「兵士の命は軽く、民間人の命は重い」のだ。
とまあ、これは理想論である。実際には誰もが自分たちの身を守ることを優先する。アメリカ人からすれば、2500人超の犠牲というのは、もはや限界に近い。
「イラクを正常化するのが、世界経済の秩序を安定化し、反米テロの芽を摘むというアメリカの国益に合致するから、自分たちはこんなに血と汗を流してまでやっている。イラクがこんな迷惑な国になったのはイラク国民の自業自得。少しぐらい連中の犠牲が出るのはあたりまえだ」
アメリカ人からすれば、そうした理屈になる。イラク人側からすると、単純に「アメリカ占領反対!」と叫んでいる連中はともかく、多くの国民がホンネでは「アメリカは自分たちの身を守ることより、イラク人をもっと尊重して治安回復をちゃんとやってもらいたい」と考えている。正当な要求である。
「アメリカがイラクを占領し、反米ゲリラを掃討する」ということに変わりはなくとも、そこで米軍がイラク国民の生命・財産・プライドをどれほど尊重するかということで、戦場の姿は一変する。
なぜこのようなことをここで書くのかというと、最近、取材の過程で日米同盟について議論する機会が何度もあったからだ。
このところ、メディアでも「アメリカは日本をホントに守ってくれるのか?」などという議論が花盛りだが、同じ「米軍が日本を防衛する」という局面をみても、「米軍は日本国民の生命・財産を自国民と同レベルに配慮して防衛してくれる」のか、あるいは「日本国民の生命・財産などまったく配慮せず、とにかく日本列島を敵に占領されないだけの防衛に動く」のかで、日本防衛の意味合いはまったく違うものになる。
常識的に考えて、米軍が日本を防衛する目的は、日本国土を自陣営に確保することだ。そのため、敵は列島から最終的に駆逐するが、その過程で、自軍の犠牲を顧みずに日本国民を守るなどということはあり得ない。米軍は日本列島を最終的に確保する義務はあっても、日本国民を守る義務はないのだ。
日米安保条約が強力な抑止力となることは確かだが、いったん戦争になってしまえば、米軍は米軍の目的に向かって行動するだけだ。
たとえば、冷戦時代には日本にはどのような防衛体制がとられていたか?
日本はソ連軍の侵攻に備え、北海道に陸上自衛隊の大部隊を配置した。予算は火力確保に優先的にまわされ、継戦能力はせいぜい1~2カ月程度しか確保されなかった。要は、米軍の援軍が三沢基地などに本格展開されるまで、北海道でなんとかソ連軍を食い止めるということになっていたわけだ。
事実上、防衛ラインは津軽海峡であり、旭川や札幌の防衛はあきらめられていた。米軍の大軍が揃えば、あとは北海道を焼け野原にしてソ連軍をたたき出すということだ。
米軍の日本有事の作戦計画に、おそらく日本国民の生命と財産を守るための配慮はほとんどない。だいいち同盟国を自国と同様に考えるなら、たとえば外国軍が北海道に攻め入れば、核で報復すべきところだが、アメリカはもとよりそんなことは考えていなかったろう。
ソ連なき後、現実には北朝鮮や中国が日本を占領しようとすることは、まずあり得ない。だが、それはそれとして、「日米同盟」を「アメリカが日本〝国民〟を守ってくれること」と思い込んでいる言説が多いのは、ちょっとアマいのではないかという気がしてならない。
- 2006/07/24(月) 03:29:59|
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日本の情報コミュニティでは今、何が起きているのか?というと、ひとつには、各情報機関のあいだで「どこが外国情報機関とコネを作るか?」という競争である。
というのも、これまで日本では、緒方竹虎=村井順コンビが創設した内閣情報調査室という組織がいちおう情報コミュニティの代表的なものだったが、海外に支局員がいるわけでもなく、冷戦時代はどちらかというと国内情報がメインだった(とくに選挙情報に定評があった)。
警察庁警備局や公安調査庁の外事部門は基本的に防諜とテロ対策がメインであって、情報活動といってもKGBや朝鮮総連を監視したり、重信房子やよど号グループなどの追跡が任務のほとんどだった。防衛庁・自衛隊は、極東エリアの軍事情報ということでは通信傍受や対潜水艦戦でかなり本格的な情報活動を行なっていたが、外国との関係でいえば、ほぼ米軍に全面的にリンクしていた。
というわけで、グローバルなインテリジェンス活動とすれば、外務省の仕事ということになったわけだが、外務省のカウンターパートはもとより外国の外交当局であり、インテリジェンスの分野には深く関与してこなかった。
日本のインテリジェンス機関のシステムについては、海外からみるとわかりやすい。たとえば、CIAは日本のどことコンタクトしていたかというと、これらの日本の各組織を「使い分け」てきたという。
たとえば、日本政府中枢に迅速に伝えたい情報は、表向きのカウンターパートである内調に渡す。ただし、内調は実働部隊を持たない役所であり、CIAからみてあまり利用価値のある組織ではなかったから、内調ばかりと付き合ってもあまりいいことはない。
そこで、警察庁警備局や公安調査庁とも直接コンタクトする。彼らは朝鮮総連情報や中国関連商社情報などで冷戦期にはかなり有益な情報を持っていたし、CIA側から日本国内での調査リクエストを出しても、迅速に対応できる。CIAが日本でのインテリジェンス活動を考えた場合、利用価値がある組織というわけだ。
外務省の各政策部局あるいは国際情報局ともコンタクトはある。米国務省の縄張りだからあまり大っぴらにはやれないだろうが、ここは情報交換だけでなく、一種の政策誘導のようなこともあったかもしれない。
防衛庁の情報はこれはもうほとんど米軍ルートでアメリカに入っていた。CIAもコンタクトはあったろうが、これも大っぴらではなかったろう。
こうしてみると、外国の情報機関が日本の情報機関と連携しようと考えたとき、本当の意味でカウンターパートになるような組織が日本にはないということがわかる。本来、内調がその役目を期待されていたが、前述したように、あまりにも陣容が小さく、その任をこなせない。
それでも、日本の対外インテリジェンスが事実上、外事警察が主任務とする「赤軍派の追跡」と「共産圏スパイの監視」の2本立てだけならそう問題がなかった。だが、今やイスラム過激派組織の追跡や大量破壊兵器拡散問題など、よりグローバルな分野に対処しなければならない。
では、既存の日本の情報機関にとって、どうすればグローバルなインテリジェンス能力を手っ取り早く強化できるか? いちばん簡単なのは、自分たちが他の日本の情報機関よりもいち早く外国情報機関のカウンターパートのポジションをゲットすることだ。
そのわかりやすい例が、各機関の英語名である。これは『軍事研究』誌コラムで前に書いたことがあるのだが、もう一度ここでも紹介しておこう。
日本の各情報機関では今、競い合うように「カッコいい英語名に改名する」ことが流行している。これまでこうした情報機関(部局)は、なるべく目立たないように(サヨクに「謀略機関ではないのか!」などとツッコまれないように)、ワザと無難な意味不明のネーミングにしていたところが多かったのだが、それでは外国の情報マンと会見して名刺を差し出しても、「???」ということになってしまう。そこで、これらの機関・部局がこっそり改名しているのだ。
その先陣を切ったのは、内閣情報調査室だ。もともとの英語名は「キャビネット・リサーチ・オフィス」。なんだか政策シンクタンクみたいなネーミングだ。
これでは迫力がないということで、86年に「キャビネット・インテリジェンス&リサーチ・オフィス」に改名した。日本語だけみると、「内閣調査室」から「内閣情報調査室」に改名したところで、たいして違いはないようにみえるが、本当の狙いは、英語で「インテリジェンス」という言葉を組織名に入れるところにあったわけだ。インテリジェンスという用語が入ることで、その組織はいっきに「情報機関」のイメージを帯びる。他の機関の改名にしても、要は「インテリジェンス」という用語をいかに取り入れるかということにすべてかかっている。
ついでに言えば、内閣情報調査室長も今では「内閣情報官」となったが、その英語名は「ディレクター・オブ・キャビネット・インテリジェンス」である。外国人からみれば、日本の情報コミュニティの頂点に君臨するイメージだ。
警察庁の場合、これまでは「警察庁長官官房国際部」は「ナショナル・ポリス・エージェンシー(=警察庁)」の「コミッショナー・ジェネラル・セクレタリアト(=長官官房)」の「インターナショナル・コーポレーション・ディビジョン(=直訳すると国際協力部?)」。他方、警備局外事課は「セキュリティ・ビューロー(=警備局)」の「フォーリン・アフェアーズ・ディビジョン(=外事課)」。どちらも外国人からみると、「インターポールの関係?」というイメージだ。
そこで、警察庁では「フォーリン・アフェアーズ&インテリジェンス・デパートメント(=外事情報部)」というネーミングを考案し、その下部組織に「カウンター・インターナショナル・テロリズム・ディビジョン(=国際テロ対策課)」と「フォーリン・アフェアーズ・ディビジョン(=外事課)」を配置した。これで名刺を見せても、「おお、君はジャパンのインテリジェンス・オフィサーか」と認めてもらえる(たぶん)。
公安調査庁も負けてはいない。これまでは「パブリック・セキュリティ・インベスティゲーション・エージェンシー」だったのが、数年前にこっそり「パブリック・セキュリティ・インテリジェンス・エージェンシー」に英語名のみ改名されている。その狙いについては、もはや指摘するまでもない。
確認してみると、他の省庁の情報セクションでも、これまではたいてい「リサーチ」(調査)という語を使っていたのに、いつの間にか「インテリジェンス」という語にすり替わっている例が少なくない。
たとえば、防衛庁防衛局調査課も今では「ディフェンス・インテリジェンス・ディビジョン」。陸海空各幕僚監部調査部も「インテリジェンス・デパートメント」になっている(各幕調査部は今年3月に改編・改名された)。
外務省でも国際情報統括官は「ディレクター・ジェネラル・オブ・インテリジェンス&アナリシス・サービス」。こちらはスパイ・マスターよいうよりは、分析部門トップのイメージだ。ついでに見渡すと、たとえば、財務省関税局監視課にも「ディレクター・フォー・インテリジェンス」というポジションがあった。日本語の正式役職名は「密輸情報専門官」。ちょっと意訳しすぎの感もあるが。
いずれにせよ、外国人からみると、今、日本ではインテリジェンス・ディビジョンが雨後の筍のようにいきなりどんどん誕生しているようにみえるかもしれない。ちょっと変だ。
- 2006/07/23(日) 20:31:57|
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外務省OBの2人の元インテリジェンス専門家にそれぞれ別個にお話を伺う機会を得た。ともに国際情報局長を経験されている茂田宏・元国際テロ対策担当大使と孫崎享・防衛大教授である。
茂田氏はその他にも、欧亜局ソ連課長、駐ソ公使、駐韓公使、駐イスラエル大使などの経験があり、孫崎氏は国際情報局分析課長、駐イラク公使、在ウズベキスタン大使、駐イラン大使などを歴任されている。経歴・任地からも明らかなように、2人とも外交のなかでも微妙なエリアで最前線にいた人だ。ともに情報収集衛星導入に主導的な役割を果たしてもいる。
もっとも、同じ元外務省国際情報局長とはいえ、日本のインテリジェンス機能強化に関する考えは微妙に違う。そのあたりを『ワールド・インテリジェンス』次号でじっくり紹介するので、乞うご期待!
また、ここでは名前を出せないが、警察関係者・防衛庁関係者数名からも同様に話を聞く機会があった。こちらはまたそれぞれの省庁から日本のインテリジェンスをみているわけで、また考えが違う。概して「目的は同じでも、その方法論がかなり違う」と言える。
ただ、共通しているのは、日本のインテリジェンス機能が「今のままでいい」という人はほとんどいないということだ。
たとえば、日本のインテリジェンス機能強化というテーマは、拉致問題や自衛隊イラク派遣などを受けて、まずは外相時代の町村議員が主宰し、大森義夫・元内調室長を座長とする懇談会が設置されて提言をまとめたのに端を発し、続いてその町村議員が座長、元防衛庁長官の石破茂議員が座長代理で自民党内に専属検討チームが設置されて提言をまとめたことで勢いづいた。
ところが、たとえば同じ町村議員が音頭をとった外務省の大森懇談会での報告と、自民党の町村=石破チーム報告では、提言の中身が違う。詳しくはこれも弊誌次号でじっくりとりあげるが、ひとことでいえば、「外務省系主導から警察系主導」に変化しているのだ。前者は外相の諮問懇談会で、後者は政権与党の検討チームだから、あたりまえといえばあたりまえだし、わかりやすい構図ともいえるが、それでも両者は議論の口火を切ったものとして大いに評価していいと思う。
ただ問題は「これから」だ。もっとオープンな議論があってしかるべきだろう。
ここのところこうした関係者・専門家取材を立て続けに行なった印象でいうと、霞ヶ関のセクショナリズム・主導権争いは、たしかに存在するようだ。その主構図は「警察VSその他」といえる。
日本のインテリジェンス機構における主導権はこれまで警察が握っていたのは関係者には周知のとおりだが、これまでの対KGBとか対日本赤軍・赤軍派よど号グループなど以外のインテリジェンス、たとえばアルカイダだとか北朝鮮や中国の軍事情報だとかをめぐり、各省庁・機関がしのぎを削る状況が生まれている。
もっとも、こうした競争自体は、必ずしもマイナス要因ということにはならないと思う。ただし、主導権争いがメインになってしまっては本末転倒だ。とくに警察は、もしも自分たちがそれらのインテリジェンス活動を主導するのが最良と考えるのならば、その理由を堂々と述べていただきたいと思う。
- 2006/07/21(金) 15:26:44|
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昨日発売の『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)に「撤収 イラクから陸自帰国へ 米国への〝政治的援護派遣〟の成果は?」という記事を執筆しました。自画自賛オンリーの政府・防衛庁に成り代わり、陸自のイラクでの2年半の活動はホントはいったいどういった意味があったのか?といったことをあれこれと考察しています。ちなみに同号の特集テーマは「過労死大国」。なかなか怖い内容です。
さて、自衛隊イラク派遣。
筆者は基本的には、日米同盟という観点よりも、世界安保の観点から「イラク国民が腰を抜かすくらい世界中のすべての国がイラクにドーンと兵隊を送ればいいのになあ」という考えだが、あいかわらず日本軍の海外派遣は世界標準からみると珍妙なことばかりだと思う。
自衛隊は「制約はあったが、われわれはこんなに頑張った。現地でも感謝された!」と叫ぶより、「われわれはおかしな法制度のせいで、他にやるべきことがたくさんあったのに充分にできんかった。もっと働きたいから法整備なんとかしてくれ!」と訴えるべきではないか。今のまんまだと、「なあんだ、玉虫色のテキトーな法律でもちゃんと戦場でやれるんだ」ということになり、「じゃ、次も」ということになってしまうのではないかと思うのだが・・・。
ところで、陸自のサマワ撤収にあたっては、取材ドタキャンで日本マスコミ陣と防衛庁のあいだで珍しく大バトルがあったが、その意趣返しというわけでもあるまいが、共同通信が7月15日に面白いネタをスッパ抜いた。自衛隊がサマワの市長と市議会議長に「自衛隊への感謝状を書いて欲しい」と要請していたというのだ。
市長のほうはこれにすんなり応じ、今月5日に宿営地を訪れて感謝状を手渡すというパフォーマンスを行なった。さっそく自衛隊はそれをマスコミにアピール。「サマワ市長が陸自に感謝状!」との記事が各紙で報じられた。
ところが、やはり詰めがもうひとつ甘い。市議会議長のほうは「何をして欲しいのか趣旨がよくわからない」ということで、結局、感謝状を書かなかった。それどころか、その自衛隊からの「おねだり」の手紙を(直接か間接かはわからないが)外部に漏らし、それがそのまま共同通信の手に入ったのである。
自作自演が失敗したということだが、これはもうあまりにもセコすぎて苦笑するしかあるまい。世論操作を狙った情報工作(?)の一例だが、工作はバレると逆効果になるということを自衛隊も学んだといったところか。
- 2006/07/19(水) 09:34:37|
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前回の記事で、「ヒズボラの無人偵察機がイスラエル艦艇に打撃を与えた」との情報を紹介したが、その後の各報道によると、イスラエル軍当局が「あれはミサイルによるもの」と発表したとのこと。無人攻撃機説はどうやらイスラエルの有力紙『ハーレツ』電子版がイスラエル軍筋の情報として報じたのが最初らしい。
ところで、CNNなどをみると、目下の注目点のひとつに「ヒズボラはどれほど長射程のロケット弾を持っているのか?」ということがあるようだ。これまでヒズボラの攻撃圏外だったイスラエル北部の都市ハイファが直接ロケット弾に攻撃されたことが、現地では大きな衝撃になっている。こうなってくると、イスラエル側も自分たちの安全保障上、そう簡単に兵を引くことはあるまい。
話はまったく変わるが、某大手書店に立ち寄ったところ、ある本の帯の文句が目に入り、さっそく購入した。「五十嵐一・筑波大助教授暗殺はイスラム革命防衛隊の犯行だった」とドーンと書かれた『ザ・パージャン・パズル』という翻訳書である。パージャンというとなんだかわかりづらいが、PERSIAN=つまりペルシャのことだ。
著者のケネス・ポラックは元CIA分析官。イランとイラクの専門家で、同書はイラン=米関係を軸にイランの近現代史を俯瞰した内容になっている。非常に専門的な内容だし、上下刊で¥5600+税という一瞬躊躇するような価格にもかかわらず、同書店ではほとんどベストセラー並みの扱いで大量に置かれていた。ということは実際、売れているということなのだろう。いつも「専門書なんてたいして売れないさ」などと最初から言い訳している自分が恥ずかしい!
それはともかく、あまり一般向けでない内容ではあるが、イランのディープなところを知りたい小生のような読者には「待ってました!」という本だ。情報は当然ながらたいへんしっかりしているし、少なくとも「CIAの専門家はこうみていました」という点でも非常に参考になる。
それにしても、イランのイスラム体制は、テロ支援国家ということでは世界でも突出した存在である。筆者もかつて『イスラムのテロリスト』という本で書いたことがあるが、イスラム・テロリズムには、大別してスンニ派系とシーア派系の相容れない2つの系譜があり、イランはシーア派系テロリズムの盟主となっている。
アルカイダなどのスンニ派系テロリズムの歴史は、さまざまな小グループの集散の歴史で、それを形成する人脈が交錯するまさに人間ドラマの連続だが、シーア派系テロリズムの場合、一貫してイランの謀略機関が背後で糸を引いているのが特徴だ。イランの謀略国家としての顔はほんの一部しか日本では報道されていないが、調べれば調べるほど闇の深い世界であることがわかっきて、非常に不気味なものがある。
では、同書ではどのように「筑波大助教授暗殺事件」のイスラム革命防衛隊犯行説が裏付けられていたのか?とみると、ただ単に「この本を日本語に翻訳した日本人の翻訳者は、イスラム革命防衛隊(IRGC)によって暗殺された」との一文があるのみで、具体的根拠はなにも示されていなかった。
これだけでは、著者が通説に基づいてそう書いているのか、それともCIAが何か根拠をつかんでそう判断したのか、というところはわからない。仮にCIAがそう判断したのならば、その情報はイラン側への諜報活動で得たものなのか、それとも日本の警察からの情報によるものなのか、ということもわからない。
まったくの筆者の推測だが、CIAがイランへの諜報活動でその情報をつかんでいたとするならば、なんらかのかたちで米メディアにリークしていたのではないかと思う。おそらく同書のこの記述自体は、あまり決定的な情報とはいえないように思う。
もっとも、それはそれとして、同書内には専門家ならではの精緻な解説がテンコ盛りで、非常にタメになる部分はたしかに多い。なかでも筆者個人的には、イラン=イラク戦争当時の戦況経緯が簡潔に解説されていたのがありがたかった。というのも、フゼスタン(南部)の戦線を筆者は84年に訪問したことがあるのだが、当時はたまたま知り合った革命防衛隊の下っ端兵士にいろいろ案内してもらっただけで、自分がどういう状況のときにそれらの場所(スーサンゲード、ホウェイザ、ホラムシャハルなど)を目撃したのかということが、じつは今までまったくわかっていなかった。それが同書によって、「へえ、こういうことだったんだ」と疑問氷解である。
自分の無能さをさらけ出すようで恥かしいが、このように、せっかく現場を踏んでいても、事情がじつはよくわかっていなかったなどという経験はよくある。
たとえば、筆者は内戦末期の中米ニカラグアをかなり長期間にわたって取材したことがある。そのとき、ニカラグア政権側のなかで、国軍部隊に比べて「内務省部隊」のガードが異常に固く、一切取材拒否だったため、「エリート部隊だから敷居が高いんだろな」などと思っていたのだが、後に何かの資料で「そこにはソ連軍事顧問団が入っていた」ということを知った。
こうしたことを見落とすのは、当然ながら自分の実力がないということにほかならない。やはりそれなりの情報を準備し、それなりの取材訓練を積んでいないと、現場を取材したといっても事実を知るのには限界がある。
そうした点に関連して、『ザ・パージャン・パズル』の後書きに面白い一文があった。著者のポラックは、「一度もイランに行ったことがない」というのである。
彼はこう書く。
「私はそれを致命的な欠陥だとは思わない。私が多くの時間を過ごした外国であっても、私のそこでの経験は、一人だけの経験であって、その点では、信頼の乏しい実例の一つに過ぎないからである。自分自身の観察は、あくまでデータの一つであって、その意味ではほかのデータよりも、それ自体として、より優れているわけではないということを常に、よくわきまえておく必要がある」
なるほど、その通りである。
一例が、イラク戦争開始前のイラク人の意識に関する報道ではないか。サダム・フセイン政権下のイラクを取材したほとんどのレポーターが「イラク国民は戦争に反対している」とやったものだから、日本も含めた各国で反戦運動が広がった。
だが、治安悪化で泥沼状態になった後はともかく、終戦直後のイラク国民の大方の反応は「ブッシュよ、よくやってくれたぜ!」だった。現場を取材した人々の多くにはまったく〝事実〟が見えていなかったわけだ(逆にアメリカ当局側は反サダム・フセイン勢力側からの情報ばかり重視し、いろいろな面で事実を見落としていたが)。
もちろん筆者も他人を批判できるほどの見識はない。イラク戦開戦に際しては、筆者には「海外在住イラク人」の情報源が多かったために、「イラク国民の多数が戦争を期待している」との点では間違わなかったが、「フセイン政権瓦解後はイラク国民の大転向が急速に進み、まもなくフセイン派残党の影響力は消滅するだろう」と、情報源の偏りから、まさにチェイニー=ラムズフェルドのような読み誤りをしていた。
このように、筆者にも、自分のささやかな見聞だけで見通しを誤った経験などすでに無数にある。ポラックの指摘は肝に銘じなければならない。
最後に、話が脱線するが、これに関してマスコミ業界の舞台裏をちょっと告白してしまおう。
日本のメディア界では、海外情報に関して発言する方法が2つある。ひとつは、それぞれの事件・事象の解説役となることで、これは日本ではなぜか「大学教授」の既得権益になっている。要するに「肩書き」重視ということだが、大学名はあまり関係ないようだ。
もう1つは「現場取材」である。日本のマスコミでは、なぜか〝日本人〟による現場レポートが非常に優遇される。筆者などもそうだったが、ホントはたいしたことをやっていなくても、「現地潜入!」などと銘打って記事を大きく扱ってもらえるのだ。
ところが、個人の見聞などたいしたものではないのに、そこで「この国は今、こうなっている!」とやるものだから、読者はそういうものかと思ってしまう。しかも、日本人で海外取材をする人はあまり多くないから、結果的に情報が偏向してしまうことが多い。
筆者もかつて紛争地取材をメインで行なっていた頃は比較的容易に記事を発表することができた。わざわざ紛争地取材などする人は非常に少ないから、その体験談を人々は聞いてくれるし、こちらも言ってみれば「行けば書ける」のだ。
白状してしまうと、筆者を含め、日本人記者のレポートのほとんどは自分の〝手柄〟が誇張されている。筆者の場合、よく使った手が「日本人初潜入!」だ。この場合、日本人では初だけれども、イギリス人やフランス人はすでに何人もやってましたなどということも珍しくない。やっている本人も「なんだかなあ」とは思うが、誌面取りのためにはしかたがない。ウソはついていないし。
ちなみに、この誌面取り競争というのはどの媒体の内部でも結構熾烈なものがあり、執筆者はたいてい自分の記事テーマ自体を誇張する。海外記事の場合は検証されることがほとんどないから、国内記事よりそうした傾向が強い。
なお、さらに白状してしまうと、海外取材の記事を発表するのは、国内取材の記事を発表するのに比べて圧倒的に容易である。そもそも競争が少ないからだ。
競争の少ない世界ということは、当然ながらあまり切磋琢磨されていないということでもある。筆者自身も、後で読み返してみて、我ながら「ダメだなあ」と思う記事はたくさんある。日本国内のネタで誌面をゲットするには多くのライバルを押しのけるためのかなりの取材が必要だが、海外ネタだとそのあたりが格段にアマい。
現場レポートはもちろん重要だが、こうしたことも頭の片隅において各記事を読むと、また違ったものが見えてくると思う。
- 2006/07/17(月) 11:54:21|
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前回の記事をアップした後に何気なくニュースをチェックしたら、すでにヒズボラのナスララ党首が拠点とするヒズボラ本部が爆撃された旨が報じられていた。本人は無事のようだ。
これでヒズボラは対イスラエル宣戦布告。事態は全面戦争に向かいつつある。
ところで、筆者は数日前の当ブログ・コメント欄で、ヒズボラの無人偵察機について「攻撃能力はさほどでもないだろう」と書いたが、なんとヒズボラ無人機が実際にベイルート沖合に停泊中のイスラエル艦艇を攻撃したという。アル・ジャジーラによると、これで乗組員4人が「行方不明」になったとのことだ。
情報を集めてみないと詳しい〝破壊力〟などはわからないが、同艦艇は甲板を炎上させて同海域を離脱したとのことだから、少なくとも心理戦的にはそれなりの戦果といえる。
それにしても、要人暗殺などの特殊作戦でもない局面で本当に無人偵察機を自爆特攻に使うとは、普通に考えると「なんてもったいない」と思うのだが・・・・。
- 2006/07/15(土) 15:19:39|
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7月14日、イスラエル軍はいよいよベイルート南郊のヒズボラ本拠地への空爆作戦を開始した。複数の欧米メディアによれば、「ハッサン・ナスララ党首爆殺を狙っている」との情報もあるようだ。
あるときはイスラエルとの戦争を担う民兵組織、あるときはアメリカ人を誘拐して殺害するテロ組織。他方では国会に議員を送り込み、政権に与党の一角として参加するとともに、テレビ局や機関誌を発行する政治組織でもある。さらには寡婦家庭に生活資金を援助し、病院や学校を運営する慈善団体でもある。このヒズボラという組織は何なのか?
ひとことでいうと、合法的な社会活動も行なう右翼兼暴力団というのが、筆者の印象である。要するに、現地では誰もが恐れる怖い怖い組織なのだ。
ベイルートの繁華街の中心地はキリスト教徒のエリアである。そこでは、戦争している国とは思えないほど華やかな商店街・飲食店街がある。筆者がベイルートを取材したのはもうひと昔前だが、今ではさらに復興していることは疑いない。筆者は今、よくベイルートのインターネット・ラジオ局をかけるのだが、そこで流れる曲はアラブ民族音楽ではなく、ノリノリのトランス・ミュージックであり、画面ではベイルートのナイトライフを楽しむ男女の姿や、ビーチやスキー場などのレバノン国内のリゾート地の風景が次々に紹介される。内戦前「中東のパリ」と称された町が完全復活したようだ。
ベイルートにはイスラム教スンニ派のエリアにも商店街や住宅街がある。露出ファッションのギャルたちが闊歩するキリスト教地区ほどではないが、もはやこちらも活気に満ちた近代都市が復活しつつある。
そんなベイルートの中心街にときおり、街宣車(ホントに日本のと同じような街宣車)となぜか必ず黒色の古いボルボを連ねて黒戦闘服姿のヒゲ面男たちの集団が現れ、緑の旗を掲げて行進を始める。大音量で軍歌調の音楽を流し(ホントに日本の軍歌調)、高圧的にアジ演説を行なう。迷惑なことこのうえないが、怖いから誰も何も言わない。それこそ驚くほどに日本の右翼団体と同じスタイルだ。
日本の右翼と違うのは、彼らは武装していることである。さすがに街中で自動小銃を構えたりはしないが、幹部クラスの懐には拳銃が忍ばせてある。まさに暴力団だ。
この連中はどこから来るのかというと、ベイルート南郊に広がるシーア派居住地、とくにハーレト・タハレークという地区と、べエル・アル・アブドという地域である。スンニ派、あるいはキリスト教徒地区と比べて明らかに貧困街だ。それもただ貧しいというのではなく、あちこちにホメイニの写真が張ってあったり、女性が真っ黒なチャドルを被っていたりと独特の雰囲気がある。
街中に黒戦闘服というよりは黒シャツ・黒ズボンの男たちがたむろしているが、彼らがヒズボラの末端メンバーである。なかに仕切り人のような男がいて、やはり拳銃と、それにウォーキー・トーキーを持っている(今ではセルラー電話かもしれないが)。
この連中を住民は非常に恐れている。住民に話を聞くと、「神の党」を意味する「ヒズボラ」はべつに蔑称でもなんでもないわけだが、その名を口にするのが怖いようで、「ムカウメ」(レジスタンスの意味)という呼び方をする。
外国人がこうした地域に入りこむと、ものの数分で黒服軍団に取り囲まれる。そして、ホントに「事務所に来い」とやられる。これも暴力団とまったく同じだ。
ヒズボラの事務所はこうした町のなかでも、さらにスラムのような雰囲気の(つまり、人気の少ない)場所に点在している。モスクが使われることもあるが、内戦時代から復興されていない雑居ビル風の建物が多い。
そうした施設は周囲1ブロックごと封鎖されて、自動小銃を抱えた警備兵が配置されている。よく「イラン人民からレバノンの兄弟たちへ」などと書かれた横断幕を貼り付けた大型トラックが停車しているが、これはシリア経由で陸路物資を運び込むトラックだ。積荷は援助物資ということになっているが、実際には武器が多い。イスラエルの攻撃を恐れて、幹部の所在はかなり秘匿される。
筆者が取材したときには、トップクラスの大物ではなく、政治局員と名乗る人物が応対した。当ブログでも紹介した数日前のNスペ「テクノ・クライシス」でNHKは「ヒズボラ副司令官」という人物のインタビューを放送していたが、この副司令官という肩書きも、おそらくそれほどトップクラスの上級幹部ということではない。
ちなみに、筆者がヒズボラ幹部を取材したときは、会見までかなり長時間控え室で待たされたが、その間、何人ものメンバーが入れ替わりやってきて、筆者の取材歴からプライベートなことまで細かく聞かれた。みると部屋の備え付けの電話の受話器がフックから外れていた。他の部屋でモニターしていたのだろう。
なかには、「自分たちの仲間は日本にもいて、日本の事情はよく知っているぞ」と脅してきた男もいた。「TBSというテレビ局はけしからん。かつて党首が取材に応じ、2時間以上も話してやったのに、オンエアーでは1分くらいしか使わなかった」と怒っていた。
ヒズボラはジャーナリストを基本的にはあまり受け入れない。とくにイスラエルとの戦争中なので、軍事拠点は取材不可。筆者はロイター通信ベイルート支局の現地スタッフたちと懇意にさせてもらったが、彼らもヒズボラは怖くてほとんど接触しない。
ヒズボラの警戒ぶりに驚いたのは、ヒズボラの拠点でもあるベッカー高原のバールバックを訪れたときだ。街の外れにヒズボラの施設があって、走行中の車中からほんの数十秒間、望遠レンズで覗いていただけなのだが、いつのまにかヒズボラの車両に尾行されていて、そのままアジトに連行された。すっとぼけて切り抜けたが、かなり怖い時間だった。
前述したように、ヒズボラには政治勢力、社会グループ、民兵組織などさまざまな顔があるが、とにかく突出しているのが「暴力的圧力団体」=もっと正確にいえば「右翼暴力団」としての存在感である。レバノンにはそうした民兵組織が小さいものも含めるを他にもいくつもあり、ホンモノの犯罪組織(麻薬マフィア)も存在するが、ヒズボラの威圧感は圧倒的である。
こうした面はあまり報道されないことだが、右翼・暴力団を知らずに日本社会を理解することはできないのと同じで、ヒズボラのやくざな姿を知らずにレバノン情勢を理解することも難しいのではないかと思う。
- 2006/07/15(土) 13:49:20|
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またまたテレビ番組の話題からで能がない話だが、昨夜のNスペは北朝鮮のミサイル発射事件。5月はじめの徴候察知から、日米がこれまでにないほど緊密に連携しました---という内容だった。
だが、ここに来て、日々の報道でミサイル事件が扱われる量は確実に減ってきた。テポドンが日本列島を越えなかったこと、アメリカがそれほど激烈に動かなかったこと、国連安保理も明らかに「収拾」に向かったこと等々で、早くもテポドン・ネタも下火になってきた観がある。
筆者の知人のメディア関係者も、4~5日前まではよく、「テポドン2とテポドン3とテポドンXって何なの?」みたいなことをよく尋ねてきたけれど、ここ数日は誰も話題にすらしなくなってきた。
ちなみに、テポドン3とは、在韓米軍司令官ら米軍・情報機関筋が「北朝鮮が開発中」との見方を示している3段式のICBM。テポドンXは6月26日付『読売新聞』が米議会調査局情報として報じたもので、これも北朝鮮が開発中のICBMとのことだ(3とXはたぶん同じものを指していると思うが)。
もっとも、これらの情報はすべて未確認。公開情報だけなら根拠は皆無に等しい。テポドンとは別に「北朝鮮は新たな中距離弾道弾を開発中」とのこれまた根拠不明の報道もあるが、こうなってくると誰にも何がどうなっているのかわからないのではないかと思う。
それはともかく、テポドン・ネタがそろそろ下火だということでいえば、欧米メディアはもっと露骨だ。たとえば昨日のCNNやBBCではすでにほとんど取り上げられていない。代わって、イスラエルのレバノン攻撃、イラン核問題、アメリカのCIA工作員身元漏洩事件(元工作員側が米高官を提訴)などがメインの話題になっていた。とくに、国連安保理絡みでは、すでに北朝鮮からイランに完全に主題が戻ったといえる。
とにかく国際社会からみれば、自分から戦争を仕掛ける可能性が皆無に近い北朝鮮と、いつ何をするかわからないイランでは、優先順位は明らかにイラン上位になるということだろう。
ただし、国際メディアの扱いにこれだけの差が出るということに関していうと、極東よりも中東のほうが世界の中心に近いという意識がもたれていることも多少は影響しているのではないかという気がしてならない。極東はアフリカと同様、所詮は世界の端っこなのである。
ところで、それと少し話は違うが、この機会に今日は「日本は世界でどれだけ存在感が薄いか」ということを考えてみたいと思う。
多少の海外生活の経験から、筆者には世界と日本国内で「日本という国」の存在感に対する意識がものすごく乖離しているという印象がある。平たく言うと、日本人は日本を世界の主要国として認識しているのに対し、世界は日本のことなどほとんど眼中にないといって過言ではないと思うのだ。
日本の存在感の希薄さは、まずは国際政治の舞台においての発言力のなさが基本にあることは間違いあるまい。
たとえば、昨夜のNスペでは、「北朝鮮ミサイル問題で、日本はかつてないほど積極的に国連外交を行なった」と強調されていたが、結果をみれば、やはりアメリカと中国、それにロシアが少し絡んで状況は〝決定〟されており、日本の意向などほとんど影響力がなかったことがわかる。
『正論』8月号で、日高義樹氏が面白いことを書いている。ワシントンでは、基本的に日本のことなど興味を持たれていないというのだ。
たとえば、ワシントンではもちろん対日政策に影響力を持つ日本専門家もいるが、日本のメディアでは有名な彼らが、ワシントン政官界の中ではほとんど泡沫に近いポジションにあるらしい。だいいちワシントンの政治中枢では、日本の政治家の名前など誰も知らないともいう。日高氏によれば、ブッシュ政権は日本の次の首相についても「対中強硬派なら誰でもいい」ということで、それで最近ようやく「アベ」という名前が認知されたにすぎないのだそうだ。
そうだろうな、と思う。これらの指摘に関していえば、筆者も日高氏の見方に激しく共感する。
(ただし、安倍氏がアメリカの対日セクション内部で重視されるようになったのはずっと前からのようだ。たとえば、昨夜のNスペでは「6月15日に安倍=シーファー秘密会談がもたれ、ミサイル問題の連携策が練られた」と報じられていたが、この安倍=シーファー・ルートというのは、実は特別なものでもなんでもない。永田町記者のあいだではよく知られた話だが、シーファー大使はもうずっと前から安倍氏との協議を定期的に行なっている。これはポスト小泉レースが本格的にスタートするもっと前からのことで、そういった意味では、安倍氏は日本側キーパーソンとしてかなり前からアメリカの対日政策当局に〝認知〟されていたということになる。もっとも、対日セクション自体が米政権内で泡沫扱いならば、シーファー・ルートもそれほど重要ではないとの見方もできるが)
筆者は外交の現場は知らないが、少なくともメディアの取材現場をみても、日本の「影の薄さ」は明白だ。経済大国ニッポンからは、世界中のたいていの外国プレスの取材現場に、ちょっと異様なほど多くの日本人記者が集まるが、基本的に欧米人クラブである取材現場では明らかに〝浮いて〟おり、何につけ後回しに扱われる。
この疎外感というのは、東アジア、東南アジア以外の地域で仕事・生活をしたことのある多くの日本人が共有するものだと思う。
メディアの話に戻ると、日本では誰もが一目置くような大手メディアの特派員でも、現場で一目置かれているなどというケースはほとんどない。国際政治の中心であるワシントンでいえば、たしかに『ミート・ザ・プレス』で日本人特派員が立派に議論を戦わせている場面を何度か拝見したことはあるが、ワシントンで日本メディアが世界的スクープをとったという話は筆者は知らない。
筆者の知っている範囲でいえば、海外メディアに警戒されていた数少ない日本人ジャーナリストの1人は、ソ連=ロシア移行期のNHKモスクワ支局長だった人物である。当時、島派の筆頭幹部格だったこの人は、とにかくゴルバチョフ周辺に深く食い込んでいて、欧米プレスだけでなく、地元ロシアのプレスからも一目置かれていた。やっかみもあって悪評が圧倒的に多かったが、それはそれだけ注目の的だったということである。
いずれにせよ、こうした記者は非常にレアな存在である。それは記者個人の力量の問題というよりは、やはり日本という国の存在感の問題が大きい(ただし、モスクワの例でいえば、日本の存在感うんぬんより、日本メディアの取材予算が潤沢だったことが大きい。当時のモスクワは、ネタはすべてカネで買えた。まだ20代の一介のフリーランサーだった筆者ですら、カネで簡単にネタを買いまくることができた)。
海外のメディアに日本の政治が特集されることは、中国や北朝鮮と比べておそらく100分の1以下である。ネットでも同様。他にも書いたが、アラビア語ネットをみても、日本はまず話題にされていない。親日とか反日とかの前に、興味の対象外なのだ。
筆者は今年2月、宝島社より『謀略の昭和裏面史』という本を上梓し、そのなかで戦前・戦中の特務機関、あるいはその周辺で暗躍した〝大陸浪人〟などの活動について検証した。
良い悪いはべつにして、あの時代の日本はすごかったな、と思う。現在、『ワールド・インテリジェンス』第2号で「日本の対外情報機関」という特集記事を制作中なこともあり、ふとこんなことを考えた次第である。
- 2006/07/15(土) 09:35:31|
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インテリジェンス学という学問のジャンルがあるとすれば、日本でのその第一人者が、国立情報学研究所の北岡元教授だろう。外務省国際情報局国際情報課長や内閣衛星情報センター総務課長などを歴任された方だが、今日は、そんな北岡教授にお話を伺う機会を得た。
話題は日本のインテリジェンス機構改革についてということだったが、北岡教授の考えは非常に現実的なもので、わかりやすい。たとえば、対外情報機関を作ろうというプランが、先般の町村前外相時代の外務省大森懇談会、あるいはこれも町村議員が座長を務めた自民党検討チームより提言されているが(町村代議士自身は森派幹部としてポスト小泉の根回しに忙殺されているようで、この問題の主導的役割は現在小休止状態のようだ)、北岡教授は「まず、できることから始める」という考えでこの問題を捉えていた。
北岡教授はそれを「ロードマップ」と位置付けていたが、たとえば、新たな法整備をしなくとも、内閣官房の合同情報会議にイギリスの統合情報委員会のような常設のインテリジェンス評価スタッフを置いてはどうかと提言する。ヒューミントの組織を作ることも重要だが、日本ではまずそれ以前に、インテリジェンスを統合的に評価するシステムが必要だとの意見だ。
日本政府のインテリジェンス機構の整備については、どうも大方の役所で総論賛成・各論反対の空気が垣間見えるが、いきなり大変革するのが難しいならば、段階を踏んで一歩一歩進んでいくという姿勢も、この国では大切なことなのかもしれない。大事なことは、どういうかたちであれ、日本のインテリジェンス能力を高めるという「実」にあるわけだ。
それにしても思うのは、北岡教授のように、情報コミュニティの内実を熟知しながら、将来への提言をしっかりと発言される人がどうしてこうも少ないのかということだ。われわれメディアは、なにも国家機密を暴露してくれと言っているわけではなく(暴露してくれたらそれはそれでスクープになるが、ここではそんなことまで望んではいない)、現実の課題を身をもって知っている人たちに、「では、どうすればいいのか?」を聞きたいだけなのだが、それでも沈黙を守ろうとする人が少なくない。
それぞれしがらみだとか人間関係とかでいろいろ事情はあるのだろうが、たとえばアメリカなどでは情報機関出身者が大学や研究所に入り、セオリーとしてのインテリジェンスを論じているケースも珍しくない。CIA諜報研究センターや国防大学などの論文筆者には、そうした立場の人間も多い。国際的事件が起こると、元情報機関員が普通にCNNやABCなどに出演したりしている。
そのあたりの意識の違いが、日本社会のインテリジェンス軽視に一役買っているような気がしてならない。
- 2006/07/14(金) 01:50:34|
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7月10日、チェチェン・ゲリラの指揮官シャミル・バサエフが死亡した。現時点では戦死説・事故死説の両方があって、真相は確認されていない。
ただ、いずれにせよ、さる6月7日にイラクでザルカウィが殺害されたのに続き、イスラム・テロリストのカリスマがこの世から消えたということで、それぞれの地域の安定にはいくらか好材料となったとはいえるだろう。
筆者はチェチェンの取材経験はないので、バサエフ派の実態はまったく知らないが、バサエフ派従軍経験のあるおそらく唯一の日本人である軍事ジャーナリスト・加藤健二郎氏の評によると、彼はかなり「勇猛さ」を前面に押し出したゲリラ指揮官だったようだ。
実は世界中の紛争の現場では、こうしたある種〝好戦的〟なリーダーの存在が、流血拡大の大きな要因になっているケースは非常に多い。どこの世界でも、過激派は穏健派を「この臆病者!」と批判するため、容易に穏健派(=現実派)が凌駕されやすいのだ。
筆者は前出したようにチェチェン取材歴はないが、ヒズボラ、へズビ・イスラミ、コントラ、モロ民族解放戦線など、80~90年代の各地の反政府ゲリラの取材経験があるのだが、その経験からわかるのは、ゲリラの現場はたとえば不良グループあるいは〝いじめ”グループの現場に非常によく似ているということだ。
たとえば、ゲリラのメンバーで、その組織の綱領だとかイデオロギーだとかをちゃんとわかっている者はほんの一握りしかいない。あとは成り行きで参加した者ばかりだが、そうしたグループでは、良識ある意見は〝軟弱〟と決め付けられ、より過激で好戦的で残虐な意見を主張する者が主導権を握る。
ほとんどのメンバーたちは一部の過激リーダーの路線に感化される。日本の若者の不良グループやイジメ仲間と同様、ゲリラ集団はそんな群集心理で動くのだ(日本の大人社会で不正行為を行なう企業戦士も同様ですね)。
ザルカウィもバサエフも、言ってみれば、そんな〝番長〟のひとりだったのだと思う。
番長グループの下っ端の多くは、自分の意思ではなく、群集心理で悪さをする。したがって、不良番長が少年院に送られたりすると、残された取り巻きは自分から悪さをすることはあまりない。
ロシアのみならず、中央アジアや中東諸国など、全世界的に非常に評判の悪いチェチェン人の世界というのは、いわば「ガラの悪い札付きの不良校」に似ている。したがって、バサエフが死んでも、その代わりには事欠かない。だが、いくら札付きの不良校でも、皆が悪いわけではない。そんな悪環境のなかでも立派に生きている人はいくらでもいる。バサエフ死亡はそれなりにチェチェンの札付きたちには大きなダメージとなるが、筆者はむしろ逆境のなかでも希望を捨てずに頑張っているだろうチェチェンの良識派には大きなチャンスになると思う。
このようなことを書くと、「チェチェン人は大国ロシアに蹂躙されるかわいそうな民族」というステレオタイプなイメージを持つ人々には違和感を持たれることだろう。チェチェン人がかわいそうなことに異論はないが、彼らの苦悩の責任は、ロシアと不良番長(その筆頭がバサエフ)の両方にあると思う。できもしない威勢のいいスローガン(たとえば「ロシアを駆逐し、独立する!)を唱えて一般の住民たちに不幸をもたらしても、自分たちの愚に気づかず、「我こそは正義だ」と単純に信じている不良番長の罪は重い。
パレスチナなどにも言えることだが、できもしない夢のために住民に不幸をもたらしている愚かな番長グループを、外国プレスが後押ししていることも問題だと思う。この機会に、筆者がよく知るゲリラ取材の現場の雰囲気を紹介しておこう。
外国人記者がゲリラを取材する場合、ゲリラ側は「この記者は自分たちの味方だ」と考える。取材者側が取材を受け入れてもらえるように、そういった空気にわざと誘導するからだ。また、実際にフリーランスの記者などの場合には、もともとシンパだった記者が取材に入ることが多いのも事実である。
そうすると、取材現場はどういう雰囲気になるか?
ゲリラ側は自分たちの主張を語るが、それが無条件で評価されることになる。取材者も「そうだ、そうだ!」と言っていると結構気持ちがいい。だが、その主張はもちろん、現実路線の穏健派のものではなく、非現実路線の過激派の主張だ。
それにより、ゲリラの現場では過激路線がますます強化され、現実路線は排除される。たとえその主張が現実性のないもので、住民の犠牲の継続しかもたらさないものだったとしても、ゲリラ側は「外国人たちはわかってくれている」と勘違いしてしまう。紛争現場では、ますます原則論を語る過激派の立場が強化されるということになる。
だが、紛争現場に生きる人々は、もっと現実的な考えを内に秘めていることが非常に多い。筆者の経験からしても、「皆はそう言っているけど、ホントかね?」というスタンスで話をこっそり聞くと、「いや、実はそうなんだよね」という反応が返ってくることが非常に多い。結果的に、ゲリラにシンパシーを持つ外国取材陣は、紛争解決を阻むかなり迷惑な存在になってしまっている可能性もあるわけだ。
筆者もそのことに気づくようになったのは、紛争地取材を始めて何年も後のことである。
- 2006/07/13(木) 05:41:02|
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TBSで今日放送された「CBSドキュメント」で興味深いレポートがあった。アブ・ジャンダルと名乗る元ビンラディン側近のインタビューである。
番組の途中から見たので、調べてみないとこの人物の経歴はわからないが、ビンラディンのボディガードをしていた人物ということで、その後、2000年にビンラディンにイエメンに派遣されたという。
その任務はビンラディンの4番目の嫁探し。これは、タリバンに追放された場合に備え、イエメンに新たな拠点を確保するための政略結婚だったとのこと。アブ・ジャンダルはその任務を遂行し、ビンラディンは17歳のイエメン人の娘を嫁に迎えたという。
ここからちょっと面白いのだが、ちょうどその頃、イエメンでは米駆逐艦コールのテロ事件が発生する。アブ・ジャンダルがそれにどう関わったか不明だが、イエメン当局の捜査により逮捕された。2年間(だったと思うが)拘束された後、「イエメン国内でテロ活動をしない」「国外に出ない」との条件で釈放される。ちなみに、拘束中に9・11テロが発生し、その数日後に彼は米FBI捜査官の尋問を受けている。
その後、彼は現在もイエメン国内で自由の身として生活している。寝返ったわけではなく、今でもビンラディンへの忠誠心は、少なくともこのインタビューではバリバリに示している。
アブ・ジャンダルの証言で注目されるのは、98年の在アフリカ米国大使館連続爆弾テロの後にアメリカが行なったアフガン&スーダンへのトマホーク爆撃時のエピソードである。
米大使館テロの後、ビンラディンは米軍の報復を予想し、拠点としていたアルカイダ軍事キャンプから極秘裏に移動した。その際、カブールとホーストという町への街道の分岐点で、ビンラディンは側近たちに「どっちに向かうのがいいか?」と訊ね、皆が「カブールがいい」と言うとそれに従った。ところが、「ビンラディンがホーストに向かったらしい」という情報がCIAに入っていて、それでトマホークはホーストのアルカイダ拠点を爆撃。結果、ビンラディンは生き延びたという顛末だったとのことだ。
なお、アブ・ジャンダルによると、このとき[ビンラディンがホーストに向かった」との情報をCIAに売ったのは、アフガニスタン人のコックだったということだが、ビンラディンはこのコックを殺すどころか、カネを与えて家に戻したという。これで「やっぱりビンラディン師はすごい人物だ」ということになったらしい。
また、アブ・ジャンダルは、かねてより言われてきた「ビンラディンは人工透析を必要とするほど腎臓病を病んでいる」との説も完全否定した。彼が言うには、ビンラディンはかつての対ソ連軍戦の際に化学兵器で喉をやられ、その後遺症が若干ある程度だということである。
また、アブ・ジャンダルは現在のビンラディンの所在地について、「パキスタン領内ではなく、アフガン内だ」と断言した。なぜなら、「パキスタンの部族は情報をカネで売るからだ」ということである。
もっとも、これらの証言をどう評価するかというのは、なかなか難しい。これだけビンラディンに近かった人物がマスコミに登場するというのは珍しいことなので、注目に値することは間違いないが、コメントにはCBSの演出も施されているし、アブ・ジャンダル自身の現在置かれている状況の影響もあるだろう。ある程度〝引いて〟捉えることは必要だろうと思う。
さて、この番組では、アブ・ジャンダルとともにもう1人、重要な人物が登場していた。元CIAテロ対策センターのビンラディン班長だったマイケル・ショワーである。現役時代に匿名で『帝国の傲慢』という本を書き、後にCIAを退職してか実名でブッシュ政権のテロ対策を批判している
人物だ。
番組のなかでのショワーの登場のシーンを見逃したので、どういう立場なのかはっきりとはわからないが(調べてないので)、その後の番組内のナレーションに「今では私たちの同僚となったショワー氏は~」というものがあったので、彼はCBSのブレーンになったということなのだろうと思う。彼はアブ・ジャンダルの情報源としての価値に太鼓判を押す役割を番組内で果たしていたが、(番組冒頭を見逃したのでわからないが)もしかしたら彼がアブ・ジャンダルのネタをCBSに持ち込んだのかも知れない。
[元ビンラディン側近の証言]の続きを読む
- 2006/07/13(木) 03:41:53|
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7月11日午前0時、91年に発生した筑波大助教授殺害事件の時効が成立した。犯人が日本国内に留まっていれば、これでもはや罪に問われることはないが、海外にいたとすれば時効は不成立になるということで、警察も捜査を終結しない方針と伝えられている。
だが、これまで15年間かけて被疑者が特定されなかった経緯からすると、今後真犯人が逮捕されるという可能性はかなり低い。
では、これまで被疑者はまったくいなかったのか?
じつは、この件に対し、真偽の確認はできないが、警察情報に強いあるマスコミ関係者から、「かなり確かな話」として、興味深い情報が寄せられた。捜査本部では当時、あるパキスタン人を集中捜査していたが、国外に逃亡されて捜査の続行が不可能になった経緯があるのだという。確証はないものの、どうやらイランに雇われたヒットマンらしいということだった。
当時、イランのイスラム政権の秘密情報機関は、とくに西ヨーロッパの各国で反体制イラン人などの暗殺を日常的に行なっていた。そのような国だから、『悪魔の詩』に関係した人間を殺害しようとしてもなんら不思議ではない。
当時のイラン政府の海外暗殺団としては、事実上の「手先」であるレバノンのヒズボラを使うのが一般的だったが、極東の国・日本では、ヒズボラもなかなか動けない。そこで、イスラム教徒として日本ではもっとも深く浸透している民族のひとつであるパキスタン人の殺し屋と契約したということは、充分に考えられる話である。
- 2006/07/12(水) 01:26:48|
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昨夜、NHKスペシャル「危機と戦う/テクノ・クライシス②ロボット技術・軍事転用の戦慄」を興味深く観た。さまざまなロボット技術がいまや戦争の中核的技術になりつつあるという現状を紹介する企画だった。
だが、「クライシス」がテーマだったためか、全編に「軍事転用はけしからん!」「なんて恐ろしいんだ!」という点が強調されるように、MAやナレーションなども恣意的に演出されて構成されていた。NHKとしては珍しい強い〝反戦メッセージ〟を持った番組だった。
ただ、筆者が思うに、先端技術の軍事・民生の壁というのは現実にはないも同然だから、障害者向けのすばらしいロボット技術も、いずれ否応なく戦争に応用される。番組では、軍事転用を悪と断言する大学の先生がいかにも「いい人」で、軍事に関わる人がみな悪玉と描かれていたが、「いい人」も言ってみれば「自分の手を汚さない」だけでもあるわけで、そうした根本的な問題提起まで踏み込めばもっと良かったかなという印象だ(もっとも、番組担当者はそんなことは百も承知だと思うが)。
もっとも、主旨を隠して取材し、撮影した素材を恣意的に悪用する手法は明らかにアンフェア。野心的なテーマに取り組んでいただけに、そこがちょっと残念ではある。
さて、それはともかく、同番組には興味深いロボット技術がいくつも紹介されていた。とくに偵察機の世界は、『ワールド・インテリジェンス』創刊号でも巻頭グラビア特集で取り上げたが、もはや戦争の主役となってきた観がある。
番組が紹介したなかで筆者がもっとも興味を覚えたのは、現在開発中の兵器として、無人ヘリから超小型ラジコン・ヘリを有線操作する2段構えの偵察用兵器である。建物の上空でホバーリングした親無人ヘリから発進されるその子ヘリを、窓などから建物の中に侵入させるということで、とくに市街戦で威力を発揮しそうだ。
イスラエルの偵察機専門部隊も取材されていたが、イスラエル軍将校も「いまや偵察機が投入されない軍事作戦は考えられない」と断言していた。
そのイスラエル部隊の軍事作戦の例として、96年4月のレバノン侵攻作戦が挙げられていた。当時、イスラエル軍は南レバノンの国連軍ポストを爆撃し、100人もの避難民を殺害したことがあったのだが、その攻撃中も上空でイスラエル軍の無人偵察機が投入されていたことから、イスラエル軍は故意に国連軍ポストを攻撃した可能性があるというのである。
じつは、筆者はそのとき、ちょうどその戦争を現場取材中で、国連軍ポスト誤爆事件も現地でリアルタイムに取材していた。爆撃された国連軍ポストには、かねてからヒズボラが避難民に紛れて潜り込んでいたことは事実なので、故意の攻撃の可能性は大いにあり得ると思っていた。
真相は不明だが、無人偵察機の偵察能力は、それほど高いことは事実である。
番組でも、イスラエルの無人偵察機が撮影したヒズボラの映像、あるいは米軍の無人偵察機が撮影したイラク武装勢力の映像、さらに米軍無人偵察機が撮影したアフガンのアルカイダ訓練キャンプの映像などを紹介していたが、個人の詳細な動きまで判別できるきわめて精緻なものだった。
今後、通常戦力でみるならば、この無人偵察機を持つ国と持たざる国では、実戦能力に雲泥の差が出ることは間違いないだろう。
- 2006/07/11(火) 17:21:37|
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先月末、弊誌のサイト(www.wldintel.com)を四苦八苦しながら手作りで立ち上げましたが、弊誌第2号の作業と同時にやってますので、データベースなどまでまだ手がまわりません。
当面、サイトにアップできるような調査・取材の余裕がないので、七転八倒しつつ、まずはブログで雑感報告からはじめたいと思います。こちらは個人のブログなので、独断と偏見OKということで悪しからず、です。
内戦に向かうイラクの今後
7月9日、スンニ派住民の多いバグダッド西部のジハード地区で、シーア派武装集団が通りを占拠し、スンニ派住民だけを選別して40人以上を殺しまくるという事件が発生した。犠牲者には女性や子供も多く含まれるようだ。
目撃情報によると、武装集団は黒い戦闘服姿でさらに黒覆面をつけていたという。こうしたスタイルからすると、(本人たちは関与を否定しているが)シーア派民兵組織「マフディ軍」かその関連グループの仕業である可能性がかなり高いと思われる。
イラクでは現在、シーア派の武装集団がかなり大っぴらに暴力事件を起こしている。その〝主役〟は2つ。1つは前述したマフディ軍であり、もう1つは、イラク・イスラム革命最高評議会やダワ党らシーア派民兵が多数参加したイラク警察の一部が事実上の暴力民兵化した連中だ。
こうしたシーア派民兵は現在のイラクでは、逃げ隠れすることもなく、堂々とイラク中のシーア派エリアで徒党を組んでいる。代紋を掲げた日本の暴力団組織のようなもので、誰も怖くて手を出せないでいる。シーア派の取り扱いに苦慮している米軍も、その取り扱いには困っているというのが現状だ。
彼らが今ではイラクの少数派となっているスンニ派住民を攻撃する一方で、対するスンニ派側では、旧フセイン派残党や外国人義勇兵なども含む民兵組織がシーア派への攻撃を執拗に行なっている。こちらは米軍と戦争中なので、完全に地下に潜った秘密組織となっている。そのため、こちらはシーア派地区での爆弾テロを行なうケースが非常に多い。
これらの2派の極悪民兵の存在のおかげで、イラクは今、宗派内戦の危機に向かっている。
今回のジハード地区での虐殺事件には伏線がある。前日、当日と同地区の別個のシーア派モスクで連続爆弾テロが発生し、少なくとも19人が殺害されているのだ。犯行は当然ながらスンニ派武装勢力で、それを受けてシーア派民兵が同地区に多くの部隊を送り込み、一般住民への報復を行なったというわけである。
報復には報復で応えるというのがイラク流だ。翌10日には、シーア派住民の多い東部のタルビヤ地区で爆弾テロが2件発生した。12人が殺害されているが、もちろんスンニ派側のテロだろう。
イラクでの宗派対立というのは、米軍によるイラク攻撃の頃から予想されていたことで、アメリカもその危険性は重々承知のことだったが、やはりそれを抑えることはなかなか難しい。
サダム・フセイン政権が打倒されたのと同時に、シーア派側の動きは始まっていたが、イラクの宗派対立に火をつけたのは、殺害されたザルカウィのグループである。イラクでの対立軸は当初、スンニ派武装勢力vs米軍、シーア派民兵vs米軍という構図だったが、ここに来てスンニ派vsシーア派が先鋭化したことは、逆に言えば、米軍にとっては〝少し引いて構える〟余裕が生まれることにもなる。
中東の民主化を標榜したのが、アメリカのいわゆるネオコンだが、現実にはうまくいかない。なぜか。アメリカがいきなり前面に出たために、反米というスローガンが大流行したからである。これでは、何をやっても「アメリカのせいだ」ということになるのは明白だ。
結局、イラク情勢はアメリカ次第というところがあるが、その観点からみると、現実にイラクの将来は次の2つのどちらかになるしかないのではないか。
1つは現在の路線、すなわちアメリカが軍事的にイラクをコントロールし続けるという未来。ただし、これだと反米運動はなかなか収束しないから、長い時間をかけて彼らの疲弊を待つということになる。
もう1つは、どういう形式をとるのかはともかく、アメリカが実質的にイラクから劇的に手を引くという未来である。この場合、イラクはスンニ派、シーア派、クルド人の3つ巴の戦いに突入することになる。「民族自決でやらせてみたら、結局ダメだった」ということを皆が納得するまで、いったん「イラク人自身の失敗の経験」が必要なのかもしれない。
このどちらの道がイラク人にとってベターなのかはわからない。どちらにせよたくさんの血が流されるからだ。だが、問題はどちらがより犠牲が少ないかということではないか。
ここで思い起こされるのは、3つの国の経験である。
1つは、アフガニスタン。ソ連軍撤退後に米英などが手を引き、パキスタンに任せたら、タリバン政権が出来た。結果、治安は回復したものの、アフガン国民は恐怖政治に苦しみ、国土はテロリストの聖域になった(もっとも、タリバン以外の軍閥も、日本で人気の故マスード将軍を含めてロクなものではなかったが)。
2つめは、ソマリアである。内戦で餓死者続出の危機的状況となり、国際社会が収拾に乗り出したが、主役のアメリカ軍に対してソマリア人が大反発。アメリカも嫌気がさして引き揚げた。地元民衆の声が勝利したわけだが、そのおかげで10年以上が経過した今も内戦中である。
3つめはアルジェリアだ。民主化したらイスラム原理主義が勝利してしまったので、世俗派の軍部が強権的手段で弾圧を開始。民主化弾圧の典型的事例となったが、対するイスラム側が狂乱の無差別テロに討って出たことで自分の首を絞めた。長い内戦で10万人レベルの犠牲者(もっとも、その半数は政権側による処刑の疑いがある)を出し、そのあげくにイスラム陣営の支持が瓦解した。
ここで指摘したいのは、「どっちに転んでもうまくいかない」ということである。アメリカがこのまま突き進んでも問題は解決しないが、ブッシュ政権反対派が言うようにすればうまくいくかというと、そんなこともない。
ただし、「アメリカが手を引くとイラクは反米テロリストの温床になる」という段階はもう過ぎたのではないかとも思う。仮に現時点でアメリカが手を引くとすれば、イラク国内のスンニ派武装勢力の主力はシーア派との抗争に没頭することになる。どちらにせよ欧米へのテロを志向する勢力はなくならないが、そんな制限されたテロ組織に出来ることは限られている。
それはともかく、上記3カ国の経験などから歴史が教えてくれる真実のひとつは、現地人任せにしてもうまくいかないことはうまくいかないということである。そのしわ寄せをいちばん食うのは、まさに現地の一般住民なのだが、それについてはまた機会をあらためたい。
- 2006/07/10(月) 17:21:50|
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