震災1周年を、故郷のいわき市で過ごしました。かつての悪友たちがみんな、復興に向けて立派に頑張っていました。

高校時代のバンド仲間だった同級生がボランティアで参加していた「勿来の希望 鎮魂祭」。いわきは原発問題ばかりが注目されますが、津波で亡くなった方々もおられます。(※以下、写真はすべて慣れない携帯で撮影したものなので、クオリティはご容赦ください)

壊滅した久之浜地区です。

海岸に花を手向ける人々。久之浜地区にて。

津波で壊滅した薄磯海岸にある豊間中学校の校庭に積み上げられた瓦礫。岩手や宮城の瓦礫でさえ引き取り手がない状況ですから、こちらは絶望的ですね。放射能なんか付いてないのですが・・・。

3月10日の実測(平白土地区)は毎時0・27マイクロシーベルトなり。もちろんゼロではないですが、騒ぐほどでもない数値ですね。

壊滅した薄磯海岸。子供の頃から泳ぎまくった浜です。

警戒区域の検問所。今回は取材ではなかったので、行けたのはここまで。テロ警戒なのか、写メを撮っていたら氏名・年齢など細かく尋問されました。

おなじみのJビレッジ。後ろは煙を吐く原発・・・ではなくて、広野の火力発電所。広野は役場が帰還して話題となりましたが、見たところまだまだ帰還者は少ないようでした。

地震発生時刻の黙祷。「勿来の希望 鎮魂祭」会場にて。
夜は同級生たちと呑んだりもしましたが、いわきは今、不動産バブル状態にあるそうです。原発作業員や復旧工事業者が集まっているほか、警戒区域の人たちの転入需要が多く、どんなボロでも貸家、アパート、ホテルはすべて満室。古民家も軒並み買収されて、土建屋さんの事務所や寮があちこちに出来ています。それでも足らずに、原発作業員などは茨城から通っている人も多いとのこと。仮設住宅は余っているのですが、法的に被災者収容以外には使用できないのですね。
不動産のほか、羽振りがいいのは土木業、建築業、運送業、飲食業あたりですね。夜の町では、昨年までは原発関係者が多かったのですが、どうやら東電の自粛命令が出ているらしく、今ではもっぱら除染に携わる重機・ダンプ関係の業種の方々が中心らしいです。ありがたいお仕事ですが、ワイルド系の方が多いので、ちょっと荒れてるとの話も聞きます。
放射線に関しては、人々の考え方はそれぞれですが、いわきは線量が低いので、みなさん普通に暮らしています。農作物も普通に作られていますし、基準値を超えないで市場に出回ったものは、たいていの人は普通に食べています。ただし、県外ではなかなか買ってもらえないので、農業は将来的にもなかなか難しいように感じました。
賠償をめぐっての問題はやっぱり出てきています。が、カネの問題は、被災者批判タブーもあって、なかなか表面には出ません。復興に向けて頑張っている人がほとんどのなか、ちょっと悲しい話です。
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- 2012/03/13(火) 13:25:02|
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最近、拙ブログ「写真館」シリーズもかなり懐古趣味になってきていますが、こんな写真もあり。SNSにアップしてみたら知人関係にはちょっと好評だったので、調子に乗ってみます。

今からマイナス23歳、マイナス20kgの頃の私の、個人的な記念写真です。
中米ニカラグアの反政府ゲリラを従軍取材中、部隊の燃料補給待ちが何日も続いたときがあって、その間、軍事訓練を受けてみました。射撃の成績は、まあまあ悪くありませんでした。止まっている的を狙った範囲ですが。
SNSでも質問が出たのですが、使用している銃はAK47です。反共ゲリラなのですが、武器はCIA資金で、ダミー商社経由でブルガリアの武器商社「キンテックス」から購入したと聞いています。
キンテックスは当時はKGB配下だったブルガリア諜報機関のフロント企業なので、CIAの敵サイドになるのですが、どういうカラクリなのかはよくわかりません。武器ビジネスの世界はとにかく奇奇怪怪です。
ただ、世界のどこでも、左右どちらでも、ゲリラはどこも基本的にはAKシリーズです。非ソ連製コピーとかも大量に流れていますが、とにかく安くて強くてメンテも楽で、と大人気。質の良いものは、やはり現場ニーズがあるのですね。
ちなみに、数えたわけではありませんが、私の印象ではニカラグア反政府軍の95%くらいはAKだったと思います。残りはM16、G3、FN-FALとかでしたが、幹部クラスにはFALが人気ありました。どうせなら全部AKにしたほうがいいと思うのですが、FALを持っていると「クールだぜ」というような雰囲気がありましたね。
(追記)
私をドンパチ好きなガンマニアと思われた方もいたようなので、誤解なきよう追記します。
武器一般に興味はありますが、それだけです。私はへタレなので、鳥を撃つこともビビって出来ません。ゲリラが撃ち殺した鳥の肉は謹んで頂きましたが、自分で殺すのはダメですね。兵士はおろか、狩猟が必須科目の英国貴族にもなれそうにないです。
- 2011/12/07(水) 07:25:48|
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スパイ&テロとはまったく関係ないものですが、カメラマン時代に発表した写真記事も何点か手元に残っていたので、ついでにアップしておきます。

スペインでテロ対策関連を取材中、たまたま左翼の反政府デモに遭遇。デモ参加者(中央)が私服の公安警察官たちに逮捕されました。スペインの警察はかなり過激で、催涙弾を撃ちまくり、デモ隊を平気でボコボコにします。撮影者もデモ隊側と見なされるので、ちょっと危険です。

こちらは一転してほのぼの系というか、いわゆる「街ネタ」あるい「暇ネタ」と呼ばれる記事。「アメリカでドライブスルーの裁判所がオープン!」という記事です。今はあまり見かけませんが、以前の週刊誌にはこのテの記事がよくありました。

スポーツ写真もときどき撮りました。これは全米大学アメフト選手権の記事です。

こちらはウインブルドンのプレ大会で決勝まで勝ちあがった全盛期の松岡選手です。たまたまイギリス滞在中に撮影オファーがありました(以上4点はいずれもフライデー)
(追加)
私は週刊誌出身なので、国内外ともにニュース取材が多かったのですが、たまにはドキュメント風のものもやらせていただいたことがあります。下は宝島で、当時は社会現象になっていた「コギャル」の聖地・渋谷センター街の風景です。






当時は偽造テレカを売るイラン人だらけでしたね(上写真の右上)
- 2011/12/04(日) 14:43:48|
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TVカメラマン業界では「見切れる」というのは「はみ出す」の反対で、「写り込んでしまう」ことをいいます。
資料整理していたら、懐かしい記事が出てきました。自分が映ってしまっている記事を記念に保管していたのですね。こういうのをサイトに掲載するのは、本来なら著作権的にアウトだと思うのですが、個人ブログなので大目に見てください。

当ブログの「写真館」にも私が当時撮影した別の写真を収録しましたが、北朝鮮・平壌です。北朝鮮に密入国した韓国の女子大生活動家が集会に参加したときの場面。左に写り込んでいるカメラマンが当時の私です。当該ページだけ保管していたので、誌名は失念しましたが、たしか日本の朝鮮総連系のグラフ雑誌です。

同じ場面。もう少しはっきり見切れてます(写真右のカメラマンです)。ちなみに、このアルジェリアTVクルーはとにかく迷惑でした。こういうところが、アラブ人のダメなところです。

これは見切れているのではなくて、自分がモデルになって画作りをした場面(座ってる怪しい男が私)。
なにやらエロティックな写真ですが、ドイツ誌『シュテルン』で「SEX in JAPAN」と題し、日本の性文化についての大型特集記事を作りました(ま、若い頃はいろんな仕事やってます)。吉原のソープランドで撮影。カメラマンはかの有名なマグナムの人でしたね。
なんだかよくわらないシーンですが、そのスイス人のマグナム・カメラマンのイメージです(同行編集者の事前の体験取材で非西欧的な献身サービスが衝撃的だったらしく、そんな雰囲気を強調したかったよう)。このときヤツはなんと私にも「脱ぎ」を要求したのですが、「それだけは嫌!」となんとか逃げ切りました。
ちなみにこのカメラマンは日本のヤクザの写真集なんかも出しているドキュメンタリー写真家なのですが、スナップ・ショットを一切撮らず、すべてのカットでたっぷり時間をかけて綿密に画作り(つまり「仕込み」)をするスタイルでした。日本の週刊誌でも画作りは普通に行われていますが、これほど時間をかける人はあまりいません。私のスタイルとは違いますが、いろいろ勉強にはなりました。
それにしても、日本にいるとあまり気付きませんが、スイス人のカメラマンもドイツ人の編集者も、とくに日本の性風俗産業には非常に驚いてましたね。世界でも独特の文化みたいです。
この他、女子体操のナディア・コマネチがアメリカ亡命したときのケネディ空港での記者会見で、コマネチのすぐ横に私がはっきり写り込んでいる写真が、かのメジャー誌『ピープル』にたしか1p縦位置ぶち抜きで掲載されたのですが、見つかりません。紛失したようで、ちょっとガッカリです。
- 2011/12/02(金) 11:47:08|
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シリアの「革命」は3月15日のダマスカスでのデモが一般には端緒とみられています(南部ダラアではその少し前から始まっていますが)。なので、もう半年が経過したことになります。
反体制派はようやく内外の各グループが連携し、「国民評議会」が作られました。が、リビアの国民評議会と決定的に違うのは、国内で「支配区」を持っていないことです。なので、国民評議会の会合もトルコで行われています。
今後、反体制運動はこの組織を中心に動いていくことになりますが、まだまだ先の見通しは立ちません。欧米・アラブ諸国と外交的に連携し、アサド政権に圧力をかけていくことになるかと思います。もっとも、今のところは反体制デモを継続する以外、国内での活動の方針は決まっていません。同じような状態で半年経過しましたが、このままでは埒があかない感じになっています。
当然、反体制派も次なる展開を考えているのでしょうが、今後、国内でリビアのような内戦化を目指すのか、あるいはアサド政権に国連監視下の早期選挙を突きつけるなどの交渉路線に転じるのか・・・ただし、今のところそうした方向に進む徴候はありません。
とにかく、シリア革命は中東民主化の天王山です。イスラエルやイランの情勢に直結するシリアが民主化されれば、そのインパクトはエジプトやリビアの革命など比べものにならないほど大きいと思います。シリアが民主化されれば、将来的には次はいよいよ本丸のイランが視野に入ってきます。
世界は今、冷戦終結に次ぐ時代の大転換期を迎えていて、その第一幕のクライマックスが現在のシリアであり、第2のクライマックスが将来のイランとなるのではないかと私は考えています。シリアとイランが民主化されれば、世界はまったく違うステージに突入することになります。
いずれにせよ、現在進行中のシリア革命は、それほど重大なものであると思っています。
ところで、某月刊誌の寄稿記事が校了し、これでとりあえず夏のレバノン取材関連の発表は一段落です(シリア革命そのものはまだまだこれからですが)。そこで、レバノン取材時の写真をアップしておきます。

レバノン北西部のシリア国境地帯です。こんな感じの低い山というか、丘陵が続いています。レバノンのド田舎ですが、貧しい山村という雰囲気ではないですね。比較的立派な家が多く、そこそこハイレベルな暮らしぶりです。

シリア難民収容施設。ちょうど夏休み(向こうは7~9月の3ヵ月が休み!)だったので、地元の小学校が使われていました。左手にある車両は援助団体の医療支援車両です。

難民は教室内で雑魚寝&自炊生活。家族以外は男女別に分けられています。もともと出身地で友人同士だった人ばかりなので、それなりに楽しそうですが、シリア秘密警察と親シリア派のレバノン官憲人脈が危険なので、外出は難しいそうです。

難民女性。生活費が要るので、夫を地元に残して女子供だけ逃げた家族が結構います。ちなみにシリアの携帯電話で通話可。情報化はこんな田舎まで浸透。

凄い傷跡ですね。デモ参加していて治安部隊に捕まり、ナイフやナタで文字通り半殺しにされたそうです。

レバノン側国境から見たシリア領内の村。手前の林の中に小さな国境線の川があります。このあたりのシリア側住民の多くは密輸業者で、けっこう立派な密輸御殿が多いです。

取材した人①
ダマスカス近郊キスワトゥのデモ指導者(公安警察に追われてレバノン北部潜伏中)。顔出し・実名NG。

取材した人その②
今回の取材のメインの目的は、この人にインタビューすることでした。シリア各地のデモをコーディネートしている「シリア地域調整委員会」(LCCS)の中心人物のひとりであるオマル・イドリビー氏。ホムス出身の人権活動家で、今回のシリア革命の仕掛け人のひとりです。
活動家のほとんどはシリア秘密警察を恐れて匿名・顔出しNGで活動しているのですが、イドリビーさんは数少ない実名活動中の人物。アルジャジーラなどの国際メディアも常連です(ただし、英語が不得手なのでアラビア語メディアのみ)。
イドリビーさんは単に反体制運動のスポークスマンというだけでなく、国内で撮影され、持ち出された映像のネット配信でも中心的役割を果たしています。会見場所はベイルート市内の秘密アジト。

取材した人③
レバノンのオンライン・メディア「NOWレバノン」のハニン・ガダル国際部長。シリア革命発生当初から、いち早くシリア情勢専用ページ「NOWシリア」を立ち上げ、英語・アラビア語のバイリンガルで記事と映像を発信し続けています。なかでも英語ページは、シリア情報に関する英語ソースとしては、もっとも重要な役割を果たしているサイトのひとつになっています。なお、レバノンはアラブ圏のIT先進国であり、ガダルさんはアラブ地域のIT事情にも詳しい方です。
(追記)
発表メディアは以下。
「正論」
「軍事研究」
「フライデー」
「BSフジ」
「TBSニュースバード」
- 2011/09/16(金) 11:10:00|
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本日発売になった洋泉社ムック『戦場カメラマンという仕事』
(⇒アマゾン)に写真を5点(巻頭グラビア×2点、本文口絵×3点)採用していただきました。私が紛争地取材を最後にやったのは97年なので、もう14年も前に現役を引退したわけですが、ちょっと前に軽い気持ちで当ブログに過去写真をアップしてみたのがきっかけで、ロフトのイベント、写真誌『FLASH』、今回の洋泉社ムックと立て続けに過去写真を採り上げていただくことができました。どういうかたちであれ、自分の撮影した写真が少しでも世に出ることは嬉しいことです。なんでもやってみるものですね。
今回の本では、それは錚々たる方々の写真が載っていますから、私なんぞの出る幕はたいしてなかったわけですが、それでも少しでも多く採用していただこうと思って、じつはそれなりに時間・労力をかけてかなり大量のポジやネガ(現地から即日電送するためにカラーネガで撮影した素材も結構あります)の素材を再度チェックし直し、データ化作業やトリミング作業などを行いました。巻頭4Cで採用していただいたのはわずか2点だけでしたが、せっかくそうしてデータ化したので、過去エントリーと重複しますが、今回は私の自選の10点を並べてアップしてみたいと思います(過去エントリーの写真はほとんど、ポジかベタをコンパクトカメラでテキトーに接写しただけだったので、画質が劣悪なうえに、歪み・ピンボケがかなりありました)。自己満足ですが、お許しください。
撮影年の順でアップします。
①ニカラグア内戦(88年10月)
中米ニカラグアでは、80年代に左翼政権と右派ゲリラ「コントラ」による激しい内戦が続いていました。私は約3カ月間、密林の戦場でコントラの従軍取材をしました。写真は政府軍前線基地への攻撃に向かう突撃隊。私は当時25歳で、週刊誌編集者を辞めたばかり。初めての本格的な戦場取材でした。

(発表メディア・以下同)
「朝日ジャーナル」
「週刊プレイボーイ」
「WEEKS」(NHK関連ニュース誌)
②米軍パナマ侵攻(89年12月)
89年12月、反米政策をとるパナマの独裁者・ノリエガ将軍を排除するため、米軍が電撃的な侵攻作戦を開始、わずか数日でパナマ市を制圧しました。写真はパナマ国防軍の狙撃手と交戦中の米陸軍第82空挺師団第1旅団の兵士。

「フライデー」(特派)
「週刊宝石」
「週刊プレイボーイ」
「週刊文春」(写真1点のみ)
「朝日ジャーナル」(写真1点のみ)
③ペルーの対テロ戦(90年5月)
80年代から90年代にかけ、南米ペルーではアンデス山中を中心に、極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ」(輝く道)のテロが頻発し、それに対する政府軍の鎮圧作戦が続けられていました。写真は、センデロの本拠地だったアヤクチョ県ワンタ地区で活動する陸軍対テロ特殊部隊。1週間の山地潜入偵察作戦に従軍して撮影しました。

「フライデー」(特派)
「週刊現代」
「週刊プレイボーイ」
④フィリピン南部の分離独立闘争(90年10月)
フィリピン南部に居住するイスラム教徒の反政府ゲリラ「モロ民族解放戦線」(MNLF)が、70年から96年まで分離独立を目指して激しい武装闘争を繰りひろげていました。MNLFが86年に本拠地・ホロ島で日本人カメラマンを長期監禁して以来、外国人記者の取材は危険だといわれていましたが、90年に同島に潜入し、MNLFの取材に成功しました。

「週刊宝石」
「週刊プレイボーイ」
⑤湾岸戦争(91年1月)
91年1月、米軍を中心とする多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争が勃発しました。サウジとイラクのビザが下りなかったので、周辺国のイスラエル、トルコ(イラク逃亡兵収容所&多国籍軍基地)、ヨルダン(避難民等)、イラン(イラク国境エリア)の取材をしました。
イスラエルでは、開戦当初からイラク軍が弾道ミサイル「スカッド」で攻撃。イスラエル側は迎撃ミサイル「パトリオット」で対抗しましたが、実際にはほとんど撃ち漏らしていました。写真はテルアビブ市郊外のスカッド被弾地での救助活動。

「フライデー」(特派)
「週刊プレイボーイ」
⑥ボスニア内戦(92年6月)
旧ユーゴスラビアのボスニアで92年3月から内戦が勃発。セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒がそれぞれ戦いました。写真は首都サラエボ市南部の最前線で、イスラム教徒軍と交戦中のセルビア人部隊。

「週刊現代」(特派)
⑦ボスニア内戦その2(92年6月)
ジャーナリストの殉職者が続出し、ベトナム戦争以来もっとも危険な戦場といわれたボスニアでは、私もそれまででいちばん激しい戦闘を経験しました。写真はボスニア南部のポドベレッジ戦線で、セルビア側の砲撃を受けるクロアチア人兵士。この日は敵方の総攻撃で、従軍していた部隊が壊滅。迫撃砲弾で私自身も負傷して動けなくなったのですが、かろうじて救助されました。

「週刊現代」(特派)
⑧ソマリア内戦(92年9月)
ソマリアでは92年、部族民兵同士の内戦が激化し、完全な無政府状態に陥りました。写真は当時、私が護衛に雇っていた最大派閥「アイディード将軍派」に所属する民兵。なお、この内戦では大量の飢餓難民が発生し、後に多国籍軍が介入しましたが、治安回復は失敗に終わっています。私は当時29歳でしたが、このソマリア取材を機に、しばらく戦場取材から遠のきました。思えば20代後半はずっと戦場取材ばかりでした。

「週刊現代」(特派)
⑨レバノン侵攻(96年4月)
96年4月、イスラエル軍はヒズボラを叩くために14年ぶりのベイルート爆撃を含む大規模なレバノン侵攻作戦を行いました。当時エジプトに居住していた私は、すぐにレバノンに入って戦況を取材しました。写真は沖合のイスラエル海軍艦艇から激しい艦砲射撃を受けるサイダ(シドン)市。

「軍事研究」
(※当時は現役のENGカメラマンだったので主に影像取材をしましたが、ネタがマイナーなことと、自分の力量不足から、テレビでは採用されませんでした)
⑩アルバニア騒乱(97年4月)
97年、東欧の小国アルバニアでネズミ講の破綻をきっかけに暴動が発生。軍の武器庫が破られ、国民の多くが武装して全土が無法地帯となりました。写真はもっとも治安が悪化した港町ブロラで、略奪グループの襲撃を受ける武装市民。当時、長期取材中だったペルー日本大使公邸占拠事件が膠着状態に陥ったので、こちらにスイッチしたのですが、結局、この取材を最後に紛争地取材から引退しました。時代はすでに「戦争」から「テロリズム」にメイン舞台が移りつつありました。

「週刊プレイボーイ」
「軍事研究」
以上、過去の紛争地取材のなかから、「戦場写真」という観点でセレクトした自選10点でした。メインは20代の頃だったので、あまり深くも考えずにやっていました。フォトジャーナリストというよりは、明確に「コンバット・フォトグラファー」を目指していて、「戦場」をとにかく探し歩いていた感じでした。
- 2011/02/23(水) 18:19:44|
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明日12月5日は関東大学ラグビーの最終戦。ここまで無敗の明治と1敗の早稲田の決戦です。近年は長く絶不調が続いていた明治は、久々の優勝王手となりました。
私はどちらのOBでもありませんが、高校時代に1年間だけ当時の花園常連校(今年も出場します)ラグビー部の補欠の補欠の補欠をしていたので、ラグビーはよくテレビ観戦します。
今年の明治の快進撃は、監督就任2年目の吉田監督の手腕によるものと言われています。吉田監督といえば、主将として臨んだ1991年1月の伝説の大学選手権優勝ですね。1点ビハインドだった後半26分、左ウイングの吉田選手のセンターライン付近からのぶっちぎりの独走で逆転トライの劇的勝利でした。
そのときの相手も早稲田。当時のスポーツ・メディアでは、早明戦というよりも、明治の吉田主将と早稲田の堀越主将の因縁の「吉田VS堀越」で盛り上がってました。
で、じつは当時、駆け出しカメラマンだった私は某誌の補欠カメラマンとしてその試合を取材していて、なんと吉田選手の逆転トライの瞬間をバッチリ撮影できちゃったのです。

じつは、これは狙ってました。あの時間帯は「ここで画になるシーンは吉田選手のトライしかあるまい」との読みで、明治側左ゴールライン前に陣取り、フィルム(当時はフィルムでした)交換してそれだけを待っていました。完全にマグレですが、人生たまにはこういうことも起こります。

その年の早明戦が因縁の対決といわれたのは、直前の関東大学ラグビー最終戦で、早稲田が終盤に12点のビハインドを追いついて同点とし、土壇場で「両校優勝」に持ち込むというドラマがあったからです。
下写真は、その関東大学ラグビー最終戦の夜の新宿コマ劇場前広場。ドンチャン騒ぎしているのは明治の学生たち。当時の大学生は今よりずっと騒々しかったですね。

このすぐ後に、中東では湾岸戦争が勃発し、私も取材に向かいました。そちらではなかなか「決定的瞬間」というわけにはいかなかったですが・・・。(→
写真館⑫1991湾岸戦争)
さて、明日の早明戦はどうなるでしょうか。
- 2010/12/04(土) 16:38:15|
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前エントリーまでが、いちおう手元にある写真の主だったものの紹介となります。先月に仕事部屋の大掃除をした際に出てきたものにざっと目を通し、適当に見繕ってコンパクトカメラで接写しただけなので、画質のほうはご容赦ください。
私の写真はいずれも「作品」というよりは、あくまで当時の「ニュース素材」として撮影したものなので、その時点で「消費」されて終わったものばかりです。もちろんそれで構わないのですが、せっかくこういう場があるので、個人アルバムとして再録させていただきました。冷戦終結期前後の時代の混沌ぶりを、少しでも感じていただければ幸いです。
また、これは本来は他人様にお見せするクオリティではないですが、私の初めての戦場経験であるイランの写真も出てきましたので、アップしてみます。まだ出版業界に入る前の大学3年のときに旅行した際のものです。

イランのイラク国境近く。スーサンゲルドという町の入口です。イラン=イラク戦争開戦後にいったんイラク軍に占領されたところを、後にイラン軍が奪還しました。撮影は、ペルシャ湾のタンカー攻撃まで戦況がエスカレートしていた1984年です。完全に軍事地域になっていて、民間人は一切いません。

同じくイラン軍が奪還したハウィーザという町の廃墟。こちらは完全に瓦礫に埋もれています。
ただの学生旅行者だった私が、どうしてこんな戦時下の軍事エリアに入れたのかというと、戦場に向かう革命防衛隊の兵士たちと長距離列車で偶然に乗り合わせ、親しくなったからです。さすがに前線の部隊従軍までは許されなかったのですが、革命防衛隊の軍用トラックに便乗して軍事エリアをあちこち回りました。行き交う軍用車両のピリピリした緊張感に、ちょっと興奮したことを覚えています。

こちらも国境の軍事エリア(ホラムシャハル近く)で見かけた反米スローガン。スペル間違ってますが。

オマケその1。このときの旅では、他の周辺国でも少し取材の真似事をしました。上写真はシリアの首都ダマスカスのパレスチナ難民キャンプです。反アラファト派の拠点になっていました。

オマケその2。当時、レバノン南部に展開していたイスラエル軍が、徐々に撤退を始めていました。上写真はレバノンからイスラエルに帰還したイスラエル軍兵士。レバノン国境付近での撮影です。
最後に・・・ちょっと分野が違うのですが・・・・。
ニューヨークに住んでいた20代半ばの頃にアメリカ各地で撮った写真が、まったく見つかりません。日本の雑誌の仕事で、それなりに撮影していたはずなのですが。
政治的なネタばかりではありません。というか、むしろトピック的な取材のほうが多かったですね。いちばん思い出に残る写真を1点だけ、掲載誌のコピーからアップします。

阪神にいたセシル・フィルダーが、米国帰国後にいきなりア・リーグの本塁打・打点の2冠王に(しかも2年連続!打点だけなら3年連続トップ)。大リーグ復帰初シーズンで、アメリカ中の注目を集め出した頃のフィルダーを、本拠地の(デトロイト)タイガー・スタジアムで取材しました。
その頃、時間も経費もかかる戦場取材は、雑誌数誌で掲載されてもせいぜいトントンにしかならないので、こうした仕事で生活費を稼いでおりました。
- 2010/10/08(金) 18:34:34|
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北朝鮮の後編です。

ほとんどの外国人が見学させられる万寿台の金日成像。いろんな角度から撮影していたら、監視役のガイドに「どうしてそんな変な写真ばかり撮るのですか! なにか悪意があるのですか!」と怒られてしまいました。

もちろんですが、こんな感じの肖像画は国中いたるところにあります。

平壌市内でたまたま出くわした一団。撮影されるの嫌がってました。

平壌市民。ガイドなしで出歩いた際、郊外の団地でたまたま見かけた住民の家に、無理やり押しかけてみました。あちらはちょっと困った末に、こんな写真を持ち出してきました。

何かカードのようなものでゲーム(ギャンブル?)をしていた人。シャッター音と同時に飛び上がって逃げていきました。驚かしてごめんなさい。

こんなのにも乗りました。

こちらは平壌市内の地下鉄。

農村風景。このときは季節も良かったので、それほど荒涼とした感じではなかったです。

農家を直撃。先方ホントに困ってます。無理やり写真撮ってごめんなさい。

ほとんどが監視付の表面的な取材でしたが、いろいろ見せてもらったことは良かったです。面白かったもののひとつが「塩田」でした。

いちおうニュース取材もしました。平壌で行われた世界青年学生祭典というイベントに、韓国の学生運動の女子大生が参加し、話題になりました。(この人
→ウィキ) あと、例によってマスゲーム多数見学させられましたが、恒例の写真ばかりなので割愛。一度、会場に金日成が来たのですが、ちょっと遠くてうまく撮れませんでした。
- 2010/10/07(木) 15:58:45|
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一度だけですが、北朝鮮を撮影したことがあります。まだ一般の観光旅行が解禁されていなかった80年代末期のことですが、国内の風景は今も当時とあまり変わりないと思います。

板門店を北側から見たところです。

まさに休戦ライン上。手前が北朝鮮軍兵士で、向こうの白制服は国連軍兵士です。

警察国家ですから、いたるところにこんな感じの警備兵がいます。

105階建の柳京ホテル。87年着工後、資金不足で92年に建設中断。2008年にようやく工事が再開されました。

平壌の町のシンボルのひとつでもある凱旋門。

こんな感じの人が、平壌の町中にはたいへん多いです。

小学生たち。平壌中心部の、外国人に見せるモデル校です。北朝鮮独特の挙手ですね。

外国人見学モデル小学校では、こんな感じの芸を次々と見せられます。こういうのを考える人たちというのは、自分では良かれと思ってやってるのかもしれませんが、私には子供たちが痛々しく見えます。

元気に遊ぶ小学生たち・・・に一見するとみえますが、これは演出されたものです。先生の合図で、せーので「無邪気な子供たち」を演じます。いかにも無邪気な様子で私たち外国人見学者にまとわりつく・・・という演出までプログラムされています。やりきれませんね、こういうの。
- 2010/10/07(木) 15:55:32|
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前エントリーのように、私は中国の天安門事件の顛末を見届けることはできませんでしたが、91年3月から2年弱ほどモスクワに住み込み、ソ連崩壊の過程をナマで体験することができました。文字通り「歴史の激流」を目の当たりにするという、たいへんエキサイティングな経験でした。
以前のエントリーで写真をいくつか紹介させていただきましたが、写真ファイルの中から他の反政府デモ取材時の写真が出てきたので、4点ほど新たにアップしておきます。

上記の過去エントリーでアップしていたのは91年6月のロシア大統領選挙時のものでしたが、これは同年3~4月頃だと思います。まだソ連邦体制が磐石な時期で、政府批判デモはそれなりに緊張感がありました。

モスクワは寒かったですが、人々には熱気がありました。

政府命令でデモが禁止され、急遽、別の会場に変更になったりしたこともあります。民主派勢力と権力側の駆け引きの時期です。

中高年婦人層というのが、反政府デモでは大きな戦力になります。警官隊もカメラマンらがいる前で、こういう人に暴行を加えることはあまりありません。
(追記)
やっぱり上記の過去エントリーから2点、ここでも再度アップロード。写真的に数少ない自信作なので。

- 2010/10/05(火) 09:51:25|
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歴史に「もしも」は禁句ですが、「あのとき違った展開になっていれば・・・」とつい考えてしまうのが、1989年春の中国民主化運動です。4月半ばの胡耀邦の死去をきっかけに始まった学生運動は、その後も大きな高まりを見せましたが、結局、小平ら党・軍指導部の判断で軍が投入され、6月4日の天安門広場の大弾圧で幕を閉じます。
私は同5月初めに北京に入り、しばし学生運動の取材をしましたが、同月中に次の取材の準備のために日本に帰国したため、肝心の6・4は現場にいませんでした。
もしもあのとき、小平が違う判断をしていたならば・・・中国も今ではまったく違った国になっていたかもしれません。

私が取材した頃は、天安門広場はまるで学園祭のような雰囲気でした。参加していた学生たちも、よもや軍があれほどの弾圧を実行するとは思ってもいなかったと思います。

とにかく人が多かったです。

孫文の肖像も掲げられていました。上写真は超エリート大学・清華大学の学生たち。今ではすっかり中国が誇るハイテク頭脳集団です。

デモ参加者もたしかに多かったですが、実際には見物人の数も非常に多く、参加者数はかなり水増しされていたように思います。

デモ行進は各大学を起点に出発し、天安門広場に向かいます。

中には興奮する学生もいましたが、デモのリーダーたちは穏健路線の堅持に必死に務めていたように見えました。

当初は警察もデモに圧倒されていて、トラブルもあまりありませんでした。

非常に暑い5月でした。デモ隊もみんなアイスキャンデーを持ってますね。このように、当初は非常に暢気な雰囲気でした。
本当に、天安門事件は残念な事件でした。その後のヨーロッパの冷戦終結のプロセスでは、軍が自国民に銃を向けるかどうかが、まさに分岐点でした。

民主化運動リーダーのひとりとして有名だった柴玲さん。翌年の一周年の際、逃亡先の米国ワシントンDCで犠牲者追悼集会に参加中のところを取材しました。現在はアメリカでコンピューター会社を経営しているそうです。

オマケ。1992年の天皇訪中の際、週刊Sの特派で北京に行きました。天安門広場に日の丸が掲げられていました。
- 2010/10/04(月) 22:00:23|
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70年代末期のカンボジア大虐殺以降、この30年間でもっとも大規模な虐殺といえるのが、94年4月に発生したルワンダ大虐殺です。私はちょうどテレビ局の撮影スタッフとして日々の業務を担当していたため、同年7月頃まで続いたその大事件をリアルタイムで取材する機会はありませんでしたが、テレビ撮影班の一員として、同年9月に隣国タンザニア領内のルワンダ国境エリアに設置された難民キャンプを取材しました。ほとんどスチールは撮影していないのですが、3点ほどアップしてみます。

国際援助が比較的豊富に届けられていたので、ソマリアのような飢餓は発生していませんでした。

ただ、まさにこの世の地獄から逃げてきたわけですから、子供たちの中には精神状態に不安定な子も少なくなかったようです。

私たちが密着取材した対象は、難民キャンプ内の診療所。まあ、ソマリアの病院よりはだいぶ良かったです。
- 2010/10/04(月) 18:02:11|
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1996年、イスラエル軍はヒズボラを叩くため、14年ぶりのベイルート爆撃を含む大規模なレバノン侵攻作戦を行いました。当時エジプトに居住していた私は、すぐにレバノンに入りました。ただ、この戦争の取材では私は主に映像撮影を行っていたので、スチール写真はほとんど撮影していません。

沖合いのイスラエル艦から発煙弾の砲撃を受けるサイダ(シドン)。

多数の避難民が逃げ込んでいたカナの国連軍(フィジー軍)基地をイスラエル軍が爆撃。避難民109人が殺害されました。

イスラエル軍の爆撃で被害者続出。ただし、私の取材では、イスラエル軍はかなり緻密な情報活動により、ヒズボラの関連施設をピンポイントで攻撃していました。

主戦場となったレバノン南部をゆく国連軍のコンボイ。
- 2010/10/04(月) 15:27:12|
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南アフリカ白人政権の末期。ようやくアパルトヘイト法が廃止された時期に、南アを取材しました。

南ア最大の政治勢力「アフリカ民族会議」(ANC)支持者のデモ。アパルトヘイト廃止の原動力はもちろんANCでした。

ANCの中核は、南ア黒人の主流派であるコーサ人。大きな動員力があります。

白人政権末期のイケイケの時期。世界中からマスコミが来るので、アピール慣れしてます。

まあこのへんはオモチャですが。

お馴染みのマンデラANC議長。後に大統領になります。

あまり報道されていませんでしたが、当時の南アの対立軸はすでに「白人VS黒人」ではなく、黒人国家建設を睨んだ黒人部族間抗争になっていました。多数派のコーサ人と少数派のズールー人の対立です。上写真はズールー人の政党「インカタ自由党」(IFP)のデモ。ANCとの対決を叫んでいます。ズールー人の特徴は、伝統的な鑓とか盾とかを持ち寄るスタイルです。

ズールー人のデモ。アフリカのデモは歌あり踊りあり。ねぶた祭りみたいにずっと跳ねてます。

もっとも、デモなどというのはオモテの動きであって、実際には両サイドともにチンピラ武装集団があり、互いに相手側の一般住民を襲撃・殺害するという事件が頻発していました。上写真はズールー人ギャングを摘発する南ア警察部隊。

ギャングの多くは、ヨハネスブルクの有名な黒人居住区「ソウェト地区」に散在する「ホステル」と呼ばれる出稼ぎ者収容施設を根城にしていました。上写真はズールー人ホステルで取材した武装グループのメンバー。本当は自動小銃を持っていますが、写真撮影ではやっぱりこんな格好しか撮らせてくれませんでした。じつはこのときは、周囲をギャングに囲まれていて、かなりビビリながらの撮影でした。

ソウェト地区。こういうのは定番の写真ですね。もっとも、ソウェトにも金持ちや中流層の黒人が結構います。金持ちの多くはANC幹部だったりします。
- 2010/10/04(月) 11:15:02|
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1997年、アルバニアでは超高利回り信託投資詐欺(ネズミ講)の破綻から暴動・略奪が全国で発生し、無政府状態になりました。マフィア・愚連隊・私兵集団が町の実権を握り、それに与野党間の抗争が拍車をかけました。

軍の武器庫が破られ、誰も彼もが武装するという西部劇みたいな状況になってしまいました。昼日中から武装強盗が頻発してましたし、酔っ払いが遊び半分で銃を乱射することもしばしばでした。

上写真の手前の人物は、この騒乱時にアルバニア南部で最大の私兵グループを率いた元警察官。いわゆる愚連隊の大ボスです。

とにかく、しょっしゅう銃声が響きます。こちらを狙ったものかどうかは不明ですが、常に警戒は怠れません。

強い私兵グループのいる町は、そのガンマンたちが町を治めます。警察もいるのですが、私兵グループの命令に従ってました。

無政府状態のなか、略奪や抗争で多くの人が殺害されました。

治安維持のため、ヨーロッパ各国より多国籍軍が介入。

アルバニアでもっとも治安の悪い港町ブロラに展開したイタリア軍。

相手はせいぜい軽武装の小規模なマフィア・愚連隊グループなので、それほど難しい任務ではないです。

チンピラ集団にいいようにされていた住民たちは、いちおうは歓迎の構え。どこでもそうですが、とくに男の子たちは興味津々。

念のために警戒配置についたイタリア軍の狙撃兵。

反政府集会。アルバニアの政治抗争は「左派vs右派」ですが、それよりも地域間利権抗争の側面が大きいです。

ブロラを地盤とする麻薬マフィア。アルバニアは犯罪組織の多い国で、アルバニア・マフィアは広くバルカン半島エリア一帯で大きな勢力を持っています。

不法移民や麻薬をイタリアに運ぶアルバニア・マフィア。ブロラにて。

南部の港町サランダで宿泊したホテルのクローゼットに、弾薬や手榴弾が残されていました。こんなのはどこでも手に入ります。

そもそもアルバニアというのは、こんな感じの国です。長い冷戦時代、左翼政権が鎖国政策をとっていたこともあって、ヨーロッパでももっとも経済が未発達です。
- 2010/10/03(日) 14:45:27|
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私と同世代の人、あるいはそのちょっと上の世代の場合、最初の取材地が86年のフィリピン政変(アキノのピープルズ・パワー政変)という人が多いですが、そのまた上の世代の人はアフガ二スタン(戦争は79年末から)かレバノン(とくに82年のイスラエル侵攻)という方が多いのではないかと思います。
カンボジアもずっと紛争が続いていましたが、やはりインドシナの戦争報道は60年代後半から70年代のベトナムの印象が強いです。私はベトナム世代のジャーナリストやカメラマンの方々とは世代的な接点がほとんどなく、紛争現場でお会いしたこともあまりありません。
まだポルポト派は存続してはいましたが、私の頃はカンボジアでももうそれほど激しい戦闘もなく、なかなか取材する機会がありませんでした。唯一取材したのが、日本でも大きなニュースになった陸上自衛隊初の海外派遣が行われた時期でした。

当時の政府軍であるフン・セン派の兵士たち。政府軍といっても、日常的に追い剥ぎ行為が行われていて、住民にもひどく恐れられていました。

私の姿を見て、家の近くに掘られた壕に隠れた子供たち。ヤラセじゃないです。これまでいろいろ怖い目に遭ってきたのでしょう。

首都プノンペンの国連PKO部隊。たしかガーナ軍だったように思います。こう言ってはナンですが、「あまり役に立たない」との評判でした。当時、評判が良かった(つまり、ゲリラ対策に長けていると言われていた)のが、フランス軍やインドネシア軍あたりですね。

ポト派の行動地域である危険地帯のコンポントム州に派遣された日本人文民警察官。非武装なのでインドネシア軍の兵士とともに行動します。大手メディアは自衛隊取材で忙しいため、こちらの様子は一切報道されていませんでしたが、この日本人警察官たちの宿舎もポト派の攻撃を受けていて、彼らは夜間はインドネシア軍宿営地に居候していました。当時、同州内で日本人国連ボランティアの青年1名、他のエリアで日本人警察官1名が殺害されています。週刊F掲載。

こちらは自衛隊派遣部隊。

自衛隊の方々は主に道路工事をやっていました。炎天下の作業の日々です。もっとも、派遣先のタケオ州はカンボジアで唯一のポト派活動エリア外。当時の一部報道にあったような軍事的な危険度は皆無の、いたって平和で暢気な場所でした。危険地帯じゃないからエラくないというわけではありませんが、文民警察官の方々のシビアな境遇とのギャップが強く印象に残っています。

野党集会。

僧侶の方々もデモに参加。

国連主導による総選挙に期待する人。有名な話ですが、地雷の被害者は実際に非常に多いです。

選挙当日の投票所。お祭りみたいな雰囲気でした。週刊F第2弾掲載。

上写真の右が、カンボジア政界のVIPのひとりだったシアヌーク殿下(後、国王)。
でも、私の狙いは左の人物。シアヌークと親交があった北朝鮮の金日成が送り込んだシアヌークの私設護衛(たぶん凄腕)です。当時、ケビン・コスナー主演『ボディガード』が大ヒットしていて、そのキャッチコピーのパロディ「彼から目を離さないこと。命をかけて守ること。決して恋に落ちないこと」なんてキャプションをかませたらどーだろなー、なんてふざけた考えで撮影しました。狙いどおり、週刊Bグラビアをゲット。とにかくこのときはハンパじゃない人数の日本人ジャーナリストがカンボジアに大集結していたので、なにか企画ネタを考えないといけないという状況でしたね。
- 2010/10/02(土) 19:47:49|
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紛争多発地帯である旧ソ連カフカス地方の南オセチアです。ここももうずーっと紛争が続いていますね。


ここでの対決関係はグルジアvs南オセチア。ロシアは南オセチア側を支援しています。

グルジア側の襲撃に備えるオセチア側の歩哨。南オセチア州都ツヒンバリにて。私の取材時はグルジア側が大きく攻め入っていて、ツヒンバリはほとんど篭城状態でした。

戦死者が葬られたツヒンパリ市内の墓地。

グルジアはあのスターリンの故郷。この兵士たちは当時、治安維持名目で南オセチアに入ったソ連の内務省部隊です。

両サイドともに即席で部隊を編成していました。


もともと両民族は混在していたので、住民同士の殺戮戦がエスカレートしていました。そんな村々を巡回するソ連内務省部隊の装甲車に乗せてもらい、同行取材しました。

グルジア人の初老婦人が「ソ連軍は帰れー!」

ソ連部隊は政治的には反グルジアで親オセチアですが、この内務省治安部隊は基本的にあまりやる気がなかったです。

グルジア人村に入っソ連部隊。以前のエントリーに一度モノクロ版を掲載した写真ですが、ポジがありました。

一方的な抑圧なら「住民の希望どおりにすれば」と話が簡単なのですが、ここは両民族混在なのでややこしいのです。
- 2010/10/01(金) 11:23:48|
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これまでの私の戦場取材経験の中で、もっともシビアな場所はソマリアでした。内戦と飢餓が本格化した92年の撮影。まだ多国籍軍が入る前の段階です。

無政府状態のソマリアはマジで『マッドマックス/サンダードーム』みたいな雰囲気で、取材者は必ず機関銃装備のピックアップ・トラックと武装護衛チームを高額で雇って活動しなければなりません。私の護衛チームのガンマンの一人(上写真のフードの兄さん)は常に覚醒草「チャット」でぶっ飛んでいて、ときおり奇声をあげて銃を乱射します。

首都モガデシオ北部を掌握するムハマド暫定大統領派の民兵。ソマリアの民兵たちは通常、写真撮影を拒絶しますので、こういう写真がいちばん難しいです。

遠くから隠し撮りです。見つかるとマジで撃ってきます。

メチャクチャで有名だった当時の最大勢力「アイディード将軍派」の民兵。アイディード将軍派は後に乗り込んできた米軍と血みどろの市街戦を演じ、結局は追い出しています。

もっとも飢餓がひどかった内陸部の町バイドアの空港を掌握するアイディード派。地元住民を奴隷のように使役し、海外からの援助物資をすべて独占していました。

アイディード派の将兵。いちばんタチの悪い方々です。

護衛付きのトラック。これでもしばしば略奪に遭います。
- 2010/09/28(火) 19:28:16|
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米軍パナマ侵攻の後編です。

捨てられた死体を見下ろす米兵。もの凄い臭気でした。

国防軍司令部近く。

米軍検問所の周囲に配置された兵士。

米軍の検問。

潜伏中のパナマ国防軍兵士が米軍に拘束されました。

目隠しをされて連行。

米軍が「進駐軍」として市内に展開。


市内要所にはことごとく米軍の警備が展開。

市民から銃器を買い上げています。

ノリエガ将軍が逃げ込んだバチカン大使館上空を超低空で旋回する米軍ヘリ。爆音でプレッシャーをかけています。この数日後、ノリエガは米軍に投降し、パナマ戦争は終結しました。
ところで、このパナマ侵攻や湾岸戦争など、私の戦場カメラマン時代の取材記の一部は、アリアドネ企画/三修社刊『戦友が死体になる瞬間~戦場ジャーナリストが見た紛争地』にも収録されています。戦場ジャーナリスト・加藤健二郎さんの尽力で出版された共著書で、他にもジャーナリスト・村上和巳さんも執筆されています。2001年出版ともうかなり古い本ですが、アマゾンでみたらなんとまだ在庫がありました。強烈なタイトルはカトケンさんの章タイトルからですね
。(→アマゾン)
- 2010/09/27(月) 12:13:57|
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ブログが重くなって申し訳ありません。が、ちょぼちょぼ更新するのも面倒なので、写真館の続きをいっきにアップさせていただきます。
これもかなり昔の事件ですが、89年の米軍パナマ侵攻です。

主役はこの人。当時の独裁者ノリエガ将軍です。これは前年の88年に行ったパナマ取材時の撮影です。

89年12月に米軍の侵攻作戦開始。当時ニューヨークに住んでいた私は、米軍報道部仕切りのチャーター機に便乗してパナマ入りしました。もっとも、メインの侵攻作戦中は、私たち外国人記者は米軍基地に軟禁状態。上写真はそこから対岸を撮影しています。

米軍が数日で市内を掌握してから、ようやく私たちも「解放」され、街に取材に出ることができました。が、当初は私服姿で市内に潜んだパナマ軍残党との散発的な銃撃戦があちこちでありました。

市内制圧に投入されたのは、かの第82空挺師団第1旅団。

制圧した国際空港を警備する装甲車。

警戒しながらパナマ市内をゆく第82空挺師団。

こちらはいわゆるMPの警備兵。

空挺部隊は夜営支度も携行するので、荷物が多いです。

米軍ヘリがひっきりなしに上空をいきます。民間人に偽装して隠れたパナマ軍残党兵たちは、さすがに携帯SAMまでは携行できなかったようです。

米軍の爆撃で破壊されたパナマ国防軍司令部付近。

パナマ市内は、米軍に破壊されたというより、警察が消滅した間隙に暴発したパナマ市民の略奪によって破壊されました。
- 2010/09/27(月) 12:01:03|
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日本人のカメラマンの場合、数ヶ月の長期滞在や頻繁な訪問でじっくり対象に迫るタイプの方が多いですが、欧米のカメラマンの場合には、どちらかというと短期決戦でニュースの現場を次々に渡り歩くタイプのほうが多数派です。私は初仕事となったニカラグア内戦と、約2年間を費やしたソ連取材を除き、2~3週間くらいの短期取材がメインでした。そもそも出自が週刊誌なので、そういうのが性にあっていたのでしょう。
なかでも慌しかったのが、91年1月の湾岸戦争です。週刊誌のアサイメントで計7週間に4カ国を取材。その間、飛行機に搭乗したのは20回以上におよびました。

まずは90年8月にイラク軍がクウェートに侵攻し、湾岸危機が勃発すると、ちょうど統合直前の東ドイツを取材中だった私はすぐにヨルダンに入り、イラク国境のルウェイシドで、クウェートから逃れてきた外国人避難者たちを取材。ここに足留めされた多数の避難民を輸送する自衛隊機を派遣するのしないのと日本国内で政治問題になるのは、この少し後のことです。

翌91年1月に湾岸戦争が勃発すると、すぐにイスラエルに行きました。当時、一介の日本の週刊誌契約フリーランス記者の私には戦争当時国のイラク、および米軍が前方展開するサウジアラビアの入国ビザが発給されなかったので、周辺国取材しかできませんでした。
本来、戦場取材の基本形は軍隊への従軍取材なので、これは自分としてはかなり不本意でした。エンベッド(埋め込み)取材に対しては批判もありますが、まずは最前線を見聞したいというのがホンネなわけです。
上写真はテルアビブのホテル内に設置された「気密室」。みんな欧米人ジャーナリストです。戦争勃発初期は、イラク軍のスカッドに「化学兵器が使われる」との懸念があって、空襲警報が出るたびにこんな感じでした。そのうち慣れっこになりましたが。
(以下、カラー、モノクロともに写真のほとんどは安物のコンパクト・カメラによるベタ焼きの接写なので、画質かなり劣悪です。上写真の赤線は、当時ベタに書き込んだ目印です)

当時のテルアビブ市民。最初のうちは市民もこんな感じでした。もっとも、こんな緊張感はせいぜい数日間くらいだったように思いますが。

テルアビブ郊外のパトリオット・ミサイル基地をハイウェイの高架より隠し撮り。元ネガは出国時に没収されました。

スカッド被弾地。このへんの元ネガも没収です。

スカッド被弾地から被害者を救助。

この時期のイスラエル取材のメインは、やはりスカッド被弾でした。空襲警報と同時に車両で飛び出し、イスラエル軍車両を見つけて追走し、軍が立入制限する前に現場を素早く撮影して話を聞くという手順です。

イスラエルの次に訪れたのはトルコ。上写真は、イラク国境に近い同国南東部タットバンに設置された収容所で取材したイラク軍脱走兵たち。トルコ当局のガードが極めて固く、ここの取材は結構難しかったです。

トルコ南東部ディヤルバクル近郊のクルド人難民収容所。無許可取材を強行し、警備兵に本気で殴られました。

あまり注目されていませんでしたが、トルコにも多国籍軍の出撃拠点があり、イラク空爆作戦が連日行われていました。


出撃する戦闘機パイロットたち。国際的な記者証があれば、こういった取材は比較的容易です。

トルコの後は再びヨルダンへ。サダム・フセイン支持のデモが、外国報道陣が宿泊するホテルの前などでしばしば行われてました。もっとも、参加者はごく少数。当時、「ヨルダン人は反米。アメリカに同調する日本人も敵視されている」なんて報道もありましたが、私の取材ではそういうことはまったくなかったですね。

毎度お馴染みの故・アラファト議長。湾岸戦争当時はサダム・フセインに同調して下手を打ちました。
さて、私はその後、ヨルダンからトルコ経由でイランに入りましたが、テヘランからアフワズに向かう長距離列車に乗っているところで終戦となりました。
その直後、イラク国内で反政府武装蜂起が発生。私はちょうどその頃、イラク国境近くのホラムシャハルに潜入していたのですが、イラン秘密警察「コミテ」に捕まって、強制退去とあいなりました。警察国家であるイランは報道管制が厳しく、記者身分だと逆に動きがとれないので、旅行者としての入国でした。

オマケその1。移動天幕生活を送るクルド人の家族。

オマケその2。天幕の中。
- 2010/09/26(日) 15:56:59|
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その他のペルー「動乱の90年代」の取材です。


アンデス高地にある極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ」の本拠地アヤクチョ県にて。

アヤクチョ県ワンタ陸軍基地の新兵訓練。

こちらは国家警察特殊部隊「ディノーエス」。96年末に発生した日本大使公邸占拠事件の取材にて(公邸前を警備する兵士)

90年代には首都リマでもしばしば反政府デモや放火がありました。

首都リマでの陸軍式典にて。

陸軍の戦車部隊。

こちらは、やはりセンデロの拠点でもあり、コカイン麻薬産業の中心地でもある密林エリアのワヌコ県ティンゴマリア基地の陸軍部隊。一般的にどこの途上国の軍隊でもそうなのですが、いろいろ裏でアコギなことをやっていると黒い噂が絶えないペルーの軍隊も、実際にはなかなか内外のジャーナリストの取材を認めないのですが、いろいろ裏技を駆使して粘ればなんとかなったりします。

この辺では長靴着用です。

ティンゴマリアから北上してサンマルティン県トカチェに至る通称「トカチェ・ルート」は麻薬マフィアおよびセンデロの一大拠点。上写真はトカチェ・ルート沿いの軍の検問。

通行する車両はいちおう調べられます。もっとも、聞いた話によると、中南米での通例どおり「賄賂」がそれなりに有効なようです。

トカチェ・ルート沿いでみかけたコカ収穫風景。収穫自体は合法です。

オマケその1。そもそも私の最初のペルー取材は、フジモリさんの最初の大統領選挙(90年)でした。(元写真紛失のため掲載誌から複写)

オマケその2。まだ仲が良かった頃のフジモリ家の食卓。その後、この家族にもいろいろありましたね。
- 2010/09/24(金) 16:12:11|
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南米ぺルーでは90年代まで、毛沢東主義を掲げる「センデロ・ルミノソ」(輝く道)という過激な極左ゲリラが大きな勢力を持っていました。ジャーナリストの取材を一切受け付けないので(というか、ジャーナリストは連中の攻撃対象でした)、ペルー陸軍の対テロ偵察チーム(×1個小隊)に従軍取材しました。

取材場所は当時センデロの本拠地だったアヤクチョ県ワンタ地区。アンデス高地です。

私が従軍したのは、ワンタ基地の対テロ部隊が編成した偵察チームです。高地の村々を巡回し、センデロの動向を調査します。

センデロは基本的には夜間行動で、装備に勝る政府軍と日中に交戦することはほとんどありませんが、ときおり奇襲攻撃を仕掛けるので油断はできません。

途中で出会った先住民の農民を厳しく取り調べます。センデロは、中枢の幹部は都市部出身の学生活動家などがメインですが、実働メンバーのほとんどはアンデス高地でオルグされたインディヘナ(先住民)のカンペシーノス(農民)です。ゲリラと農民は区別がつかないので、兵士たちの住民に対する態度はかなり高圧的なものです。部外者からみると「ひでえなあ」という気もしますが、古参兵士曰く「甘い奴は必ず早死する」。これも事実なのです。

大気の薄い高地の行軍は結構シンドイです。兵士のほとんどは低地出身のメスティーソ(混血系)なので、彼らもシンドイようです。

村に入ると、ゲリラが浸透していないか、かなり徹底的に調べます。よくベトナム戦争映画で、米兵がベトコン拠点村と思しき村で乱暴に家捜しするシーンがありますが、あんな感じです。
実際、村では男性がほとんどおらず、女性&子供ばかり残っていることが多いです。センデロに徴発されているのですね。どちらにせよ可哀想な話です。


兵士たちは食糧を持参しません。途中の村で強制的にタカリます。当然カネなんか払いません。いずれも貧しい村なので、それも可哀想な話です。かく言う私も同罪なのですが。


夜間は村でもっとも頑丈なつくりの家屋を専有し、こんな感じで寝ます。夜間はセンデロの活動時間なので、交代で見張りを立てます。村人は妊婦や乳幼児のいる母子以外、全員を1カ所に強制監禁して監視します。なお、偵察チームが村で宿営していることは、センデロ側も確実に掴んでいるだろうとのことです。
- 2010/09/24(金) 12:33:19|
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戦争取材ではないですが、フィリピン南部スールー海では、こんな撮影もしました。海上生活者として知られる漂海民族「バジャウ人」です。

島嶼の沿岸部ではありません。大海原のど真ん中にこうした高床式の集落が作られ、生活しています。このあたりは広大な範囲にわたって、干潮時水深1メートル弱くらいの巨大プールみたいな海になっているので、こういうことが可能です。

集落の周辺海域は、アガルアガルという海藻の“畑〝になっています。この収穫が定着したことで、もともと船上生活者だったバジャウ人が海上集落を形成するようになったようです。

これがアガルアガルです。寒天の材料になります。男は漁師が多く、アガルアガル収穫はほとんど女子供の仕事ですね。

大人はなんだかんだでときどき島にいくこともありますが、子供たちはほとんど海上家屋か船上での暮らしになります。

もともとは船上生活でした。国境など関係なく、フィリピン、マレーシア、インドネシアあたりを漂流していました。

現在は、家船生活者はかなり減ったようです。ただし、日常の移動手段は船しかありません。ちなみに、こういう場所の撮影はぜんぶ船上からですので、構図とかタイミングとか、結構たいへんだったりします。

実際には、いわゆる“ダイナマイト漁”が盛んです。なので、片手をなくした漁師もいっぱいいます。

漂海民族バジャウ人のほとんどはモスレムです。このあたりではバジャウ人は少数派で、多数派はタウスグ人といいます。タウスグ人は非常に戦闘的な文化を持つ民族で、同海域のイスラム・ゲリラはほとんどタウスグ人で構成されてます。同海域は海賊が非常に多いエリアなのですが、海賊もほとんどタウスグ人ですね。というか、イスラム・ゲリラと海賊(&山賊も)の兼業も普通です。

漂海民もいまでは島嶼の町の経済圏に組み込まれています。

当然ですが、魚介類が豊富でメチャ安です。私などは毎日が蟹三昧でした。
- 2010/09/22(水) 11:37:12|
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私が戦場取材をメインにしていたのは冷戦終結前後の時期という、もうふた昔近く前のことなのですが、その頃とあまり状況が変わってないと思われるイスラム・ゲリラの写真をアップしてみます。

フィリピン南部スールー諸島でもっとも治安が悪いホロ島で取材した「モロ民族解放戦線」(MNLF)のゲリラ。前列の薄頭髪のオジサンの右隣が、90年代前期当時の最大勢力の軍事司令官。

ホロ島のMNLFには他にもいくつかのグループがいて、タチの悪い連中は外国人の誘拐を生業にしていました。キリスト教の宣教師やボランティアなんかがよく拉致され、ときには惨殺されたりしていました。ジャーナリストも標的にされていて、日本人のフリーカメラマンの方を1年半くらい監禁したこともあります。


日本人カメラマンを拉致していたのは、ちょっと名前忘れてしまいましたが、ナントカ兄弟が率いる一派。極悪で有名だそうです。ちなみに、フィリピンだけではないですが、途上国のゲリラというのは大抵、最上級幹部以外は知人・友人のコネで各組織を比較的自由に出入りしています(各派の主義主張の違いなんて誰も知りません)。なので、私が取材した部隊の中にも、日本人カメラマン拉致グループに所属していた兵士が何人もいました。

なので、こういうゲリラの取材はけっこう難しいです。私はMNLF書記長という政治家ルートで取材したので、なんとか無事に取材できましたが、それでも仲介者の選択はかなり慎重にやりました。詐欺師みたいなのも多いので、そのへん多少は場数が必要です。

MNLFの検問所。ここまで来ればまず安心ですが、怪しい自称・仲介者に引っかかれば、いきなり密林に連れ込まれて射殺、なんて可能性もゼロではないわけですね。

政府軍が駐屯するホロ市内以外は、ゲリラの占領地域。白い砂浜とコバルトブルーの超美景な島です。

このへんは、いかにもイスラムです。熱帯雨林なので酷暑なのですが。



イスラム・ゲリラなので、サラートは欠かしません。ただし、イマームとか以外はみんな飲酒はけっこうしてます。欧米ロック音楽も大人気です。そのへんがやはりフィリピンですね。
- 2010/09/21(火) 12:15:13|
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ボスニア紛争初期のポドベレッジ戦線(モスタル東方の丘陵地帯)従軍取材です。92年の撮影です。

クロアチア人部隊です。敵はセルビア人部隊になります。

ここは最前線。砲弾が昼夜を問わずバンバン飛来します。

前線司令部に集結したクロアチア人兵士たち。多くはこの日に戦死しました。

敵の集中的な砲撃が開始されました。こういうときはまず動けません。その第一撃であえなく負傷した私は、このときすでに血まみれ状態になっていました。

以前のエントリーにも載せたことがありますが、死ぬほどビビリながら撮影したカットです。これだけ着弾点が近いと、音や風圧、粉塵、火薬臭なんかけっこう迫力モノです。

敵軍が目前に迫ってきて、砲撃戦から銃撃戦になってきました。味方は一方的に攻め込まれていて、かなりヤバイ状況でした。

最前線の最前線です。しかも、負けてるほうの部隊! いま思うと、こういうところにのこのこ行ってはダメですよね。

ただ、まあこういうところに行ってみないと見えない現実、わからない世界というのもあるわけで、それが戦場取材の難しいところではあります。

ポドベレッジはこの日、完全に陥落しました。この兵士や私なんかは「負傷した」ことで優先的に脱出させてもらえましたが、この日はたくさん、実にたくさんの兵士たち(人数はわかりませんが)が還ってきませんでした。

帰還した幸運な兵士たち

精根尽きたといった感じですね。


野戦病院にて。

難民キャンプにて。

息子の戦死通知を受けた女性。難民キャンプでは日常的な、実に哀しい風景です。

オマケ。セルビアの首都ベオグラードで行われていた野党の反政府集会。当時、セルビア大統領ミロシェビッチを「独裁者」と報道していた海外メディアが多かったですが、実際にはそんなに(金正日やサダム・フセインなんかと比べて)独裁者ではなかったです。
- 2010/09/13(月) 15:33:57|
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ボスニア紛争初期のサラエボ攻防戦です。撮影年は92年です。

セルビア人のスナイパーです。目の前に軍事境界線になっているミリャツカ川という小さな川があって、その向こうの人間は誰でも撃ちます。女子供でも撃ちます。もちろん敵側のスナイパーも同様です。

サラエボ市南部のグルバビッツァ地区を押さえるセルビア人武装勢力の兵士。この戦線は動かないのですが、定期的に銃撃・砲撃戦をやってます。

グルバビッツァのセルビア人部隊。ユーゴ政府軍の重装備を使ってますが、兵隊そのものは地元出身の即席民兵がほとんどなので、操作はあまり熟練していませんでした。

戦場取材というのは、戦闘中のほとんどの時間は、兎にも角にも「全力疾走」です。日頃自堕落生活を送っている身にはめちゃくちゃシンドイですが、目の前に銃弾がバシバシ飛んでくるので、自分でもびっくりするほど速く走れたりします。
そして、遮蔽物を見つけたら頭からダイビング! レンズのフィルターは全部割れますし、ヤワなオート式カメラは一発で作動不能です。このときはFE2がすぐに戦力外通知。F3とFM2がかろうじて作動してくれました。戦場カメラマンの機材はシンプル・イズ・ベターなのです。

実際には、戦闘中にはなかなか写真を撮る余裕はないです。

こういうの、前からは撮れないので、どうしても後姿が多くなっちゃいますね。

敵(モスレム部隊)の砲撃で炎上。このくらいは日常茶飯事なので、誰も慌てません。

こちらはサラエボ市内に篭城中のモスレム部隊。サラエボ北部戦線は丘陵地帯。

モスレム部隊。こちらも職業軍人はあまりいません。

国連部隊。あまり力はありません。

サラエボ空港を守る国連部隊。周囲のセルビア人部隊は空港周辺の道路を平気で撃ってきていました。

砲撃を受けるサラエボ南西部。こんな感じのが毎日ありましたが、車のガソリンがなかなか手に入らず、現場にすぐに駆けつけるということが、なかなかできません。かといって、徒歩移動は自殺行為です。

サラエボ南部を東西に流れるミリャツカ川。この川が軍事境界線になっていて、両サイドのスナイパーが常に撃ち合ってます。ちなみに、川の北方の地区を東西に走る大通りが通称「スナイパー・ストリート」。

サラエボ市内では、やむを得ず外出するときは、常に走ります。しょっちゅう狙撃されます。

ライフラインは完全ストップ。なんといっても、いちばん困るのは「水」です。
- 2010/09/13(月) 12:52:57|
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ニカラグアでも反政府ゲリラばかり取材していたのではありません。私は自分の原則として、「敵対する両サイドを取材する」ことに決めてました。片方の情報だけだと、全体がよく見えないからです。

こちらは政府軍です。ソ連&キューバに支援されていたので、こちらは装備・軍服から訓練まで、ソ連/キューバ軍方式でした。

まあ、ゲリラも政府軍も、どちらもかなり貧弱な武装です。もともと貧しいうえに、外国からの軍事援助も、いわれているほどたいしたものではありません。しかも、両サイドともに、訓練もあまり行き届いていません。厳しいことが苦手な国民性なのかも。たとえば、隣国ホンジュラスの陸軍の規律正しさに比べると、ニカラグアは内戦中だというのに、政府軍もゲリラも同好会みたいなノリでした。私自身はそういうほうが好きですけど。

実戦で役に立つとは思えないような、少女たちの高射砲部隊もありました。上写真は、ギャル好き戦場ジャーナリスト・加藤健二郎さんに案内していただいた首都マナグア防衛の部隊です。

上写真は、政府軍の集会で見かけたギャル兵士たちです。当時の政府軍は学生運動出身者が主導する左翼革命軍だったので、ギャル兵士をかなりフィーチャーしてました。マッチスモの中南米では珍しいです。実際にはあまり本気ではないですが。

上写真は国軍ではなく、それよりも武装が優遇された内務省軍のヘリ基地です。旧ソ連製の古い機体ですね。ニカラグアでは長い間、アメリカと旧ソ連の代理戦争が続いたわけです。で、旧独裁政権下ではそこそこあった国力も、内戦を通じて、中米一の最貧国に成り下がりました。それに対して、アメリカやソ連のせいだと言う人もいますが、なんか違う気がします。周辺国に比べて、やはりダメダメな人が多かった印象があります。なぜなんでしょう。内戦終結後も、いまだダメダメはあんまり変わってないようです。
平和になった後は仕事で訪れる機会もありませんでしたが、私の初の長期取材地であり、個人的に非常に思い入れの深い国なので、ぜひ頑張って欲しいと思います。

上写真は、オバンドさんというカトリックの枢機卿です。『サルバドル』や『アンダー・ファイア』でも描写されていましたが、中南米の内戦ではカトリック教会が政治的に非常に重要な役割を果たしてきました。この枢機卿もニカラグア政界ではVIPのひとりでした。

上は当時の左翼政権を率いたダニエル・オルテガ大統領。小さい国なので、VIPの撮影・取材がたいへん容易です。オルテガ氏は最近、16年ぶりに政権に返り咲いて、現在も現職の大統領の地位にあります。

この恰幅の良い男性は、エデン・パストーラという人物で、非常に変わった経歴の持ち主です。もともと独裁政権時代の反政府ゲリラ創設メンバーでもある最古参のゲリラ司令官で、1979年に24人の部下とともに政府中枢施設を急襲して政府要人多数を人質にとるというテロを成功させ、有名になりました。本国では「コマンダンテ・セロ」(ゼロ司令官)として知られています。
このテロで、収監中の仲間の釈放と多額の身代金をゲットし、それをきっかけに翌年にゲリラは政権を奪取します。コマンダンテ・セロは、いわば革命第一の立役者だったわけです。
パストーラは新政権で国防次官に就任しますが、新政権では学生活動家出身のオルテガら左翼系幹部が主導権を握り、どんどんソ連/キューバ寄りになっていきます。パストーラは冷や飯食いとなり、ついには嫌になって政権から飛び出し、再び反政府ゲリラを組織します。最初はアメリカCIAなどから資金・武器を得ていたのですが、やがてアメリカとも対立するようになって、最後はゲリラ組織を解散し、引退します。私が会ったときは、隣国コスタリカに亡命し、ロブスター漁の漁師になってました。
内戦終結後は、コスタリカでの漁業を続けながら、本国で大統領選挙などにしばしば立候補し、泡沫扱いで落選したりしています。後に一度だけ、その選挙活動を現場で取材したことがあるのですが、ちょっとイタい感じでした。
ところで、国家建設はイマイチなニカラグアですが、その国土は非常に素朴な美しい風景を持っています。人々の暮らしぶりを少し紹介します。

東部カリブ海沿岸地方です。家屋は高床式ですね。

湿地帯ではコメを作っています。国民のほとんどは農業です。

コメを乾燥させているところ。後ろを歩いているのはコントラの一派のインディオ系部隊です。

人々の暮らしは、中南米でもかなり貧しいほうです。

ニカラグアには小規模ながら金鉱があり、一攫千金を夢見る山師が集まってます。ただし、船戸与一さんの南米3部作に出てくるガリンペイロみたいなアウトローな雰囲気はなく、たいへんフレンドリーな人々でした。

ニカラグア人のほとんどはカトリック教徒ですが、布教の経緯から、カリブ沿岸地方にはモラビア教というプロテスタント系の宗派が根付いています。上写真はそのモラビア教のミサの風景です。
- 2010/09/09(木) 12:42:11|
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